月曜日(晴れ)
パジャマ姿の獏良は風呂場からリビングにやって来た。母親がキッチンから顔を出し、
「あら、もう出たのね。歯みがきはした?」
「うん。明日の準備も終わってるよ。おやすみなさい」
その答えに母親は満足げに頷く。「おやすみ」と返し、再びキッチンに戻っていった。
獏良は自室に行き、学習机に置いてあるランドセルのかぶせを開く。中に詰まった教科書を時間割表で確認をする。教科書、ノート、宿題、リコーダー、提出プリント……。他に何か持ち物はなかったかと記憶を辿り、荷物に手抜かりがないと納得し、ランドセルを元に戻す。
獏良は安心して床に就いた。胸の上でチャリと装飾品が鳴る。
リングを身につけるようになってからだいぶ経つ。すっかり身体に馴染み、つけていることをもう意識していない。眼鏡や指輪のようなものだ。就寝時にまでつけているのは変わっているかもしれない。身体から離さないように、という父親の言いつけなのだ。さすがに風呂やプールでは外すが、それ以外は言いつけ通りにしている。獏良にとっては既にないと落ち着かないものだ。
獏良は今日小学校であったことを思い返しながら目を閉じる。すると、程なくして意識が深い闇の中に落ちていった。
火曜日(晴れ)
目覚まし時計が鳴る少し前、獏良は布団の中で目を開けた。柔らかい掛け布団に包まれた目覚めは心地がいい。最近は夢見もいいらしい。いつも清々しく起床している。
何の夢だったかは覚えていない。母親に抱きしめられているような、犬が戯れて顔を舐めているような、そんな感覚が残っている。
獏良は睡眠の余韻を断ち切るようにベッドから降り、タンスの中から洋服を取り出して着替え始めた。
慌ただしく外出の準備をしている母親を横目にパンを咀嚼する。食べ終えた後は学校へ行く準備をしてランドセルを背負い、施錠をして一人で登校する。父親は仕事でいないことが多いし、母親も忙しい。自分のことは自分でやることを習慣づけられている。不自由を感じたことはない。
*
「おやすみなさい」
ふかふかの布団の中で獏良の見る夢はいつだって幸せな夢だ。
大きなクマのぬいぐるみに全身をくすぐられ、じたばたと足をばたつかせて笑い転げる。「くすぐったいよぉ」と目に涙を溜めて言うと、今度はぺろりと舌で水滴を舐められた。
「あっ」
温かい体温に包まれて心地がいい。黙ってされるようにしていると、舌が口まで下りてきた。柔らかくて水気を帯びた感触が口の周りを這い回る。
汚いとは思わなかった。乱暴ではなかったし、敵意を感じない。そのままでいた。
ツンツン、と唇の合わせ目をつつかれる。
獏良は疑問に思いながら、上下に閉じた唇の力を緩めた。すると、舌の先端がちろちろと僅かに口の中に出たり入ったりする。
「う?」
理解のできない行動に獏良の口から疑問の声が出る。
舌はしばらく同じことを続けると満足をしたのか、また口の周りを撫で始めた。
水曜日(曇り)
次の日の夢も同じようなものだった。
大きな獣のようなものに抱きしめられ、鼻や口をたくさんくすぐられた。
獏良は肌に触れる獣の毛がこそばゆくて見悶えていた。
「ひゃあ」
とうとう足の指を畳んで身を縮める。
獣は身体を離し、様子を窺うような素振りを見せてから——パジャマの中に前足を滑り込ませた。
突然の行動に驚いて何か叫んだつもりだった。しかし、気がついたときには視線の先に見慣れた天井があるだけで、他に誰もいなかった。
訳も分からずに自分の状態を確認する。何の痕跡もない。寝る前と同じだ。
「寝る」という言葉をきっかけに、自室でいつも通り眠りに就いたことを思い出す。今あったことは夢の中の話だ。現実と夢が混ざり合っていることを自覚し、長く息を吐く。
視線を動かし枕元の時計を見れば、まだ早朝の4時過ぎだ。しばらく布団の中で落ち着くまで大人しく横になっていた。
木曜日(雨)
その日はよくないことだらけだった。
天気が雨というだけでも気が滅入るのに、学校で先生に叱られた。しかも、獏良が何かしたわけではない。同じ班のクラスメイトが授業中に教室で騒いでいたからだ。周りは「静かにして」などと注意していたが、担任は獏良たち班の全員をまとめて叱った。
子どもながらに理不尽だと思っていたが、大人に言い返せる者は獏良も含めて誰もいなかった。
だから、行き場のない不満が解消できずにいた。
一つ嫌なことがあれば、その後に起こる「普段は気にしない微妙なこと」も「悪いこと」になる。
ノートが破れたことやシャーペンの芯が詰まったという些細なことが、獏良を不機嫌にさせた。給食に苦手なピーマンが沢山入ったチンジャオロースが出たことさえ、悪い日と関連づけた。
晩御飯を食べた後は早々と寝室に戻り、就寝の準備をした。起きていると、またつまらないことが起こるかもしれない気がしていた。
夢の中ではナメクジが身体中を這い回っているような感覚があった。軟体動物が身体に吸いついてくる。表面だけはなく、耳と口の穴から侵入する。
「う……ぁ……」
感じたことのない感触に身体が硬直した。形容し難い感覚。良いものか、悪いものか、判断もつかない。
肌の上を痺れに似た何かが走る。本能的な恐怖で身体を這う「何か」を払おうとした。しかし、獏良の手はそれをすり抜けてしまう。
「や、だ……」
口の中で何度も呟いて拒否を示し続けた。
次の朝に起きたとき、夢の中の言葉が、夢だけだったのか現実のことなのか、境目が分からなくなっていた。もしかしたら、寝言として本当に言ってしまっていたのではと気にしていた。
金曜日(曇り)
その日の夢も前日と同じようなものだった。身体に正体不明の感触が襲い、呻き声を上げる。時折、「ソレ」は妙な部分に触れるのか、身体が勝手にびくりと跳ねる。
静かに耐えていると、ますますソレは水を得た魚のように動く。
「ヒッ……」
獏良の口から悲鳴が漏れる。
ソレが身体に絡みつき、脈動している。
逃げ場のない感触に震えていると、突然頭の中が弾けるようにして真っ白になった。
土曜日(曇り)
目が開くと、やはり自室のベッドの中だった。カーテンの隙間からは太陽が射し込み、夜が明けたことを知らせている。寝る前と何一つ変わらない光景——のはずが、異変に気がつき、獏良は掛け布団を捲った。
「あっ……」
ズボンが濡れている。正確には、ズボンの内側だ。
慌ててベッドから飛び降り、シーツを確認する。何の異常もなく乾いたままだ。
ズボンのウエストを引っ張り、中を覗く。下着が湿っている。獏良の背筋が凍った。
そのとき、ドアがノックされ、母親の声が聞こえた。「了、起きてる?」
獏良はズボンから手を離し、「起きてるよ」と平静を装う。心臓はばくばくと跳ねていた。
「よかった。ママ、早く出なきゃいけないの。ご飯、できてるから着替えて食べてね」
「う、うん」
母親はよほど急いでいるのか、ドアは開けずに足音を立てて去っていった。
足音が遠退いたことを確認すると、獏良は再びズボンの中を見た。始めは夜尿かと思い、ショックを受けたが、どうも様子が違う。液体であれば、シーツや掛け布団も汚れていたはずだ。それに尿とは異なる青臭さがある。
獏良は少し考えてから汚れた下着とズボンを脱いでまとめた。そして、普段通りに着替え、リビングに向かう。スーツに着替えた母親が慌ただしく鞄に荷物を詰めていた。
「了、ごめんね。急に会社から呼び出されちゃって。朝食はテーブルの上にあるわ。戸締まりお願いできる?」
「うん……」
母親が忙しいのはいつものこと。獏良は動揺に気づかれないよう声色に気をつける。その甲斐あってか、母親は気にする様子もなく身支度を整えて鞄を持つ。
「お皿は流しに置いといていいからね。じゃあ、行ってくるわ」
早口で言うと、獏良に背を向けた。
「いってらっしゃい」
玄関の戸が閉まるのを確認してから、獏良は口の中に朝食を急いで詰め込む。牛乳で流し込み、皿を空にした。
自室に汚れたズボンと下着を取りに戻り、洗面所で石鹸を使って洗う。匂いが取れたところで、水をよく絞る。そして、既に幾つかの衣服が入っている洗濯機の奥へと捩じ込んだ。
母親が忙しい日で助かったと獏良は神にでも感謝したい気分だった。手つかずの洗濯機でなければ、汚れた衣服を目立たずに処理できなかったかもしれない。
汚れの正体は分からないが、誰にも見られてはいけないものということは、何となく察していた。だから、母親にさえ知られたくない。
衣服の始末が終わってから、獏良は素早く学校へ行く準備に取りかかった——。
*
母親は朝が早かった分、夕方前に帰ってきた。獏良は恐々と母親の反応を窺う。洗濯物について何も言われない。どうやら気がついていないようだ。おやつのクッキーとジュースをテーブルに並べ、ご機嫌に「今日は学校で何したの?」と問いかけてくる。
獏良は母親と少し会話をしてから、宿題があると自室に閉じこもった。一人になってからホッと息を吐いた。朝の出来事が杞憂に終わり、肩から力が抜けたのだ。
明日は学校が休みだ。心配ごとがあるままでは休めない。明るい気持ちでランドセルから宿題を取り出し始めた。
日曜日(雨)
この日は父親も母親も休みだった。三人で博物館へ行き、そのまま外食をした。多忙な父親とゆっくり過ごせるのは珍しい。獏良は頬を紅潮させながらオムライスを口にした。
今日は楽しいことばかりだ。今度こそきっといい夢を見るに違いないぞ、と獏良は前向きな気持ちで床に就いた。
*
夢の中で腹が苦しく、獏良はもがいていた。重い何かが腹の上に乗っているようだ。目を開けて下半身の方へ視線を向けた。獏良とよく似た男児が獏良の足元にいる。似ているといっても、顔つきは攻撃的で獏良とは正反対だ。彼は口元を歪めて言った。
「やぁっとお目覚めか?宿主様」
誰かと問うために口を開くと、言葉ではなく息が漏れた。腹にかかる重圧のせいだ。
「……な……な、に?」
苦心してやっと少年に問いかける。
「世話になってるからな。挨拶くらいしねえと。オレ様は『宿主想い』だからよォ」
彼は獏良が聞き慣れない単語を使い、嘲笑うように言う。当然、その言葉の意味は分からない。
そのとき、くちゅ——と水音がした。
獏良は音がする方へ視線を向ける。
そこで自分たちの状態に気がついた。何も身につけていない。白い肌が露だった。就寝のときと同じように横たわる獏良に跨がるようにして少年は座っている。
驚いた獏良は上半身を起こそうとし——頭が浮いたところで止まってしまった。何かに固定されているように動かない。
先ほどから身体——下半身の方だ——に一本の杭が打ち込まれているような感覚がある。それのせいかもしれない。腹が重い原因であることは間違いない。
起こした頭を捻って杭の正体を確認をする。けれど、今の体勢からは見ることができない。下半身の先には密着した少年の身体がある。もしかしたら、彼が何かをしているのかもしれない。
「かたいの、やめて……」
訴えかけると、少年は獏良の白く滑かな腹を撫でた。どこか愛しそうな手つきだった。
「時間をかけて慣らした甲斐があるぜ。奥までしっかり咥えてやがる」
獏良の言葉などまるで聞こえていないような口振り。
「オレのことをよく覚えてるんだぞ——」
獏良の中に埋まっている杭が引き抜かれた。そのまま再び奥へと打ち込まれる。ぱん、ぱちゅん、ちゅぷ。
打たれる度に獏良の腹に重く響く。熱い塊が身体に出入りをしている。
「アッ、……ヒッ、ぅう」
内側を小突かれる慣れない感覚。内臓が揺れるような奇妙さだ。「こんな夢、早く覚めて。朝になって」と願わずにはいられなかった。
抽挿の動きが速くなる。身体が慣れてきたのか、鈍い痛みが消えていく。代わりに感じたことのない感覚——内側からじんわりとむず痒いような緩い電流が広がっていく。
「ふぁ…………ゥン」
パチン、と一際力強く突かれ、杭が脈打つ。それから、身体から抜かれると、「チッ」と舌打ちが聞こえた。腹にパタタと熱い何かが降り注ぐ。
「——まだ、こんなモンか」
獏良はぼやける視界の中で腹に手を伸ばした。何やらねっとりとした液体に触れた。正体は分からないが、昨日下着を汚したものと似ている、と思った。
指の腹で液体を触っていると、少年が上に覆い被さり、獏良の唇を塞いだ。
「んっ……」
——キス?でも、にゅるにゅるする……。
「むむ……」
困惑する獏良の口内に舌が出入りする。
その感触で今まで夢に出てきた生き物の正体について察した。あれは獣でもナメクジでもなかったのだ。
吸いついていた舌が離れ、顔面近くにある少年の顔が不敵に笑う。
「これでお前はオレ様のものだ。刻みつけてやった」
心の底から嬉しそうでいて、飢えた獣を思わせる眼光の鋭い表情。
獏良は追い込まれたような気になり、身動きせずに疑問を口にしようとした。しかし、君は誰?と問う前に、現実に戻されて機会は失われた。
*****
獏良が目を開けると、普段と変わらないベッドの中だった。カーテンからは太陽の光が漏れている。
心臓の鼓動が速い。印象的な夢を見た……はず。なのに、思い出せない。胸の上のリングがリンと鳴った。
起きたら夢の記憶が消えてしまうのはよくあること。少し心に引っかかるものがあっても、ただの夢なのだから、気にしないのが一番だ。どうせ違和感も朝のうちだけだ。
コンコンとノックが聞こえ、母親がいつも通り呼びかける。獏良は「はーい」と努めて明るく答え、そそくさとベッドから降りる。その小さな身体に、半透明な腕が後ろから絡みついているのに気がつかないままで——。
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何もかも初めてを奪われる了くんの話でした