ばかうけ

目を開けると、そこは見たことのない部屋だった。
部屋の形は正方形で、一辺が三メートルほど。
床も壁も天井も、全面石造り。
部屋の中には、家具どころか窓すらない。
あるのは、たった一つの扉だけ。そこから入った記憶はない。
獏良が床に手をついて、立ち上がろうとしたところで、
じゃらり
と、重みのある金属音が聞こえた。
音のする方を見ると、部屋の隅から鎖が伸びている。
その鎖を辿っていくと、自分の右足まで続いているのに気づいた。
「え……!」
獏良の右足に鉄の足枷が嵌められている。
鎖はその足枷に、がっちりと取り付けられていたのだ。
獏良は飛び上がって、鎖を力一杯に引っ張った。
ちゃりちゃりと虚しい音をさせるだけで、壁から抜けることも、足枷から外れることもない。
今度は唯一の扉に向かって手を伸ばした。
しかし、あと一歩というところで、鎖の長さが足りずに届かない。
「パパ……」
床に這いつくばって涙を滲ませ、心から信頼している家族を呼んだ。
博学で誰よりも優しい父親。
いつも獏良は父親の後ろをついて歩いた。
――あれ?
獏良の小さな胸に、小さな疑問が生じる。
「いつも」、「父親の後ろ」、「ついて」――。
その言葉一つ一つが引っかかる。
――そうだ。僕はパパについていって……。それで……。
頭に霧がかかったようにぼんやりとして上手く思い出せない。
どこか暗い部屋で父親が誰かと話していることだけが頭に浮かんだ。
そして、父親の身体が宙を舞い……。
そこからは、全く思い出せなかった。
「パパ!」
もしかしたら、父親は大怪我をしてしまったのかもしれない。
じっとりと獏良の手に汗が滲む。
再び鎖に手を掛けて、がむしゃらに引っ張った。
「ぐっ……!早く行かなきゃ……!パパが。パパが……!」
手の関節が白くなるまで力を込めるが、鎖はびくともしない。
せめて扉に手が届けばと、祈るように視線を送る。
すると、祈りが届いたようにドアノブが回った。
ゆっくりと扉が開いていく。
扉の向こうには、長身の男が立っていた。
なぜか、その人物には影がかかっていて、どんな顔をしているのかさえ、獏良には視認できない。
シルエットから辛うじて男だと分かる程度だ。
奇妙にも赤い瞳だけが、はっきりと影の中に浮かんで見えた。
「もう、気づいたのか」
扉の前に立ったままで男が口を開いた。
獏良は手から鎖を放し、その場に立ち上がる。
「だれ……?」
質問に答えはなかった。
代わりに、瞳が三日月型に細まる。
あまり見ていたくない目だと、獏良は幼いながらも思った。
しかし、他に頼りにする人物もいない。
「僕のパパは?」
獏良はもう一度、質問を試みる。
「パパ……。お前の父親か」
今度は反応があった。
男は視線を獏良から少しも動かさずに、
「無事だぜ」
淡々と答えた。
それは獏良を安心させるには充分な解答だった。
不安だらけの中で射し込んだ光。
しかし、答えを聞いた途端、獏良の背筋にぞわぞわと悪寒が走った。
――ちがう。
獏良の記憶に残っているのは、身体を吹き飛ばされた父親の姿だ。
少なからず、怪我を負っているはずだ。
男は何の躊躇いもなく、無事だと言い切った。
事情を知っている常人ならば、違った言い方になるのではないだろうか。
大人が子供に安心させるために、嘘をつくこともある。
目の前の男には、それがない。
ただし、幼い獏良には、男の言動を分析する余裕はない。
男の瞳と声音から、その言葉が真実ではないことを察した。
「……ウソ」
思ったことがそのまま獏良の口から滑り出した。
何が面白いのか、ますます男の瞳が細くなる。
「存外利口じゃねえか、オレの××は」
後半の言葉の意味は、獏良には分からなかった。
聞き慣れない単語だった。
男は面白がるだけで、本当のことを言ってくれない。
やはり、この男は信用ならないのだ。
そう確信した獏良は、男に構わず鎖を引っ張り始めた。
「おいおい、無茶しちゃいけねえよ。外せるわけないだろう。諦めなァ」
男の挑発とも取れる言葉には耳を傾けずに、懸命に鎖を引き続ける。
手の方が先に千切れてしまいそうだった。
「くっ……うっ……」
何回も繰り返している内に、ぱきぱきという小さな音と共に、鎖にヒビが入り始めた。
傍観をしていた男は、その光景に目を見開いた。
「おいおい、信じらんねえなァ……。考えてみれば、××たる器が簡単に拘束されるワケねえか。勉強になったな」
あと少しで鎖が千切れる――。
というところで、男がすたすたと歩み寄ってきた。
獏良の目の前に立ち、鋭い瞳で見下ろす。
その姿は依然として影に包まれたままだ。
「頑張ってるとこ悪いなァ。拘束を強化させてもらうぜ」
男がそう言うと、まるで生き物のように鎖がうねり始め、獏良の足にぐるぐると巻きついていく。
鎖は膝の辺りまで這い上り、ぎゅうと足を締めつけてきた。
足が拘束されたことでバランスを崩し、獏良は床に尻をしたたかに打ちつけた。
「うっ!!」
「痛かったか?悪かったなァ」
男は獏良の正面でしゃがみ込んだ。
近くで見ると、男の瞳には感情の色がなく、どこまでも冷たく光っている。
とても恐ろしくて、目を逸らしたら、その瞬間に食べられてしまいそうな気さえして、獏良は男の瞳を見つめたまま動けなくなった。
男の手が無遠慮に獏良の上着の裾を掴んだ。
そして、間を置かずに一気に衣服を引き上げる。
獏良の透き通るような白い肌が外気に晒された。
「ほう……。痕が残っているじゃねェか」
うっとりとした様子で男が呟く。
獏良は何事かと、男の視線を辿って自分の身体に目を落とした。
男の視線の先――胸から腹にかけて、五つの傷が刻まれていた。
――なに、これ……。
今まで痛みは何もなかった。
いつ刻まれたのかも記憶にない。
男は満足げに深く息を吐き出した。
じっとりと幼い身体に残る傷痕を見つめ続ける。
「み、見ないで……」
獏良は思わず顔を横に反らした。
絡みつく視線がおぞましい。
形容しがたい嫌悪感が、獏良の中を満たしていった。
「安心しろ。すぐ消えるからな」
男の耳には獏良の言葉は入っていないようだった。
もう片方の手が獏良の肌に伸びる。
その傷以外は一切の汚れもない、すべすべとした肌に男の指が触れた。
五本の指が、それぞれの傷を撫でていく。
「い……いやだあ……」
触られただけなのに鳥肌が立つ。
何かとても良くないことをされている気がするのだ。
「やめて……」
男は恍惚と獏良の傷に見入っている。
「××」
また、意味の分からない単語を呟かれた。
言葉の意味は分からなかったが、自分のことを呼んでいるのだということだけは分かった。
――僕の名前は、そんなんじゃないのに……。
とても口には出せない。
あまりにも、男が愛しそうに呼ぶから。
「早く大きくなれよ。そうしたら、たくさん遊ぼうなァ」
男は笑い混じりにそう言った後、五つの傷の中心に口づけをした。
そして、低く不気味な笑い声を漏らした。

獏良が目を再び開けると、そこは宿泊先のベッドの上だった。
半分パニックになりながらも、そばにいた父親の助手に尋ねると、仕事の最中に父親が事故に遭ったことを伝えられた。
すぐに病院に運び込まれたので、命に別状はないとのことだ。
それを聞いた獏良は、ようやく落ち着きを取り戻し、胸に手を置いた。
チャリ
聞き慣れない音がする。
胸元から服の中を覗き込むと、見たことのない金の飾りが首からぶら下がっていた。
「これは……?」
いつ身につけたのか、思い出せない。
そもそも、今夜は何をしていたのだろうか。
ぽっかりと記憶が抜け落ちていた。
「ええっと……」
頭を捻っても、何も思い出せなさそうだった。
しかし、ぴかぴかと金色に輝く飾りは、とても大切なものに違いない。
父親がとても好きそうだ。
元気になったら聞いてみればいい。
やがて、獏良はそう納得し、思考するのを止めた。
胸の上で光輝く飾りを見つめる。
――これ、僕だけの宝物にしていいのかな?
なんだか嬉しくなって、服の上から飾りを抱き締めた。
何者かの笑い声が部屋に満ちていることも気づかずに。

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こちらはブログに載せていた版です。アダルト不可なので代わりにねっとりと。
映画で昔からのお気に入りと判明して、水を得た魚になっています。

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