突如として、それは現れた。
どさっ
使わなくなって久しい暖炉に大きな物音がしたかと思うと、部屋中に埃が舞った。
バクラは異常事態にイスを蹴り倒して立ち上がったが、埃に視界を遮られる。
「げほっ……なんなんだよ!」
腕を振って煙を払おうとするが、ほとんど意味を為さない。
やがて、自然と埃が収まり視界が開けると、暖炉の中に何かが蠢いているのが見えた。
弱った鳥でも落ちて来たのだろうか。
風の強い日は枯れ葉や屑などが舞い込んでくることがある。
少なくとも、バクラがここに住むようになってからは使ってはおらず、放ったらかしにしてある。
ゴミならともかく、生き物まで入り込むなら、面倒がらずに蓋でもした方が良いなと、ぼんやりと思う。
状態を確認しようと、暖炉に近付く。
バクラの目が驚愕で見開かれた。
煙突から落ちてきたもの――それはヒトの形をしていた。
「ん……」
狭い暖炉の中で、それが身じろいだ。
長い髪がさらりと流れ、今まで隠れていた顔が見える。
身体を覆っているマントは埃だらけで判別がしづらいが、恐らく色は黒だろう。
上着もパンツもマントも全部黒。
片田舎のこの辺では見掛けない格好だ。
それよりも、煙突からヒトが降ってくることが異常だ。
サンタクロースならともかくとして。
一度動いてから、ぴくりとともしなくなった。
「死んだか?」
自分の家で勝手に事故死してもらっては困る。
そっと暖炉の中を覗き込んだ。
汚れてはいるが、よくよく見ればそれは綺麗な顔立ちをしていた。
「おい」
呼び掛けて、ぐっと身体を押してみる。
思ったよりも柔らかい感触に驚いた。
「んん」
応えるように、それがゆっくりと上半身を起こした。
長い眠りから覚めるように。
しかし、狭い暖炉の中だ。
ごん
頭を煙突内に打ち付け、鈍い音が響く。
半目の眼を二、三度瞬くと、
「いたい……」
ゆっくりと両手で後頭部を抱えてうずくまった。
「ニブッ」
それはそのままの体勢で、喉から声を絞り出した。
「……っく……ココ、ドコ?……ひ……」
「オレ様ン家」
身も蓋もなくバクラは言ってやった。
不法侵入者に親切にしてやる義理はない。
「オレサマ?オレサマ……」
口の中で何度も呟き、
「ニンゲン?」
涙で滲んだ瞳を上げる。
「正気か?頭打って。どうにかなっちまったんじゃねーの」
片足でそれの身体を容赦なく踏みつけた。
「ニンゲン!」
大きな声を出したかと思うと、ぱっと立ち上がったので、バクラはバランスを崩して後方に下がる。
ごつん
それは立った勢いで、また頭をぶつけた。
「いつっ……」
前屈みになりながらも、暖炉から這い出る。
すくっと立ち、露になった服装はやはり変わっていた。
やたら薄着のくせに、地に這うようなマントが目立つ。
「汚れちゃったな」
それは溜め息混じりに呟くと、右手を頭上にかざした。
そして、勢い良く腕を振り下ろす。
埃で白く染められていた服が、まるで下ろし立てのように光沢を放つ。
「よしよし」
全身をくまなく確認するために、その場で一回転をする。
バクラの目の前にコウモリのそれに似た漆黒の翼が広げられた。
「お前は…_」
尻からちょろりと伸びているのは、まごうことなき尻尾。
「悪魔か……」
長い髪の隙間から、尖った耳がのぞく。
「そうだよ。僕は下級悪魔の了」
自慢げに腰に手を当てる。
ぴこぴこと背中の翼が動いた。
「ふっ……」
バクラは笑った。
つられて了も笑いだした。
ひとしきり笑い合うと、バクラは親指で背後の戸を指差し、
「出て行け。悪魔だろうと、何だろうと関係ない。勝手に入ってきやがって」
眼光鋭く吐き捨てた。
「ちょっと待ってよ。せっかく下界まで降りて来たのにー。話を聞いてよ。願い事を叶えてあげるよ」
悪魔の威厳もなにもあったものではない。
今にも泣き出しそうな声でバクラに縋った。
「願い事……?」
「そう。僕の力で叶えてあげる」
悪魔の甘い囁きに、バクラの心が揺れた。
聞くだけなら悪魔が相手でも、まだ後戻りが出来るはず。
「聞いてやろうじゃねえの」
「僕はさ……おちこぼれなんだよ」
ぽつりぽつりと了は語りだした。
人間を不幸に導くのが悪魔の仕事。
それなのに、了はあと一息のところでいつも甘さが出てしまい、人間に情けをかけてしまう。
人間に甘い悪魔など、言語道断。
とうとうクビの話まで持ち上がった。
落ち込む了に最後のチャンスが与えられた。
「一か月以内の間に人間を不幸に出来たら、僕はクビを免れるんだ」
それまで静かに話を聞いていたバクラが顔をしかめた。
「それとオレ様の願いを叶えるのとどう関係がある?」
「そう、そこ!」
了は力一杯指先をバクラに突き付ける。
「闇雲に獲物を見つけて狙うより、君に取り憑きたいんだ。せっかく会えたんだし」
「は?」
「一ヶ月間少しずつ君に不幸に遭ってもらえば、親方の決めた規定量に達する計算になると思うんだよ。その代わり、僕が上手いことクビを免れたら、お礼に願いを叶える。どうかな?」
名案と言わんばかりに、バクラに向けた大きな瞳をきらきらと輝かせる。
反対に、バクラは顔を引きつらせていた。
どちらかといえば、世間的に不幸をもたらす側であるのに、好き好んで――しかも人の為に不幸になるつもりなんてさらさらない。
願い事を叶えられるのは魅惑的だが。
「ほんのちょっとずつだよ。一ヶ月分の不幸をいっぺんに背負ったら死んじゃうかもしれないけど、分ければ大したことないよ。それに、僕、家事が結構出来るんだよ。任せて」
もう一押しと言わんばかりに、捲し立てる。
バクラの心は好意的な方へだいぶ傾いた。
しかし、簡単にイエスと言わずに、条件を探るのは忘れない。
「願いを叶えるのが悪魔って言うのが、うさん臭ぇよな」
了はバクラの顔の前で指を振った。
「確かに、人間を騙し、破滅へ導くのが悪魔の役目だけど、然るべき契約を結べば、裏切り行為なしの信頼関係を結ばなくてはならないという法律があるから安心して。僕たちは絶対的な法で縛られてるんだよ」
了は手を振り、分厚い本を虚空から取り出した。
そこには小さな文字で綿密な取り決めが記載してあった。
「契約があれば、いかに悪魔と人間と言えども対等関係になるのさ」
報酬がある上に、安全保証付き。
かなりおいしい話ではないか。
「どんな願いでも良いのか?」
「願い」という言葉を聞いたときから、バクラの頭の中には様々な望みが渦巻いていた。
人の欲望には限りがない。
今のバクラが正しくそれだった。
「ああ……残念ながら、僕らが人間にもたらせる望みは有限なんだ……干渉範囲が決まっているからね」
了がぱたんと閉じた瞬間に法律書が消え、代わりに太い巻物が現れた。
「ここに載っているのから選んでもらわなきゃ……えっと……イモリの目玉」
「いらん」
了が次々と読み上げる中に、欲しいと思わせるものは一向に出てこない。
「こうもりの糞一瓶。マンドラゴラ五束。ワイバーンの爪……」
業を煮やしたバクラは了の手から巻き物を奪い取った。
ざっと上から順に目を通していく。
悪魔や魔女しか欲しがらないような品物が続き、途中から状態を変える願いが連なる。
影を消す。爪が一日に5センチ伸びる。吐く息の色を染める。ヒキガエルの声が出せるようになる。
「使えねぇ」
読み終わった巻き物が地に垂らされるほど、バクラの心は重くなっていった。
「どうして?高価な品物ばかりだよ。ヤモリの干物なんて……はあ……すっごく美味しいのに。我儘だなぁ」
悪魔との価値観の違いに、バクラは力なく頭を振る。
いくつか人間でも望むような願いがあったが、惹かれなかった。
目でリストを辿るうちに、とうとう終わりまできてしまった。
終わりの単語が妙に目を引く。
「これはどういうことだ?」
バクラが指を差したそこには「快楽」と表記されていた。
悪魔は人に性的快楽を与えることが出来る。
それは悪魔の柔軟な身体があってこその特権。
主に人間を誘惑したり、堕落させるのに使われる。
「だけど、ここでは別。誠心誠意を持って悪魔がお勤めするよ。アフターケアはないけど。一夜限りね」
顎に手を当ててバクラは唸った。
話のタネに少し味わってみたいが、その為だけに一ヵ月もの間に不幸になるのはリスクが大きい。
「一晩中ってことか?」
「うん。日が昇るまでなら、好きなように、何回でも」
無垢な顔をして、えげつかいことをさらりと言う。
バクラの頭の中では「一晩」という言葉で、想像も出来ないような綿密な計算が行われた。
例えるなら、A地点から様々な乗り物を乗り継いで、限られた時間で何処まで行けるか――こんな問題が一番近いかもしれない。
ぶつぶつと口の中で計算を続けるバクラを了は人間はおかしな生き物だなと思って見ていた。
「これを選んだら、てめえ、どうする?」
「え、これ?」
目を丸くして了が大きく両手を振る。
「ダ……ダメダメ!」
「なんでだよ」
「望みは叶えてあげたいけど、ダメなんだ……その……僕は……」
真っ赤な顔で口ごもった後、辛うじて聞こえるくらいの声で小さくこう答えた。
「純潔なんだ……恥ずかしいけど……だから、したくても、満足に気持ち良くさせてあげられない」
純潔の悪魔。
そんなものが本当に存在するのだろうか。
「本当か?」
訝しげにバクラの瞳が細まる。
「だから、僕は落ちこぼれなんだって……」
そこまで言うと、後はただ項垂れた。
当然、バクラの表情が一転したことに気付けるはずもなかった。
無知な具合の良い乗り物に乗り放題。
それは、正真正銘の悪魔の微笑みだった。
「なあ、それで手を打ってやっても良いぜ。純潔だって構わねぇよ」
物分かりの良い人間のように、思慮深く頷く。
「え……いいの?」
バクラの思惑に全く気付くことなく、信じられないといった口調で目を見開いた。
「覚えておきな。世の中そっちの方が喜ぶ人間がいるってことを」
「??」
話の意味が分からない獏良の頭をくしゃりと撫でてはぐらかした。
「じゃあ……本当に契約しちゃうよ。破棄は出来ないからね?」
躊躇なくバクラが小さく首を振った。
決意に揺るぎがないことが分かり、了の温和な顔も厳しい表情に成り代わった。
「 」
了は両手を横に広げ、口の中で呪を素早く唱える。
その言葉の意味はバクラには分からない。
了がバクラの方へ歩み寄る。
顔を前に突き出し、目を瞑った。
「なんのマネだ?」
眼前に迫るあどけない顔に、バクラは柄にもなく狼狽を覚えた。
その問いにうっすらと目を開け、
「契約だよ。キス、して。一瞬だけで良いから」
神妙な声で言った。
バクラの耳にそれがいやに甘ったるく響く。
――悪魔なのに受け身なのか、お前は!
身の回りにはいないタイプだった。
積極的で手招きをする女ばかり。
いつまで経っても為されない契約に焦れ、
「早く、して……」
了の唇が小さく動く。
他意がないことは痛いほど分かる。
分かるが、それではいそうですかと黙ってられるほどの余裕を残念ながらバクラは持ち合わせてはいなかった。
了の顔を両手で掴むと、乱暴に口の中に押し入った。
「むむ……」
角度を変え、さらに深く奥へ突き進む。
一度離れ、二、三度軽く唇をつつき、また捩じ込む。
訳が分からない了は、ただされるがままで力の入らなくなった身体をバクラに預けるのみだった。
ようやくバクラが完全に唇を離すと、銀糸が二人の間に伸びた。
興奮と呼吸がままならなくなっていたので、荒く息をしながら了が唇を押さえた。
「少しで良いって言ったのに……」
「つい、な」
悪びれずに洩らすバクラを、少しだけ了は睨んだ。
これ以上怒らせても無意味なので、「でも、よかっただろ」とは言わないでおく。
「ふう……」
熱を冷ますために、了はぱたぱたと手で顔を扇いだ。
「契約交わせたの、初めてだ。これは幸先が良いなぁ」
あっけらかんと喜ぶ横で、バクラがぴたりと動きを止める。
「『初めて』?」
「うん、初めて」
「そうか……」
どうしたのと、了が首を傾げる。
「これからゆっくりと教えてやるからな」
「う?うん」
バクラは了の髪を優しく梳きながら、にんまりと笑った。
「お帰りー」
「てめえ、何て格好してやがるッ!」
自分で言ったとおり、了は家事を器用にこなした。
しかし、人間の常識を全く知らないがゆえに、度々とんでもないことをしでかす。
帰ってきたバクラをエプロン姿で出迎えた了はきょとんと目を丸くした。
必要だろうと、珍しくバクラが買ってやったエプロンだが……。
「これはなぁ、洋服じゃねぇんだ!服の上から付けるものなんだよ!服を着ろ、服を」
「えー?」
あろうことか、上下丸裸の上に直接エプロンを付けていた。
「そうなの?」
自分の格好を改めて見直し、くるりとその場で一回転をした。
「違うんだ?」
バクラの目の前にぴんと立った黒い尻尾と、白くふっくらとした尻が揺れた。
「早く着ろよ……」
一ヶ月後に約束が果たせるという契約は、裏を返せば一ヶ月経つ前に味見もしちゃダメよということ。
ずっと了が憑いて回るので余計なことが出来ないし、何かにつけてバクラを不幸にさせたがる。
身体中、傷だらけ。
しかも、常にお預け状態。
一ヶ月経つ前に衰弱して死ぬかもしれないと、本気で考えるようになった。
利用するつもりが、逆に振り回されるなんて思ってもみなかった。
だらりと両腕を下げて、自分の不幸な境遇を嘆いた。
悪ノリしてましたね。
++++++++++++++++++
獏良了はさる大名の御曹司だった。
いつ誰が裏切り、殺されるかもしれないこの世の中。
獏良は幼い頃から忍に守られてきた。
忍とは影の存在。
"影"と呼べば、いつでも何処からともなく現れる。
常に獏良の傍にいるけれども、決して交わることはない。
獏良にとって影(バクラ)はもっとも身近で遠い存在だった。
「遊戯くん、折り入って話があるんだ」
獏良が友人の遊戯を呼び出したのは、そんな関係にほとほと思い煩ったからだ。
遊戯は獏良と同じく常に護衛がついていて、相談をするのに打って付けの人物である。
獏良のただならぬ空気を感じ取り、遊戯は顔を堅くした。
その後ろには遊戯と瓜二つの男が控えている。
彼が遊戯に仕える忍である。
二人の絆は深く、主従関係のそれを越えている。
獏良はそんな遊戯たちを羨ましく思うのだ。
「バクラ」
声をかけると、天井から黒ずくめの男が文字通り降って来た。
普段は気配を殺して潜んでいるが、獏良が呼べば現れる。
ゆっくりと黒ずくめが頭を上げると、その顔は狐の面で覆われていた。
黒の忍び装束、白く長い髪に狐の面――それが獏良の影、バクラだった。
ずっとそばにいるのに、獏良は素顔を見たことがない。
「これから遊戯くんと内密の話があるから、少し席を外しててくれるかな」
「……」
バクラは動かず、面の奥の瞳で主人を見つめる。
長年面越しに会話をしているせいで、獏良にはバクラの心情が分かるようになっていた。
表情から読み取れない分、声色や空気で感じるのだ。
今のバクラはどうするか考えあぐねているといったところか。
「……分かった。用が済んだら呼べよ」
それだけ言うと、天井まで飛び上がり姿を消した。
それを見届けると、遊戯が遠慮がちにもう一人の遊戯に視線を送った。
それに気付いたもう一人の遊戯が、
「じゃあオレも席を外させてもらうぜ」
音もなく立ち上がる。
「待って、君にも聞いて欲しいんだ」
「バクラくんだけに聞かせたくない……バクラくんのこと?」
獏良は震える手で自分の膝をぎゅっと掴んで頷いた。
「分かったぜ。あいつの気配はもうしない。本当に何処かへ行ったようだな」
もう一人の遊戯がその場に腰を下ろす。
それを見計らって、獏良が躊躇いがちに口を開く。
「僕たちは遊戯くんたちと違ってあまり話さない……。だから、あいつが僕のことをどう思ってるのか、現状に満足しているのか全く分からなくて」
近くにいながら言葉を交わせないことに対する葛藤と不安。
それを獏良はゆっくりと吐露していった。
「僕はあいつの気持ちが知りたいんだ。も……もちろん主人として……」
「獏良くんの気持ちはよく分かったよ」
話を聞き終わった遊戯は、傍らの相棒を見やる。
「バクラくんのことはもう一人の僕の方が昔から知ってるし……同業者としてどう思う?」
遊戯に促され、もう一人の遊戯は曇りのない真っ直ぐな瞳を獏良に向ける。
「あいつは……気に食わないヤローだが、獏良くんの影としては認めてやるぜ。力量は充分にあるからな。それにあいつなら、主人が気に入らなきゃさっさと消えてるな」
渋々といった調子であったが、もう一人の遊戯の態度がいわゆる照れ隠しであることに獏良は気付いた。
「そうだよ。僕の目から見ても、獏良くんのことを大切にしてると思う」
遊戯が賛同して獏良に微笑みかける。
二人に励まされ、次第に獏良の顔に光が差し始めた。
湯殿や寝室でいつも視線を感じるのも、バクラが無防備な状態の自分を守ってくれているからに違いないのだ。
「そうか……わざわざこんなことを聞いてくれてありがとう。僕、もう少しバクラを信じてみる」
全てわだかまりが解けたというわけではないが、それでもようやく少し肩の力が抜けた。
「……よし」
もう一人の遊戯が意を決し、口を開いた。
「一芝居打ってみよう」
縁側で獏良が細長い笛を吹く。
獏良の耳には全く聞こえないが、これがバクラへの合図になる。
「終わったか?」
間を置かずに天井から黒い影が降って来た。
「うん。用も済んだことだし帰るよ」
良いかい?事が始まったら、絶対に動いちゃダメだ。
「外の空気を吸って来るよ」
さり気なく獏良が自室を後にした。
遊戯たちに相談してから一週間が経つ。
それにもちろんバクラも音を立てずに付く。
切り揃えられた松の木が立ち並ぶ庭に下り、青空を見上げる。
期待と騙すことに対する罪悪感で早鐘のように鳴り打つ心臓の音が収まるように小さく息を吐いた。
悟られないように……。
決心がつくどころか、気を静める前に、
「宿主ッ」
飛び込んできたバクラによって、押し倒される。
紙一重で二人の真上をクナイが通り過ぎた。
「冗談のつもりか?笑えねえ」
怒気を孕んだ声が獏良の真上から降ってきた。
初めて獏良はバクラの腕の中にいることに気付いた。
「後ろに下がってろ」
獏良を庇うようにして、バクラが一歩前に出る。
「お前の主に生きられてちゃ困る事情が出来たんでな。お前もよく知ってるだろう。今の世には肉親の情さえ意味を持たないということを。恨みっこなしだぜ」
小柄な影――遊戯の影が茂みから飛び出した。
一直線に向かって来るところをバクラが刀で迎え撃つ。
「前々からてめえのことは気に食わなかったんだ。ちょうど良い機会だ!」
獏良の目で捉えることはほとんど出来なかったが、二人は激しい攻防戦を繰り広げているようだった。
金属のぶつかりあう鋭い音が何度もしたかと思うと、双方とも身体を大きく離し間合を取った。
「息が上がってるぜ。逃げた方が良いんじゃないか」
濃紺の忍び装束をまとったもう一人の遊戯が不敵に笑う。
対してバクラも余裕の構えは崩さずに、
「どっちが」
にやりと口許を歪める。
軽口は叩いても二人の力量は五分五分で、寸分の隙も与えてはならないことはお互い分かりきっていた。
「バクラ……遊戯くん……」
その場から絶対に動くなと遊戯から予めに忠告を受けていた獏良は、固唾を呑んでこの光景を見守っていた。
予想以上に激しくぶつかりあう二人の姿に、獏良は罪人にでもなったような心持ちだった。
相談事を持ち掛けたのは獏良の方だが、すべては遊戯に委ねている。
この先どうなるのか分からなかった。
「忘れもしないぜ。初めて会ったとき、貴様は相棒をちんちくりん呼ばわりしたな!」
怒号とともに複数の四方手裏剣が、もう一人の遊戯の元から打ち出される。
それをなんなく刀で叩き落とすと、今度はバクラは戦輪を放つ。
「お前だって宿主さまを根暗の引きこもり呼ばわりしてただろうがあ!」
「なにを!じゃあ、あの海産のヒトデリオンを取り消せ!」
「黙りやがれ!白ゴキブリって、てめえセンスおかしいんじゃねーの?」
常人には理解も出来ないハイレベルの打ち合い……のはずが、みっともない罵り合いによって、ただの子供の喧嘩に成り下がっているようにも見える。
獏良の脳裏にふともう一人の遊戯の言葉が思い出される。
「オレに全て任せるんだ、獏良くん」
妙に自信ありげな笑みとともに、彼はそう言ったはず。
「え……っと……私怨?」
目を点にして目の前の光景をただ眺めているしかなかった。
それでも、バクラが自分のことで熱くなってることが伝わってきてこそばゆい。
――不謹慎かな……。
胸元を掴み、今にも暴れ出しそうな心臓を押さえる。
――僕、喜んでる……。
「お前の弱点は頭に血が上りやすいことだぜ」
「てめえだけには言われたくねえなあ」
「まだ分からないのか」
もう一人の遊戯がにやりと深い笑みを浮かべ、臨戦態勢を解いた。
バクラは刀を構えたままで、もう一人の遊戯の一挙一動を油断なく見据えていた。
「遊びもこれまでだぜ」
そう言って遊戯が左手を軽く動かすと、籠手が小さく跳ねた。
その下から薄い板がせり上がる。
「このからくりに仕込んである毒針を食らってタダで済むと思うな、よっ」
もう一人の遊戯が指を折ると風を切る音が走った。
理解する前にバクラは身を翻していた。
もう一人の遊戯の言うとおり熱くなりすぎた。
なんという失態なのだろう。
もう一人の遊戯の一連の攻撃に誘導されていたのに気づかないとは。
最初からもう一人の遊戯の狙いは獏良だった。
バクラは真後ろの獏良に向かって、策もなしに突き進む。
そして、一直線に飛んできた数本の針を背中で受けた。
「バクラ!」
獏良の目には眼前で崩れ落ちるバクラの姿が映った。
反射的にその身体を受け止めた。
「お前も変わったもんだな。自分の命を捨ててまで、主人を守るなんて」
武器を全て収めたもう一人の遊戯がゆっくりと歩み寄って来た。
「遊戯くん、バクラは……」
バクラを支えたままで、獏良が顔を曇らせた。
「大丈夫だよ」
今まで何処に潜んでいたのか、ひょいと遊戯が現れた。
「毒なんて仕込んでないから」
「そういうことかよ」
一寸も動く様子のなかったバクラが、背中に刺さった針を力任せに引き抜いた。
「てめえの奥の手をベラベラ喋って種明しやがって。おかしいと思ったぜ」
そっと獏良から身体を離し、面の奥の瞳をもう一人の遊戯に忌々しげに向ける。
「心配かけてすまなかったな、獏良くん。手を抜いたらこいつにバレるから、遠慮なくいかせてもらったぜ」
「でも、これではっきり分かったよね」
身体を張って守ってくれた。
それだけで、今までの不安が払拭されていくようだった。
騙したことになってしまったという罪悪感はあったが。
「結局なんだったんだよ。宿主もグルだったっつーのか」
「あ、ごめ……」
険悪なムードになる前に、遊戯が二人の間に割って入る。
「バクラくん変わったよね。昔の君ならあんな無茶はしなかったと思うな」
それにもう一人の遊戯がこくこく頷く。
「昔のお前はもっと利口だったぜ」
「……!?」
バクラは異様な場の雰囲気に後退る。
「あの……お前の気持ちが知りたくて、僕が遊戯くんに頼んだんだ。長い間一緒に過ごしてきたけど、お互いのことを話してなかったでしょ」
うろたえるバクラにおずおずと獏良が真情を吐露する。
「宿主……それはどういう……」
言い終わる前に、もう一人の遊戯が刀を抜いた。
そのままバクラに向かって振り下ろす。
からん
今まで外されたことのなかったバクラの面が割れて、素顔を露になった。
「おっ……何すんだてめえ!ウチの掟、知ってんだろうが!」
「ああ、もちろんだぜ」
髪を振り乱してがなるバクラをもろともせずに獏良が歩み寄った。
「これがお前の顔?もっと見せて」
頬に手を添えて、獏良が綻んだ。
「はじめましてだね」
その笑顔に引き込まれたバクラに、後ろから遊戯が声を投げ掛ける。
「感謝しろよ」
観念したのか、バクラは深く息を吐いた。
「そうだな。掟があったから、お前には初めて顔を見せるな」
「掟?」
「顔が割れたら終いだからな。見られたら自害……」
バクラは真剣な面持ちで獏良を見つめた。
「え……!そんな」
愕然と立ち尽くす獏良の肩にゆっくりと触れる。
「でなければ、顔を見られた相手を……」
バクラの手に力が籠る。
がっちりと捕らえられ、動けない。
「ま、まさか……」
――口封じしなきゃいけないとか……?
「娶らなくてはならない」
気付けば、息がかかるほど顔が近付いていた。
「え、え、え?」
「オレの妻になれ宿主」
バクラの真意が明らかになって嬉しいはずなのに、何か触れてはならないものに触れてしまったような後悔が押し寄せる。
「ちょっと待って。違うんだ、これは」
じりじりと迫るバクラから、獏良はなみだ目で逃れようとする。
その様子を遊戯たちが背後で冷静に眺めていた。
「はっちゃけてるね……」
「あいつも我慢の限界みたいだったからな。こればっかりは助けられないぜ」
「怖がるなよ。お前のことは身体の隅々まで分かってんだから、安心して身を……」
「いやああ!!」
無理がある話ですが、主従ものはいいもんだということです。