※すべてパラレルです。
人間には見えない世界がある。
今日も空から翼を持った使いたちが人間に言葉を届けにやって来る。
天界のお仕事 ※囁きの悪魔×天使
人間には善の心と悪の心の二つが宿っている。
その二つは常に戦い、勝った心に従って人間は行動する。
それを人間界では、誘惑に勝った負けたなどと表現する。
実は天上からやって来る天使と悪魔たちがコントロールしているのだ。
「もういい加減楽になっちまえよ。気に入らないんだろソイツが。一発ブチ込んでやれよ」
黒い翼を持つ悪魔は、人間の欲望を増幅させる言葉を囁く。
「ダメだよ。自分に負けないで。ここで諦めたら何もかも無駄になっちゃうよ。あともう少しだから頑張って」
白い翼を持つ天使は、人間を抑制させる言葉を囁く。
どちらの使いも、人間界のバランスを保つのに必要な存在だ。
真逆の役目を持ちながらも、敵対関係ではなく共存関係にある。
「もー!ついてこないでよー!」
中には例外もある。
ふよふよと童実野町の上空を飛ぶのは天使の獏良。
白いローブの裾をひらめかせ、背中には弓矢を背負っている。
それを悪魔のバクラがしつこく追いかけていた。
獏良とは対称的に黒のパンツルックで背中には一本の槍。
さながらカラスが小鳥を面白半分に追いかけているよう。
二人は天界でも仲が悪いことで有名だった。
獏良のターゲットをことごとくバクラが横から奪ってしまうからだ。
悪魔が天使のターゲットを横取りしたところで何の利益もない。
天使全体から見ても、獏良個人の任務成功率が下がるだけで不利益を被るわけでもない。
ターゲットを横取りすることは禁じられておらず、マナーの問題になる。
所属は違えども同じ使命を持つ仲間として、お互い譲り合うのが常識。
それをしつこく妨害してくるのは、ただの個人的な嫌がらせにしかならなかった。
「もうヤダー!」
獏良にとってはいい迷惑で、天界から地上に下りるまではいつも不毛な追いかけっこになっていた。
「ヒャハハハ!」
追いかけているバクラの方はニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべ余裕綽々といったところ。
***
「バクラくんにも困ったものだねえ」
獏良の成績表を見ながら天使長である遊戯が憂鬱げに呟いた。
感情を表すように背中から生えた純白の翼が引き下ろされる。
「すまない、相棒」
悪魔長のアテムは心底申し訳なさそうな顔で肩を落とす。
ここは天界の上官のみが立ち入りを許される会議室。
とはいっても、今は気の置けない二人がいるだけ。
固く閉ざされた重厚な扉の内側には、砕けた雰囲気が漂っていた。
天使と悪魔は仕事仲間ではあるが、馴れ合わない程度には線引きがされている。
アテムと遊戯はそんな二つのグループの中では例外的に仲が良い。
遊戯はソファの上にごろんと横になり、獏良の成績表に溜息を落とした。
この成績表は酷い。
ことごとくターゲットをバクラに取られているようだった。
天界から地上へ出勤する際にもバクラが獏良を追いかけ回している様子を遊戯は見かけている。
あの調子でずっとターゲットを横取りされているのだろう。
悪魔が天使のターゲットを取ったところで、個人的な嫌がらせにしかならないはずなのに。
バクラの上官に当たるアテムとしては遊戯に謝りっぱなしだ。
腕は悪魔の中でも随一であるはずなのに、なぜガキ大将のようなことをするのだろうか。
「バクラくんっていつからああなの?」
遊戯と獏良は中等教育時代からの仲になるが、獏良とバクラの出会いはそれよりも過去に遡る。
「ああ、それはな……」
アテムは過去の記憶を辿りながら遊戯に語り始めた。
***
あらゆる場面で人間は選択を求められる。
日を跨げば忘れてしまう些細なものからその後の人生を左右する重要なものまであるが、棄てていい選択など一つもない。
ここにいる人間の男も店の前で悩んでいた。
以前から欲しかったブランドものの時計を買うか否か。
獏良は瞬時に男の悩みを見抜いて一飛びで側まで寄り、
「もうちょっとだけ我慢して。いま買ったら三ヶ月先まで生活が苦しくなっちゃうよ。ボーナスが出るまで待って」
耳元で優しく透き通るような声で囁いた。
天使も悪魔も決して人間には見えないが、囁きは心の奥まで届く。
男は難しい顔で店のウィンドウの前で佇んでいた。
「大丈夫。いま買わなくても後で買えるから……」
根気よく獏良は男に言葉をかけ続ける。
少しずつ男の心は買わない方へ傾きつつあった。
「いちいち面倒くせーなあ!買える時に買っちまいなァ!!」
遠くから聞き覚えのある声が聞こえたかと思うと、人間の胸のど真ん中に一本の細長い槍が突き刺さった。
「あーっ!」
獏良が悲鳴にも似た叫び声を上げる。
人間の男は小さく握りこぶしを作ると、決心したように店内へと吸い込まれていった。
「ヒャハハ!命中ッ」
バクラが上空から高笑いを上げていた。
投げられた槍は悪魔の言霊を乗せて人間の心を射抜くもの。
天使も同じ用途で弓矢を使用する。
通常は天使も悪魔も囁きで人間の心を徐々に動かしていくが、これはそれの何倍もの影響力を人間に及ぼす。
コントロールが難しく、外せば真逆の意思へと傾いてしまう上に、人間の負担にもなりかねないために使用する機会は限られる。
意志の固すぎる人間相手や取り返しのつかない選択を止めるときなど緊急時に許されているのみで、初っ端から使用することはご法度だ。
心のど真ん中を貫く命中力と強い言霊を持っているバクラだからやってのけることだ。
獏良は男の背中を見送りながら、がっくりと肩を落とした。
これで邪魔をされたのは、何回目になるだろうか。他の天使たちの半分も仕事をこなせてはいなかった。
事情をよく知る天使長が友人だからここまで許されてきたのだ。
「ちょろいもんだせ」
対するバクラは意気揚々と獏良の近くまで下りてきた。
「なんで邪魔するんだよ!」
獏良は唇を震わせてバクラを睨みつける。
「わりぃわりぃ。ちんたらやってたもんだからよォ」
まったく悪びれもせずに、バクラはひらひらと手を振る。
いくらバクラを撒いてもすぐに見つかってしまう。純粋な能力的にも負ける。
これで悔しくないわけがない。
バクラのしていることはマナー違反なのは確かだが、横取りをされたくなければさっさと仕事を済ませてしまえばいいのだ。
感情のままに言い返せば、負け犬の遠吠えになってしまう。
獏良は文句をやっとのことで飲み込み、バクラに背を向けた。
「ここはお前に譲るから、今日はもう放っておいてくれる?」
「場所移動すんのかよ」
「ついてこないでよね」
所属は違うものの同僚に対して投げかけられた言葉は冷ややかなものだった。
獏良とバクラの出会いは天界の学生時代に遡る。
天使と悪魔は人間でいうところの六才ほどで学校に入学する。
そこでは天使も悪魔も関係なく机を並べて基礎的な勉強をする。
人間でいう十二、三才頃になると、種族ごとに分かれて専門的な勉強に移る。
それから数年学んでから、晴れて一人前となって仕事をするようになる。
遊戯と獏良が出会ったのは専門時代だ。
獏良がバクラと出会ったのは、それより前の入学当時の幼い頃。
天使と悪魔の居住地区は離れているので、集められた教室の中でほとんど全員が物珍しそう互いを見ていた。
バクラは自分に割り振られた机の上に腰かけ、つまらなさそうに欠伸をした。
自立心が高いバクラとしては、基礎勉強なんてさっさと終わらせて専門的な勉強をしたかった。
そして、早く人間の心を欲望のままに導いてやりたくてたまらなかった。
だから、こんな年少の授業など興味ないのだ。
天使の存在などどうでもいい。たかが羽が白いだけの存在と思っていた。
「あのう……」
そんなバクラに遠慮がちに声がかかった。
「ごめんね、ちょっといいかな。僕、隣の席なんだ」
ぷらぷらと投げ出された足が邪魔で通れなかったらしい。
おずおずと後ろからか細い声が申し入れた。
そんなにまどろっこしい言い方をしないで勝手に通ればいいだろうと、バクラは舌打ちをした。
机から飛び下り、声の主の方へ振り返る。
そこには一人の天使が立っていた。
白い髪の毛に真っ白な羽。
服も白一色でヒラヒラとしたワンピースのようなローブを着ている。
真新しい鞄を胸に抱き、涼しげな瞳を細めて遠慮がちに微笑んでいた。
「ありがとう」
天使はぺこりと一礼をして、バクラの隣の席に行儀よく座った。
髪も羽もバクラが見たこともないほど柔らかそうでふわふわしていた。
釣られるようにしてバクラも席に座った。
横目で天使の顔を盗み見る。
大きくて零れ落ちそうな瞳がキラキラと光って眩しい。
バクラが我知らず視線を送り続けていると、天使が気づいてにっこりと笑いかけた。
「よろしくねっ」
――なんだこの生き物はッ!
バクラにとって生まれて初めての衝撃だった。
無垢な笑顔がバクラには鮮明に映った。バクラもにへらと笑い返してしまったくらいだった。
――天使の女はこんなヤツばかりなのか?
「お前、どこに居んでるんだ?」
動揺を悟られないように、努めて冷静にバクラは尋ねた。
「ん?えーっとね……」
天使が顎に人差し指を当てて答える前に担任の教師がやって来てしまった。
教師の自己紹介やら、学校の説明やらが始まっても、バクラは上の空。
隣の天使と話の続きがしたくて仕方がなかった。
味気ない教師の話にこくこくと素直に頷く姿がまたバクラの心に響いていた。
「じゃあ、出欠を取るぞ。まずは男子からな」
一人ずつ呼ばれていき、男子たちは各々返事をしていく。
バクラも投げ遣りに答えた。
「次は――獏良了」
「はい!」
ぴっと右手を大きく上げて元気よく返事をしたのは隣の天使。
――へえ。名前は…………?!
「男かよ!」
バクラは机を叩いて声を上げた。
小さなハートにヒビが入る音が聞こえたような気がした。
バクラは背を向けた獏良に向かってゆっくりと近づいていった。
相変わらず汚れのない真っ白な翼にそっと触れる。
「オレはお前さえ良ければ……」
バクラは言葉の先を言い淀んだ。
人間相手には真っ直ぐな言葉を投げかけられても、獏良相手には調子が狂う。
「僕さえ良ければ、なに?」
獏良は背中を向けたままだが、立ち去ろうとせずにその続きを促した。
「お前さえ良ければ……」
バクラの手にぽやぽやと温かい翼のぬくもりが伝わる。
肩にかかった白い髪もこの翼のように柔らかい感触がするに違いない。
もう少し手を伸ばせば触れられるはず。
たらりとバクラの額から汗が流れ落ちた。
「ヘッタクソすぎて可哀想だからよォ。コツとか教えてやってもいいんだぜ!」
次の瞬間、獏良の肘が飛んできたのは見えたが、バクラは自らの言葉に避ける気力を失っていた。
「クソ……。またやっちまった」
仰向けになってヒリヒリと痛む額を押さえながら、空に向かって飛び立つ白い翼を見守る。
「人間の心を動かすのは簡単なんだけどなァ……」
「――まあ、オレはクラスが違ったから詳しくは知らないが、それ以来アイツは獏良くんに絡みっぱなしなんだぜ。勝手に性別を間違っておいて失礼な話だと思うが」
アテムは話を終えて眉間を指先で叩いた。
その後にアテムと二人は同じクラスになり、獏良のことを庇うようになったのだ。
「へえー……。今もバクラくんは獏良くんのことを追いかけ回しているんだよね」
あの獏良なら幼かった頃はさぞかし可愛かっただろう。
遊戯はバクラが性別を間違えたのは仕方がない気がした。
でも、一人前になってからも追い回す理由は……。
「よっぽど勘違いをしたのが気に食わなかったんだろう」
アテムは神妙な顔でこくこくと深く頷いた。
「うーん。バクラくん不器用だなあ……」
今日もどこかで追いかけっこをしているであろう二人を想い、遊戯はなんとも言えない顔で窓から外を眺めた。
----------------
アニメや漫画でたまにある天使と悪魔が囁いてくるやつです。
森の捧げもの ※人外×人間
深い森の中にバクラの棲み処はあった。
洞穴に布を敷き詰めただけのものだったが、夏は涼しく冬は暖かく、快適な住まいだった。
数えるのを忘れてしまうほどの時を経た特異な存在であるバクラは人間たちに恐れられていた。
天候や自然物が信仰対象になるように、森の主として畏敬の念を抱かれている。
もっとも、それは人間の勝手な言い草で、バクラは人間に「基本的に」害を与えたりはしないし、施しもしない。
人間が気紛れに送ってくる「生贄」の味見はするが、あとは知らんぷりを決め込んでいた。
外で人間たちが右往左往しているのを傍観しているだけだった。
ここ数年は代わり映えしない毎日で退屈をしていた。
仮に干ばつが続いたりすれば、人間たちはすぐに生贄を送ってくる。
そうでないということは、人間の世界は概ね平和であるということだ。
――つまんねえなァ。
バクラは床にごろりと横になり、大欠伸を一つした。
今すぐ人間に恐怖を与えに行くことだって簡単にできる。
しかし、いつでもできると思うと、腰が重くなるのが人情だ。
手っ取り早く暇潰しができないものか漫然と思っていた。楽しいことの方から自然と洞窟に転がり込んでくればいい。
ぼーっと床に転がっていると、突然洞窟を取り巻く雰囲気が変わった。空気を伝って人の気配が漂う。
バクラは跳ね起き、足を前に組んだ。にんまりと口元に笑みを浮かべる。久々の生贄だ。
森の入り口にある村は、若い娘を生贄としてバクラの元へ送ってくる。
主のご加護が受けられるわけでもないのに人間は残酷なものをするもんだと言いながらも、バクラは有り難く生贄を頂戴していた。
「頂戴した」後は興味を失くして生贄を外へ放り出してしまうので、娘たちがどうなるか知ったことではなかった。
生存能力のない娘たちは、森の中で行き倒れてしまうのではないかとは思うが、それもバクラにとっては関係ないことだった。
生贄としてやって来る前に獣にでもやられたのか、不幸にも命尽きてしまった娘をたまたま見かけたこともある。
そういったとき、人間は弱いものと他人事のように横目で見るだけだった。
人間の気配はゆっくりとバクラのいる洞穴の最奥まで近づいてきていた。
怯えているのだろうか?
それを考えるだけでわくわくしてしまう。
怯える娘の服を引き裂いて白い肌を剥き出しにするのはとても面白い。
しばらくして視界の先で小さな炎が揺らめいた。
――可哀想に。
やはり、バクラは他人事のように思った。
親元から引き離されて、持たされるものは数日凌げるだけの少量の食べ物と蝋燭一本。
バクラからすれば、人間の方が正気ではなかった。
ようやく姿を捉えられるほどの距離まで生贄がやって来た。
「ほう……」
バクラは目を見張る。
――今回は趣向を変えてきたか。
今までの娘たちよりもすらりと背が高く、ぼろきれのような服からはほっそりとした手足が伸びていた。
珍しいことに髪の毛も肌も雪のように真っ白だった。
バクラの髪も白色なので、これは歓迎すべきことだった。
薄っぺらい服の上から見る肉付きは悪く、触れたら折れてしまいそうだ。
バクラとしては、肉付きが良かろうが悪かろうがすることには変わらないので気にするところではない。
体型よりもその端正な顔立ちの方が気に入った。
その顔に恐れも悲しみも浮かんでないことには少しだけ驚かされた。
生贄たちは、いつも泣いたり喚いたりうるさかった。
曇りのない瞳が静かに前を向いていた。
「ようこそ」
互いの顔がはっきりと分かる距離でバクラの方から声をかけた。家主として歓迎してやらなければならない。
近くで改めて生贄を見ると、線の細い顔立ちがバクラの嗜虐心を誘った。
「怖がらずによく来たな。誉めてやるぜ」
なるべく残忍に見えるように意地悪く笑ってやった。暇潰しのゲームはもう始まっているのだ。
「これで妹も両親も助かるから」
初めて生贄の発した声は、高くもなく低くもなく不思議な響きだった。
なるほどとバクラは手を打つ。
要するに、この生贄は村の連中から取引材料として残される家族の生活保障を持ち出されたのだ。
それがどこまでの効力を持つのか判然としなくても、バクラは大したものだと素直に感心した。
身内とはいえ他人のためにそこまでするとは。とても高潔な行動だ。それと同時に哀れにも思えた。
「名前は?」
「了」
眉一つ動かさずに生贄が答えた。
「こっちに来いよ、了」
この可哀想な生贄には最大の慈悲を以って接してやろう。
細い腕を引いて生贄を胸に抱き込む。
肉はついていないが、骨張ってはいないので抱き心地は悪くない。
しかし、予想よりも薄い胸が触れて違和感を覚えた。
身体を少し離し、服の上から了の胸に手を当てた。
ぺたり――。
膨らみが少ないどころか、まったくの平地でしかなかった。
信じられないようなものを見たという顔でバクラが仰け反る。
「お前、男か!」
「うん」
相変わらず、了は平然としていた。
大きな瞳に長い髪。これでは見間違えてしまうのも仕方がない。
言葉を失うバクラに了は目をぱちくりさせ、
「村に生贄を拒否した記録がなかったから、男の僕でもいいんじゃないかって言った」
悪意なくそう述べた。
「いいんじゃないかって、お前なァ……」
「そうしないと――」
そこで初めて了の顔が曇る。
「妹が生贄に選ばれたから」
バクラは頭に手を当てて唸った。これでは生贄を頂戴するしない以前の問題だ。
なるべくなら抱き心地のいい女の方にお願いしたい。
「生贄の意味、分かってるのか?」
「食べられる」
「はい、そうですか……」
物事を疑うことを知らない素直な回答を正す気にならなかった。
目の前にいる少年が今までの生贄で一番の美人であるということが悔やまれる。
「やっぱり、女の子じゃないとダメなの?」
了が唇をわなわなと震わせた。それは、ここに来て初めて見せた恐怖だった。
「困る。僕を食べてくれないと妹が……」
自分のためでなく、妹を想っての恐怖だ。見る見るうちに顔から血の気が引いていく。
涙で滲んだ瞳がバクラを見つめた。
「食べられなくはないが……」
「ほんと?じゃあ、僕を食べて」
たじろぐバクラに了が前のめりに詰め寄る。
少年がバクラの好みの外見をしていなければ、性的なことに無知でなければ、こんな状況にはならなかっただろう。
どうしたものかとバクラが幾ら頭を巡らせても、答えは一つしかなかった。
「なら」
了の腰を強引に引き寄せ、
「お前はオレ様の嫁になれるのか?」
頬を擦りじっと了を見つめる。
「およめさん?」
無知な了でもさすがにぽかんと口を開けてバクラを見返した。
目の前にいるバクラは真剣な眼差しをしていて冗談をとても言っているようには見えない。
了の脳裏に大切な家族の顔がよぎる。
「男の僕でいいのなら……」
不安に顔を雲らせ、消え入りそうな声でそう答えた。
「お前、嫁がなにするものなのか分かってるのか?」
「……ご飯を作る?」
バクラは額に手を当て深く項垂れる。ばさりと髪が肩から落ちて白い首筋が露わになった。
「ち、違うの?」
その様子に了は慌てて訊き返す。
嫁と言われてもエプロンをかけて掃除や洗濯をする母親の姿くらいしか思い浮かばない。
「もっと色気のあることだよ!」
尚も困惑した面持ちのままの了をバクラは力いっぱい胸に抱き寄せた。
逃げようとする頭をぎゅうぎゅうと腕で押さえ込む。
「わっ!」
両腕の中で了は目を白黒させた。
けれど、あたたかい体温が気持ちいい。
とくんとくんと心音が聞こえる。
――なんだ。人間のと変わりないじゃないか。
優しい温もりに了の心がすっかり緩まり、安堵の笑みを浮かべた。
慌てたのはバクラの方だった。
まさか、腕の中で無防備な顔をされるとは思わなかったのだ。
「お、お前はオレ様の嫁になったんだからな!」
心を乱されながらも、しっかりと凄んで見せる。ここで威厳を失うわけにはいかない。
了はバクラの顔を上目遣いで見つめて頷いた。
「分かった」
「……後で色々教えてやるからなッ」
「うん」
----------------
そう簡単に美味しい思いはできません。
風の神、雨の神 ※少女漫画パロ
その村には今日も心地のよい風が吹いている。
風の神である獏良は、田園風景の広がる小さな村の上空を泳ぎながら、優しい風を送っていた。
ふうと息を吐けばそよ風が、手をすいと振れば風車を回す風が、両手を力一杯回せば暴風になる。
その時その時で、人間たちに風の恵みを与えていた。
持ち回りで担当している童実野村の人々のことは好きだが、人間の望むようにしていては自然の摂理に逆らうことになる。
時に優しく、時に厳しく、獏良は風を送るのだった。
一番好きなのは、気儘に空を泳ぎながら身体全体で優しく撫でるように風を通すことだ。
季節は春の終わり。
気温がだんだんと暖かくなってきて、のんびりとしていても許される季節だ。
その柔らかく白い髪をふわふわと空に漂わせて太陽の光を好きなだけ浴びる。
「獏良くーん!」
地上から聞き慣れた声に呼びかけられる。
身体を反転して見下ろすと、友人の遊戯が獏良に向かって両手をぶんぶんと振っていた。
彼は生命を守る地の神。風の神と違って空は飛べないが、すべての生き物を優しく抱き止める役目を持っている。
「どうしたの?」
獏良はふわりと空中から地面に下り立った。
二人は与えられた持ち場が同じになって随分と経つ。気心の知れた仲なのだ。
「だんだん暖かくなってきたね」
「うん、ちょっと温度の調節が難しいかな」
獏良はぴっと人差し指を立てると、小さなつむじ風がその周りに生まれる。
「いつもいい風をありがとう。作物がよく育つよ。それで……」
言葉の後半になると、遊戯は言いにくそうに口籠った。
「ん?」
獏良は親友に向かって春のそよ風のように優しい微笑みを浮かべた。
「そろそろ、湿り気も欲しくてさ……」
その笑みがカキンと一瞬で凍りつく。
「季節的にも、そろそろ来るみたいだよ、彼」
「さよなら!」
聞くが早いか、獏良は竜巻のようにくるりと回って空に向かって飛び立とうとした。
「わー!待ってよ!そろそろと言っても、まだだから!」
先ほどまでの優雅な仕草は何処へやら。獏良は目に涙を溜めて鼻を啜っていた。
種蒔きも終わり、梅雨に入る時期。
雨が来るか来ないかで、作物の出来は大きく変わる。
その役目は地の神でも風の神でもなく、雨の神が担っている。
雨の神は一所にはいない。
一定の場所に居続けると、雨で地面が水浸しになってしまう。
その為、風や地の神より遥かに広い持ち場を任され、ぐるぐると巡回する。
なぜ、それで獏良の顔が青くなるのかというと、この地の担当である雨の神とすこぶる相性が悪いのだ。
一方的に向こうが付きまとってくるので、獏良だけが迷惑を被っているという方が正しいかもしれない。
もっと小さな頃はお互い持ち場が狭く、顔を合わせることも多かった。
成長してからは、すれ違う方が多くなった。
それでも雨が続く時期には、何かにつけて向こうから近づいてくるのだ。
前回、獏良は誰も知らない岩穴に隠れてやり過ごした。
雨の神が獏良を探し回り、なかなか村を通り過ぎないので村が水浸しになってしまった。
獏良は申し訳ないと心の中で村人たちに謝り倒した。
今回はそういうわけにいかないだろう。
せっかく撒いた作物が、種が、駄目になってしまう。
そういうわけで、獏良は動揺をしたのだ。
遊戯は予想以上の反応に冷や汗を掻いた。
「嫌われてるなあ、バクラくん」
「あいつ、しつこいんだもの」
まともに顔を合わせるとなると、心の準備がいる。
遊戯と別れの挨拶をして、獏良は行きとは逆にふよふよと力なく空を飛んで帰った。
その夜、集中力を欠いた獏良の風は大荒れだった。
大量の雨雲を連れ、その上で胡座を掻き、長い髪を靡かせているのは雨の神だ。
地上は雨雲に太陽が覆い隠され、勢いよく雨に打たれている。
「~~♪」
珍しく雨の神は鼻歌を歌うほどご機嫌だった。
もうすぐ、会えるのだ。当然だ。
ざあという雨音に混じり、低く小さな鼻歌が聞こえていた。
その日、獏良は村で一番高い一本杉の天辺に座り、片手で風を送っていた。
涼しくも優しい風が村を通り抜けていく。
西の空は既に暗くなっており、雨がもうすぐこちらにやっていることが分かっていた。
獏良はもう片方の手で頬杖をつき、西の空に背を向けて憂鬱そうな表情をしていた。
今度会ったら何をされるやら……。
今までのことを思い出すと、ろくでもないことばかりだった。
相性の悪い火の神の元へ突き飛ばされたり、雷を近くで落とされたり……。
思い出せば出すほど、重苦しい溜息が勝手に漏れる。
――ぽつり。
前触れなく鼻の頭に水滴が垂れた。雨が降り始めたのだ。
空を見上げようと顔を上に向けた途端、
ざばぁああああああ
バケツをひっくり返したような土砂降りが獏良を直撃した。
「ぶはっ……」
濡れ鼠になり、頭を振る獏良に、
「ヒャハハハハハハ!」
粗野な笑い声も上から降ってきた。
獏良は眉毛をぴくぴくと動かし、濡れ髪を搾る。
「……何のつもり?」
「挨拶だよ、挨拶」
雨雲に乗ったバクラがにんまりと笑って見下ろしていた。
「ああ、そうですか」
バクラのペースに巻き込まれてはいけない。
身体に向かって獏良が手を一振りすると、一瞬で服が乾いた。
人を食ったような態度をするのは以前とちっとも変わりない。
前回会ったのは、半年ほど前だろうか。
「どうぞ僕に構わず仕事して下さい」
獏良はぷいと腕を組んで横を向いた。
「久しぶりに会ったのにそりゃねえだろ。……話があんだよ」
それまでのふざけた態度が急に鳴りを潜め、バクラの声が一段低くなる。
「お前は人に話をするのにいちいち雨を浴びせるわけ?」
「来いよ」
出し抜けに獏良の腕が強い力で引かれた。絡んだ五指が肌に食い込む。
普段見せない言動に獏良は戸惑い、
「っ!自分で飛べるから!」
手を振り解いて空中に飛び出した。
バクラは雨雲を動かし、獏良と並走する。
「で、どこを行けばいいの?」
「あっちの森」
バクラが指差す森には常駐している神はいない。
内密の話をするのには、打ってつけの場所だった。
獏良もそう解釈し、その森に方向を定めた。
バクラは髪を靡かせて自由に空を泳ぐ獏良の姿を横目で見ていた。
白い髪が太陽の光を受けて、はちみつ色に光っている。
バクラと同じ髪の色でも、違うもののように思えた。
目を離せば、文字通り風のように何処かへ飛んでいってしまいそうだ。
ふわふわと捉えどころのない姿は、ついつい追いかけたくなってしまう。
バクラはズボンの後ろポケットの中に入ってるものを探った。
それが手に触れると、しっかりと握った。
光がほぼ差し込まない森の中に二人は下り立った。
こうして静かなところで二人きりになるのは初めてのことだ。
「で、なに?」
過去の経験から警戒しながらも獏良が尋ねる。
「あー、そろそろだな……」
自分で誘っておきながら、バクラは後ろ頭を掻いてぼそぼほと話を切り出した。
「オレ様も昇進っつーの?持ち場が増えるんだが……」
獏良は眉間に皺を寄せた。話がまったく読めない。
年齢的に持ち場が増えるのはおかしくない。自慢をするようなことでもないし。
それをわざわざ獏良に伝えるのも、輪をかけて不自然に思えた。
「で?」
歯切れの悪い態度に焦れて先を促した。
「タイミング的にだな……ああ、もうめんどくせー!手ェ貸しな」
バクラは獏良の手を乱暴に取ると、手に握っていたものを押しつけた。
硬い感触が手のひらに当たり、獏良は首を傾げた。
手のひらを開くと、小さな金色の指輪が乗っていた。
訳も分からず、その指輪を凝視する。
「オレとつがいになれよ」
…………。
「うぇええええええっ?!」
獏良は指輪からバクラに視線を移し、素っ頓狂な声を上げた。
目の前で起こったことに、頭がついていかない。
「な、ななな、なん?」
「『なんで』だと?雨と風は相性いいからだ」
「き、きゅう……」
「『急すぎる』か?お前、逃げ回ってばかりで聞かなかっただろ」
冷静にすべて言い返され、続ける言葉を失ってしまった。
確かに雨と風は相性がよく、夫婦になるのは珍しくない。
しかし、嫌がらせばかりしてくるバクラに求婚されるとは思っていなかった。
やっと頭が理解し始め、獏良の頬が熱くなってくる。
「そんな結婚相手を適当に決めないでも……。お前なら顔が広いから、他にもいくらでも相手がいるでしょ」
滅多に持ち場を離れることがないから自分の目で見たことはないが、もっと西の国には綺麗な女神が沢山いると獏良は聞いたことがあった。
そこもバクラの持ち場の一つなので、そういう相手はいるのだと思っていた。
神の世界では性別の関係は薄いが、わざわざ男神同士で夫婦にならなくてもという気もする。
獏良の言葉にバクラは「ケッ」と吐き捨てた。
「お前以外と夫婦になるつもりも、ガキ作る気もねえんだが」
鋭くも真剣な眼差しで獏良を怯ませる。
「……すぐには答えられないよ」
手のひらの指輪をどうすることもできずに獏良は目を伏せた。睫毛の先が小さく震える。
「この周辺を回って雨を降らせたら戻ってくる。それまでに答えを出しときな」
バクラは指で獏良の髪を一房掬った。
さらりと絹のような感触が指に伝わる。視線は下に向けられたまま。
「うん……」
返って来たのはほとんど吐息のような声だった。
バクラはそれでも気にする素振りも見せずに、
「いい返事を期待してるぜ」
雨雲を呼び寄せ、東の空へと消えていった。同時に雨音も遠ざかっていく。
残された獏良は紅潮した頬を手で押さえた。
「いきなりなんだよ、あいつ……僕のこと、好きだった……の?」
今までのやり取りを思い返してみても、そんなふうにはとても思えない。
揶揄われているのかと疑いたくもなる。
しかし、バクラの目は真剣で、この手の中に残った指輪も本物だ。
本当に嫌なら、その場で断ってしまえば良かったのだ。
でも、できなかった。
それがどういうことか、考えなくても分かる。
――でも、付き合いとかすっ飛ばして結婚とか……。
手の中に指輪を収めたままぎゅっと握りこぶしを作り、獏良は自分の心に問い始めた。
「バクラくーん」
しとしとと雨の降る中、遊戯が地上から手を振っていた。
「よお、遊戯」
それに気づいたバクラは軽く手を上げ、雲を地上に下ろした。
「いい雨をありがとう!これで作物たちも育つよ!」
遊戯はにこにこと屈託のない笑みを浮かべながら、バクラの元へ駆け寄ってくる。
「しっかし、社長の機嫌最悪だろ?めんどくせぇなァ、ここは」
社長とは、この近くに住む火の神のことだ。
非常に気難しく、風とも雨とも相性が悪い。
雨で湿気った状態になった火の神の機嫌は想像に難くない。
「まあね。これも人間のためって言っておくよ」
「頼むわ」
遊戯はバクラの表情をチラチラと窺った。
獏良と何があったのか、おおよその検討はついていた。
「話してきたんだよね?」
「ああ、あいつすげえ驚いてやんの」
バクラの顔はまるで玩具で遊ぶ無邪気な子供のよう。
「だろうね……」
獏良と仲の良い遊戯にとっては、獏良の気持ちも分かるだけに複雑な気分だった。
「まあ、何日かしたら様子見に戻ってくるわ。あいつ、考え込んでるだろうし」
「もし……断られたらどうするの?」
「諦めるわけねェだろ」
バクラの口元にはにっかりと笑みが浮かんでいた。
一方の獏良は村の端にある民家の屋根の上で、ぐるぐると考え込んでいた。
こちらでは雲の切れ目から太陽が顔を覗かせている。
あの男神と一緒になっていいのだろうか。
素行は悪いが、仕事はそつなくこなす。周りからの評価も高い。
真面目に仕事をしているときの姿は、自分には到底ない格好良さがあるとさえ思ったこともあった。
――でも、いきなりプロポーズなんて!何考えてるの!今まで優しくしてくれたことなんてないじゃないか。
いつも追いかけ回されているばかりだった。
しかし、仕事中に庇ってもらったこともあったっけと、思い出せることもあった。
「あー、もう!!」
空に向かってやけくそに大きな声を上げた。
叫びがつむじ風となって、飛んでいった。
この風を受けた村人たちは、今日は風の神さんが荒れてるなあと思うことだろう。
獏良は指輪を空へと向けた。太陽の光を浴びてきらきらと黄金に光る。
指輪はバクラがいつも首から下げているペンダントに似ていた。
理由は知らないが、いつも身につけているので、大切にしているものなのだろう。
――わざわざ、僕のためにこんなもの作って……。
獏良の吐いた小さな溜息が弱々しい風となって村を吹き抜けていった。
数日後、童実野村に小雨が降り始めた。
もうすぐバクラがやってくるという合図だ。
獏良は前回と同様に一本杉の上に立っていた。
どきどきと暴れ出しそうな心臓の鼓動を、胸元を掴んで抑える。
「宿主」
今度は雨の挨拶はなしに、上からバクラが現れた。
杉と同じ高さに雲を寄せ、獏良の真っ正面に立つ。
「返事、聞きに来たぜ」
獏良はごくんと唾を呑み込んだ。
「一つ訊きたいんだけど……」
相手の挙動を見極めようと、注意深く目を見開く。
「もし、僕と結婚したら、嫌がらせはしない?」
「しない。その代わり、死ぬまで離さない」
さらりと真顔で返され、獏良の顔が赤く染まった。
「そう……じゃあ」
指輪を乗せた手のひらをバクラに差し出した。
バクラはその意図が分からず、指輪を見つめた。
――返すってことか?
それから、獏良の顔に視線を移す。
その視線から逃げるように、獏良は顔を背けた。
「……嵌めて」
バクラは頭の中で獏良の言葉を反芻し、指輪と獏良の顔を何度か交互に見た。
そして、ゆっくりと指輪を受け取り、もう片方の手で獏良の左手をそっと掴む。
そのほっそりとした薬指に指輪を嵌めてやった。
しばしの間、お互い無言で指輪を見つめた。
何か話さなければと獏良が思い始めたとき、ふわりと身体が宙に浮いた。
バクラが獏良の腰を掴み、抱えるようにして持ち上げたのだ。
そのまま雨雲で上空へと飛び上がる。
「わあっ!」
自分で飛ぶのとはまったく異なる浮遊感にじたばたともがいた。
「都に祝言挙げに行かなきゃなァ」
心底楽しげに笑いながらそう言うバクラに、獏良は困り顔で春風のような溜息を一つ吐いた。
----------------
安孫子三和さんの漫画から設定をお借りしました。