ばかうけ

※すべてパラレルです。


――やっと見つけた


あやかし×神社の跡取り息子


獏良は鳥居近くの参道を掃き掃除をしていた。黙々と枯れ葉や砂利を丁寧に箒で払っていく。
白袴に長い髪を後ろで一つに結んでいる。まだ見習いだが、この神社の正統な跡取りだ。
平日の昼間なので参拝客は一人もいない。
そもそも目立つものが何一つない神社には、休日でも人の影は少なかった。
神社でさえただ黙って構えているだけでは許されず、客寄せをしなければならない時代なのだ。
それまで休みなく動かしていた獏良の手がぴたりと止まった。
箒を手にしたまま鳥居に視線を向ける。
誰の気配もしなかったそこに、一人の男が立っていた。
男は参道の中央、鳥居の外側で薄らと笑いながら獏良を見つめている。
獏良と似た袴姿をしているが、玉状の梵天がついた袈裟を身につけ、手甲に脚絆という、まるで山伏のような格好をしていた。
「よお、神主サマ」
「またお前か」
獏良は男の方へ向き直り、大きく息を吐いた。
「僕は神主じゃないって何度も言ってるのに。神主は父さん」
鳥居を挟んで内側と外側に二人は相対した。
「ハッ、オレ様の姿も見えないヤツが神主とは笑わせる。名ばかりの神主なんざ眼中にねえんだよ」
本人が言うとおり、獏良の目の前に立っている男はあやかしの類いのものだ。
正体を名乗りはしないが、数えきれないほどの年月を経た大妖怪ではないかと、獏良は見立てている。
男は人間と変わらない姿をしている。妖力の高いあやかしは上手く人間に化ける。
姿だけでその辺にいる小妖怪とは格が違うことを見せつけていた。
どれほどの実力があるのか、本性はどのような姿か、獏良に明かされることはなくても、人間の姿であることが大妖怪である証になる。
「顔をよく見せな」
男はその場から一歩も動かず、人差し指を折り曲げてこっちへ来いと指図をした。
獏良に言うことを聞く義理ははないのだが、断る理由もないので鳥居の元まで歩み寄った。
「神主サマ、今日も見目麗しい。早く正式にお前の代になんねえかなァ。そうすれば、この神社の空気もちったあ澄むぜ」
もし、このあやかしの変化が解けたなら、尻尾が生えているのなら、ゆらゆらと揺れているに違いない。
獏良がそう思えるほどにご機嫌といった様子だ。
「なあ、もっとこっちへ来てくれよ」
男はさらに猫撫で声で囁いた。
獏良がこれ以上歩を進めたら、鳥居の外へ出てしまう。
鳥居の外は危険だ。
あやかしは鳥居を潜れない。鳥居は謂わば結界になっている。
獏良が一歩でも外に出れば、男の思うままにされてしまう。
「嫌だ」
きっぱりと言い切って首を横に振った。
男は肩を竦める仕草をして見せた。
このやりとりを毎日繰り返して何年も経つ。
始まりは幼い頃に父親と手を繋いで境内を散歩していたときに遡る。
今日のように男が鳥居の前に立っていた。
ただし、そのときは顔色は悪く、鬼のような形相で拝殿を睨みつけていた。
獏良は一般の参拝客だと思い、父親の手を引いて、
「ねえ、あそこにおきゃくさんがいるよ」
と指を差したのだ。
その男がこの世ならざるものとも知らずに。
男は一瞬だけ目を見開き、すぐに深く笑い皺を刻んだ。
それからだ。男と獏良が鳥居を挟んで会話するようになったのは。
男の姿が見える神主は今までいなかったという。どういうわけか、獏良だけがあやかしを見抜く神通力を持って生まれてしまった。
だから、男は獏良以外を神主として認めない。
獏良自身も信じがたいことだったが、父親に男の話をしても夢か幻と返されてしまうので、嫌でも男があやかしだと認めざるを得なかった。
毎日のようにやって来る男をこうして追い返すのが使命なのだと、次第に思うようになっていった。
「ツレねえなあ。オレ様はお前に触れたくて触れたくて仕方ないってのに。髪一本にも触れられないなんて死んじまった方がマシだ」
女ならころっと騙されてしまうような口説き文句を獏良は鼻を鳴らして聞き流す。
「よく言うよ。お前が欲しがっているのは、この神社の御神体だろ」
「よぅく、ご存知で」
「分かるさ。お前が見てるのは僕じゃなくて、僕の後ろの拝殿の奥……本殿だもの。初めて会ったときもそうだった」
男の返事はなかった。返事がないことが肯定の意味だと言っているようなもの。
一つ間を置いて、獏良は男に背を向けて再び参道を掃き始めた。
「見るだけだ。見せてくれよ、アレを」
背にかかった男の声は、いつになく真に迫っていた。

獏良は御神体が収められている本殿の鍵を手にし、拝殿から本殿へと向かっていた。
奇しくも神主である父親は、兼務している他の神社の管理のために不在にしていた。
御神体は他の神社もそうであるように誰にも見せてはいけないもの。
神主だけが本殿に立ち入ることを許される。
幼い頃、獏良は一度だけ跡取りとして御神体を見せてもらったことがある。
部屋の最奥に祀られている御神体は、鏡でも玉でも岩でもなく、見たこともない形をしていた。
「きれい」というのが獏良の感想だったが、父親は恐れているようだった。
その証拠に必要最低限の管理以外では本殿の扉にさえ近づこうとしない。
御神体の謂れについては、跡を継ぐときが来たら教えるとだけ言われていた。
何かあるという思いを抱き続けて今日に至る。
今しようとしていることは、神社の跡取りとしてやってはいけないことだ。
しかし、父親と先ほどの男の態度をあわせて考えてみれば、神通力を生まれ持ってしまった意味は、「これ」にあるのではないかと、獏良は確信めいたものを感じていた。
鍵を回して重々しい観音扉を両手で押し開ける。
閉め切られて光の射し込まない部屋の奥に、以前見たままの状態で御神体が祀られていた。

「持ってきたよ」
獏良は御神体を手にし、再び男の前へとやって来た。
「お……、ありがとよ」
鳥居から出ないように注意深く御神体を胸の前でかざす。
シャリンと涼やかな音が鳴った。
五本の針と神の眼で飾り立てられた黄金のリング――。
いまだになぜ父親がこれを恐れるのか分からなかった。
初めて手にしてみたが、見かけよりもだいぶ軽く、珍しい形をしているとはいえ、特別な謂れがあるとは思えない。
「君はこれが何なのか知っているの?」
「知ってるも何も、それは元々オレ様のだ。昔よォ、お前ンところのご先祖サマに盗まれちまってよ。盗人みてえな真似をしときながら、のうのうと御神体とほざいて祀る。酷ェ話じゃねえか。オレ様は力の大半を失って、今じゃこんな寂れた神社の結界も破れねえ」
獏良は男の言葉に青褪め、手の中にあるリングへ視線を落とした。
あやかしの戯言と思いたかった。
しかし、長年見てきた父親の恐れようと、男の話を照らし合わせてみれば、筋が通る気がした。
「じゃあ、僕の先祖はお前に……」
黄金の輪を握りしめ、縋るような目で男を見つめる。
「バクラっていうのはオレ様の名前だ。バクラから盗ったモノを祀ったから獏良。いい度胸してんじゃねえか。お前のご先祖サマはよォ」
「バクラ」は、出会ったときのように獏良の背後にある本殿をねめつけ、口元には薄気味悪い笑みを浮かべる。
睨まれているのは獏良ではない。
しかし、バクラの表情に圧倒され、半歩後ろに下がってしまった。
それをすうっと伸びた男の腕が引き戻さんと捕らえた。
「え……!」
バクラは鳥居の内側には入れないはずだった。
しかし、今はしっかりと獏良の腕を掴んで離さない。
「な、なんで」
「お前、オレを受け入れたな?少しでも同情したか?家主に招かれれば、姑息な結界なんざ意味がなくなるんだよ。この神社の主はお前だ」
初めて触れられた手は体温が感じられず、冷たく皮膚にめり込んでいる。
人の形をしているが、目の前にいるのは大妖怪なのだ。
このままでは御神体が取られてしまう。リングと共に力の大半を失ったとバクラは言っていた。
ならば、リングを手にしたバクラは真の力を取り戻すことになるのではないか。
カチカチと獏良の奥歯が勝手に鳴り出した。
子供の頃から見続けていた存在の恐ろしさを今になってやっと理解したのだ。
身体を引いたまま動かない獏良に、バクラの片眉が跳ね上がった。
「そんなに怖がるなよ。盗人はお前の先祖であって、お前を恨んじゃいねェんだから。逆に感謝しているくらいなんだぜ」
底知れない憎悪の形相は鳴りを潜め、獏良と距離を詰める。
「感謝ってなにを」
息もかかりそうな距離に獏良はたじろいだ。
「お前だけなんだよ。オレの姿を捉えられたのは。それまでの神主どもはからきしだったのになァ。千年リングの力を恐れて近づくことさえできなかったみてえだし。お前はなんともなかったんだろ?」
獏良の頬にもう一つの手が添えられた。
「いいよなァ。欲しいよなァ。お前ごと奪ってやりてえなァ」
顎を持ち上げられ、バクラの顔が近づく……。
「やめろッ!!」
獏良は大きくかぶりを振り、渾身の力を持ってそれを拒絶する。
人ならざる者に対して人間の力が通じるはずもなかった。
しかし、拍子抜けするほどあっさりとバクラの身体が後方に弾かれた。
「え?」
獏良は手を前に突き出したままの体勢で立ち尽くしていた。
弾き飛ばされたバクラは再び鳥居の外。
「やられたな。ちょっと調子に乗りすぎたぜ」
「なに、今の」
手のひらをまじまじと見つめても、変わったところは何もなかった。
「家主に拒まれればこの通り、元の木阿弥だ。惜しかったな。もう少しでお前と……」
「何考えてるんだよ!お前みたいなあやかしと仲良くするつもりなんてない」
「お前とメオトになりゃあ、千年リングもこの神社もオレ様のものになって万々歳じゃねえか」
あまりの身勝手な言い種に獏良は言葉を失いかけた。本人は当然だと言いたげにふんぞり返っていた。
獏良は気を抜くと及び腰になる己を叱咤してこぶしを握り締める。
「なんで僕の気持ちを無視するのさ!お前の欲望のために利用されたりなんかしない」
「利用、ねえ……。オレは本気で言っているんだぜ。お前を見るたびに掻き抱きたい衝動を抑えきれなくてたまんねえんだ」
今のバクラの瞳は本殿ではなく、獏良自身をねっとりと絡み取っていた。
薄暗くも盛んに慕情の炎が燃えている。
恋愛には疎い獏良でさえも一目で伝わるほどの強い想い。
油断すると焼き尽くされてしまうような気がして、思わず両手で身体を抱え込んだ。
「また明日、来るぜ」
何か言い返さなくては、とまごついている間に、バクラの姿はもう消えていた。
「なんだよ、メオトって……」
誰もいない鳥居に向かって、獏良は消え入りそうな声で言った。バクラの言葉を必死に否定するように。

すべてのあやかしの祖は鬼。
古来より人間に畏怖され続けてきたその者は、一つの神とも呼べる存在だった。
邪神に見初められた哀れな神社の跡取りの災厄は続く。

*********************

一悶着ありつつも、結局は種族を越えて結ばれそうな二人。
日記話にある『神様と神子』のプロトタイプです。


初めてのデート

盗賊×妖精

「いつ帰ってくるのかなあ」
獏良はテーブルの端に座り込み、投げ出した足をぷらぷらと遊ばせていた。
両手を上げて背伸びをして、背中の羽をぱたぱたと動かす。羽は薄いガラスのように透き通った四枚。それぞれ葉の表面似た翅脈と呼ばれる網目模様の筋が広がっている。
獏良は小さな妖精だった。
大きさは人間の手のひらサイズ。見た目はほとんど人間と変わらない。違っているのは、背中から羽が生えていることだけ。
太陽の光を浴びると、虹色にキラキラと光る獏良自慢の羽だ。この羽から魔法の粉を出すこともできる。
人間にとって妖精は珍しく、価値のある存在だった。
獏良は空を遊泳中に運悪く闇商人に捕まってしまい、鳥カゴの中に閉じ込められていた。
それから数年間は、ろくに食べ物も着るものも与えられず、見るも哀れなほどぼろぼろの状態だった。
商人にとって獏良はただの商品でしかなかったのだ。
売れなければ貴重な羽を毟り取られて、道端に捨てられていただろう。
それを思い出すと、今でも獏良の身体は震える。
生きるか死ぬかの瀬戸際で現れたのが、いま一緒に暮らしているバクラだ。
法外な値段を吹っかけようとする商人に凄んで黙らせ、正規の値段で獏良を引き取った。
経緯だけを並べてみれば、正義の味方だと思われるだろう。しかし、バクラは盗賊。獏良を助けたのはただの親切からではない。
妖精から取れる魔法の粉には、鍵を開けたり、物を宙に浮かしたりすることができる力がある。盗賊にとって喉から手が出る貴重な品だ。
悪人から別の悪人の手に渡っただけのこと。
それでも、獏良の生活は改善された。
家の中では自由を許され、食べものを充分に与えられている。
簡素ではあるものの服も着せてもらえる。妖精にとっては人間の堅苦しい服よりも、布を貼り合わせただけのワンピースの方が過ごしやすい。これは特に有り難かった。
妖精の力の源である、花の上に降りる朝露もわざわざ手に入れてきてくれる。
言うことを聞かないという理由で怒鳴られたり、ガラスのコップに閉じ込められたりすることもあるが、わざわざ怒らせることをしなければ、概ね快適に暮らせていた。
獏良が不満に思っているのは、悪事に手を貸さなければならないことと、妙に馴れ馴れしくされることだ。
気づけばじっと見つめられていたり、指で必要以上につつかれたり、理解不能なことばかりされる。
それでも、役に立つ妖精として大事に扱われていることは分かる。
だから、こうして帰りを大人しく待っているのだ。
「戻ったぞ」
部屋の戸が開いて待ち人が帰って来た。
「お帰りなさい」
獏良は羽ばたいてバクラの顔のそばにふわりふわりと寄っていった。
「大人しくしてたか?」
「うん」
バクラは肩に背負った荷物を下ろし、中身をテーブルの上に出し始めた。今日は買い出しだけなので荷物は少ない。
「いつもの、持ってきてやったぞ」
荷物の中から取り出されたのは親指大の小瓶。中には透明の朝露が一滴だけ入っている。
獏良はテーブルに降り立ち、上を向いて口を開けた。小瓶がゆっくりと傾けられ、雫がぽたりとそこへ落とされる。人間には大した量ではなくても妖精には充分。
獏良は口元を濡らし、こくんと雫を飲み干した。
「さて、じゃあいつもの頼むぜ」
それを見届けたところで、バクラはにんまりと笑った。
「ええっ!」
「飲んじまった分は働いてもらわなきゃ困るなァ」
指で獏良の頬をつんつんとつつく。
「やめてよ……。はあ……」
嫌がって見せたものの、飼われている身の獏良に拒否権はない。
とぼとぼとテーブルの中央に移動する。
バクラの言う「いつもの」とは、妖精の魔法の粉のことだ。一緒に暮らし始めてから定期的に求められる。
獏良はテーブルを足でとんと蹴った。腕と羽を広げて大きく跳躍。ふわりと着地をして一回転。その場で軽くステップ。跳ねては回る。妖精の優雅なダンス。羽のない人間には、とても真似できない軽やかさ。
獏良が踊る度に金色の粉がきらきらと周囲に舞った。これがバクラの目的である魔法の粉だ。テーブルに雪のように降り積もっていく。
バクラの視線はその粉ではなく、獏良自身に注がれていた。
――まただ……。また、見られてる。
その鋭い視線を肌で感じ、獏良は戸惑っていた。視線を見ないように躍り続ける。
初めて出会ったときと同じように、ねっとりと見られているのだろうと察しはついた。
獏良をたまらなく不安にさせる視線だ。
ただの道具ではなく、それ以上として見られている……。
だから、獏良は気づかないふりをし続けるのだ。
「これくらいでいいでしょ」
「充分だ」
獏良が踊り終わった後のバクラは、普段通りの態度で魔法の粉を回収する。
絡みつく視線から解放され、獏良はほっと胸を撫で下ろした。

人間と妖精。
決して交わってはいけない関係。
妖精は人間から姿を隠し、その生態を明かさないように努める。
人間に捕まってしまった獏良も、妖精の最大の秘密だけはバクラに打ち明けないでいた。妖精としての義務と獏良個人の判断からだ。
絶対に知られてはならない。
深夜になり、バクラが眠りについたのを確認した後、獏良は自分の寝床から抜け出した。
寝床は棚の上に置いてあるカゴの中にタオルを敷いただけの即席のもの。
同じ部屋で寝起きはしているものの、ベッドとは距離があるので物音を立てなければ気づかれない。
そっと飛び上がり、ドアに付いている小窓から部屋を出る。小窓はバクラが獏良用に取り付けたものだ。
勝手に外を出歩くことは許されてはいないが、家の中は自由に行き来できるようになっている。
もちろん、玄関の戸は妖精でも開けられないように、しっかりと戸締まりがされている。
獏良は普段使われていない屋根裏部屋に忍び込んだ。
天窓からは月明かりが射し込んでいる。今夜は恐ろしいほどに美しい満月だ。
獏良は月明かりが照らす床に下り立った。
窓越しに夜空を見上げる。
獏良の心臓がどくんと大きく脈打ち、肌が燃えるように熱くなっていく。
「ううっ……」
胸を押さえ、その場に座り込む。この瞬間ばかりはいつまで経っても慣れない。
見る見るうちに背中の羽が縮んでいく。それに反比例して身体が徐々に大きくなっていく。
月明かりの中で、獏良は人間とまったく変わらない姿になった。
よろよろとその場に立ち上がる。
これが人間に明かしてはいけない妖精の秘密だ。
満月の夜は魔力が満ちる。
その魔力を受け、妖精は人間に変化するのだ。
妖精たちは正体を隠して人間たちの前に姿を現し、束の間の自由を楽しむ。
人間になる目的はただ一つ。
人間との間に子供を儲けること。
それゆえ満月の夜は、月に一度だけ妖精に訪れる繁殖期に当たる。
一夜だけの恋を人間とする日なのだ。
今時の妖精は、単に人間になって遊びたがる者も多い。
獏良は妖精には珍しく、そのどちらにも興味がなかった。
しかし、生理現象には抗えない。
こんなことをバクラに知られたら、良くないことが起こるに決まっている。
だからこうして、月に一度だけは隠れてやり過ごしているのだ。
一晩経てば身体の中の魔力が治まり、元に戻れるようになる。
それまで屋根裏部屋で、じっとしてればいいのだ。
「ほんと、不便な身体……」
獏良がぽつりと不満を漏らしたとき、ぎしりと背後で床の軋む音がした。
慌てて振り返ると、階段のそばにバクラが呆然と立っていた。
「やっ……!」
部屋には身を隠すものはなく、獏良は腕で身体を抱いて縮こまるしかない。見られた以上は手遅れだと分かっていても。
逃げることもできない獏良に、バクラはゆっくりと近づいていった。
「どういうことか教えてもらおうか」
同じ体格であるはずなのに、目の前に立ちはだかるバクラの姿が獏良にはとても大きく見えた。

「なるほどねェ……。月に一度の繁殖期か」
獏良の隣に腰を下ろし、バクラは夜空の満月を見上げた。
「晴れた日でないと無理だし、身体が大きくなったところで何もできないから……。誰にも言わないで」
獏良はずっと怯えた表情を浮かべていた。
人間たちに妖精の秘密を知られたら、妖精は生きていけなくなる。頭の中はそのことで占められていた。
「ンなの言いふらしたところで、オレ様に何の得があるんだよ。それより、その効果はいつまで続く?」
「えっ……。あ、一晩経てば元に戻れるようにはなるけど、丸一日はそのままでいられるかな」
「丸一日……」と呟くバクラの隣で、獏良は驚きを隠せなかった。
バクラは妖精の秘密をバラすつもりも、悪用するつもりも、ないらしい。
それに、見つかった時点で何かされると思っていたのだ。
普段の怪しい視線からすれば当然のこと。
しかも、指一本触れられていない。
闇商人から助け出されて以来、変わった人間だと思っていたが、その点では間違いなかったらしい。
「よし、朝になったら町へ行くぞ」
考え込んでいた様子のバクラは突然顔を上げた。
「なんで?」
「まず、お前に服を買って、町を散歩する。食事をして、演劇を見て、公園で……」
それは質問に対する答えではなかった。
ますます獏良は混乱して声を上げた。
「ちょっ、ちょ……どういうこと?何そのプラン」
慌てる獏良の腕をがっしりとバクラは掴んだ。
「一日しかないんだろッ!来月は晴れるか分かんねえ。なら、こうするしかないだろ」
その言葉の意味はまったく分からなかったが、バクラの剣幕に獏良は頷くことを余儀なくされた。

初めて弱りきった鳥カゴの中の獏良を見たとき、「これだ」と思った。
利用できるということの他に、バクラの心を揺り動かすものがあったのだ。
助けを求めてカゴの中から伸ばされた、今にも折れてしまいそうな腕。
悲哀に満ちた、汚れのない瞳。
商人から買い取って綺麗にしてみれば、予想以上の外見になった。
整った顔立ち、細く長い手足、何よりも白い髪。
すべてがバクラを魅了したのだ。
いつまでも家の中に閉じ込めて見ていたいと思うほどだった。
だから、人間の大きさになった獏良を見たとき、夢が叶ったと思った。
今までの大きさでは、感情の赴くままに抱けば、押し潰してしまうと思っていたから。
最大の壁である種族の違いが取り払われた瞬間だったのだ。

「チャンスだったんじゃねえのかよ……」
獏良は公園のベンチですやすやとバクラの肩に寄りかかって眠っていた。
宣言通りにバクラは朝から獏良を町に連れ出し、様々な場所を回った。
長く商人に捕まっていた獏良は、久々の町に大喜びだった。
人間の服を着て、甘い菓子を食べ、華やかな舞台を見た。
初めて見るものばかりで、「あれはなに?」と、いちいち指を差して尋ねた。
昨夜までの不安顔が一転して、ずっとにこにこと笑っていたので、バクラも心の中でこぶしを上げていた。
最後に町を一望できる高台の公園にやって来た。
夕焼けのオレンジ色に染まっていく町をベンチで並んで見ていたら……。
興奮し通しで疲れきった獏良は、すやすやと寝入ってしまったのだ。
「ここは雰囲気に呑まれて、チューするところだったのによォ……」
バクラはがっくりと肩を落とすも、獏良の身体を支えたままでいた。
獏良のぬくもりがバクラの身体の半分を温めている。
いつもはこうして触れ合うこともできない。
少しでも力を入れれば壊れてしまう。
気持ち良さそうに寝ている獏良を見ていると、起こすのは野暮な気がした。
きっと、もうすぐ元の姿に戻ってしまうだろう。
「来月晴れなかったら恨むぜ」
バクラはぼやきながら日が落ちていくのを眺めていた。

*********************

盗賊さんは思っていたよりピュアだったみたいです。一ヶ月待てるのか案件。


もたらすのは生か死か


死神×少年


その部屋は天井も壁も床も真っ白だった。
それどころかベッドやカーテンも同様で、本来目立ってしまうはずの汚れや染みは見当たらない。
どこもかしこも白で統一された部屋は、清潔感よりもむしろ病的な印象を与えていた。
微かに漂う薬品の匂いとリノリウム床を確認すれば、その印象があながち間違っていないことが分かる。
ベッドの中にいるのは痩せこけた少年だった。
まるでこの部屋にいることが運命づけられて生まれてきたかのように髪も肌も白。他のどの白よりも色がなかった。
少年は身体を起こして真っ白な壁を見続けていた。
もちろん、ベッド脇の棚にはテレビが備えつけられている。首を少し傾ければ、窓から外の風景も見ることができる。
それでも少年の視線は壁から動かない。
この病室には少年以外は誰もいない。静寂がうるさいくらいだ。
面会に訪れる家族もいない。
日に何度か看護士が様子を見に来るだけ。気兼ねをする必要はどこにもないけれど――。
少年は何もない壁をぼんやりと見続けていた。
すべてに飽きてしまっていた。
毎日繰り返されるテレビ番組も、季節によって移り変わる風景ですら、長くこの部屋にいる少年にとっては代わり映えのしないものだった。
今日も変わらない1日で終わってしまうはず。
とっくに書くのをやめてしまった日記には、「今日も何もなかった」と記すところだろう。
――そのはずだった。

「ばくら りょう」

他には誰もいないはずの病室で声が聞こえた。
少年の名を呼ぶ声だ。
白い少年――獏良はきょろきょろと部屋の中を見回すが、当然誰もいない。
幻聴と決めつけるには、やけにはっきりとしていた。
獏良が首を傾げたとき、閉められた窓から足が「生えた」。
その足が部屋の中へと入り込んでくる。白以外の色が部屋に生まれた。
表情を失って久しい獏良でも、これにはシーツを握りしめて震えた。
そのうち足だけではなく、腕や胴体も窓から室内に滑り込んできた。
病室に下り立ったのは、一人の男。
肌寒くなってきたとはいえ、少々季節外れの黒のコートを着込んでいる。
それよりも獏良の目を引いたのは男の容貌だ。
まるで生き別れの双子のように、獏良と瓜二つの顔をしている。
違っているのは獏良より強面であることと、髪の一部がピンと跳ね上がっていることくらいだ。
失ってしまったと思っていた獏良の感情が久方ぶりに動いた。
どくんと心臓が大きく鳴り、呼吸が乱れる。
男は床を爪先で蹴ると、まるで羽が生えているかのように緩やかに空中に弧を描いてベッドの上に飛び乗った。
不思議なことにベッドは軋みもしなかった。
男は獏良の胴体を大きく跨ぎ、身体を屈めて堂々と顔を覗き込む。
「なァんだ、死にかけじゃねえか。でも、なかなか好みの顔してるな」
獏良は息をすることも忘れて男の赤い瞳を見つめ返した。
「んん?」
男の眉間に皺が寄る。口をへの字に曲げて、指を一本立てた。自然と獏良の視線が指に移る。
指が右から左にゆっくりと動いた。獏良の視線もそれを追う。
一本だけ立てられていた手がパッと開かれ、グーパーと開閉を繰り返した。合わせるように獏良の目が瞬く。
「見えてんじゃねえかッ!こりゃあ、本格的に魂が抜けかかってやがる。つまんねぇな……」
何が気に入らないのか、男は忌々しげに吐き捨て、パッと上体を起こした。
誰なのか、何をしに来たのか、などの様々な疑問で獏良の頭は満たされ、
「あ……あの、ベッドの上に土足はちょっと……」
驚きのあまりに口をついて出たのは頓珍漢な発言だった。
無味乾燥と称して偽りない獏良の生活に現れた台風の目。
心臓がリズミカルに弾んでいるのを感じ、忘れていたはずの生を感じていた。
変化がないからっぽの生活は死と同じだった。
「へえ、死神相手にいい度胸してんじゃねえか」
男はベッドの上にどっかりと尻を乗せて胡座を掻いた。やはり、重さは何も感じなかった。
――しにがみ。
その言葉を何度も頭の中で繰り返し、獏良は自分の置かれた状況を理解した。
長い病院生活、人間とは思えない男、死にかけ、魂――すべてが噛み合わさった。
――そうか。僕は死ぬんだ……。
怖くはない。自らの運命を静かに受け止める。ずっと、この時を待っていた気がした。
だから、獏良は聖職者のように穏やかな微笑みを浮かべた。
「死神を前に笑うとは、変わったヤツだなァ」
こてんと首を横に傾け、死神は不思議そうな顔をした。死を恐れない人間など、あまりいないからだ。
どんな高尚な人間でも、死を前にすれば取り乱す。
そんな人間たちが文字通り命乞いをし、逃げ出そうとするのを押さえつけ、断末魔を聞きながら魂を狩るのが死神の喜びでもある。
「僕のところに会いに来るのは死神くらいかなと思っていたから。それに、僕と同じ姿をしている。ドッペルゲンガーってやつでしょ」
始めこそ突然現れた存在に驚きはしたが、正体を知ってしまえば大したことはない。
死と隣り合わせの生活が長い獏良には怖いものはなかった。
「お前と同じ顔に見えるか?」
変な質問だと疑問に思いつつも、獏良は首を縦に振った。
「お前にはそういうふうに見えてんだな」
「ちがうの?」
いくら目を凝らしても、男は同じ姿をしている。
「人間には見破れねえか。本当の姿はお前みたいな白なまっちょろいのとは違うんだぜ。見せられないのが残念だがよ」
そして、男は語った。
死神の姿は人間に見ることができないことを。
姿を見られるのは人間ではなくなりかけている者だけ。見られたとしても、それはあくまで死神の仮の姿。
人間の目には、もっとも縁深い者の姿として映る。
「聞いたことねえか?死にかけたときに死んだ血縁者や知人に会ったっつー話。あれなんかもそうだな。死神本人とっちゃ、魂を奪い損なった間抜けな結果なんだが……。お前は他人との関係が薄っぺらいんだな。自分の姿しか映せてない」
「そうだね。ここに来て長いことになる。友達なんてできるわけないし、家族とも会ってないしね」
ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ獏良に死神は真剣な眼差しを送った。
「……本当に怖がらねえんだな」
「だって、僕を殺してくれるんでしょう?」
恐ろしい言葉さえ、獏良の口から出ると自然な響きになる。
すべてを受け入れていた。
「死にたいのか?」
「死にたいんじゃないよ。ただ……すべてから解放されたくて……。死神さん、僕の話を聞いてくれる?」
獏良はゆっくりと死神に話し始めた。

入院生活がもう何年も続いていること。
唯一の兄弟である妹は死んでしまったこと。
両親は多忙で滅多に面会には訪れないこと。

白い部屋に閉じ込められて生きている実感は湧かない。親の重荷になっていることも知っている。
これでは死んでいるのも同じ。
ただ息を吸って吐いているだけの生活だ。
ならば、妹の元へ早く行きたかった。

「だから、こうして人と会話をするのは久しぶりなんだ。あ、人じゃないのか。あはは」
弱々しく死神に笑いかける。
消え入りかけた命。泡沫の輝きを放ちこの世ならざるものの美しさすらあった。
「君が僕の願いを叶えてくれるんだね。ありがとう」
死神は獏良の話が終わるまで黙って聞いていた。
「だから、『死にかけ』なのか……」
手をついて身体を前に倒し、獏良の顔を覗き込んだ。
「……オレたちの姿が自分の姿に見えるなんてのは珍しくない。お前のような境遇になくてもな。人間様は孤独が好きらしい」
死神の五指が獏良の胸を服の上から押さえる。ちょうど心臓の位置だ。
「オレはなァ、イキのいい人間の魂を盗るときが一番興奮するんだ。じたばたともがく人間の魂をこの手で奪い取ってやるのさ。オレ様は気まぐれだから、引き抜くときにちょっと痛い思いをさせちまうかもしれねえがな」
胸にずぶりと指が沈んだ。
死神の手が獏良の体内へと吸い込まれていく。第一関節、第二関節、第三関節――手の甲がすっぽりと隠れ、手首で止まる。
視覚印象とは異なり痛みはない。しかし、身体の内側をうぞうぞと虫が這い回っているような不快感はあった。
「うう……」
内臓を掻き混ぜられているよう。このまま続けられたら吐いてしまうかもしれない。
やがて、死神は獏良の胸の中心にある魂を掴んだ。
小振りのリンゴ程度の大きさ。片手で掴めるほどだ。
獏良の上半身が大きく跳ねた。
「ぐうッ……」
頭も胴体も足も、全身を目には見えない力によって押し潰されているよう。それが魂を鷲掴みにされる感覚だった。
死神は魂を掴んだまま手を引いた。
「ああっ……!」
引き千切られるような痛みが獏良の全身を走る。
このまま死神の手が完全に身体から抜ければ、それこそ痛みだけで死んでしまう気さえした。
「痛いだろ?これが魂を盗られる痛みだ。そして……」
獏良の口から絶叫が上がった。
体内で死神の手がドアノブでも回すように軽く捻られた。
その些細な動きでも耐え難い痛みを生む。
獏良の目からボロボロと涙が溢れ出る。
痛みを感じるのも、大声を出すのも、涙を流すのも、久しぶりだった。
皮肉なことに、獏良の凍りついた心がこれまでになく動いたのだ。
「死んじまった方が楽だと思うくらいだろ。もっと痛みを与えることもできるんだぜ」
死神はくつくつと低い声で笑った。――笑いながらも、それはしなかった。
獏良の魂をあっさりと放し、今度は静かに獏良の身体から手を抜き取った。
それまでが嘘のように獏良から痛みが消える。
胸を大きく上下させる獏良に向かい、死神は言って聞かせた。
「これで分かったろ?簡単に殺そうとする相手にありがとうなんて言うなよ」
「へん……なの。ころさ、ないの……?」
喘ぐ獏良に問いかけられると、
「死神は気紛れなんだよ。死にたがってるヤツを殺したってツマんねえしなァ」
その身体の上に乗りかかった。
肩からぱさりと長い髪がベッドの上に落ちる。
「お前の命は盗らない」
ゆっくりと二人の唇が重なった。
「今は、な」
唇が離れると同時に獏良に睡魔が襲ってきた。
意識が遠退き、霞む視界の中で、
「……君の……名前は……?」
うわ言のように呟いた。

それから三日間、獏良は眠り続けた。
寝覚めたあとの病室は大騒ぎだった。
ひっきりなしに医師や看護師が病室に出入りし、獏良の容態を観察した。
精密検査の結果を見て、医師は頻りに奇跡だと口にした。
まるで生まれ変わったかのように獏良の身体は健康体になっていたのだ。
知らせを受けて駆けつけた両親は、声を上げて獏良に泣きついた。
その日の仕事はすべて投げ出して息子の元にやって来たのだ。
久しぶりの親の温もりを感じながら、獏良は死神のことを思い出していた。
あれから死神の姿を一度も見ることはなかった。
もう死にかけではないのだから、見えなくなってしまったのだろうか。
獏良の身に起こった奇跡は間違いなく死神がもたらしたものだ。
気紛れと言いながら命を救うなんて、変な死神だなと笑みが溢れた。
もう、この白い部屋にいる必要はない。
走って、遊んで、食べて、笑うことができる。
死神から与えられた命。
さて、何からしようか。
獏良が両親の腕の中で目を細めたとき、不意に声が聞こえた。
『気が向いたら、お前の命を盗りに行くからな。50年先になるか、100年先になるか、分からねえけどよ』
そして、獏良は数年ぶりに心の底から笑った。
「……100年は長すぎだよ」

*********************

たまには与える側に回って欲しかったのです。
鎌なしなのは、『神無ノ鳥』というBLゲームに出てくる死神がイメージだからです。


※ほんの少し、海城と城←獏成分あり。
魔法使い×人魚

昔々のこと。世界は二つに分かれていた。
一つは人間たちの住む地上の世界。
人間は大地を踏みしめる立派な足を持ち、手先の器用さを生かして様々な道具を作り、地上全ての生き物の頂点に立っていた。
もう一つの世界は、魚や人魚の住む海の世界。
自然と共存し、ゆっくりと気侭に時を過ごす生き物たちばかりが集まっていた。
人間たちの手も海の底までは及ばない。海の生き物たちは人間の干渉を受けずにのびのびと暮らしていた。
つまり、地上の世界と海の世界には交流がなかったのだ。
海の生き物たちは、なるべく地上の人間たちに見つからないように生き、海を統べる王もみだりに海上に行かないように決まりを作っていた。
海の王の名はアテム。三千年もの間、海を治めてきた力のある人魚の王。
王には一人の息子がいた。
了という名の白く長い髪を持つ美しい少年。
人魚の少女たちの間にファンクラブができるほどの美貌だった。
しかし、年頃の少年と違い、了は恋に興味がない。
友人たちと遊ぶことも好きだったが、最近興味を持ったのは人間のこと。
ただし、人間そのものではなかった。
了はいつもこっそりと城を抜け出して自分だけの隠れ家に向かう。
魚たちも滅多に寄りつかない海の底の岩場にそれは隠してあった。
たまに海の世界に落とされる人間世界の物。了はそれらを拾い集めている。
どのように使う物なのかさっぱり分からないが、海の世界にはない造形を気に入っていた。
眺めているだけで時が経つのも忘れてしまう。
こんな物たちが溢れている地上の世界とは一体どんなところなのだろうか。

了にはもう一つ秘密があった。
それは、光の届かない海底洞窟に棲むウミヘビの魔法使いと会っていること。
かつて、アテムと海の王の座を争った者で、名をバクラという。
敗者となったバクラは国を追放され、魚一匹訪れない洞窟に引きこもって生活をしている。
誰も会うことを許されていなかった。
了が魔法使いと出会ったのは幼い頃、道に迷って偶然洞窟に辿り着いてしまったときのことだ。
突然の訪問者にバクラは驚いていたが、王の息子だと聞くと表情を緩めて涙を流す了を慰めた。
了は自分を助けた人物が父親に聞かされていた残忍な魔法使いであることを知っても、見かけよりも遥かに親切な応対と気侭な人魚たちにはない知識量に、むしろ親しみと興味を抱いた。
人魚は自然と寄り添う気質そのままに裸体で過ごしているが、バクラは人間がそうするように黒一色の布を身体に羽織っている。布の裾からうねうねと顔を出す長いウミヘビの尾を見なければ、人間と見間違えてしまう。そういった風貌も大いに了の興味を引いた。
そのうち、拾った宝物をどのように使うのか尋ねたり、見たことのないゲームで遊んだりすることが了の楽しみになっていったのだ。
親にも内緒の友だち。秘密を共有していることが嬉しい。
年は少々離れているが、了にとってバクラは誰よりも信頼する存在となっていた。

ある日、了は事故で海に沈んだ人間の王子を見つけて恋をした。
このままでは死んでしまう。無我夢中で王子の身体を抱えて陸まで運んだ。
必死の介抱の結果、王子は息を吹き返した。
了は王の決まりを思い出し、言葉を交わす前に海の底へ戻っていった。
すぐに王子のことは忘れられると思っていたが、数日経っても頭から離れなかった。
太陽の光を浴びてきらきらと光っていた金髪も、日に焼けた健康的な肌も、すらりと伸びた二本の足も。
こんなことは初めてだった。退屈な海の生活で見つけた一つの希望。
了は人間と接触してはならないという海の禁忌を破ってバクラに懇願した。
どうしても、あの人間に会いたいと。会えるならどうなっても構わないと。
他に頼める者はいなかった。
魔法使いは口角を少しだけ上げ、金色のリングを了に渡した。
「これを身につければ、お前は人間になれる。だが、その代償は高くつく。絶えずリングの針がお前の肌を突き刺す。痛みで声も出ないだろう。そして、恋が実らなければ、海の泡となって消える。それでも、お前は行くのか?」
了の答えは最初から決まっていた。
黄金のリングを見つめ、首を縦に振った。
「ありがとう。君にしか相談できなかったんだ。父さんに言ったら叱られてしまうから」
それだけ言うと、了はリングを手に去っていった。
「ありがとう、か……」
誰もいなくなった棲み処でバクラは低く喉の奥で笑い始めた。
そして、力任せにテーブルの上のものすべてを手で振り払い、裾からはみ出る長い尾で背後にある薬品棚を勢いよく薙ぎ倒した。
机にダンと音を立てこぶしで叩く。
「くそッ!オレが何年見守ってきたと思ってやがる。それをただの人間が横から掻っ攫うだと。させねえ……。好意の言葉一つだって聞かせてたまるかッ」
了には見せたことのない、かつて海の世界を支配しようとした者の形相がそこにあった。

陸の世界に上がった了は運良く王子の元へ辿り着いた。
しかし、想いを伝えることはおろか、助けたのは自分だと名乗ることもできずに時は過ぎていく。
誰でも分け隔てなく接する王子とは言葉なくとも打ち解け、様々なゲームをして遊ぶ親友になった。
いつまでもこうしていたい、いずれ想いが伝わったら、と了は思っていたが、気づいてしまった。
隣の国の貴族を見る王子の目が他に向けられるものとは違うことに。
二人は反目し合っていて、会う度に唾を飛ばして口論をしていた。
王子がそこまで他人に突っかかることは珍しく、貴族の方も満更ではなさそうだった。
その瞬間、了は初めて失恋したのだと自覚した。
リングが刺す痛みにも耐えてきたが、もう終わり。
できるなら、友人としてずっとそばにいたかった。
それも叶わない。
輝くリングが時間切れを知らせていた。
皮肉なことに王子の誕生日を祝う席でのことだった。

近隣の王族や貴族を招き行われる船上パーティで、了は一人だけ浮かない顔をしていた。
華やかな会場に背を向け、甲板の手すりに手をかけ、生まれ故郷である海に視線を落としていた。
すっかり日は沈み、光がなければ海は吸い込まれそうな闇にしか見えない。
人間の姿で飛び込んだら、命を落としてしまうだろう。
王子のように運良く通りがかった人魚に助けられることも期待できない。
その前に泡になって消えてしまうのかも。
「宿主」
水面から顔を覗かせていたのはバクラだった。
バクラは自分の感情は見せずに、気遣うような素振りを了に見せた。
「これで分かったろ。土台人間と分かり合うなんて無理だったんだ。今ならまだ間に合う」
一本のナイフを了に向かって放り投げ、それで王子を刺せば泡にならずに済むと伝えた。
月明かりに光るナイフを握り締めた了はしばらく黙っていた。
失恋した相手と自分の命、どちらが大切か考えるまでもないだろうとバクラは思っていた。
「…………」
ナイフから目を離し、バクラを見やり、了の口が小さく動いた。
リングの影響で声にはならない。
何を言っているかとバクラが目を凝らしたその時、了の身体がするりと甲板から落ちた。
一瞬の出来事だった。
アッと思ったときには暗い海の中へ沈んでいた。
落ちる直前、了は寂しげに微笑んでいた。
そして、唇の動きは――。

『で、き、な、い』

意味を理解するや否やバクラは身体を捻って海に潜った。
水中には了の姿はなかった。
無数の泡と持ち主の消えたリングがただ漂うのみ。
泡は夜だというのに雪の結晶のように白銀に輝いていた。

バクラは血相を変えて泡を掻き集め、棲み処へと戻った。
恋が叶わなければ自分の元へ戻ってくると考えていた。
そもそも、代償を伝えた時点で諦めると思っていたのだ。
了の行動は想定外のことばかりだった。
友人を傷つけるくらいなら自分の身を捧げてしまう優しい性格を計算に入れていなかった。
「くそッ!死ぬなよ……!」
泡が消えてしまわないように水晶玉の中に封じ込め、持てる魔力をすべて使い呪いを唱えた。
事の次第を聞きつけたアテムは、怒髪天を衝く形相でバクラの元へ怒鳴り込んだ。
しかし、了を元に戻せるのはバクラだけだということを知ると、震えるこぶしを下ろして王宮へ帰っていった。
「心配するな。宿主は必ず元に戻す」
それが久々にアテムと交わした言葉だった。
光の射し込まない海底洞窟の中でバクラは水晶玉を撫でて過ごした。
泡でしかなかったものが小さな赤子の形になり、赤子から子どもの姿へと成長していく。
生物の成長過程を早送りで見るかのよう。
幼い頃に会ってからの再現を見ているようでもあった。
元の少年の姿になるまでには一ヶ月を要した。

はじめは王の息子と聞き、利用してやろうと思った。
息子を手懐けてしまえば、これ以上ない復讐になるではないか。
毎日を了と過ごしていくうちに、徐々にバクラの中で変化が生まれいった。
バクラの企みにもまったく気づかずに楽しそうに笑う了に惹かれてしまったのだ。

了は水晶玉の中で身体を丸めて眠り続けている。
「戻ってこい」
時折バクラは水晶玉に向かって囁いた。
最後に見たのはとても悲しげな表情だった。
悲しみの中にも友人を思いやる優しさが含まれていて、それがかえって痛々しかった。
もう、あんな顔はさせないからと、水晶玉を撫でる。

それからさらに十日が経ち、水晶玉の上部に小さなヒビが入った。
ぱきぱきと音を立て、横へ下へとヒビが広がる。
やがて、水晶玉は網目状のヒビに覆い尽くされ――。
パキンという小気味良い音と共に弾けた。
絹糸のような髪が水中に広がり、レースフリルを彷彿とさせる透き通った尾ひれをひらめかす。
長い睫毛を押し上げるように目がゆっくりと開いた。
海の底より深い色の瞳がバクラを映し出すと、
「おはよう」
優しく微笑んだ。
さらに了が言葉を続けようとしたところで、バクラの腕の中に抱き込まれた。
「ずっと呼びかけてくれたよね。聞こえてたよ」
腕の力は痛いくらいに強い。
「僕のワガママに付き合ってくれて、命を助けてくれて、ありがとう」
了は抵抗もせずに抱かれたままでいた。
「……オレはお前が別のヤツのものになるのに我慢ならなかっただけだ」
「じゃあ、君もワガママってことでおあいこだね」
バクラに身体を預け、背中に手を回す。
「君は大切なことを何も言ってくれないんだもの……」
了の尻びれにバクラの長い尾がしゅるしゅると巻きついた。
「……あとで言う。今はこのままでいさせてくれ」
了は静かに笑って頷いた。
暗い洞窟の中でずっと二人は抱き合っていた。

翌日からリハビリという名目で了は大手を振ってバクラの元へ通うようになった。
手に海で拾った宝物をたくさん抱えて。
楽しそうな息子の背中を見送り、アテムはやれやれと諦めと許容の入り混じった表情で頬杖をつくのだった。

*********************

もう少しでゴールインできそうな二人です。

前のページへ戻る