ばかうけ

サラリーマンはつらいよ ランチ編

都心部にあるテナントビルのワンフロア。島型に並べられたデスクの端で、獏良は山のように積み重なった書類と格闘していた。獏良以外の席はほぼ空。 獏良が勤めているのは小さな玩具メーカー。社名こそ世間に知られていないものの、手堅い商売と国内材料にこだわった優良品質で安定した売上を上げている。
ただし、万年人員不足。少数精鋭といえば聞こえはいいが、社内はいつもてんてこ舞いだった。
今日も営業は全員出払っていて、残されたのは事務員である獏良と数名のみ。獏良は一人で事務所に舞い込む仕事を片づけなければならなかった。電話は絶え間なく鳴り、ファックスからは注文書が排出され続けている。合間に届く問い合わせのメール。
まずは注文書を処理しなくては、とパソコンに向かおうとすれば電話に捕まり、電話応対をしていれば、注文書がさらに増えていく。一向に仕事が進む気配はしない。 落ち着くためにペットボトルのお茶に口をつけつつ、新着メールの確認をしていると、
「ええー、見積りぃ?」
文中に大至急と書かれた無慈悲な内容。口の端からお茶が一滴零れた。
はしたないのは承知の上でぐいと手の甲で唇を拭い、ディスプレイに表示されている時刻を確認した。十一時半。見積りを外回り中の営業に投げてしまったとしても、目の前にある大量の注文書を処理するにはどうしても時間が足りない。
――お昼は諦めるか……。
獏良は腹を括って背筋を伸ばし、改めてパソコンに向かった。

十二時を過ぎると、さすがに電話はほとんど鳴らなくなる。よし、今がチャンスとキーボードを叩く手が軽快に踊る。その甲斐あってか、注文書の山は半分以下に消えていった。画面を見つめる目はしょぼしょぼと疲弊しきっている。
「戻りましたー」
社員用の出入口から愛想のない声が聞こえた。外回りの営業が戻ってきたのだ。
営業の島と事務の島は離れている。戻ってきた営業は自分の席には戻らず、事務の島までつかつかと歩み寄ってきた。
「宿主」
「はい、おかえり」
獏良は画面から目を離さず、手を動かし続けた。顔を見ずとも相手が誰であるかよく知っている。社内一の営業成績を誇るバクラだ。
「お前、メシは?」
「まだ。これが終わってから」
何気ない会話も忙しい中では雑音になる。獏良の声に苛立ちが混じった。さっさと自分のデスクに戻って欲しい。
昼御飯の用意はしていない。いつ一段落着くかも分からない。午後の状況によっては、もしかしたらランチは永遠にお預けということもある。こういうときのために、引き出しの中にはビスケットが入っている。空腹はそれで紛らわすつもりだった。
バクラは離れるどころか、突然獏良の脇の下に手を入れて乱暴に身体を引っ張り上げた。獏良はその場に無理やり席を立たされる。
「ちょっ……?!」
抗議をしようと顔を上げると、至極真面目な顔がそこにあった。どうやら冗談や嫌がらせのつもりはないらしい。
「メシ行くぞ」
「僕は仕事が……」
「休憩入れずに続けたところで凡ミスするぞ」
それでも席を離れることに抵抗がある。
「電話番もあるし、問い合わせも……」
書類の山に視線を送り、ぶちぶちと言い訳を並べた。
「昼くらい問題ないだろ。あとで手伝ってやるし」
「え、午後の予定は?」
獏良の問いかけには答えず、
「部長、こいつとメシ行ってきます」
バクラが無愛想に言葉を投げかけた先には、いつもの愛妻弁当を手に持った営業部長。社内外で穏やかと評される責任者は、粗暴な口調にも機嫌を損ねることなく頷いた。
「角にできたラーメン屋行きたがってたろ。付き合ってやる」
強引に腕を引くバクラに、獏良はやっと肩の力を抜いて、
「じゃあ大盛りにしちゃおうかな」

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※好きな子です。


サラリーマンはつらいよ 出勤編

毎朝の電車はいつも収用可能人数を大幅に超え、学生も社会人も押し合い圧し合い大混雑。
今日はダイヤの乱れが一層それに拍車をかけている。車内には無言の苛立ちが充満して破裂寸前。獏良は不幸にも向かい合うドアとドアの中間地点から動けないでいた。 ドアが開く度に前へ後ろへ突き飛ばされ、時折足をぎゅうと踏まれる。普段はさっさと隅に陣取ってしまうはずが、あまりの混雑に流されるだけだった。
周りを背の高いサラリーマンたちに取り囲まれて酸素不足。顔を上に向けてなんとか空気を吸った。立っているだけでじわじわと体力が削られていく。
昨日は夜遅くまで残業をしていた。家に帰れたのは夜の十一時過ぎ。それからシャワーを浴びたり、翌日の準備をしたりしていれば、あっという間に一時を回ってしまった。
お陰で今日は寝不足。身体を押されても耐えきれずによろめいてしまう。時間調節のために何度も停車と発進を繰り返す電車は、まるで波に揺れる船のよう。くらくらと目が回った。
もう少しで降車駅と自分に言い聞かせるものの、今度は胃からせり上がってくるものがある。このままでは立っていられなくなる。
獏良の全身から冷や汗が噴き出したとき、人混みの隙間から伸びた腕に突然二の腕を掴まれた。

    *

「……ありがとう」
獏良はホームのベンチに座り込み、正面に立つ人物に覇気のない声で礼を述べた。
同じ車内に偶然居合わせた営業のバクラが、満員電車から助け出してくれたのだ。
電車を降りた後もそのまま引きずられ、どうにか身体を休めることができた。
「ほれ、水」
獏良に差し出されたのは、小容量のペットボトル。
「お金……」
「ンなの気にするのは後にしろ」
バクラはむしろ煩わしそうに手を振ってみせた。
「うん。何から何までありがとね」
獏良はもう一度礼を言ってから、ペットボトルに口をつける。冷たい水が喉を通り、少しだけ胸がすっきりとした。
「課長には連絡しとくから、無理に動こうとすんなよ。今日はこのまま帰るか?」
「ううん。少し休んだら会社へ行くよ。疲れが出ちゃっただけだと思う」
バクラは携帯を取り出して耳に当て、
「ま、お前がそう言うならいいけどよ。最近働きすぎだぜ」
すぐに通話状態になったのか、電話口で簡潔に状況を伝え始めた。
その後、しばらく二人はホームのベンチに並んで座っていた。
バクラは何も言わずに獏良の隣に居て、会社までの道程も付き添った。
先に行ってていいよ、と獏良が言おうとも会社に着くまでは側を離れなかった。
後日、お礼に獏良が食事に誘ったところ、すぐに承諾の言葉が返ってきた。
なにやら、「これがエビタイってやつか……」と獏良には理解不能な言葉を呟いて。

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※とても好きな子です。


サラリーマンはつらいよ 新人教育編

玩具会社の事務所の一角で、獏良と若い男が机に向かっていた。若い男は懸命にノートにペンを走らせ、獏良は隣でそれを眺めている。二人の距離は肩と肩が触れ合うほど。
若い男は久々に会社が迎え入れた新入社員。営業課に配属予定ではあるが、まずは単純な事務作業から教えるようにと上司からお達しがあり、その教育係に獏良が任命されたのだ。
多少の緊張はあるものの、新人は素直に獏良の指導を受け、獏良の方も久方ぶりの後輩に指導の熱が入り、研修についてはまったく問題はなかった。
「次は受注してからの流れを説明したいんだけど……。あ、もうすぐお昼だね。片づけて休憩にしよう。お昼は持ってきた?」
新人は出勤前にコンビニで昼御飯を調達してきたとのこと。獏良は一つ頷いて席を離れた。ロッカーから弁当箱を取り出し、マグカップを持って給湯室へ行き、お湯を注ぐ。
「随分新人に親切じゃねえの」
ふらりと現れたのは営業課のバクラだった。給湯室の入り口にもたれかかり、薄笑いを浮かべている。
獏良はティーバッグをカップの中で泳がせながら、
「親切にするのは当たり前でしょ」
「にしたって、お前にゃ関係ないのに手取り足取り。お人好しもほどほどにしとけよ」
にべもない物言いだが、バクラの言うことも一理ある。獏良は本来の業務を後回しにし、新人教育に当たっているのだ。万年人手不足のこの事務所では、どうしても誰かが無理をしなくてはならない。
「どうせお前の元からは離れるんだから、基本だけ教えりゃいいんだよ」
「だってさ、久しぶりの新人くんだし、しっかり面倒見てあげたいじゃないか。初めての独り暮らしだって言ってたし、何かと心細いと思うんだ。ちゃんとご飯食べてるのかなとか……」
獏良の口から飛び出した過保護すぎる発言に、バクラは額に手を当てた。
獏良が教育係になってから三日目。新人との仲は急速に縮まっていた。何を聞かれてもにこにこと答える獏良に新人はよく懐き、尊敬から慕情に変わりつつあるようだった。
手と手が微かに触れるだけで照れた表情を見せる。就業時間中はべったり。それを目撃したバクラは気が気でなかった。研修が終われば新人は正式に営業課に配属されることになる。それまでに二人の間に何かが芽生えてもらっては困る。二人を残して外回りに出ることに不安すら感じていた。
「お弁当作ってあげた方がいいかな」
「だから!そこまでお前がすることないだろ!!なんなんだよ弁当って。お前はかーちゃんか?作るならオレに作れよ!」
うっかりバクラが口にしてしまった致命的な言葉には気づかず、
「うーん……。やっぱり構いすぎかな。新人くんのためにならないよね……」
獏良は思案顔で唸るのみ。
「少し考えてみるね」

翌日から獏良は自分の仕事に専念しつつ、暇を見ては新人の指導に当たった。
翌週になると教育係は獏良から営業員に引き継がれ、新人は本格的に営業の業務を外に出て学び始めた。
仄かに芽生えた感情はあっという間に忙しさで塗り替えられ、獏良もあっさりと通常業務に戻った。
やれやれと胸を撫で下ろすバクラの元に弁当箱が一つ届けられたのは、その日のお昼のことだった。

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※大好きでたまらない子です。


サラリーマンはつらいよ 居酒屋編

「僕もね、本当に申し訳ないと思ってるんだよ。でもね、それで全部悪いって言われたら、反論もしたくなるんだ……!」
獏良はごつんと音を立ててジョッキをテーブルに置いた。普段の彼ではありえない行動だった。既に酔いは回り、顔が薄ピンクに染まっている。
バクラは対面の席で首を縦に振るのみ。
テーブルには枝豆、焼き鳥、刺身、玉子焼きが並んでいる。食事よりも酒の方が進み、刺身などは乾き始めていた。
――飲ませすぎたな……。
感情は顔に出さず、バクラもジョッキを呷る。
ここは半個室の大衆居酒屋。誘ったのはバクラの方からだった。

獏良は珍しく仕事で大きなミスを犯し、直属の上司から叱責を受けた。上司の前でこうべを垂れ、謝罪を繰り返す姿は誰の目から見ても気持ちのいいものではなかった。
大きなミスといっても、山積みになった業務を片づけているうちの単純な入力ミスだ。獏良に非があるのは間違いないのだが、人手不足でなければ起こらなかったことでもある。
仕事上では入力する数のゼロが一つ違うだけでも大事になる。取引先の信用を失いかねない。小さな玩具会社ではそれが命取りになる。だから上司は厳しい言葉を獏良にぶつけた。
終業時間になってとぼとぼと帰ろうとする獏良をバクラは呼び止めた。
あまり飲みの誘いには乗らない獏良でも、今日は大人しく頷いてバクラの背中についていった。

予想以上のペースでビールを飲み干していく姿に、相当ストレスが溜まっていたのが分かる。
「うー」
「分かった分かった。少しばかり飲みすぎだ、お前」
獏良は口をへの字にして、瞳は焦点が定まっていない。酔うとふわふわとした言動になるのがいつものことだから、これはよくない酔い方だった。
さすがのバクラも努めて優しい声音を作り、獏良を慰める。
「お前がいつも頑張ってるのは分かってるって。お前ならすぐに取り返せるだろ」
「うん……」
「課長だってお前の働きを認めてる」
「うう……」
「ちょっと疲れてるだけだろ。なあに、今日は……」
バクラは言葉の途中で獏良が涙を溢しているのに気づいた。
「うえぇ……」
酒のせいか涙を止めようともせずに、大粒の雫をぼたぼたと机に落としている。
「お前、鼻水まで……泣きすぎだッ」
バクラは咄嗟におしぼりを液体まみれの顔に押しつけた。
「今日はこのまま布団に入って寝ろ」
「うん……。でも帰りたくない」
「じゃなかったら、二人でベッドのあるトコ行くか?」
「帰る」
しばらく食事を楽しんでから会計を済まし、覚束ない足取りの獏良を支えて店を出た。
夜風が冷たい。熱く火照った身体にはちょうどいい。
「タクシー拾うか?」
獏良は外に出てから一転して大人しくなり、バクラに身体を預けている。こんな状態で電車に一人で乗せるのは危険だ。バクラはきょろきょろと道路を見回し、
「バクラ……今日はありがと……」
耳元で小さく囁かれた言葉に、表情を和らげて短く返事をしたのだった。

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好きな子を放っておけるわけないんです。


幼い君にこんにちは・はじまり編

眩しい。瞼を通して黄金色が透けて見える。顔をしかめて光から逃げた。
――朝か。
無理やり夢から引きずり出されたせいで、意識がはっきりとしない。背中を布団から剥がし、毛布を引き上げたところで気づく。身体の操縦権が自分に移っている。バクラから眠気が瞬く間に吹き飛んだ。上半身を起こし、ぺたぺたと胸の辺りを触り、肉体があることを確認する。
人格交代をした記憶はない。獏良側の意思で勝手に交代することはできない。昨夜は変わったことなどなく、いつも通り大人しくベッドに入ったはずだ。
なぜ、と浮かぶ疑問を整理する前に、布団の端に動物のように丸まった白い姿を見つけた。
「やっ……ど……」
残りの二文字は永遠に出てこなかった。
重そうな大きい頭、短い手足、ふっくらとした頬、身長は元より半分ほど――恐らく百センチに満たない。小さな小さな宿主が心地よさそうに眠っている。
バクラの声を聞いてか、獏良と思われる幼い少年が背中を反らして大きな欠伸を一つ。
「くあー」
身体に合わせて縮んだらしいパジャマの下から子ども特有の膨らんだ腹がぽこんと顔を出す。
「どうした……それ……」
指を差したまま口を開きっぱなしにするバクラに対し、幼い獏良はのんびりと布団の上で目を擦る。
「む?あ、おはよー」
声はソプラノの音域でバクラにはまったく馴染みがないもの。
しばらく寝ぼけ眼でいた獏良は、バクラの様子に気づき、首を傾げて縮んだ身体を見下ろし、
「ふあ?!」
素頓狂な叫び声が朝の穏やかな空気を打ち破った。

「ほんとうにほんとうに、キミがやったんじゃないんだね?」
なぜかベッドの上で二人とも正座をし、現状を整理していた。獏良が口にした疑いはなかなか晴れることはなく、利がないことをバクラが何度も説明してようやく態度が軟化した。
「じょうきをいっしたしゅみをもっているのかとおもったけど。さすがにそれはないかぁ」
「おい」
未就学児ほどに幼くなった姿はあくまで心の形だ。器という肉体の操縦席から弾き出され、辛うじて存在を維持している。他人には決して見ることのできない姿。バクラは空いた席にそのまま収まっただけ。
原因は千年リングのせいとしか考えられなかった。元々一つの肉体に二つの魂という不安定な状態なのだ。常識の枠組みからは外れている。あらゆる事態が想定される。裏を返せば、的確な解決方法はすぐには思いつかなかった。
「どうしよう……」
獏良は眉を八の字にして、むちむちと脂肪がついた手のひらを見つめる。
獏良の中に長年潜んでいたバクラだが、さすがにこの姿は見たことはなかった。子ども特有の寸胴体型――もしかしたら、平均より身長が低いのかもしれない――で、顔はあどけない。くりくりと大きな瞳も相まって、小動物のような愛らしさがある。これが十年以上経てば、誰もが振り返る長身の美少年になるとは到底思えない。
「うー……。やだぁ。こんなの」
獏良の目の縁にじわじわと涙がたまっていく。
「これくらいで泣いてんじゃねえよ」
バクラが煩わしそうに舌打ちをすると、
「だってぇ……。なんでイジワル言うの?」
獏良は顔をベッドに埋めてしくしくと泣き始めた。
「うぅ……。ひどいよ。ヒック。こわい。たすけてパパぁ……」
舌足らずな口調でこの場にはいない父親を求める姿は幼児そのもの。バクラに虐めたつもりはなくとも、幼気な子どもに泣かれては、非常に気まずいものがある。
「おい、やめろよ。怖いことなんてねえだろうが。思考までガキになってるぞ」
バクラは額から汗を流しつつ、できるだけ声音を柔らかく作り、宥めようとした。
「うわぁああん!」
が、ますます大粒の涙を溢すばかり。バクラに子どもの扱いが分かるはずもなく、ただ震え上がらせるだけ。鋭い目つきも乱暴な口調も、すべて相性が悪い。
「分かった分かった!オレが悪かった!お前の好きな菓子買ってやるから、とりあえず泣き止め、な?」
子どもにも分かりやすく、両手を合わせて謝罪の意を大袈裟に示すと、
「……う?おかし?」
覆った手から涙で濡れた顔が覗いた。
「そうだ。なんでもいいぞ」
バクラはひくりと頬が引きつるほど下手くそな作り笑顔を浮かべた。それでも思考回路が単純化した獏良には効果覿面だったらしい。バクラにきらきらとした純粋な瞳を向けた。
「にんじんのおかしも?」
「人参?」
「うん!にんじんだけど、にんじんじゃないの。しろいツブツブ!」
「人参の白いツブ……?は?」
先ほどまでの涙はどこへやら。獏良はころころと無邪気に笑い、パチパチと手を叩いている。
「りょうくん、にんじんだいすき!」
その屈託のない笑顔は朝日よりも眩しく、バクラの目を釘づけにした。
「……ちなみにオレは?」
「う?うーん……」
まだ薄い眉に皺を作ってまで唸り、
「こわいことしないなら、すき」
条件つきではあるが、確かな言葉を口にする。
「そうか。じゃあ今日は怖いことしないから一緒に来い。朝メシ食うか」
「うん!」
バクラが伸ばした手に迷いなく小さな少年が飛びつく。
「ふわふわであまあまのたまごにして」
「は?」

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※「にんじんのおかし」はポン菓子のことです。


幼い君にこんにちは・お絵描き編

テーブルにA3サイズの大きな画用紙が一枚。
片側の長辺に向かうのはバクラ、もう片側には同じ髪の色をした幼児が一人。画用紙の隣には十二色セットのカラーペン。
「これがウサギだろ」
バクラは色数の少ないペンを駆使しながら画用紙に動物を生み出していく。
幼児は頬杖をついて機嫌よくバクラの手元を見ている。
画用紙には既に犬や猫など、数種類の動物が描かれていた。
「じょうずー」
ぺちぺちと幼児特有の短い手がぎこちなく拍手をする。
「次は……」
バクラの腕が伸び、ペンの収まったケースから色を選び始めた。指で一本ずつ確かめ、
「パンダな」
黒のペンを迷いなく画用紙に着地させる。
幼児は食い入るようにその様子に見る。
知人からすれば信じがたい光景だが、突然バクラが絵画に目覚めたわけではない。
すべては走るペンに目を輝かせる幼児のため。
朝、目覚めると、獏良の心を象る姿が未就学児ほどの年齢になっていた。女児と見紛う可愛らしい顔立ちに、ぷくぷくの頬、幼児らしい短い手足。十数年経てば、誰もが認める美少年になると思うと感慨深い。
困ったことに、姿だけではなく思考回路まで幼児化していて、会話もままならない。肉体に影響がないのは不幸中の幸いで、バクラが幼い獏良の代わりに操作をしている。
原因として考えられるのは、千年リングの影響。解決策はまだ見つかっていない。
幼児化した獏良の面倒を見るのは、バクラの想像以上に骨が折れた。思いつく限りの子どもでもできる遊びで相手をしても、あそんであそんで!と何回でもせがんでくる。
疲労困憊の末に取り出したのが、画用紙とカラーペンだ。獏良の器用な手元をずっと見てきたのだ。簡単な動物のイラストならバクラでも見様見真似で描ける。
斯くして、子ども心を掴むのに成功し、体力を消耗することなく平和に過ごせている。
「ねー!」
「ん?」
それまで大人しく画用紙に見入っていた獏良が屈託のない笑顔を浮かべ、
「ハローパピィちゃんかいてー!」
突然のリクエストに、バクラの手がぴたりと止まる。
――ハロー……パピ……?
普段なら「何言ってンだ、てめえ」と一蹴するところだが、あまりにも純粋な瞳に見つめられて口をつぐむ。ここで下手な対応をすれば、大洪水が起きてしまうかもしれない。そうなると、今までの機嫌取りが無に帰す。
急いで記憶の中からハロー某の姿を探し出した。子どもにも大人にも人気キャラクターだったはずだから、必ず町中で目にしているはず。つぶらな瞳の子犬……だったような。確かなのは、親しみやすい二頭身であることと、シンプルな線で描かれていたこと。メインカラーが茶色だったのは間違いない。
バクラは意を決してペンを動かし始めた。
キャラクターの一つくらい簡単に描けるはず。犬や猫とそう変わらない。子ども向けのキャラクターは大体丸い造形と決まっているのだから迷う必要はない。
獏良は期待に満ちた目でバクラの手元を見守っている。
そうして描き上げたイラストを見た一言目が、
「…………ちがうの」
とてもとても悲しそうな響きだった。
シンプルなキャラクターはシンプルなだけにバランスが難しい。離れすぎた目と肥大化した輪郭が、まるで出来の悪い偽物のような仕上がりだった。本家から訴えられたら確実に負けるだろう。
獏良は画用紙から視線を上げ、悲しみを堪えた笑顔をバクラに向けた。
「ありがとう」
唇は少し歪んではいるが、子どもなりの気遣いと優しさが見える。
親の育て方が良かったとか、どうやったらこんな健気な性格になるんだとか、どこからこれが生まれたんだとか、様々なことがバクラの頭を巡り、
「あとでパンケーキ焼いてやるからなッ!!」
本当の笑顔を取り戻すことを最優先することにした。

+++++++++++++++++

素直な子どもの反応がバクラの心を抉る。


幼い君にこんにちは・お散歩編

「しゅっぱーつしんこー!」
舌足らずの甲高い声が頭上で響いた。
マンションの正面玄関前。疲れたような、諦めたような、なんともいえない表情でバクラが立っている。
その頭に齧りつき、楽しげに人差し指を立てている小さな少年。未就学児ほどで長めの白髪が特徴的。少女のような愛らしい顔立ち。
どんなに可愛らしい幼児でも、バクラが肩に乗ることを許すことなどありえない。許されるのは、この世にただ一人――。
朝、目覚めると、獏良の心を象る姿が幼くなっていた。姿だけではなく、思考回路まで幼児化していて、会話もままならない。原因は千年リングにあるだろうことを推測するのは容易なことだが、解決方法は見つからない。
肉体を動かすことは困難と判断したバクラが、現在は獏良に代わり操縦棹を握っている。
当の本人はマイペースなもので、子どもらしいワガママを言ってはバクラの頭を悩ませていた。この遊びは飽きただの、お菓子が食べたいだの、洋服の色が気に入らないだの。
今も遊びに行くと言い張り、バクラを外へ出すことに成功した。思い通りにならないと、泣き喚いてさらに面倒なことになるから、従わざるを得ないのだ。
「あっちー」
小さな指が示す方向へ歩き出す。
興味を引かれたものを目指し、あっちだこっちだとすぐに方向転換を要求される。散歩中の犬や通りすぎる派手な車、色とりどりの花が咲く花壇など、すべてが興味の対象だ。
さながら兄か若い父親と子どものペアだが、他人には不可視であるのことは不幸中の幸いだった。
幼い獏良は自由自在に動く大きな乗り物が嬉しいのか、手足をばたつかせてキャッキャッと喜んだ。
「頭は叩くなって」
実体がなければ、いくら頭を叩かれても痛くはない。それでもバクラは躾の意味で苦言を呈した。
残念なことに、あまりにはしゃいでいる獏良の耳には届かない。
「あ……」
呆けた一音が発せられてから、急に頭上が静かになった。
「ん?どうした??」
首を捻ってみても、獏良の表情は見えない。あれだけ機嫌よく動いていた手足も大人しい。
耳元の騒音が消えた代わりに、楽しげな会話が前方から聞こえてきた。両親と手を繋いだ幼な子。
「…………パパ、ママ」
水気を帯びた小さな声が頭上から零れ落ちる。
「りょうくん、おにいちゃんだから……」
誰に話しかけるわけでもなく、自分に言い聞かせるようにして吐かれた一言は、寂しげな響きだった。
「家に帰るか」
バクラはそれには気づかなかったふりをして、しっかりと獏良に届くように高く声を張り上げた。
「うん……」
「家でオレ様のダイス……、サイコロの手品を見せてやる」
「うん……!」
くるりと方向転換し、マンションまで駆け出す。
「しんかんせんだー!」と喜ぶ声は、既に明るさを取り戻していた。

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小っちゃくてもお兄ちゃん。


幼い君にこんにちは・お食事編

バクラはトーストにバターナイフを滑らせながら、正面の席に座っている幼子を見ていた。
大人用の椅子では足が地面に届かず、ぷらぷらと空中で遊ばせている。丸い輪郭にふっくらとした頬、脂肪のついた短い手足、興味に輝く大きな目。
「できたぞ」
トーストを乗せた皿を差し出すと、少年の顔がぱあと明るくなった。
「しゅごい!しましまー!」
ぴたぴたと不器用に鳴らされる拍手と手放しの歓声に、バクラは安堵と疲労が入り交じった溜息をこっそりとつく。
朝、目覚めると、獏良の心を象る姿が未就学児ほどの年齢になっていた。姿だけではなく、思考回路まで幼児化していて、会話もままならない。
肉体に影響がないのは不幸中の幸いで、バクラが幼い獏良の代わりに操作をしている。原因として考えられるのは、千年リングの影響。解決策はまだ見つかっていない。
これに困り果てたのはバクラだ。少し対応を間違えれば泣く、じっとしていられない、感情のままに行動する。午前中だけで体力と精神力が尽きかけていた。
先ほども、肉体のない状態では食事は必要ないと説明しても理解ができず、ならばと食パンを焼いて出したところ、バターとジャムがないと大泣きをされた。
言われた通りに双方を塗っても、違うと呆気なく不採用。丁寧に注文を聞き、バターとイチゴジャムで縞模様になるように塗ってやることで、やっと機嫌が直った。
大喜びしている獏良をよそに、すっかりやつれて食欲をなくしたバクラが冷えきったコーヒーを啜る。これが育児疲れというやつなのかもしれない。
獏良でなければ、付き合ってやる義理などなかった。泣こうが叫ぼうが放り出して終わりにできたはずなのに……。バクラは虚空に力なく視線を向けた。
向かい席の幼子は短い手を精一杯伸ばし、バクラの袖を引くような仕草をする。
「これ、どうじょ」
もう片方の手でトーストの乗った皿を示す。
「お前のだろ」
「はんぶんこ!」
口元がにいっと緩やかな弧を描く。裏表がない純粋そのものの笑顔。
バクラは断る意味で胸元まで挙げた手のひらでトーストを掴んだ。
「ありがとな」
幼い獏良はウンウンと満足げに大きく頷いた。
その後、昼食には花の形をした目玉焼き乗せハンバーグをきっちり要求され、涙を飲むことになるのだが、天使のような微笑みを前にしばらく遅い朝食を楽しむのだった。

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ちびぬしの笑顔には癒し効果があるようです。


幼い君にこんにちは・おいかけっこ編

「大人しくしろー!!」
バクラの怒声に返ってくるのは楽しげな笑い声。
部屋で駆けずり回る幼児とそれを追いかけるバクラ。二人の表情は正反対。なぜこんな事態になったかというと、発端は朝に遡る。
朝、目覚めると、獏良の心を象る姿が未就学児ほどに幼くなっていた。姿だけではなく、思考回路まで幼児化していて、会話もままならない。原因は千年リングにあるだろうことを推測するのは容易なことだが、解決方法は見つからない。バクラは肉体を動かすことは困難と判断し、獏良に代わり操ることにしたが――。
幼児がじっとしているはずもなく、好き勝手に部屋で暴れ始めた。ベッドの上で飛び跳ね、クローゼットに隠れ、机の下を探検し始める。
バクラが押さえつけようとするも、実体のない状態では重力にも負けずにするりするりと逃れてしまう。
必死の形相で追いかけられるのがまた楽しいらしく、獏良は「キャアキャア」と楽しげな悲鳴を上げている。幼い頃はどうやら今よりもずっとヤンチャだったらしい。子どもの無限の体力に、さすがのバクラもぜえぜえも息切れし、
「おま……元に、戻ったら、覚悟、しろよ……」
恨みがましい目つきを小さな身体に向ける。
女児と見間違えるほど可愛らしい顔立ち、脂肪がついたぷにぷにの手足、ぽこんと突き出た丸い腹。
「おいかけっこ、もうおわりー?」
子ども特有の舌足らずの話し方。ぱちぱちと瞬く瞳には純粋な光が輝いている。
「……本当に覚悟しろよ」
バクラの表情筋がデレッと弛み、声にトゲがなくなる。ただの子ども相手ではこうはならない。獏良の知らなかった部分を見ることができて感情を抑えることができなかった。
「ごめんちゃい!」
幼くては言葉の意味を理解できないはず。語感から機嫌を損ねたと思ったのか、獏良は素直にぺこんと頭を下げた。そのままの体勢を保ちながら、上目使いでバクラの表情を窺う。
「別に怒ってねーよ」
バクラがぱたぱたと片手を左右に振るうと、幼い顔にパァッと満開の花が咲いた。
あれだけ逃げ回っていたのにてとてとと近寄り、登山よろしくバクラの身体をよじ登り、胸に顔を埋めてスリスリと頬を擦り寄せる。
「ふふふ、なかよし!」
「元に戻ったら同じことしてもらうからな」
「あい!」
返ってきた答えは頼もしいほどに元気よく、少し得意気だった。

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あとで優しいオシオキです。

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