ばかうけ

※二心二体


駅前の商店街は商店街とは名ばかりで規模は小さく、店が路面にただ並んでいるだけで、アーケードになっているわけでも、カラフルに舗装されているわけでもない。
何を売っているのかも分からない怪しげな個人商店もあれば、食事時には近隣の住民で賑わう飲食店もある。
雑多で統一感には欠けるものの、店を選べば程々に利用しやすい商店街だった。
早朝から開いている店もあり、学生や社会人が電車に乗り込む前にちょっと立ち寄れるようになっている。
バクラもその中の一人。
平日は毎朝パン屋に寄ることにしている。
サンドイッチと紙パックの飲物を買い、電車に乗って仕事場へ向かう。
特にお気に入りの店というわけではない。
単純に家から駅の間にあり、早くからやっていて、軽食が手頃な価格で手に入るからだ。取り立てて思い入れはない。
起床してコーヒーを胃に流し込み、仕事場に着いてから無表情で小麦粉の塊を齧る。そういう習慣になっている。
商店街に唯一あるコンビニは混んでいるので近寄らない。その隣にある弁当屋は空いているが待たされる。注視しなくともすっかり頭に入っている。
同じ時間に出勤していれば、朝の顔触れもほぼ決まっている。
面白くもなければ、つまらなくもない。
代わり映えのない毎日を送っている。
バクラは鞄とパン屋の袋を合わせて持ち、境界のはっきりしない商店街の出口まで人波を避けて歩いていた。
商店街を抜ければバスロータリーがあり、その先には駅の改札口が待っている。
一番端にある店の前を通ったとき、バクラの前に見慣れない顔が現れた。
店の中から勢いよく飛び出してきたものだから、行く手を阻まれたバクラはその場でステップを踏んだ。
普段ほとんど人が入らない輸入食品店だ。
名前の長いスパイスや毒々しい色の菓子を販売しているのをバクラは見たことがあった。
現れた人物は長く白い髪を靡かせた男で、華奢な腕の中に紙袋を抱えていた。
萌葱色のエプロンを身につけ、髪の色との組み合わせが清涼感に溢れている。
「あ、ごめんなさい」
その人物はよろめきながらも立ち止まり、頭をちょこんと下げた。
さらりと髪が肩にかかり、よい香りがバクラの鼻に届く。
「いや……」
バクラが片手を挙げると、男はもう一度お辞儀をしてから駅とは反対方向へ小走りで去っていた。エプロンの結び目を揺らしながら。
バクラがこの町で暮らすようになってから数年が経つのに初めて見る顔だった。
エプロンをしているのなら付近の店で働いているのだろうが、男の顔どころか同じエプロンすら目にした覚えがない。
バクラの鼻には、まだ男の香りが残っていた。
――コーヒー……?


コーヒーは君の香り


数日が経ってもバクラの頭から輸入食品店の前で出会った男の顔は離れなかった。
店の前を通りかかる度に中を覗いてみるのだが、再会することはなかった。
例え会えたとしても、どうするのか考えてはいない。
男の浮世離れした雰囲気とコーヒーの香りが気になっているだけだ。
脳裏に男の顔が思い浮かぶ度に、ただ気になっているだけだと、何度も自分に言い聞かせる毎日。
道端の石ころくらいにしか思っていなかった道行く人の顔を眺めるようになった。
それでも、コーヒーの香りのする男は現れなかった。

バクラには自炊をする習慣はなかった。
作ろうと思えば作れるが、わざわざ作る気にはなれない。
平日は職場にこもりきりで軽食を腹に入れるだけになるが、休日になると適当な飲食店に入ることが多い。
その日も散歩がてらにぷらぷらと駅周辺を歩き、客が少ない店を探した。
昼食時ならば商店街の店は混み合うこと間違いなし。
人の流れに逆らうように商店街から脇道に入った。
道を一本外れれば戸建て住宅が多い。
普通車がやっと一台通れるほどの道幅しかない。
駅から離れて道を進んでいくと、一軒の小さな喫茶店があった。
壁にはレンガタイルが嵌め込まれ、窓はなく、木製のドアが素っ気なくついているだけ。
ドアの上部についた小さな金属プレートに「さいころ亭」と小さく書かれている。
注意深く見なければ、民家に埋もれてしまいそうな佇まい。
メニュー看板が出ているわけでもない。
実際、バクラは初めて喫茶店の存在に気づいた。
一般人なら避けてしまいそうな、価格も店内の様子も分からない店。
バクラは躊躇なくドアハンドルに手をかけた。
初めて入る店の食事が美味いか不味いかはギャンブルだ。
不味かったとしても腹に入れば同じだとバクラは思っている。
腹さえ満たせればなんでもいいのだ。躊躇う必要はない。
ドアハンドルを引くと、ちりんちりんと鈴が鳴り、店内の様子が視界に入ってきた。
インテリアは木目調で統一され、最奥にはカウンター、手前にあるテーブル席は四人掛けが六卓、初めて入るのにどこか懐かしさを感じる純喫茶風。
実際に使用しているのか不明だが、背の高いサイフォンがカウンターに置かれているのがいかにもだ。
木製の台座に漏斗とフラスコがガラス管で繋がれており、まるで理科の実験器具か、お伽話の魔法道具のよう。
アイスコーヒーを抽出するための器具というより、インテリアの一部として機能している。
客は中年男性一人と若い女性の二人組。どちらもテーブル席に座っている。
カウンターの中の店員――店には一人しかいないのでマスターかもしれない――がベルの音に反応して顔を上げた。
「いらっしゃいませ!」
店内に響き渡る涼やかな声と客を迎え入れるための温かな笑顔。
バクラはその顔に見覚えがあった。
あの早朝に出くわしたコーヒーの君だ。
奥まった場所にある店のマスターなら、一度も見かけなかったことも頷ける。
バクラは少々面食らいながらも、一番端のカウンター席に腰を下ろした。
T型のプラスチック製のメニュー立てがカウンターの上には置かれている。
表面にはフードメニューが並び、裏面にはドリンクメニューが並んでいる。
食べ物は喫茶店定番のナポリタンやサンドイッチ、ホットケーキもあれば、ピタロールやロコモコなどの変わり種もあった。
飲み物の欄にはコーヒーの銘柄とその他ソフトドリンクが書かれている。
バクラがメニューを凝視していると、水が入ったコップが置かれた。
「ただいまの時間はランチセットもあります。よろしかったらどうぞ」
にこやかな笑顔と共に一枚のメニューが手渡された。
ランチメニューは三種類のフードメニューから選ぶ形式で、コーヒーやオレンジジュースなどのドリンクがついてくる。
通常のメニューより大分安く設定されている。
「じゃあ、このミックスサンド。飲み物はホットで」
マスターは丁寧にメニューを復唱してから調理作業に移った。
バクラは水で喉を潤しつつ、マスターの横顔を盗み見る。
店のマスターとしては随分と若い。調理作業は淀みなく、手慣れたものだ。
あの時靡かせていた長い髪は後ろで高く結び、萌葱色のエプロンが店の内装に馴染んでいる。
初めて出会ったときと同様に不思議な雰囲気のある男だ。
慌ただしい日常とは無縁とさえ思える。カウンター内に立っているだけで花が咲いたよう。
店内のまったりとした空気は、間違いなくこのオーナーが作り出しているものだ。
「お待たせしました。ミックスサンドとホットコーヒーのセットです」
バクラに差し出された皿の上には三角形にカットされたサンドイッチが乗り、コーヒーはあの日と同じ香りが立っている。
綺麗にカットされたサンドイッチの断面は色鮮やか。ハムレタスとトマトチーズ、タマゴの三種類だ。
バクラはハムレタスサンドを手で摘まんで口に入れた。
食パンはふわふわと軽く、レタスはしゃきしゃきと水っぽさがなく、二つの食感の間でハムの旨味が滲み出る。バターとマヨネーズに少量のマスタードがぴりりと辛い。
バクラがいつも購入している時間が経って野菜が萎びたサンドイッチとは格段の差だ。
手は止まることなく次のサンドイッチを掴む。他の二種類もシンプルながら文句なしの味だった。
小休憩にコーヒーを啜ると、後に残らない苦味とコクが口に広がる。
サンドイッチがみるみるうちに減っていく様にマスターは目を細めた。
この店は「当たり」だと、バクラは確信した。

それから、バクラは毎日喫茶店に通い詰めた。
平日は早めに家を出て朝食を喫茶店で取ってから出勤するようなった。
休日は客が少ない時間を狙い、コーヒータイムとした。
さいころ亭には常連が多く、モーニングやランチはほどほどに賑わっていた。
マスターは常連客には親しみを込めて、初めの客には丁寧な案内を心掛けており、固定客が増えるのも当然だった。
基本のメニューは変わらないが、マスターが気紛れで出す特別メニューも人気の一つ。
材料が手に入ったとか、研究中と理由をつけて、スコーンやアップルパイなどの軽食を出す。
その日何が出てくるか分からない面白さと、通常メニューに劣らない味は、常連客の楽しみになっていた。
常連客の中には昔からの友人もいるらしく、休日のランチタイムにはよく顔を出していた。
どうやらメニューの中にカレーやハンバーガーがあるのはその友人たちの影響らしい。
バクラは何回か友人たちと店で遭遇してから、時間をずらすことにした。
賑やかさが不快というわけではない。
マスターがコーヒー豆を挽く音をBGMにゆったりと流れる時間を気に入ったからだ。
友人だからといって熱心に接客をするわけでもないから、逆に感心したくらいだった。
特定の客を贔屓するようなマスターなら通うのを止めていたところだ。
いつの間にかカウンター端の席はバクラの固定席になっていた。
客が少ない休日の午後になると、バクラとマスターは気軽に会話をするようになった。
サンドイッチに使用しているパンは、よく吟味したパン屋から直接仕入れていること。
材料が不足していることに気づいて、慌てて近くの食料品店に駆け込んだときのこと。
父親の店を譲り受けてから、自分好みの喫茶店に作り変えてしまったこと。
マスターから様々な話が飛び出した。

「へえ、オレはてっきりアルバイトが店番しているもんだと思ったぜ」
「あはは、よく言われるよ。『責任者は?』『僕です』なんてね」

「ちゃんとご飯食べてる?店に来れるときはいいけど、来ないときもちゃんと食べてね。テイクアウトしていく?」
「いい、いい。母親みたいになってるぞ、お前」

ドアを開けばいつでも優しい微笑みで迎えてくれるマスターのいる店。
バクラの生活の一部となっていた。
「僕はね、お客さんが喜んでくれることが一番嬉しいんだ。美味しいって言われるのが何よりの幸せなんだ」
バクラは頬杖をついてカウンター越しにマスターの顔をじっと見つめていた。

「いらっしゃい」
休日の午後、バクラはドアベルを鳴らし、いつものようにカウンター席に座った。
狙い通りに他の客はいない。
マスターとゆっくり話ができるチャンスだ。
「ブレンド?」
「ああ」
休日にバクラの頼むメニューは決まっている。
マスターは一組のコーヒーカップとソーサーを取り出した。
「味の好みが分からないから常連さんにしか出さないんだけど、今日は特別ブレンドにしてみない?」
初めての切り出しにバクラは数回瞬きをして、
「ああ、構わないが」
マスターからの提案を受け入れた。
この店のコーヒーはいつ飲んでも美味い。どのフードメニューもそうだ。マスターを信頼していた。
「それでは、しばらくお待ち下さい」
マスターは背後にあるコーヒー豆の瓶が置かれている棚の前でうろうろし、しばらくすると手動のコーヒーミルで豆を挽き始めた。
ハンドルをゆっくり回し、ごりごりという音が店に流れる。
客が多い食事時には電動コーヒーミルが登場するものの、マスターは手動で豆を挽く方が気に入っていると口にしたことがあった。
味に明確な差が出るわけではないが、手間隙をかけて豆を挽く方がコーヒーを淹れている気になるという。
ただの自己満足だけどねと、マスターは言った。
好き好んで面倒を選ぶとは変わってるなと、その時バクラは返した。
実はそんな変わり者のマスターのことが気に入ってるとは口には出さずに。
マスターは出来上がったコーヒー粉をドリッパーに入れ、その上からお湯を注いだ。
慌てず数回に分けて蒸らしながら抽出する。
そうして丁寧に淹れたコーヒーをカップに注ぎ込んだ。
「はい、お待たせ」
バクラのために淹れられたコーヒーは、見た目には普段のものと変わらない。
ソーサーにはおまけなのか、一切れのビスコッティが乗っていた。これも試作品なのだろう。
バクラはコーヒーを味わうために、砂糖もミルクも入れずに一口飲んでみた。
深いコクと苦味が口の中に広がり、続いて独特の酸味が顔を出し、鼻から香りが抜ける頃には舌に仄かな後味が残っていた。
「……うまい」
人によっては飲みにくく感じるかもしれないコーヒー。
一般的にはまろやかな風味のコーヒーが好まれるだろう。
しかし、苦味を好むバクラの舌にはとても合っていた。
添えられたナッツたっぷりのビスコッティとの相性も抜群だ。
「よかった」
バクラが顔を上げれば、マスターもコーヒーカップを口につけていた。
「僕にはちょっと苦いかな」
一口啜ってぺろりと舌を出してみせる。
「たっぷり時間をかけた深煎り。苦味が強くてクセもある重厚な味。取っつきにくいけど味わい深い。舌に苦味が残って長い余韻が楽しめるコーヒー。君にぴったりみたいだね」
口元に笑みを浮かべるマスターにバクラはドキリとした。
それは言葉のせいか、笑顔のせいかは分からない。
動揺を悟られないように再びカップを口に運んだ。
もう少しの間だけ客が来なければと、バクラはコーヒーの香りに包まれた二人きりの空間にしばらく浸っていた。

+++++++++++++++++

リクエスト頂いた「喫茶店のマスターと常連さんのパロ」です。
了くん→喫茶店のマスター、バクラ→常連客にしました。
逆でも素敵なので、バクラは絶対に通ってしまうなあとにやにや考えていました。
了くん好みに合わせたカフェオレとシュークリームを何も言わなくても出してくれるマスターっぽい。
「はい、お待ちどお」「えっ!まだ僕頼んでないのに」「お前の頼むメニューくらい分かるっての」
リクエストありがとうございました!


ボクの香りをキミに

「杏子ちゃん、ノートありがとう」
獏良は杏子にノートを差し出した。
丁寧に授業のノートを取っている獏良だが、苦手教科はそうもいかなかった。
どうしても、黒板の文字を書き写すのに精一杯になってしまう。
後から見返して、これはなんだっけと首を傾げることもある。
そんな時、友人の中で頼りになるのはやはり杏子だ。
綺麗な文字で要点のみを的確にまとめたノート。
これが城之内になると、途中からミミズがのたくったような字が登場する。
遊戯や本田も似たり寄ったりで、風邪で学校を休んだときは杏子が救世主に見えた。
勿論、杏子から借りるだけではなく、獏良の方が得意科目のノートを貸すこともある。持ちつ持たれつの関係だ。
「どういたしまして」
杏子は受け取ったノートを机の中にしまった。
肩にかかる髪がさらさらと揺れ、細い指がそれを押さえる。
指に通した髪の束を耳にかけると、ほんのりと甘い香りが漂ってきた。
「いい匂い。なんだろう」
あっ、と杏子は口を開き、悪戯っぽく笑った。
「ばれちゃった」
鞄からポーチを取り出し、中から小さな銀色の丸いケースを手の平に乗せる。
獏良には軟膏にしか見えないが、可愛らしい女子のポーチから出てくるグッズが軟膏であるはずはない。
しかもよく見れば、ケースの蓋はイラストと飾り文字が描かれてカラフルに装飾されている。
いかにも女子が好きそうなデザイン。
これはいよいよ中身は軟膏ではないなと獏良は確信した。
「香水なの。嗅いでみて」
持ち上げられた手の平に、獏良は言われるがまま鼻を近づけた。
「あ、これだ。いい香りだね。香水なの?」
ケースの中に入っているのは艶のある白い塊だ。
ただの軟膏と見分けがつかない。バターのようにも見える。
香水といって獏良が思い浮かべるのは、液体状で吹きかけるものだ。
それすらも手にしたことはない。
「練り香水っていうの。普通の香水と違って肌に直接塗るのよ」
杏子は人差し指に練り香水を取り、そのまま耳たぶへちょんちょんと乗せた。
「液体よりも香りが弱いから使いやすいの。先生にもバレない程度にね。内緒よ」
指を唇に当てて微笑む杏子はどの女子よりも魅力的だった。恋愛に疎い獏良でも見惚れてしまう。
童実野高校の校則はそれほど厳しくない。生徒の個性を尊重する自由な校風と宣伝している。
派手な風貌の生徒が我が物顔で廊下を闊歩する姿やゲームバトルが繰り広げられている様子を校内で何度も見ている獏良は、物は言いようだなと思っている。
しかし、一部の教師は風紀が乱れてないか、執拗に目を光らせている。その様は異常と言っても過言ではない。
転校初日に獏良の髪を掴み上げた刈田教師もその一人だ。
そんな教師たちに見つかれば、化粧品など有無を言わさず没収されるに違いない。
没収されるだけならまだいいが、返して欲しかったらゲームで勝負しろなどと無茶なことを言い出しかねない。
自分磨きのために教師の目から逃れる術を既に身につけている女子には獏良の頭も下がる。
馬鹿正直にカードを机に広げて没収されてしまう男子とは大違いだ。
「獏良くんも付けてみる?」
「え、いいの?女の子用じゃないの?」
いい香りだと思ったのは事実だが、縁のない女子の華やかなグッズを前に手が出ない。
「ベースはジャスミンなんだけど、ミントも入ってるの。さっぱりした匂いだから、男の子が付けてても変じゃないわ」
それならと、獏良は杏子に教わって練り香水を肌に付けてみた。
手首と耳、首筋に少しずつ。
「もー、みんな気づいてくれないんだもん。獏良くんが気づいてくれて良かった」
頬を膨らます杏子の視線が遊戯に向けられていることに気づき、獏良は顔を綻ばせた。恋する女子はなんて可愛らしいんだろう。
――気づいてくれるといいね。
その後、ノートを取る手から香りが漂い、退屈な授業が思いがけない癒しの時間になった。
時折、頬杖をつくふりをして甘い香りを楽しんだ。

帰宅した頃には、折角付けてもらった香りは薄くなっていた。
鼻を手首に近づけてもほとんど感じ取れない。
香りの持続時間は短いと杏子は言っていた。
もう付け直さなければいけない時間なのだろうか。
それとも、鼻が香りに慣れて分からなくなってしまったのだろうか。
いい香りもここで終了と思うと残念だった。
どうせなら、他人の反応も見たかった。
しかし、独り暮らしの身では……。
「あっ!」
獏良は一つ思いついて、自分の身体に向かって話しかけた。
「ねえねえ」
何度か呼び続けると、獏良の声よりやや低い声が返ってきた。
「なんだよ……」
「出て来てよ」
気怠げに姿を現したのは、もう一人の住人。
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てるときもあるが、今日は少なくとも上機嫌というわけではなさそうだ。
「んー」
口をへの字に曲げて、首を少し傾ける。
律儀に獏良の呼びかけに反応しているだけ、完全に不機嫌というわけではないのかもしれない。
今日の獏良は多少相手が無愛想でもめげなかった。
「どう?」
顔をずいとバクラに向かって突き出し、反応を見る。
バクラの瞼が少しだけ持ち上がり、獏良の行動に興味を示したものの、
「どうって……」
香りには気づいていないようだった。
「ほら」
獏良はサイドの髪を持ち上げ、練り香水を塗った耳と首筋を見せた。 もう一歩前に出てバクラに近づく。
「ああ」
怪訝な顔をしていたバクラの瞳が大きく開かれた。
やっと気づいたかと、獏良はうんうんと頷いてさらに耳を近づけた。
バクラは付き出された耳に顔を近づけ、香りを嗅ぐ……ことはなく、その横にある頬に優しく唇を押しつけた。
「ひぅっ」
突然のことに獏良の身体は硬直し、口から奇声が飛び出た。
「な、なななん……なに?!」
慌てふためく獏良の顔を見つめ、
「ん、違ったか?」
バクラはぱちぱちと瞬きをした。
「オレはてっきりキスのおねだりだと」
「ちがう。かおり!僕の香り。嗅いで欲しくて……」
顔を真っ赤にして説明しようとするも、上手く言葉がまとまらない。
「あー、香りな」
バクラは深く頷いて、
「気にしなくても、お前はいつもいい香りだぞ」
さらりと予想外の言葉を口にした。
「ちがうちがう!」
顔の前で両手を大きく振り、獏良はますます顔を赤らめる。
「なんだよ……。これ以上オレを困らせてどうする。小悪魔アピールか」
噛み合わない会話を二人は数分間続けた。

「香水の香りを嗅いで欲しかったのか。最初からそう言えよ」
やれやれと肩を竦めるバクラに対し、獏良は涙目で息を乱していた。
すぐに済む話のはずが、ほっぺにちゅーをされてしまった。損をした気分だ。
しかし、不快ではなかった。それどころか……。
「微かだが、確かに花の香りがするな」
バクラは獏良の白い首筋に鼻を近づける。
「いい香りだよね」
「そうだな」
そのまま熱い吐息混じりの艶めかしい声で囁いた。
「これなら朝までこうしてても飽きねえな」

+++++++++++++++++

プチリクエスト頂いたものです。
ちょっとバクラの素の部分を出したかった。


アンドロイドはマスターの夢を見るか ※二心二体、近未来SFもどき、一部不快な描写あり

第一条、ロボットは人間を傷つけてはならない。
第二条、ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。
第三条、ロボットは前掲一条及び二条に反しない限りで、自己を守らねばならない。
(ロボット三原則より)

初めてレンズに映り込んだのは、少年のあどけない顔だった。
好奇心により大きく見開かれた瞳はきらきらと希望の光で溢れ、少年の未来には一切の翳りはないと誰もが想像するだろう。
世界中の誰よりも純粋無垢な存在。
「彼」のレンズいっぱいに映る少年は――だから、彼の世界において、少年は「すべて」だった――にこりと笑って口を開いた。
「こんにちは、はじめまして」
一文字一文字はっきりと正確に発音された。
音声は壁一枚隔てたようにこもって彼に届く。
二人の間にあるのは実際には壁ではなく、分厚いガラスだった。
少年は両手をガラスに突き、彼に呼びかけている。
なぜ、目の前にガラスがあるのか。
なぜ、少年の声が聞き取りづらいのか。
そんなことは彼にとって重要ではなかった。
初めて耳にした音。
クラシック音楽や鳥の囀りには程遠い未完成な音。変声期すら迎えていない。
しかし、彼に向けられたものであること、少年の声であることが、彼には何よりも素晴らしい旋律に聞こえた。
少年の目や口に一つ一つピントを合わせていき、浮かんでいる表情が「笑顔」であると分析する。
「笑顔」は人間の喜びの感情を表す表情だ。
少年は明らかな好意を自分に向けていると、彼は理解した。
つまり、彼に初めてインプットされた人間が少年だったのだ。

獏良了の父親はロボット工学者だった。
才能には恵まれていたが、反対に人との交流を苦手とするために満足な支援を受けられず、自宅にある狭い研究室に息子である獏良とこもりきり。
限られた設備の中でパソコンや工作機械に向かう毎日。
獏良はお気に入りのクマのぬいぐるみを胸に抱き、研究に没頭する父親の背中を一人で見つめていた。
母親は家庭を顧みない夫に嫌気が差し、とうの昔に出ていってしまった。
不仲のきっかけは妹の死にあったが、末期には様々な問題にまで波及していた。
妻を失った後も父親は取り憑かれたように研究を重ね、ついに一つの成果を上げた。
父親の目指すところは、自我を備えた自律思考型アンドロイド……つまり、感情を持って動く、人間と寸分違わないロボットだった。
人間を自分の手で生み出すことに父親は熱中していたのだ。
その日、父親は上機嫌だった。
いつものように研究所の隅で遊んでいた獏良を満面の笑みで呼んだ。
久しぶりに見た父親の笑顔に獏良は嬉しくなり、手にしていた玩具を放り投げて駆け寄った。
「なあに、パパ」
父親は獏良の肩を抱き寄せ、ある装置の前に誘った。
装置は高さ2メートルほどのカプセル型で、背面から伸びたケーブルがパソコンや分析装置などの機械に繋がっていた。
前面がガラス張りで中の様子が見えるようになっている。
「ようやく、完成したんだ。人工知能『リングシステム』を搭載した自立思考型アンドロイド」
獏良はカプセルに近寄り、中を覗き込んだ。
父親は熱に浮かされたようにペラペラと難解な専門用語を交えて説明をし続けている。
「人が中で眠っている」という印象を獏良は最初に受けた。
長い髪に細い身体の男。見た目の年齢は十代後半。
――僕に似てる。
獏良がそのまま成長したような姿をしていた。
父親は最も身近な存在である息子をアンドロイドのモデルにしたのだ。
だから、獏良には新しく増えた家族のように見えた。年の離れた兄が一番それらしいかもしれない。
「起動するぞ」
父親は聴衆のいない演説を終え、制御装置の前に立った。
じっと獏良がカプセルの中を見つめていると、ゆっくりとアンドロイドの目が開かれた。
真っ正面を向いていた瞳が下を向き、背伸びをしている獏良の視線と交わった。
同じ色の瞳がカプセルの中から見つめている。
中にいるのは、新しい家族。
獏良の心は喜びで満ち溢れ、初対面の人間にするように行儀良く挨拶をした。
「こんにちは、はじめまして」
返事はない。表情も変わらない。
しかし、瞳が何かを語りかけているような気がした。
カプセルの外側と内側で二人は見つめ合っていた。

アンドロイドが完成してすぐに、とある研究所から使者がやって来た。
その使者によれば、ロボット工学の権威が父親の才能を買っていて、すぐにでもお抱えの研究チームに入って欲しいという。
名の知れた博士の下であれば、いくらでも好きなように研究ができると、父親はすぐに話に飛びついた。
研究に取り憑かれた父親は、息子のことも苦労して作り出した初女作のことも忘れて研究所を去った。
残されたのは、まだ幼い少年と生まれたてのアンドロイド。
そんな状況でも獏良が絶望しなかったのは、一人ではなかったからだ。
隣にいる新しい家族の世話という、やらなければならないこともあった。
「僕には父さんみたいな才能はないけど、手先は器用なんだ。君のメンテナンスくらいはできるよ」
物を言わないアンドロイドを安心させるように獏良は微笑んだ。
それから、獏良は父親の残したデータをひっくり返し、理解のできる箇所だけ読み漁った。
とはいうものの、ロボット工学の知識がない獏良にとっては、分からないことだらけだった。
それでも、アンドロイドの基礎的な扱い方だけは理解した。
アンドロイドに登録された基本情報にパソコンからアクセスすると、名称欄に「bakura」と入力されていた。
「パパったら、苗字を入れちゃったんだ。ややこしいなあ……」
研究一筋の父親らしかった。
父親に必要なのはロボットしての機能だけであって、呼称などどうでもよかったに違いない。
空欄のままにしておくわけにはいかず、手っ取り早く自分の苗字を入力したのだろう。
幾らパソコンを弄ってみても、獏良にはデータの上書き方法は分からなかった。
アンドロイドの名前は「bakura(バクラ)」のままにするしかない。
次に獏良が行ったのは、バクラの学習だ。
いくら性能の良いロボットであっても、このままでは生まれたての赤ん坊のまま。
様々なデータをインプットしていく必要がある。
パソコンに様々なソフトをインストールするように、制御装置からデータ入力が可能らしいというところまでは分かったが、肝心の方法は不明だった。
幸い自立思考型アンドロイドであるバクラには、優れた学習機能が搭載されている。
獏良は自分の使っていた古い教科書を引っ張り出し、床に広げて幼児にするように読み上げた。
「あ、い、う……」
バクラは隣に座って大人しくそれを聞いていた。
努力の甲斐あって、すぐにバクラは話せるようになった。
「僕は、『ますたー』」
「やどぬし」
「ますたー」
「やどぬし」
基本情報のユーザー名欄に登録された単語は、やはりどうしても変更できなかった。これも父親がいい加減に入力したものだ。
「master」ではなく「host」であることが、いかに無関心だったか表れているようだ。
「もう、いいよ。『やどぬし』で」
獏良もとうとう根負けをして、その呼び名を受け入れた。

それから、二人だけの生活が始まった。
生活費は父親の口座から引き出した。
いつまでも口座が凍結されず、暗証番号も変わらないのは、父親としての情が残っているからだろうか。
それとも、研究に没頭するあまりに些細な引き落としなど気にならないのだろうか。
いずれにせよ、以前より格段に父親の収入は増えていた。贅沢しなければ、生活に困ることはない。
バクラの定期メンテナンスは、獏良が説明書を見ながら慎重に行った。
これが修理となると、簡単にはいかない。
バクラに自己修復機能はついているものの、おまけ程度でしかなく、最初の数年は破損しないよう細心の注意を払った。外出も控えなければならなかった。
バクラの源動力は他のロボットと同じく電気で、充電はカプセルで可能だった。
人間が睡眠を取るようにカプセルに入り、一晩経てば充電が終わっている。
夜は就寝の挨拶と共に獏良はベッドに入り、バクラはカプセルに入る決まりになった。
無性に寂しい夜だけは、バクラを呼んで一緒に寝た。
「今日は一緒に寝て」と袖を引くと、バクラはいつでも黙ってベッドまでついてきた。
二人は本当の家族のようになっていった。

***

月日は流れ、獏良の背丈がバクラに追いつき、二人はますますそっくりになった。
父親の未来予測が正確だったのか、獏良がバクラに影響されたのかは不明だ。
バクラはすっかり人間と変わらない言動を取るようになっていた。
学習するようになって一ヶ月後には自分で本を読むようになり、六ヶ月後にはパソコンからインターネットに接続して情報を収集するようになった。
徐々に獏良の負担は減り、教える側だった獏良が今では逆に教わることもある。
獏良はバクラの知能が自分より上回ったことに不快な顔はせず、むしろバクラの成長を誇らしいと思っていた。
獏良がバクラをただの道具ではなく、家族として見ているからだ。
バクラは自分の修理すらできるようになった。
さすがに心臓部に手を入れることはないが、工具を使って己の身体を開くのは不思議な光景だ。
背中などの手が届かない部位は獏良が手伝った。
劣化した部品をネット通販で注文し、自身の手で交換するということも繰り返していた。
一ヶ月に一度の定期メンテナンスだけは引き続き獏良が行っている。
メンテナンス当日になると、バクラは獏良にせがむように工具一式を手渡す。
人間たちが健康診断と呼ぶ面倒事も、バクラにとっては至福の時間のようだった。
今やバクラは人間よりも賢くなった。
お陰で獏良は家をバクラに任せて、のびのびと学生生活を送っている。

「ひゃっ、遅刻する!」
パンを口に咥え、獏良は制服のボタンを上から留めていった。
「夜更かしするからだろ」
「ふぁっえ、んぐ……面白い映画がやってたんだもの」
どたばたと慌ただしく食卓の周りで登校の準備をしていた。
「ホラー映画な。やめろっつたろ」
バクラはそれを冷静な目で眺めている。
「いや、待てよ……」
頭部にあるメインメモリに登録されたばかりのテレビ番組の情報を開き、ぽんと手を打った。
「その映画、午前一時に終了してるな。……お前、さては調子に乗って見たものの、ビビって眠れなくなったな?」
パンを片手に持ったまま獏良の頬が赤くなる。
「おいおい、その年で眠れなくなんて勘弁してくれよ。B級……いや、ネットの評価によるとC級ホラーだぞ。呼んでくれれば、また昔みたいに一緒に寝てやったのによォ。宿主サマ」
「もう!もう、いいから!悪いけど、洗濯物干しておいてくれる?」
長い髪を掻き上げて「へーへー」と投げ遣りな答えを返すバクラは、まるで生きている人間のよう。
「育て方、間違えたかも……」
獏良は肩を落として学校に向かった。

帰宅後や休日は二人でボードゲームに興じる。
バクラがインターネットで最新情報を確認して評判のゲームを購入することもある。
始めの頃は獏良の勝ちが多かったが、ゲームのルールを学習したバクラにはなかなか勝てなくなってきていた。
最近はサイコロやルーレットを使用する運の要素が強いゲームを選ぶようにしている。
そうでなければ、たっぷりハンデをつけなければならない。
「王手」
今日も獏良は将棋で飛車角落ちのバクラにこてんぱんにやられてしまった。
「ああー……。やっぱり、勝てないなあ」
知力が物を言うゲームだと、勝つのがなかなか難しい。
神経衰弱のような記憶力頼りのゲームも同様だ。
すぐに駒をケースに戻し始めるバクラとは対照的に、獏良は自軍の駒を未練がましく指でつついていた。
「遊戯くんが相手なら、いい勝負になるのかなあ」
駒を持ったままバクラの手が止まった。
「……最近よく聞くな、その名前」
「うん!友だちなんだ」
照れ臭そうに獏良は笑う。
獏良は高校生になってから、楽しげに学校に通うようになった。
それまでは複雑な家庭環境が学校に伝わり、居心地があまり良くなかった。
表立って差別されていたわけではない。
クラスメイトや先生から必要以上に気を遣われたり、距離を置かれたりしたのだ。
本当の友人はいなかった。
それでも、バクラと一緒だから寂しくないよと健気に振る舞っていた。
高校でできた新しい友人たちは、家族のことなど関係なく獏良と仲良くしてくれる。
「ふーん、良かったな。やっぱり人間の友だちは必要だよな。オレみたいな機械なんかじゃなく」
顔色を変えずに盤面から駒を取り除いていくバクラに、
「そんなこと言わないでよっ!君は大切な……僕のたった一人の家族なんだ。他の人とは比べものにならない。機械なんて言わないでよ」
獏良はバクラの手を掴んで真剣な眼差しを送る。
血の通っていない手は驚くほどに冷たいが、獏良にとってはどうでもいいことだ。
ぱらぱらと駒がバクラの手から落ちていった。
「そんな顔するな。オレにとってもお前はたった一人の宿主だ。あんまりお友だちと仲良くするもんだから、ちょっとばかり妬けちまったのさ」
バクラは手を握り返し、唇を横に広げた。
子どもをあやすように手を小さく揺らす。
初めて会ったときから二人はずっと一緒だったのだ。
二人の間に割り入れる人間などいるはずもない。

***

獏良は担任教師から知らせを受け、午後の授業を放り投げて慌てて自宅へと帰った。
自宅に窃盗犯が入ったと警察から連絡があったのだ。
盗むものなんて家にはない。
通帳は学校帰りに生活費を下ろそうとしていたので、学生鞄の中に入っている。
心配なのはバクラのことだけだ。
自宅へ戻ると、数人の警察官とバクラが研究室に顔を並べていた。
部品や資料が詰まった棚の扉や引き出しはすべて開けられ、床には物が散乱している。
「君がこの家の人だね。まず、盗難物の確認をお願いしたいんだけど」
警察官が話す向こうにバクラの姿が見え、獏良の息が止まった。
Tシャツの袖口から伸びているはずの左腕が、二の腕の真ん中辺りからすっぱりと消えていた。
「バクラッ!!」
話しかける警察官を押し退け、血相を変えてバクラの元へ走り寄った。
「それ、泥棒にやられたの?!ひどい……こんな怪我……」
腕の断面からは肉も骨も見えない代わりに、細い金属の管が垂れ下がっている。
「落ち着けよ。オレには痛覚はないんだから。破損箇所は少ないから、くっつけりゃすぐ元通りになる」
バクラは切断された白い左腕をぷらぷらと右手で振って見せた。
「君が痛くないって言っても僕は悲しいよ。君がこんな目に遭わされて」
「オレ様は簡単には死なねえから安心しろ。ほら、警察の方がお待ちだ」
警察の話によると、バクラが買い物に出かけている間に空き巣が窓を割って部屋に侵入したとのことだった。
犯人は複数名。
自宅は研究室と寝室に分かれていて、特に荒らされたのが研究室だった。
もしものときに備えて家に置いてあった少しばかりの現金が無くなっていた。
どちらかというと、割られた窓や床にぶちまけられた物の被害が大きいくらいだ。
プロの空き巣とは思えない粗雑な犯行手口から、最近この辺りを荒らしているヤクザ崩れの連中だと警察は目星をつけていた。
買い物から帰ったバクラと窃盗犯たちが鉢合わせをして、一悶着あったらしい。
その時にバクラは腕を欠損し、慌てた窃盗犯たちは逃走した。
たちの悪い連中だから、鉢合わせしたのが人間ではなくロボットで不幸中の幸いだと、警察官は言った。
「いやあ、本当に人間そっくりにできているから驚いた。事情聴取をしようとしたら、ロボットだって言うんだもんなあ。ロボットは目撃者として扱うわけにはいかないから」
「記録映像は提出します」
獏良が目配せをすると、バクラは頷いてパソコンの元へ行った。
ロボットの証言は公的に認められないが、ロボットによる記録映像は監視カメラと同様に証拠として認められる。
「自立思考型ロボットか。便利だなあ。これからはああいったタイプが増えるのかねえ」
いかに人間に似せて作られたロボットだとしても、法的には器物に当たる。
バクラのもぎ取られた腕については、器物損壊になるはずだ。
獏良は心情的には納得できていない。頭では理解している。
生き物であるペットも法律上は同じ扱いを受けているのだ。
いくら本人が痛くはないと言っても、獏良の胸は大いに傷んだ。
バクラは人間より遥かに強い力を持っている。
人間の力になるように、あらゆる機能も搭載されている。
車一台を持ち上げることも、鉄パイプをへし曲げることも、バクラにとっては朝飯前だ。
人間に襲われたところで、どうということはないはずだ。
しかし、人工知能ロボットの実用化に伴って制定されたロボット法では、ロボットはいかなるときも人間を傷つけてはならないと決められている。
ロボットは人間に手出しができないようにプログラムされている。すべての製造元に義務づけられていることだ。
人間を傷つけようとした場合、すぐさま機能を停止するように設定されているロボットも多い。
バクラは人間よりも強い力を持っていながら抵抗できなかったのだ。腕をもぎ取られたときも。
その場面をつい想像してしまい、獏良のこぶしに力が入った。
今は犯人たちが早く捕まるようにと祈るしかない。

バクラは左手首の外装パーツを横にスライドして中身を露出させた。
人間でいうところの、左手首の皮膚を剥がしたということだが、中に詰まっているのは血と肉ではなく機械。
皮膚に似せた薄い手首の外装パーツの下には数種類の配線用差込口がある。
パソコンと手首をケーブルで繋ぐ。
バクラの中にある一時間ほど前の記録映像をパソコンに送り、該当部分だけを切り取ってメモリーカードに保存をした。
「宿主」
バクラは映像に不備がないか入念に確認をしてから獏良を呼んだ。
「ちゃんと映ってた?」
獏良の問いにこくりと頷く。
「署に持っていく前に確認してみてもいいかな」
バクラが操作をする横から獏良と警察官の二人が画面を覗き込む。
映像はバクラの瞳から取り込まれ、体内のケーブルを伝って頭にあるメモリに記録される。人間の目とほぼ同じ構造だ。
従って、パソコンの画面に映し出されたのは、バクラが見たままの映像。もちろん、撮影者であるバクラ本人の姿は映っていない。
自宅のドアを開け、廊下を進み、研究室の扉を開ける。
部屋の中は既に荒らされていて、三人の男たちが部屋を物色中だった。
バクラの存在に気づいた三人が振り返り、口汚い言葉を吐き出す。
一瞬だけ窃盗犯の個々の顔がズームアップされ、「unknown」という小さな文字が浮かんだ。
目の前にいるのは不法侵入者だとバクラが判断したことになる。
『てめえら、人ンちで勝手に何してやがる』
バクラの恫喝に血の気の多い侵入者たちは青筋を立てて向かってきた。
『なんだとコラァ!』
侵入者の顔が目前まで迫り、映像が大きく揺れる。
バクラの白い左手がちらちらと画面に映り込んだ。
取っ組み合いで腕を捕まれているようだった。
男たちが罵詈雑言を投げつけ、唐突にボキンという鈍い音がした。
人間の骨が折れるような、耳を塞ぎたくなるような音に似ていた。
『うわ、腕がッ!』
悲鳴を上げたのは男たちの方だった。
画面にもぎ取られた腕が映り、それを手にした男は放り投げた。
血の一滴も流さない腕が素っ気ない音を立てて床に落ちる。
『こいつ、人間じゃねえッ?!』
『気味悪い!』
虚を衝かれた男たちは、捨てゼリフを吐いて画面から消えていった。
そこで、プツンと映像は終了した。
「うん、男たちの顔も映っているし、手配中の顔写真とすぐに照合できるね」
バクラはパソコンから取り出したメモリーカードを警察に手渡した。
「しばらくの間、近辺を巡回するから、何かあったらすぐに通報するんだよ。君のロボットは優秀かもしれないけど、少し威勢がよすぎるなあ。よく言い聞かせておくんだよ」
警察官はぽんと獏良の肩を叩いた。
現場検証は獏良が思っていたより早く終わった。
現場に残された指紋と獏良の指紋を取り、荒らされた部屋の写真を撮ると、警察は実にあっさりと引き上げていった。

現場検証が終わった後の研究室は、恐ろしいほどに寒々しかった。
散乱した窓ガラスだけは片付け、廃材で穴を塞いだ。
獏良は夕食をほとんど取らなかった。
「……ねえ」
就寝時間になってカプセルに向かおうとするバクラの背中に弱々しい声がかかった。
シャツの裾を獏良がちょんと掴んでいる。
目を伏せて暗い表情のまま一言も言葉を発しなかった。
「今日はお前が寝つくまで一緒にいてやるよ」

獏良は布団を肩まで引き上げ、バクラはその隣に肩肘をついて横になった。
バクラの胴の上に置かれた左腕は応急処置で接着したばかり。
本人はいらないと断ったが、心配性の獏良が二の腕に包帯をぐるぐると巻きつけた。
これでは本当に怪我をした人間だ。
「明日は学校休むね。先生にはもう言ってある」
「おう」
獏良は天井を見つめて今日のことを振り返っていた。
「業者に頼んでセキュリティ強化してもらうね。鍵も交換してもらわなきゃ……」
負の感情を振り払うようにぶつぶつと思考を声に出す。
獏良の額にひんやりと冷たい手が置かれた。
「もうあんなのは嫌だ」
目を閉じようとすると、昼間見た記録映像が脳裏に浮かぶ。
「今日はもう寝ろ」
バクラは穏やかな声で獏良に言い聞かせた。
「もし、君がいなくなったらと思うと僕は……」
バクラの腕がもがれた映像は衝撃的だった。
いつもそばにいてくれる存在であるバクラが、これから先も続いていくはずの日常が、壊されてしまうと思った。
当たり前だったものが足元から崩壊していく恐怖。
布団をかけても身体は冷えたままだった。
「心配すんな。オレはずっとお前のそばにいる。永遠にな」
「うん」
バクラが微笑むと、安心した表情で獏良は目を瞑った。
「君が無事でいてくれて良かった……」
すぐに穏やかな寝息が聞こえ始める。
体力と精神力の限界だったのだろう。
バクラの腕に巻かれた包帯が物語っているように、獏良はバクラをロボット扱いしない。
今日も腕の破損とは言わずに、怪我と言っていた。
人間もロボットも関係ない、一人の家族として接しているのだ。
バクラもそうだ。
初めてレンズに獏良の姿が映ったときから運命は決まっていた。
あの時からずっとバクラのレンズは獏良を映し続けている。
幼い頃と何も変わっていないのだなと、バクラは獏良の寝顔を見て思った。
あの三人組には感謝しなければならない。
こうして再び獏良の寝顔を見ることができたのだから。
バクラは獏良の頭を撫で、そっと音を立てずにベッドを抜け出した。
寝室から研究室に移動する。
パソコンを起動させ、キーボードを叩く。
昼間と同じようにパソコンと手首を繋いだ。
ファイル共有状態にして、画面に映像を映し出した。
『てめえら、人ンちで勝手に何してやがる』
昼間と同じ映像が流れ始める。
男たちの発する罵声や物音が暗い研究室に満ちた。
パソコンの明かりだけがぼんやりとバクラの姿を浮かび上がらせている。
『こいつ、人間じゃねえッ?!』
『気味悪い!』
慌ただしく不揃いな男たちの足音。
画面には誰もいなくなった研究室が映り――。
景色の残像を伴って視点がぐるりと勢いよく回転した。
次に映し出されたのは、廊下を走る男たちの背中。
逃げる背中にカメラが迫り、白い片腕が画面内に映り込む。
一人の男の背中へと腕が伸ばされ、手首を手前に引く動作をした瞬間、赤い飛沫が噴き出した。
画面が真っ赤に染まる。
赤一色になった映像からは音声だけが流れ続けた。
悲鳴と何かが床に落ちる鈍い音。
さらに、太い枝のようなものが折れる音。
綿が詰まった布団を打つような音。
水気を帯びたものを踏み潰す音。
繰り返される音の中で悲鳴はどんどん小さくなっていった。
『ヒャハハハハ……!』
狂ったような笑い声がスピーカーから流れ出した。
声にその他の雑音すべてが掻き消される。
「ハハハ……」
画面を見つめるバクラからまったく同じ響きの声が漏れだした。
二つの声が重なり、まるで反響しているようだった。
しばらくすると笑い声が止み、画面を覆う赤い汚れが拭われた。
画面に映ったのは撮影者の爪先。
床にはおびただしい量の赤い液体が床に広がっていた。
赤い水溜まりには所々に赤黒い塊が浮かんでいる。
『あーあ、こんなに廊下を汚しちまって。宿主が怒るぞ。掃除しねえと』
濡れた足音を最後に映像は停止した。
バクラは何事もなかったかのようにマウスを動かし、パソコンの中に残っていたデータを削除した。
作業履歴もすべて削除する。
「……あー、こんなの宿主に見せられないねェ。情操教育に悪い」
最後にバクラの中にあるメインメモリの元データに外部からアクセスできないようロックをかけた。

バクラに搭載されている「リングシステム」には、開発者も気づいていない致命的な欠陥があった。
アンドロイドに完全なる自我を与えると共に、強烈な破壊衝動と殺人衝動を生む。
かつてSF作家が提唱したロボット三原則――今のロボット法に影響を与えている――に反する行動を取るようになるのだ。

当初、獏良の父親は人間とロボットの「共生」を目指してした。
人間を「宿主(host)」として、本当の家族のように常に寄り添うロボットを作りたかったのだ。
しかし、人間に限りなく近い存在を人の手によって生み出した結果、破壊という正反対の性質を持ってしまった。
それは、「共生」ではなく、「寄生」。
宿主に寄生して、人間に害を為す存在。
神の領域に踏み込んでしまった人間への罰のようだった。

バクラがパソコンの電源を落とすと、闇に真っ赤な双眸が浮かび上がった。
生温い日常には飽き飽きしていた、久々に心地良かったと、深く息を吐き出す。
逃げ惑う人間たちを切り裂いて、引き倒して、千切って、抉って、潰して――。
中でも楽しかったのは、揉み合いになったときだ。
捕まれた左腕を引き千切って見せるだけで、粋がっていた男たちの顔が恐怖で歪んだ。
自らを傷つけるロボットなど存在しない。
男たちの目には異常なものに映ったのだろう。
あんなことで尻尾を巻いて逃げ出すくらいなら最初から空き巣に入るなと、もうこの世にはいない男たちに向かってバクラは嘲笑を送った。
今日の録画データを見直すのは終わりにして、別のデータを開いた。
人間的に表現すると、「思い出す」だ。
起動してから今までの出来事は、すべてメインメモリの中に保存されている。
人間の不確かな記憶とは違い、いくら時間が経っても鮮明に残っている。
メモリの大半を占めているのは獏良のことだ。
初めて会ったときの純真無垢な笑顔、教科書を読み上げる真剣な顔、今日見せた悲哀に満ちた顔……。
何度も繰り返しデータを遡る。
バクラの中は獏良の記録で埋め尽くされていた。
「ハア……」
抑えきれない欲求に、恍惚として目を細める。
先ほどの映像を獏良に見せたら、どんな表情をするのだろうか。
絶望に染まっていく様を見てみたい。
きっと今までに見たことのない表情をするに違いない。
誰よりも大切な存在が壊れていく。
なんて残酷で素晴らしい光景。
全身に震えが走っていく感覚がした。
そのような機能はついていないのだから、ただの錯覚だ。
それほどまでに、バクラの気分は高揚していた。
まだだ。
まだ早い。
いま居場所を失ってしまうのは賢明ではない。
それに、楽しみは最後まで取っておかなければ。
バクラは発熱した中枢部を冷やすために冷却装置を稼働させた。
内部の温度が徐々に下がっていく。
生まれ持った破壊衝動と宿主への慕情がない交ぜになり、歪んだ愛情へと変容していた。
生みの親である獏良の父親には何の感情も抱いていないが、獏良という唯一無二の宿主に引き合わせてくれたことには感謝はしなければならないと、バクラは常々思っている。

昼間は上手くいった。
窃盗事件に大掛かりな現場検証が行われるはずはないと予想を立ててはいたが、被害額が微々たるものだったことと、被害者が学生だったことで甘く見られ、警察の捜査は呆気なく終わった。
警察の関心はむしろ窃盗グループの方にあった。
上辺だけは被害者に同情を見せ、手柄を立てることの方を重要視していたはずだ。
犯行の証拠となる録画データを渡してしまえば、さっさと引き上げるだろうとバクラは踏んだ。
結果はバクラの思惑通り。すべてが都合良く進んだ。
盗みに入った先で暴力を振るおうとする社会のクズが三人消えたところで大した騒ぎにならないだろう。
心配して探そうとする恋人や家族などいるはずはない。
もしいたとしても、心配してくれる人がいて良かったなと肩を叩いてやりたいくらいだ。
男たちの手向けになるかもしれない。決して見つからないところに彼らはいる。
バクラはふっと鼻で笑った。
今日訪れた警察官たちの画像データを開き、見せられた警察手帳を拡大する。
手帳に記載してある氏名、階級、職員番号を読み取った。
これだけ分かれば、住所や家族構成などすぐに調べがつく。
おざなりな捜査はバクラにとっては都合が良かったが、獏良を侮辱したも同然。
警察官たちには制裁を受けてもらわなければならない。
――オレ様の宿主に色目使ったやつもいたなァ。
読み取った情報を警察官の登録データに上書きした。

カプセルの扉を開き、中に身体を収める。
今日はとても気分が良い。
もし、人間だったらいい夢を見るに違いない。
夢を見る機能が備わっていないのが、とても残念だった。
――お前の夢はどんな夢なんだ……。
待ち望む未来がそう遠くなければいいと考えながら、バクラは眠りに就いた。

+++++++++++++++++

獏良→バクラのマスター。この話ではバクラへの好感度が100%。バクラに心を許し過ぎている。
バクラ→あらゆる意味で宿主が大好きすぎて大変なことになっているアンドロイド。世界を壊したいし、宿主は愛でたい。やっていることはいつもと変わらない。

こんな設定もありかなあと思って書いてみました。
『アトム ザ・ビギニング』というアニメに触発されて。アトムはもちろん心優しい正義の味方なのでこんなことはしません。
宿主のことで頭いっぱいのバクラが書きたくて。
最終的にバクラの本性がバレたら、二人とも死にそう。
無理やりハッピーエンドなら、誰もいないところで二人きりで暮らせばいいと思います。

前のページへ戻る