心もお腹も満たされて ※二心二体、もしも原作終了後にバクラが戻って来たらの未来話
最近、獏良には悩みがあった。
まだ学生である獏良の方が帰りは早い。
バクラの帰宅時間はまちまちで、仕事量によっては夜九時を過ぎてしまうこともある。
夕食を作りながらバクラの帰りを待つ毎日。
学生と社会人では半分すれ違い生活のようなものだが、すべてを理解し合う仲だからこそ互いに気遣うこともできる。
バクラが忙しければ、できるだけ獏良が家事担当に回る。獏良が試験勉強や課題で手一杯ならば、バクラが三食に加えて夜食まで用意をする。
二人の間には大きな揉め事もなく、平穏な日々が続いていた。
獏良がカレーを煮込んでいると、玄関からガチャリとドアが開く音がした。続いて近づいてくる布擦れと足音。
「帰ったぞ」
廊下からキッチンに獏良が顔を出す。
「おかえりー」
獏良はお玉で鍋を掻き回しながら笑顔で迎えた。
「今日はカレーか」
「うん、そう。チキンだよ。もうすぐできるからね」
すべて言い終える前に、バクラが手にした紙袋の存在に気づく。
小脇に抱えられるほどの大きさで、口をくるくると折り曲げて封がしてある。
気づかないふりをして、僅かに止まった視線を鍋に戻した。
バクラの目に獏良の些細な感情の変化は映らずに、そのままリビングへ消えていった。
獏良は完全にバクラが去ったのを確認してから、こっそりとお腹を擦った。
――まただ……。
夕食を取り終わり、適当なバラエティ番組にチャンネルを合わせ、緩やかな食事後の時間を二人で過ごす。
獏良は二つのコップに急須を傾けてお茶を注いだ。
「僕、お皿片付けてくるね」
食器を重ねてそそくさとキッチンに向かおうとしたところで、「これ」と先ほど確認した紙袋をテーブルの上に置かれた。
「なんだろうなあ?」
中身は分かりすぎるくらいに分かっていた。
それでも、最後の悪足掻きとばかりに素っ惚けて見せる。
「駅ナカの、新作」
バクラは指先で紙袋を獏良の方へ押し出した。
はっきりとした答えはないものの、二人の間では中身が容易に想像できる言葉だった。
これ以上は誤魔化せない。
そう判断した獏良は大袈裟に両手を広げた。
「……わあ、嬉しいなあ!」
お手本のような仕草にバクラは大きく頷いた。
「紅茶淹れてくるね。君も飲む?」
「オレはいい」
バクラの視線がテレビへと戻る。
獏良は白い紙袋から逃げるようにキッチンへと向かった。
沈んだ顔で紅茶缶を開け、ティーポットに茶葉を入れる。
獏良家で「駅ナカの」という言葉が口端に上れば、最寄り駅の構内に出店している洋菓子店を指す。
手軽に食べられるおやつから手土産に最適な箱詰めまで手に入る手堅い店。
行列ができるほどではないが、若者からお年寄りまで幅広い層に親しまれている。
特に人気の商品はシュークリームで、皮はしっかりと焼き上げられてさくさく、クリームは惜しみなく黄身を使用してとろりと濃厚、手頃な値段で学生たちにも評判だ。
「新作」といえば、定番のカスタード&ホイップではなく、期間限定のメニューだろう。
月毎にその季節に合わせた商品を売り出すのだ。
今月のメニューはなんだろうと獏良は首を捻る。
スイカやチョコミントのような変わり種を出すような店ではないだろうから、季節的に南国のフルーツか。メロンはないともいえない。ココナッツの可能性もある。それに、塩。塩といえば塩レモンなんていうのもある。
獏良は紅茶を蒸らしながら頭の中で推理を繰り広げた。
しかし、いくらシュークリームの中身に思いを馳せても、口の中は乾いたままで食欲は湧かない。
シュークリームは獏良の一番の好物だ。
なぜ好物を前に沈んだ顔をしているかというと、バクラが頻繁に買ってきてしまうからだ。
いくら好きなものとはいえ、毎日のように食べていれば飽きる。
そもそも、獏良は好きなものを好きなだけ食べ続けたいと思うタイプではなかった。
好きなものはたまに食べるから、とても美味しく感じるものと思っている。
毎日でも食べたいと主張はしてみても、実際にそうすることはない。
たくさん食べれば良いというわけではない。
ありがたみが無くなってしまう。
それに、甘いものを食べたいと思う日もあれば、塩辛いものや辛いものも食べたい日もある。
度を過ぎた量の好物は苦痛だった。
ポットからカップに飴色の紅茶を注いだ。カップから甘い香りが立ち上る。
なぜそんなにバクラがシュークリームを買ってくるのかというと、獏良に心底惚れているからだ。
好きな人に好きなものを贈るというのは、とても分かりやすい好意の表現だ。
受け取る側も感謝の気持ちを述べてありがたく頂戴する。
獏良も始めはそうだった。
奪うばかりだったバクラに何かをしてもらえるなんてとても嬉しいこと。
しかし、如何せんバクラの愛は重かった。
数ヵ月の内に童実野町周辺で購入できるシュークリームはほぼ制覇してしまった。
今はこうして期間限定の品を攻めている。
獏良は紅茶の入ったカップを持ってリビングに戻った。
バクラは獏良に背を向けるようにしてテレビ番組を見ている。
獏良がのろのろと紙袋を開けると、薄茶色の塊が二つ顔を出した。
「君は食べないの」
「オレはいい。お前が両方食え」
さすがに食後のデザートに二つは食べられない。
もう一つは明日に回すとして、やはりこの場で一つは完食しなくてはならない。
シュークリームが生物である限り、遅くとも翌日にはすべて胃に収める必要がある。
食べなければ、どんどん冷蔵庫の中で増えるような気がして、ぶるりと獏良の身体が震えた。
――あんぱんだか饅頭だかが延々と増え続ける怖い話なかったっけ……。
現実逃避をしそうになる頭をなんとか引き戻し、目の前のシュークリームと向き合う。
紅茶で口を湿らせてから、腹を括ってシュークリームに大きく齧りついた。
こんがり焼けた皮の中から甘いクリームが口の中に溢れる。
シュークリームはいつ食べても美味しい。これが連日でなければ、とても幸せなはずだった。
期間限定の正体はキウイだった。
あの店にしては変わった選択だと少しの驚きを感じる。
キウイそのものは季節感には欠けるが、少し酸味のある爽やかな味のクリームは夏にはぴったりだ。
獏良が二口目に進んだところで、テレビに見入っていたはずのバクラに視線を向けられていることに気づいた。
バクラはもぐもぐと口を動かす獏良を瞬きもせずに見つめ続けている。
この視線があるから獏良はバクラのシュークリーム攻撃に何も言えない。
軽い調子で渡されれば、正直な気持ちをさらりと伝えられる。
「たまにはおせんべいが食べたいなあ」などと、ねだることだって可能だ。
二人はもはや遠慮をする仲ではない。
しかし、バクラの視線から伝わる感情が重すぎた。
おいそれと受け取ったものに注文をつけられる雰囲気ではない。
はっきりとは口にせずとも、獏良に向けられる愛情が滲み出ている。
せっせと好物を買ってきては、自らは口にせずに、ただ黙って食べている様子を見ているだけ。
美味しそうに食べている姿を見ているだけで満足ですと、言い出しかねない雰囲気だった。
真っ直ぐな感情を向けられれば、獏良には食べるという選択肢しかなかった。
以前、ベッドで微睡んでいるときにバクラから夜の誘いを受けたことがある。
寝不足続きであまりにも眠かったために、半分寝惚けながら獏良が背中を向けて拒否したところ、翌朝から数日間バクラの気持ちが沈んでしまった。
獏良は面倒臭いという言葉を飲み込み、バクラが元の調子に戻るまで優しく構い続けた。
繊細なところもあるものだなと、バクラの意外な一面をその時初めて獏良は知ったのだ。
「美味しい」
「そうか」
せめて想いに応えなくてはと感想を述べれば、静かに深く頷かれる。
これではまたすぐにでも買ってきてしまいそうだ。
バクラの気持ちはとても嬉しいが、胸も腹もいっぱいだった。
もはや、シュークリーム焼けという現象にすらなっている。 さすがに体重も気になる。
あと数年この生活が続いたら、コレステロール値が急上昇して病院に呼ばれるのではないか。悪い想像が獏良の頭を駆け巡る。
「ねえ、君も食べない?僕ばっかりじゃなんだか悪いよ」
口の中のものが喉に入っていかず、獏良はシュークリームを掴む手を下ろした。
「いや、オレは……」
クリームに侵された胃が悲鳴を上げている。
このシュークリームを早く手放したい。
獏良は腕を伸ばして食べかけのシュークリームをバクラへと差し出した。
「……食べて」
バクラはなぜか居住まいを正し、きょろきょろと視線だけを動かして左右を確認した。
そして、身を乗り出して獏良の手の中にあるシュークリームを頬張る。
「美味いな」
「もっと食べて」
「いや、オレは……」
ぐいぐいとシュークリームを押しつけようとする獏良に、バクラは一瞬固まったかと思うと、ごくりと生唾を飲んで二口目に進む。
獏良が「もっと」と懇願をする度にシュークリームが減っていく。
あれだけ苦心して胃に収めていたはずなのに。目から鱗が落ちるようだった。
バクラはどことなく嬉そうにシュークリームを食べ続けている。
誰も傷つかない方法があったとは。
最後の一口は獏良の指先とバクラの唇が微かに触れて離れていった。
「美味しかった?」
「わりい、全部食っちまった」
「いいのいいの。二人で食べた方が美味しいね」
シュークリーム地獄から抜け出せて安堵する獏良に対し、バクラはこくこくと縦に首を何回も振っていた。
翌日からバクラが土産を持って帰れば、二人で分け合うようになった。
獏良がバクラの口元へ菓子を持っていく。
バクラの方から催促をして、口を開けることもある。
獏良の食べる量が半分になり、その内にバクラの好みが土産に反映されてシュークリーム以外のものも増えていった。
締まりのない顔で獏良の指まで口に入れようとするバクラを諌めながらも、獏良の顔は楽しげだった。
+++++++++++++++++
二人で暮らし始めると細かい色々なことが出て来るかなと思って書いてみました。
バクラに普通の男の子みたいなことをさせたいときもあります。
食べるコミュニケーションも好きです。デレデレしてるバクラを感じ取って頂ければ。
真夏の太陽よりも
「いい加減にしろッ!!お前は!」
「ふへ?」
突然飛んできた怒声に獏良はポテトチップスを咥えたまま顔を上げた。
リビングのソファの上で腹這いになり、手元には雑誌とポテトチップスの袋。
雑誌を捲りながら足を宙で遊ばせ、ポテトチップスの袋に手を突っ込んでいた。
実に贅沢な夏休みの過ごし方だ。
獏良は口の中のポテトチップスを粉々に噛み砕いた後にこくんと飲み込んで、
「なんのこと?」
声の主をのんびりと見上げた。
いくら怒鳴られてもまったく動じてないようだった。
「分かんねえのか!てめえの格好をよく見てみろッ」
声の主であるバクラは青筋を立てて獏良の身体を指差した。
指摘を受けた本人は一度身体を見下ろし、またバクラの顔に視線を戻し、こてりと首を横に倒した。
「なにかおかしい?」
ぱちぱちと大きな瞳が瞬く。
「ウソだろ……。だらしねえ格好すんなっつてんだよ!」
バクラは大袈裟に頭を振った。この世の終わりでも見てきたような反応だ。
獏良の部屋着姿は一人暮らしをいいことに緩みきっていた。
加えて今は夏休み。人の目を気にする必要はない。
タンクトップに短パン姿という、獏良に思いを寄せる学校の女子生徒たちが見れば卒倒しそうな格好だった。
ファンクラブの会員を自称する女子生徒が思い描く獏良は、家の中であってもパリッと糊が利いたシャツを着て、背筋を伸ばして紅茶を啜っている。
そんなものは幻想であって、高校生男子の実態など残念なものだ。家に帰ればさっさと制服を脱いで気を緩める。
おまけに今は連日の猛暑に外へ出ることも少なくなり、クーラーの利いた部屋の中でダラダラと過ごしている。
「どういう服を着ようが僕の勝手だと思うんだけど」
「限度ってモンがあるだろう!」
年頃の夢見勝ちな女子と違い、三千才を超える古代エジプト生まれの盗賊の魂は自らの宿主に理想を押しつけたりはしない。
今まで片時も離れず、獏良のすべてを見てきた。尻を掻こうが、掛け声つきの大きなくしゃみをしようが、驚くことはない。
それどころか他の誰にも知らない姿を知っていることに優越感すら抱いている。
しかし、今の獏良は軟体動物にでもなったかのように、だらしなく手足を投げ出し、時々身体の体勢をごろんと変えるだけで動こうとしない。
服の隙間からちらちらと見えてはいけないものが見えている。
風呂上がりはもっと酷いもので、タオルを肩にかけた下着一枚姿のまま、汗が引くまで部屋の中をうろうろと過ごす。
冷蔵庫から飲み物を取り、テレビを見るときでさえ、その姿のままだ。
「色々と解放されすぎだ、お前!」
目の前でだらしない獏良を見続けなければならないバクラは悶えていた。
「オレがどんなに切ないか考えて見ろ!」
身体を捩る度に見える胸が、足を開く度に見える下着の奥が、バクラを煽って視線を釘付けにした。
「だったら見ないでよ……」
「見えたら見ちまうもんだろ!お前も男の端くれなら分かるはずだ」
「いやあ……まあ、分かるけど」
目を血走らせて声を荒げるバクラに、獏良は顔を引きつらせて後退する。
同じ男として痛いくらいに気持ちは分かるが、その対象が自分ということに複雑な感情を抱かずにはいられない。
「好きなヤツの隙だらけの姿を見て何も思わない男がいるかっ。爆発しそうだこっちは!」
「同じ顔でそういうこと言うのはやめてよ!君の下半身の事情なんて聞きたくないよ!」
バクラは躊躇うことなく立てた人差し指で下を指した。
「男って悲しい生き物だね……」
獏良はさりげなく服の裾を引っ張って乱れを直した。
まさか、そんなに見られていたとは思ってもみなかった。
真夏とはいえ熱すぎる視線に焼け焦げてしまいそうになる。
「でも、一人暮らしなんだから自由にしたいなあ」
「対外的にはそうでも、実際は一人じゃねえからな」
「いやいや、僕は一人暮らしだよ」
「カウントしろよ!頼むから!」
話題が下世話な方へ飛びつつも真剣な話し合いの結果、過度な薄着は禁止ということで一応の決着はついた。
「お前も見られていい気分はしないだろ」というバクラの涙ながらの言葉に、獏良が心底情けなくなったからである。
それでも、襲ってこないのは変に律儀だなあと、不承不承ながら認めている同居人の新たな一面を知ったのであった。
「好きなヤツか……。フフフッ。バカだなあ」
+++++++++++++++++
暑いから仕方ないね。男の子だから仕方ないね。ということで。
バクラは我慢している方だと思います。
ハッピーボーナス ※二心二体、下ネタ
「僕も君のこと……好きかもしれない……」
沸き立つ歓声と鐘の音が聞こえたような気がした。
冷静になれば、そんなものはただの幻聴で聞こえはしないと、すぐに否定できたはずだ。
この場に観衆は存在せず、ただの二人しかいない。しかも自宅の狭い一室だ。
しかし、確かに聞こえたのだ。きっと世界が祝福しているに違いない。
顔を赤らめてもじもじと指の腹を擦り合わせる想い人を目の前にすれば、些細な矛盾などバクラにとってはどうでもいいことだった。
重要なのは、幸せの真っ只中にいるということなのだから。
好きだ惚れたと好意の言葉を恥ずかしげもなく幾度も口にし、やっとのことで実を結んだのが一ヶ月前。
頑なだった獏良の態度は停滞していると思えるほどに僅かずつではあったが軟化していき、満更でもない反応を見せるようになるまで相当な時間を要した。
バクラはそれまで辛抱強く獏良を口説き続けた。
直球で好意をぶつけるときもあれば、じっくりと雰囲気作りから入るときもあった。
幸い二人は同じ屋根の下で暮らしている。機会はたっぷりとあった。
時間がかかった分だけ、想いが通じた感動もひとしお。
さあ、これからは新婚さながらの砂糖菓子より甘い生活が始まるぞと、バクラは両手を高く挙げたのだったが……。
現実はそう甘くはなかった。
「ねえ、今度『江戸の町並みをジオラマで再現する展示会』があるんだ」
「行きたいのか?」
「うん!」
「いいぜ。いつにする」
獏良はソファに座り満面の笑みで展示会のパンフレットを広げ始めた。
鼻唄を口ずみながら紙面に指を滑らす。
その横からバクラの腕がゆらりと伸び、肉付きの少ない腰に絡みついて引き寄せる。
獏良は名残惜しそうにパンフレットから手を離し、それでもバクラの方へ向き直った。
「なに?」と言いたげに小首を傾げる。
バクラが無言で視線を送っていると、意図を察して獏良は目を瞑った。
桜色の唇が薄く開いて触れられるのを待っている。
どこからどう見ても幸せなカップル。
両思いになってから、二人は喧嘩もせずに仲良く暮らしていた。
穏やかな気質の獏良と過去の因縁が絡まなければ冷静なバクラでは、揉め事が起きようもない。
特に獏良は両思いになってから、バクラに対して無防備で常に機嫌良く接している。
家ではごろごろと横になりながら飽きることなくスキンシップをし、休日には獏良の望む場所へ手を繋いで出掛ける。
付き合いたてのカップルそのものだった。
最初のうちは恥じらいを見せていた獏良も、誘われればキスに応じるようになった。
それなのに――。
バクラはソファの上で重なって獏良の唇を貪り、うなじから掻き上げるように髪を撫でた。
口内をちろちろと突けば、恐る恐るといった様子で舌が絡んでくる。
互いの乱れた息が混じって熱い。耳に絡み合う二人の愛欲に溺れる音が響く。
「なあ、そろそろ……ベッドに行くか」
「うん……」
頬を染めて潤んだ瞳がバクラを見上げる。
二人は無言でソファから降り、続きにある獏良の部屋のドアの前に立つ。
ドアノブを捻って獏良が部屋の中へ入ると、
「じゃあ、おやすみー!」
バクラの鼻先でバタンとドアが閉められた。
リビングに取り残されたのはバクラ一人。
――またかよッ!!そうじゃねェえええ!
バクラは下唇を血が出んばかりに噛み締めた。
極めて残念なことに、二人はいまだに一線を越えていなかった。
何度も触れ合ってはキスもした。
しかし、そこから先がなかった。
時には直接的に、時には間接的に、バクラがあの手この手で誘いをかけても、獏良が乗ってくることはなかった。
拒否をされているのではない。
キスをすることに抵抗は見せず、身体に触れられることもむしろ喜んで応じるくらいだ。
バクラの見立てでは、恐らく獏良はキスとボディタッチの先があることに気づいていない。
一緒に寝ようと伝えれば、額面通り受け取って川の字でぐっすりと寝息を立て始める。
身体をたっぷりと撫でて服に手をかければ、「くすぐったいよー」と場違いな笑い声が飛び出す。
つまり、バクラからのベッドへの誘いをまったくの天然で獏良は交わし続けていた。
何かの冗談ではとバクラは思いたかった。
こんなに順調な交際をしているのに、まだ最後まで辿り着けていないなどとは信じたくない。
交際を始めてからの獏良は本当に愛らしい。
子犬のように――実際は長身なので、とても子犬には見えないが――バクラに付いて回り、じゃれつく。
今まで一人で楽しんでいた趣味にいくらでも付き合ってもらえると、出掛けるときはぎゅっとバクラの手を握って微笑みを絶やさない。
――なのに、なぜ!!
しかし、ベッドの上での話になると、悲しいほどに何も起こらなかった。
高校生の交際とはとても思えない。
三日前など背中を流してやろうと風呂に乱入し、なぜか湯船でアヒルの玩具と遊ぶ羽目にもなった。運にも恵まれていないのかもしれない。
知識がないのかとバクラが疑いたくなるほどだった。
確かに獏良は性に対して関心が薄い。
バクラは小さい頃から傍にいるため、機能として問題ないことは知っている。
高校生男子なら、もっと女体に興味を持って当然だが、獏良が夢中になっているのは模型やゲームの世界だ。幼すぎないだろうか。
これでは草食系男子どころか、絶食をしているようなものだ。
一因として女子生徒に追いかけ回されて辟易としていることもあるだろう。
――メスガキどものせいなのか。
バクラはここにいない女子生徒たちを恨みの念を送った。
恋愛に消極的な男性が増えていることは社会問題にもなっている。
母親と密接すぎる関係や女性の社会進出などが原因として挙げられているが、この際原因などどうでもいい。問題は性の目覚めが遅くなることだ。
二十代になるまで、まるで性に関心を持たないケースもあるという。
バクラがそこまで悠長に待てるわけがなった。
むしろ増えているスキンシップが呼び水となって、欲望その他口にするのも憚られる諸々が爆発しそうだった。
相手を落とす手段は幾らでもあるのだ。
しかし、今まで一度も無理に想いを遂げようとはしていない。
強引に事に及ぼうとして、獏良を傷つけてしまうことが一番恐ろしかった。
性に対して嫌悪感や恐怖心を抱かせてしまえば、癒すのに時間がかかる。
一度抱いた性への負の感情は、こびりついてなかなか取れなくなる。 心の傷は簡単には治らないのだ。
だから、無責任に荒療治をしようなどとは思わなかった。
せっかく想いが通じたのだ。同意の上で骨の髄まで愛し合いたいではないか。
最近バクラはずっとこの問題に頭を悩ませていた。
――どうすれば……。
要はその気にさせればいいのだと、半ば混乱気味に一つの作戦を思いついた。
既に両手以上の作戦が空振りし、もはや数えてはいない。
善は急げと最寄りのコンビニで必要なアイテムを小走りで購入してきた。
小さなビニール袋に手に収まるほどの細長い小箱が一つ。
ビニール袋はゴミ箱に放り込み、箱を手に取った。
大きく品名が正面に書かれ、背景で赤い炎がぼうぼうと燃えている。
――最早オレにはこの手しか……一服盛るしかねえ!
「凄い!十種類も強精成分が入ってる」という意味合いで付けたらしき品名を追い詰められた獣の目つきで睨んだ。
原材料表記を見れば、マカ、トンカットアリ、黒ニンニク、高麗人参、牡蠣……などなどのいかにも効果がありそうな十種類の主要材料に加え、それらの効果を高める数種類の成分が羅列してあった。
箱のデザインや成分はあからさまであるが中身は液体。
これを栄養ドリンクと偽って獏良に飲ませる。
ただ飲ませただけでは殆ど効果がないことを勿論バクラは知っている。
ましてやコンビニで販売しているものだ。効果は一般のドリンクとさほど変わらない。
基本的に体力や持続力を補うもので、爆発的な反応が起こるものでもない。
逆に考えれば、簡単に飲ませることができる上に、人体に悪影響がないともいえる。
成分が怪しい媚薬を盛って獏良に副作用が現れては元も子もない。
ドリンクを飲ませることが重要で、飲み干した後で変な気になる薬なのだと囁けばいい。
所謂プラシーボ効果だ。
性反応は精神によるところが大きい。思い込みの効果はてきめんのはずだ。
一度反応させてしまえば、後は煮るなり焼くなり自由だ。
ドリンクの効果も多少は手伝ってくれる。
完璧な作戦だとバクラは箱を潰さん限りに握り締めて勝ち誇った笑みを浮かべ、
――これじゃあ、押し倒すのと変わんねえじゃねえかッ!
すぐにがくりと肩を落とす。
無理はさせないと決めたはず。
錯乱した結果のあまりに向こう見ずな暴走だった。
無意味となった細長の箱を手の中で持て余した。
「勿体ねーなコレ。まあ、オレには必要ねえけど」
無事に最後まで至ることができたなら、宿主に飲ませてみようかとゴミ箱行きを留まった。
「ドラマの濡れ場でも見せてみるか……」
小学生レベルの新たな作戦を力無げにバクラが呟いた瞬間、ガチャリと玄関の戸が開いた。
慌てて冷蔵庫に箱を突っ込む。
冷蔵庫の中には獏良がほとんど趣味で集めた調味料が詰まっている。
通常の料理には必要ない使用頻度の低い瓶群の後ろに箱を隠す。
獏良が一風変わった異国料理を作ると決めない限りは手を伸ばさないはずだ。
とりあえず、今のところはここに保管しておいて、あとでゆっくり隠せばいい。
冷蔵庫の戸を閉めると、バクラは素知らぬ顔でリビングの椅子に足を組んで座った。
同時に獏良がリビングに顔を出した。
「ただいまー」
「おかえり」
制服姿のまま学生鞄と買い物袋をぶら下げている。
バクラはリモコンを片手に頬杖をついてテレビを眺めているような姿を取っていた。
いつもと変わらない日常風景だ。
獏良はバクラの隠し事にはまったく気づかずにキッチンへと入っていった。
バクラの元にガサガサとビニール袋の音が届く。
続いてパタンパタンと冷蔵庫を開閉する音。
幾度も繰り返され、やがて止んだ。
冷蔵庫に買った品を入れ終え、獏良が再びリビングに戻る。
「ねえ」
「ん?」
「これ、君の?」
にこやかな表情で差し出した獏良の手の中には先程の箱。
まるでCMで商品をアピールするモデルのようだった。
「ん゛ッ」
バクラはその光景に目を剥いて硬直した。
性知識の乏しい少年が微笑んで一部の中年男性が愛飲するドリンクを手にしている。
見た目も状況も何から何までアウト。
「冷蔵庫の隅に転がってたんだけど。僕には覚えがないし、忘れてたのかな?」
「ど……どうしてそれを……」
バクラから発せられたのはほとんど呻き声だった。
「ん?今日は本場風のパキスタンカレーを作ろうと思って冷蔵庫を漁ってたら見つけた」
――なぜそれを今日作ろうと思ったァ!!
喉まで出かかった言葉をバクラは必死に飲み込む。
バクラの顔色がころころと変わる様子を見て、さすがの獏良も異変に気づき目を丸くした。
そして、そのまま手の中に視線を落とす。
品名が書かれた面を凝視し、無言で箱を裏返す。
そこには原材料が、あからさまな強精素材が羅列されている。
――終わった……。
バクラの目からは数千年も流していない涙が出そうだった。
「これ……君が……?君が飲むの?」
信じられないと言いたげな顔つきで獏良はバクラと箱を交互に見比べる。
――いっそ、そうしておいてくれ……。
一時の迷いではあるものの飲ませようとしていたなどと口が裂けても言えない。
プライドは傷つくが、ここは誤解してもらった方がいい。
バクラは力無く首を縦に振った。
「僕、こういうの詳しくないけど……」
獏良の頬にぽっと赤みが差す。片手で赤らんだ箇所を隠すように上から押さえ、
「ハイ」
もう片方の手で小箱をバクラに渡した。
「引かないのか」
「別に」
問われた獏良の顔は照れてはいるものの、否定の感情は含んでいない。
「意外だった」
体裁を取り繕うことも忘れ、バクラは思わず本音を漏らした。
「意外?」
獏良は目をぱちくりと瞬いてから細めた。
そして、聞き取ることがやっとの小さな声で、
「僕も……ちゃんとしたいと思ってるよ」
その言葉にバクラは椅子から勢い良く立ち上がり、獏良の身体に触れようとして手を止めた。
聞き間違えか、何度目かになる言葉の擦れ違いではないのかと、獏良の顔を凝視する。
熟れたトマトと肩を並べるほど真っ赤に染まり、蕩けそうなほど甘い笑顔がバクラの懸念をすべて払拭する。
感情のままに獏良の腕を引き、胸に抱き寄せた。
「で、でも!今日は……明日、学校あるし……しゅ……週末に、なら」
「週末、な」
口ごもる獏良にバクラは額をぐりぐりと擦り当て、目を合わせる。
「あの……」
「なんだ」
獏良はもう一度微かな、聞き取るのもやっとの囁き声で言った。
「僕、分からないから……優しく教えてね」
+++++++++++++++++++++
下ネタは下ネタなんですが、カップルには大切なことだと思います。
男の子にはいつも無駄に一生懸命でいて欲しいものです。
祀られるもの ※二心二体、半ファンタジー
小さな社の一室で和装の男が背中を丸めて座礼をしていた。
決まり事があるわけでもないのに、床に両手を八の字に突いて額を擦りつけんばかりに頭を下げ続ける。
退室を命じられても、頑なに動こうとしない。
部屋は三十畳ほどの奥行きのある和室で、男は敷居を跨いだほんの数歩先にいた。
それより奥に入ることは許されていない。
部屋の奥には高座が設けられていた。
高座には御簾が下がり、内部が見えないようになっている。
部屋の灯りは高座の左右に立てられた首の長い二本の燭台に頼りきりで、御簾の奥にいる人物の影をぼんやりと浮かび上がらせていた。
男はその人物に平伏し続けている。
額から流れた汗が両手の間にぽたりと落ちた。
しばらくして、ぼそぼそと御簾の奥から声がした。
男と御簾の距離はおよそ七、八メートル。話の内容はまったく聞き取れない。それでも男は黙っていた。
ほとんど空気と同化していた声が止むと、今度は若い男の澄んだ声が室内に響いた。
「どうかお引き取り下さい」
声の主は高座の手前、壁を背にして灯りの届かない隅に座っていた。男の顔も御簾の様子も見える位置。
御簾から発せられる微かな声を聞き取り、男に向かって取り次ぐ。
声を出す以外は黒子のように気配を消して控えている。
暗がりの中で辛うじて十代の少年であることと、整った顔立ちであることは視認できる。
身につけた半着が些か場違いではあった。
下男のような出で立ちをしながら、胸には金色に輝くペンダントをつけている。
「そこをどうにか!兄家族ばかりに親の遺産を持っていかれるのは勘弁ならんのです。このままでは生まれ育った実家も取られちまいます」
男は側付きの少年には一瞥もくれず、御簾に向かって懇願した。額をぐりぐりと床に押しつける。
また小さな声が御簾から漏れた。それを受けて少年が再び口を開く。
「いくら留まっても神の意思は変わりません。このままでは怒りを買ってしまいますよ」
少年の声は落ち着いてはいるが反論を許す隙がない。
男は口をもごもごと動かしつつも、やがて肩を落として部屋を去っていく。
ぎしぎしと遠ざかる床板の軋む音が、男の落胆した様子を表していた。
完全に音が聞こえなくなると、中から飛び出した手が御簾を持ち上げ、それまで大人しくしていた内側の人物が身を乗り出した。
「長かったなァ」
御簾から覗いた顔は側付きの少年と瓜二つだった。
黒色の狩衣を身にまとい、中に着る単は赤、背中に届く白い長髪はまとめずに垂らしている。
この社に祀られる神、バクラという村の信仰対象だった。
バクラは少年に向かって膝をパンパンと叩いて見せた。
「はいはい」
先ほどの様子とは打って変わり、少年はじとっとした目つきでバクラを見遣ってからのそりと立ち上がり、御簾の中へと入った。
本来ならば身分の低い者には決して許されない行為だ。
少年は指示された通りに胡座を組んだ足の上に腰を下ろした。
「通訳ご苦労さん。もうちっとストレートに伝えても良かったんだぜ」
少年を乗せて満足げにバクラは笑った。ゆらゆらと身体を揺らして少年の後ろ髪に触れる。
「あんなのとても伝えられないよ」
御簾の中からバクラが男に向かって吐いた言葉は眩暈がするほど乱暴だった。
少年は顔に出さずに苦心してできるだけ柔らかく伝えていた。
「もっと、『金が欲しい』ね。足りるほど貰ってンだろうに人間ってのは欲深いもんだな」
「今日は祈願書も届いているんだよ。目を通してね」
バクラはムスッと口をひん曲げると、
「くだらねー」
後ろから少年を抱きすくめた。長い後ろ髪を掻き分け、白いうなじに唇を寄せる。
その姿は威厳のある神には見えず、まるで駄々を捏ねる子供のよう。
「はあ……」
少年は慣れた様子で着物の合わせ目から滑り込もうとする手をきつく抓り、
「一応、君の役目なんだから」
高座に置かれた三方を指差した。
神に奉納するための白木台の上には紙の束が乗っている。
バクラは上体だけ捻り、腕を伸ばして三方ごと祈願書を引き寄せた。
その中の一枚を無造作に摘まみ上げる。
「あー……土地を高く売却したいィ?」
鼻で笑ってから、ごみを投げ捨てるような不作法な手つきで三方を放り投げた。
紙の束が宙を舞い、コンと軽い音がして三方が床に落ちた。
神へ捧げる願いにしては酷く薄っぺらい音だった。
「こらっ、罰当たり」
床に散乱した紙を前に獏良は腰を浮かしかけたが、がっちりと腰を押さえられて動けない。
「神サマに対して罰当たりはねえだろ」
紙に書かれているのは、すべて欲望に塗れた願いばかりだろう。
バクラは目を通さずとも知っていた。
「親の財産を好きにしたい」
「隣の一家が幸せそうで妬ましい」
「商売敵が憎い。死ねばいいのに」
そんな願いばかりを長年見続けてきたのだ。
閉鎖的な村に住む人々の願いは歪んでいた。
願いというよりは呪いといった方が正しいかもしれない。
普段は心の片隅にあり、押し込めておくような感情が、この村では「願う」ために言葉や文字という形になる。
具現化した歪んだ感情は呪詛に成り果てる。
お陰で、いくら表面上を取り繕っても、この村にはいつもどこか鬱々とした空気が流れていた。
一般的に神に祈るなら低俗的な願いは避けるもの。精々が「商売繁盛」とか「家内安全」といった言葉で表す。
あまりにも欲深い願いを口にするのは罪だと、多くの人間が思うことだ。
この村ではそれが罷り通ってしまっている。
なぜなら、正真証銘の神が降臨しているからだ。
それも、ただの神ではなく、人間の欲望を食らう神――闇を統べる大邪神。
遥か昔から大邪神を祀るこの小さな村は、狂った祈りを捧げることに誰も疑問に思わなかった。
例外として、男神子として世話係を任命された少年――獏良だけは村の仄暗い空気に染まらず、一人外れた位置に立っていた。
「鯖の味噌煮が食いたい」
獏良の肩に顎を乗せて、バクラは神とは思えないぼやきを口にした。
「はいはい、あとで魚屋さんに行ってくるから」
胴に回された腕を獏良は呆れ顔でぽんぽんと叩いた。
獏良が初めて社を訪れたのは七歳のときだった。
父に連れられて謁見の間に並んで正座した。
人間の住まいと変わらない程度の規模の社は拝殿と本殿を兼ねていた。
人間が立ち入りを許されているのは、通常の神社と同じく拝殿に当たる謁見の間のみ。
その他の部屋は神の間、すなわち本殿とされ、神と世話役を任命された者だけしか入れない。
本殿には神聖な場所とは程遠い、台所や風呂など一般的な家と何ら変わらない設備がある。
実際に神が社で生活しているのだから、このような構造になる。
獏良は大邪神に仕える神子の家系の生まれだ。村の中でも一目置かれている。
だから、幼い頃からバクラについてよく聞かされていた。
神の血を引いているから神子の役目を仰せつかっているのだと、父親から教えられた。
それについては、あまりにも突拍子もない話で今でも獏良は半信半疑だ。
しかし、神と同じ髪の色を受け継いでいることと、「ばくら」という大邪神の名を姓として名乗ることが特別に許されていることから、まったくの無関係とも思えない。
獏良は跡継ぎとして神に顔を見せに来たのだ。
相手が尊い存在であれば、顔を見てはいけないし、直接言葉を交わしてもいけない。
獏良家の者でも特別な時を除けば、それは同じだった。
親子で床に手を突いて頭を下げていた。
あとは立ち上がり、一礼して部屋を去るのみ。
古くから続いている通過儀礼とは名ばかりで、今では形だけの儀式となっている。
しかし、その年は例年にないことが起こったのだ。
御簾から白い腕がすうっと伸び、真っ直ぐに指を差した。
上げられた御簾は神の胸元までで、獏良から顔は見えなかった。
獏良はきょとんと神の腕を見つめていたが、隣の父親は狼狽えていた。
何に対して父親が動揺しているのかは理解できなくとも、神の指先が自分に向いていることは明らか。
「しかし……」、「あまりにも……」と、父親が作法をかなぐり捨てて、必死に何かを訴えているのを獏良は横で聞いていた。
その数日後だ。新しい神子として任命されたのが自分だということを獏良が知ったのは。
父親は憔悴しきった顔で獏良に告げた。
すぐに跡継ぎを社へ寄越せと神から命が下ったが、父親が粘り強く交渉し、獏良には少しばかりの猶予が与えられた。
神子としての役目を獏良家の名に恥じないように仕込むという名目で、五年間は普通の少年と同じように過ごすことができた。
勿論、神に仕えるために必要な家事や作法などもしっかりと学んだ。
成長する中で獏良は知った。父親の複雑な心情を。
決して口に出すことはないが、瞳は雄弁だった。
父親は誰よりも神に選ばれることを望んでいたのだ。
神子だけが身につけることを許される神器千年リングを欲していた。
息子の奉公を先延ばしにしたのは親心ではあったが、その裏には僅かな妬みも隠されていた。
これ以上先延ばしにすることは神の怒りを買うと悟った父親は、獏良家に伝わる千年リングを名残惜しそうに獏良の首にかけた。
その時、父親が見ていたのは自分と千年リングのどちらなのか、獏良は考えないようにしていた。
父親の屈折した思いを五年間感じていたのだ。
可能なら父親に譲ってしまいたかった。しかし、それは神が許さないだろう。
そうして、獏良は小さな風呂敷に入るだけの私物を持って、逃げるように家を出て社の離れに移り住んだ。
離れといっても、六畳一間の小さな部屋だ。台所や風呂などは社にある。
寝起きするだけの粗末な住まい。
人の世を捨て、神に仕える者になるのだから、充分な設備ということなのだろう。
神子になったからには、正当な理由がない限りはみだりに村を歩き回れなくなる。
ましてや、村から出ることは絶対に許されない。
不自由な生活を強いられ、父親が何を羨んだのか、獏良には理解不能だった。
獏良は改めて謁見の間に挨拶をしに行った。
父親から教わった通りに名乗り、神に頭を下げる。
床板を見つめながら、これから先の生活について考えていると、御簾が揺れる音がした。
続いて、ぎしりと床板が鳴る。
音は獏良の方へゆっくりと近づいてくる。
「顔を見せてみろ」
頭上から初めて聞く声が降ってきた。
ありえないと、獏良の床に置かれた手が震える。
神に仕える身になったとはいえ、身分は天と地ほどの差がある。
必要以上の言葉を交わさず、世話をする上で神と対面する機会があったとしても、視線を合わさないように目を伏せなければならない。
それなのに、神は真逆のことを命じたのだ。
しきたりと神の命令との間で、獏良は手を突いたまま固まってしまった。
「おい、聞いてンのか?」
神がむんずと獏良の腕を掴み上げた。
獏良は咄嗟にもう片方の手で顔を覆おうとした。
それより早く神の手が獏良の顎にかかった。
顔を持ち上げられ、目を閉じる間もなく神の姿を目にすることになった。
獏良の前には、同じ顔をした男が立っていた。まるで鏡を見ているようだった。
「ハッ!これほどとはな」
男は満悦げに目を細めた。
それからは獏良が予想に反することだらけだった。
正確には父親の教えとは百八十度異なる生活になった。
作った食事を膳に乗せてバクラの部屋まで持っていき、下がろうとすると呼び止められる。
「どこへ行く?」
「え……。僕はお勝手に戻ります」
「お前の食事は?」
「ありますけど……」
釜や鍋に残った食事を台所の隅で食べるつもりだった。
神より先に食事を終えて、片付けに入らなければならない。離れに戻ってゆっくり食事を取る時間はない。
バクラは膳を前にして座ったままふんぞり返り、
「このオレ様に一人で飯食えってのか?いいからお前の分も持ってこい」
否とは言わせない一方的な口調で獏良に告げた。
食事を共にするには身分が違いすぎると教えられていたはずが、いつの間にか毎食顔を合わせるようになった。
「もっと食って肉をつけろ」、「成長期なんだからな」と、バクラが皿からひょいひょいと獏良の皿へおかずを移すので、仕方なく同じ量のおかずを用意することにした。
仕えているはずなのに、まるで対等な人間であるかのような扱いだった。
獏良が疑問を口にすると、バクラは笑って答えた。
「ずっとジジイとババアの顔ばかり見てたからな」
「どうして僕を?」
「お前が選ばれた人間だからだ。お前みたいなのは千年に一度……いや、三千年に一度しか生まれないだろうな」
「選ばれた?」
「人間風に言えば、『惚れちまった』ってとこだな」
どうやら、事情は分からないが、神であるバクラのお気に入りになったらしいと獏良は悟った。
「まったく。もっと早くお前の親父がお前を寄越せばよォ。オレ様がじっくりと色んなことを教えてやったのに。勿体つけやがって」
口を尖らせて不平を並べる神の姿に、獏良はくすりと忍び笑いを零した。
二人だけの生活をするに連れて獏良の態度は砕けていった。
バクラは獏良の前では神ではなく、一人の人間のようだったからだ。
村人たちには顔を見せることもなく、一線を引いて接し続けている。
それでも、一度だけ村人に対して直接声を投げかけたことがある。
謁見の間で下がれと命じても一歩も動かず、
「あの女が憎くて憎くて。オレがあんなに尽くしてやったのに知らぬ存ぜぬだ。どうかあの女に一生治らない傷を負わせてやって下さい」
げっそり痩けた頬に空洞のような目を宙に向けて、その村人は呪詛を吐き続けた。
「許せない許せない……殺してやりたい……」
バクラは荒々しく床を鳴らして立ち上がり、御簾の中から声を張り上げた。
「くどい!出ていけ!!」
本来、聞くことを許されていないバクラの声を耳にした村人は飛び上がった。
床に肘をついて手を擦り合わせ、謝罪を繰り返しながら逃げ帰った。
バクラは御簾を上げると大きく舌打ちを鳴らし、開け放たれた引き戸を睨みつけた。
「愚かな……」
初めて見るバクラの激昂した姿に、獏良は部屋の隅で身を竦めていた。
やがてバクラは獏良に視線を向け、
「お前の耳が穢れる」
ぽつりと漏らした。
その時ばかりは軽口を叩けるようになった獏良でさえ、バクラの心情は読めなかった。
翌日、獏良は相談に訪れた村人が病に倒れたと知らせを受けた。
勝手に気を病んで倒れたということは獏良にも分かった。
わざわざ一人の人間に対して罰を下すなどということをバクラはしない。名も知らない村人にそこまで関心を抱くわけがない。
しかし村の者たちは神の怒りに触れたからだと、勝手に想像を巡らすのだろう。そして、ますます信仰を深めるのだ。
念のために報告すると、やはりバクラはつまらなさそうに鼻を鳴らした。
バクラが村人の願いを叶えることは少ない。
気紛れに作物が育たないという相談や体調不良が続いているという訴えに対して助言をするくらいだ。
バクラは好きで祀られているのではない。村人たちにまるで興味がないのだと、獏良は見抜いていた。
子供の頃から社にこもり、村の思想に染まらずに済んだからこそ思えることだ。
バクラには農作物を中心とした供物が奉納されるだけで、祀られている利点はない。
以前、獏良は父親と共に社の地下室に入ったことがある。
神子でも普段は入れない場所だが、跡継ぎのためとその日だけは許されていた。
通常の神社と同様にご神体が祀られているのだろうと獏良は思っていた。
実際にこの社では神が姿を現しているのだから、「ご神体」では少しおかしいような気がしたが。
父親の背中に黙ってついていった。
湿った匂いが鼻につく光の届かない部屋には、ご神体ではなく一つの石板が置かれていた。
石板には七つの穴が開いていた。
それぞれが異なる形状をしていて、内二つは金色の装飾品が埋め込まれている。
真ん中に空いた逆三角形の穴が目立っていた。
獏良が注目したのはその下の穴だ。見覚えがあった。
獏良家に代々受け継がれてきた千年リングと同じ形をしていたのだ。
そして、父親は獏良の跡継ぎだけに伝えられてきた話を口にした。
社にいる神は本来の力をほとんど失った姿であるということ。
遥か昔、絶大な闇の力を持った大邪神はこの地に封印された。
詳細な記録は残っていない。そんなあやふやな記録は昔話やら伝説と呼ぶ。
封印を施した者は若き王とも白き龍を操る神官とも言われている。
確かなのは、邪悪な存在とはいえ神であることに変わりはなく、恩恵に与ろうと寄ってきた者たちがこの村を作ったということだ。
大邪神を祀るため、石板のある場所に社を立てた。
社があるから石板があるのではなく、石板があるから社があるのだ。
封印されたバクラは石板から離れることができない。自由を許されているのは、その上にある社の中だけ。
社からは一歩も出られず、獏良が寝起きをしている離れにも行くことすらできない。
それを聞いた幼い獏良は、大邪神が酷く哀れなものに思えた。
表面上は祀られているものの、手足を縛られた生け贄のようではないか。
バクラと共に時間を過ごすようになり、さらに獏良は考えを深めた。
人間の尽きない欲を長年に渡り身に受けている。
きっと、自由になりたいに違いない。
本来の力を取り戻せば、こんな小さな村など一溜まりもないはずだ。
バクラの深い憤りを獏良は具に感じ取っていた。
接しているうちに住む世界が違う相手に同情してしまったのだ。
今や獏良は村人たちよりも、ずっとバクラに近いところにいた。
石板に七つの千年アイテムと呼ばれる神器を収めれば、バクラの封印は解かれる。
バクラの元に残った神器は千年リングだけだった。
祀られるものとなってこの地に縛られたバクラは、千年リングを証に立てて、獏良の先祖と身の回りの世話をするように契約したのだろう。
他に二つの神器が石板に収められているのは、長年かけて取り戻したからだとバクラは言っていた。
まだ辛うじて死霊を操る能力や物に魂を封じ込める能力は使えるのだという。
動けない身でバクラは少しずつ千年アイテムの居場所を探っているのだ。
それを聞いた獏良は複雑な気分だった。
バクラの気持ちに寄り添いたいが、闇の力を取り戻すことが何を意味するのか薄々気づいている。
バクラはたまに心の内を言葉の端に見せるだけで、表にはほとんど出さない。
身の回りの世話をしながら、獏良はそっとバクラの顔を窺うのだった。
獏良の料理を食べているときや二人で話しているときは、バクラから大邪神である気配は鳴りを潜めている。
最初こそは仕事だと思いながら仕えていた獏良も、今では家族のような存在として認めている。
就寝時以外で離れに戻ることはほとんどなく、四六時中側にいた。
「何もしねえから、今日はこっちで寝ろ」
「何も?寝る以外に何かある?」
「お前なァ……。オレを鎮めるのもお前の仕事だろ。とっととこっち来て癒せ」
どうやら、獏良はバクラにとっても心許せる存在になっているらしい。
そう思うと、獏良の胸はぽかぽかと温かくなる。
「オレがナカヨクしたいのはお前だけ」
一人で寝るには広すぎる布団に二人で入り、互いに温め合うように足を絡めて夜を過ごすこともあった。
ある日、村長から長い手紙が届いた。
参拝者を社から締め出し、バクラは蛇腹に折り畳まれた手紙を読み始めた。
獏良はいつものようにバクラの湯飲みにお茶を注ぎつつ見守る。
「フッ……」
手紙を読み終えたバクラは皮肉めいた笑いを浮かべた。
「なるほど。確かに今年は不作だったな。景気も悪いときてる」
ぐしゃりと手の中の手紙が潰れた。
「村の立て直しを願って、オレに人身を捧げるだとよ」
「えっ!」
獏良は血相を変えてバクラの腕を掴んだ。
人の血がいくら流れたところでバクラが喜ぶわけがない。
神に縋るあまりに古びた儀式を現代に甦らそうなどと、神が儀式に手を打って施しを与えるなどと、そこまで村人は信じ込んでいるのか。
「切羽詰まってンだろうなァ。どっかから拐ってきて生け贄にするんだろうな。穏やかじゃねえ」
バクラは遠くを見つめて言葉を続ける。
「今も昔も変わんねえな。自分たちのためなら他人がどうなっても良いんだろうよ。ホント終わってんな。
そのうちに身内で殺し合いになるぜ。人の命ごときでオレの力を利用できると思っているのか。哀れで愚かな生き物。自らの血で染まるまで気づかないのか。
貴様らの血と肉が、我欲と怨嗟が、心に落ちた闇が、我の糧となるのだ。お望み通り、古の石盤より我の力が解放された暁には火の海に沈めてやろう。地獄の果てで嘆き悔やめ」
紅の瞳に燃えるような光が灯り、歯が剥き出しになる。
獏良は声も出せずにバクラの袖を何度も引いた。
まるで別人のようになってしまったようだった。
戻ってきてと、心の中で叫びながら震える唇を噛む。
その祈りが通じたのか、バクラはぴくりと身体を揺らすと、一度目を閉じた。
再び目を開くと、いつもと変わらない視線を獏良に向けた。
獏良にはとても長い時間だったように思えた。
「君は……ここから解放されたいんだね……」
やっとのことで声を絞り出した。
「そうだな」
バクラは獏良を胸に抱き寄せた。
「僕は……」
すうっと息を呑み、気持ちを伝える。
「僕は千年アイテムなんて揃わなければいいと思ってる」
獏良を支えている手が微かに動いた。
潤んだ瞳でバクラを見つめて、
「君が自由になったら、きっと僕のことなんて忘れて飛んでいってしまいそうだもの」
バクラは面を食らったように目を丸くして獏良の顔を見つめ返した。
「お前のことは……忘れねえよ。この村を出るときは一緒だ」
胸に顔を寄せて「うん」と小さく獏良は頷いた。
小さな社の中で闇から生まれた神とただの人間が、互いの立場を忘れて静かに抱き合っていた。
+++++++++++++++++
描写少なめですが、バクラは了くんをとても可愛がってます。
あれこれ書きましたが、ほぼ原作通りと思ってもらえれば。