ちびっこパニック
小さな円形の座卓を引っ張り出し、二人は向かい合って座っていた。
場所はフィギュアの詰まった棚が並んだ自室。
大小様々な人形たちが観衆となって生気のない眼差しを二人に向けている。
二人は互いを見つめ合ったまま口を開かない。
場を持たせるためだけに木皿に盛られた手つかずの煎餅が空しい。
表情は対照的。バクラは固く腕組みをして、唇をむすっとへの字に結んで険しい。
獏良の方は明るい光を瞳に宿し、唇を緩ませている。膝の上に乗せた手がむずむずと小刻みに震えて今にも踊り出しそうだ。
「あのう……」
獏良が二人を阻む座卓を飛び越えんばかりに前のめりになってバクラに声をかけた。
「オレンジジュース飲む?」
「いらねーよッ!!ガキ扱いすんな!」
少々ずれた問いかけに、バクラはいつもより高い声を張り上げて、獏良を下から睨みつけた。
「ガキ扱いすんじゃねえ!」
床を打ち鳴らして片足を立てる。
「でも実際に子どもだし……」
バクラの憤りも意に介さず、獏良は優雅ともいえる仕草で口元に手を当ててくすくすと笑う。
「頭撫でてもいい?」
「おーまーえーはー」
とうとうバクラは怒りのあまりに肩まで震わせ始めた。
しかし、身体全体で感情を表現しても圧倒的に迫力不足。獏良の胸元にも届かない背丈では……。
突然、バクラが五、六歳ほどの姿に縮んだ。
といっても、バクラは獏良の姿を借りているだけで肉体があるわけではない。
「獏良」という形を取ろうとすると、中途半端な幼い姿になってしまうのだ。
バクラ本人にとっては大問題だった。
この事態に仰天して千年リングの中を探ってみたが原因は分からなかった。
どうやら千年リングを介して行使する力も幼い姿に合わせて低下しているらしい。
獏良の肉体に干渉する力さえほとんど失ってしまった。
思うように力が発揮できないことに苛立ち、獏良を呼びつけて今の状況に至る。
バクラは胡座を掻いた足を落ち着きなく揺らしている。
獏良の方はというと、バクラが幼児サイズに縮んでからずっと相好を崩している。
他人の不幸を笑ってはいけないと思うのか、時折ハッとなって真面目な顔を作る様子が、バクラには一層腹立たしかった。
獏良の接し方は幼児に対するものと同じだった。
兄として生まれた獏良は年下に弱い。公園で子どもに懐かれて微笑むこともある。
――こいつ。この状況を楽しんでやがる……。
にこにこと呑気な笑顔を浮かべる獏良をバクラは険しい目つきで睨む。
「可愛い」
いくら威嚇しても獏良を喜ばせるだけ。獏良の瞳がますます輝いてしまう。
二人で見つめ合っていたところで元に戻りそうもない。
肉体のない魂は不安定なもの。しばらく大人しく休んでいれば元に戻るかもしれないと結論づけて、ほぼ一方的な会議は終了となった。
バクラの干渉を受けない獏良の生活は平穏だった。
なにせ身体を乗っ取られる心配がない。
普通の学生生活を送れることがどれほど幸せなことか。
毎朝軽い足取りで学校へ向かった。
さらにバクラへの配慮も忘れずに逐一声をかけ続けた。
「お腹空いてない?」
「おやつあげようか」
「おねむの時間かな」
どこまでも優しく甘ったるい言葉。
身を屈めてしっかりと目線の高さを合わせる。子どもにとっては理想のお兄ちゃんの姿。
大人どころか三千歳を超えるバクラは大いにプライドを傷つけられた。
獏良は指摘される度に謝罪を口にして言葉遣いを改めるが、すぐ子ども対応に戻ってしまう。
見た目というのは、バクラが思っているよりも人間にとってずっと重要らしい。
凹凸が少なく全体的に丸っこい印象の子どもらしい顔立ちに、ぽってりとした短い手足。
獏良と相対するときは上目遣いになってしまう。
口を開けばキンキンと高くて締まりのない声に辟易する。心なしか舌っ足らずになってしまっているような気もする。
おまけに身長に合わせて短くなった髪では、歩く度に跳ねた一部がぴょこぴょこと上下する始末。
子ども扱いするなと言う方が無理なのかもしれない。
千年リングから解放される絶好の機会だというのに、獏良はマイペースにバクラを気遣い続けた。
「そんなに落ち込まないでよ。きっと風邪みたいなものさ。すぐに戻るって」
スーパーの陳列棚から調味料の小瓶を手に取りつつ獏良は言った。
ラベルの食品表示と値札を見比べ、隣の商品に手を伸ばす。
「気にしてる方が元に戻れ難くなるかもよ」
再びラベルと睨めっこ。調味料の購入は諦め、向かいの棚へ。並ぶ長方形の紙器を指で確認していく。
「できることがあれば協力するからさ。美味しいもの作ってあげるから元気出して」
「やどぬし……」
子ども扱いは見下されているようで気に食わないが、今までバクラを拒み続けていた獏良の優しい言葉を聞くと、ある種の感動がバクラの胸に広がった。
理由はともあれ獏良が心を開いていることは素晴らしいこと。
バクラは熱のこもった視線を獏良に向け――。
その手元にある商品に気づいた。
『りんごとはちみつたっぷり!カレーのプリンスさま 甘口』
優しく微笑みかける獏良と可愛いイラストが描かれたパッケージ。
「やどぬし!!てめえ!」
バクラは帰宅後すぐに獏良を床に座らせた。
これでやっとほぼ同じ目線の高さになる。
既に帰り道で獏良は何度も謝ってはいたが、バクラの腹の虫は治まる気配はなかった。
「ごめんね。下の兄弟ができたみたいでつい嬉しくってさ」
獏良の弁解が妙に猫撫で声でバクラの眉間の皺が深くなる。
どうやらバクラが小さくなっているうちに、獏良は泣く子も黙る――今の状態では子どもはバクラの方であったが――盗賊の恐ろしさを忘れてしまったらしい。
思い出させなくてはと、バクラは鼻息を荒くする。
「やどぬし!」
「はい?」
「こんなナリでもかまわねえ。だいてやる」
肩を激しく上下させて言い放った。
小さな身体で役に立つのか自信はないが、躊躇しているうちに尻に敷かれては堪ったものではない。元に戻れたとしても、力関係が逆転してしまう。
精神が大人ならどうにかなるだろうと拳を握った。
バクラの意気込みが通じたのか、獏良は正座のまま口をぽっかりと開けていた。
そのまま首が静かに前方へ倒れる。
「うん」
「やけにしおらしいじゃねえか。なら、いますぐすうじつぶんの……」
「抱っこだね」
腕捲りをするバクラに向かって、たおやかな笑顔の花が咲く。
「いいよ。おいで」
そう言って両手を広げる獏良の表情は、すべてを包み込むような慈愛に満ちていた。
「はあ?!……ちげえ。だくっていうのはなァ……」
「恥ずかしがらないでいいんだよ」
温かそうな胸としなやかな手がバクラを誘う。
「ぐ……」
残酷なまでの優しさと懐の深さを前に、バクラの中で男としてのプライドと欲望がせめぎ合った。
ここで欲望に負けたら威厳を取り戻す以前の問題だ。
その一方でこんなチャンス二度とないぞと悪魔が囁いている。
「どうしたの?」
爪が食い込むほど手を握り締めて葛藤をする。
プライドが欲望か――。
そして、バクラはプライドをかなぐり捨てた。
一夜明け、バクラは清々しい朝を迎えた。
小鳥たちが窓の外で祝福するように囀ずっている。
東の空から降りた一筋の眩い光が窓からきらきらと射し込む。
昨夜は幼い姿なのをいいことに、たっぷりと獏良の温もりを堪能した。
大切なものを失った気もするが、威厳だのプライドだのどうでもよくなっていた。
「抱っこ」が休養になったのか、すっかり元の姿に戻っている。
長い手足を伸ばして自由に動けることを確認した。
心なしか肌も艶々しているようだ。
獏良はいまだ布団に包まってスヤスヤと眠っている。
純粋無垢な寝顔に昨晩の温もりと感触を思い出してバクラの目尻が下がる。
今度は服越しではなく素肌でお願いしたいものだ、と卑しい想像をしながら顔を近づけた。
昨晩の続きとばかりに布団の上から覆い被さる。
「ん……んん……う?」
バクラの気配を感じてか、獏良は布団の下で身動ぎ、仲の良い上瞼と下瞼をゆっくり引き離した。
「宿主」
「うん……?」
ぼんやりとしていた獏良の目の焦点が合い、間近にバクラの姿を捉える。
「…………えッ!!」
一瞬で覚醒する獏良の意識。言葉よりも先に身体が勝手に動く。渾身の力をもってバクラの腹部を蹴り上げた。
「ぐえっ」
潰れたカエルに似た声を上げてバクラが床に転がる。
「あー、びっくりしたー。痴漢?」
「昨日は……あんなに……ッ」
夢の時間は終わったらしい。
腹を押さえるバクラの頭に流れる走馬燈は昨晩の思い出。
獏良は元の姿に戻ったバクラを気遣うこともなくベッドの上から声をかけた。
「やっぱり風邪みたいなものだったんだね」
+++++++++++++++++++++++
たまには甘えさせてみようと思いました。
鬼さんこちら ※パラレル
昔々、四方を山で囲まれたすり鉢状の土地に小さな村があった。
村人たちは僅かばかりの低地に住み、畑を耕して慎ましやかに暮らしていた。
村には、北側にある山に鬼が棲みついているという言い伝えがあった。
古来、鬼は自然の脅威や災いが具現化したものとして、人々より畏れ崇められているもの。村の言い伝えにある鬼も同様だった。
自然と村には「北の山に入ってはならない」という掟ができた。
掟を破れば、村に災厄が降りかかると信じられてきた。
命知らずな若者が度胸試しに入ってしまうことはあるものの、何者かに襲われて命からがら村に逃げ帰り、事の次第を村人たちに震えながら打ち明けるだけ。
ますます村人たちは鬼の存在に恐怖し、掟を固く守るようになった。
ただの迷信ではなく、その山には確かに鬼がいるのだ。
北の山に棲む鬼の名はバクラ。
村には大袈裟に伝わっているが、見た目はほぼ人間と変わらない。
見上げるような背丈でも、変わった肌の色をしているわけでもない。人間より少々色白で髪と瞳の色が珍しいだけだ。先が尖った耳も鋭い牙も有してはいるが、目立つものではない。
ただし、左右のこめかみよりやや上からは二本の角が生えている。
昔話にあるような牛型の角ではなく、内側に緩くカーブをした山羊の角に似たもの。村人たちに西洋の知識があれば、「悪魔の角」と形容するだろう。
立派なその角は、鬼の力の象徴とされ、人間たちは目にするだけで逃げ出す。
村がこの地にできる前からバクラは北の山に棲んでいた。
若い姿をしてはいるが、人間には想像もつかないほどの年月を経た大妖怪なのだ。人間とは時間の流れそのものが異なり、鬼の中でも突出した存在になる。
かつては都で暴れたこともあった。今では隠居生活を決め込み、山の中腹に建てた小屋で一日中微睡んで過ごしていた。
悪戯に山へ入り込んできた村人は少々脅して帰ってもらう。ほとんど現役を引退している身とはいえ、棲み処に勝手に入られて眠りの邪魔をされるのは困る。
バクラにとっては、縄張りの近くに人間たちが勝手に村を作ったのだ。
村人たちが山に寄りつかないよう注意だけは怠らなかった。
ある日、バクラがいつものように小屋で昼寝をしていると、胸から下げた千年リングがチリチリと鳴り出した。山への侵入者を伝える知らせだ。
千年リングの五本の針が磁石に吸い寄せられるようにピンと起き上がり、ある一点を指している。
「めんどくせえなァ」
バクラは渋い顔をしながらも跳ね起き、千年リングの針が示す方向へ一目散に向かった。
力で鬼に勝てる人間はいない。腕力も脚力も鬼は遥かに人間を凌いでいる。わざわざ結果が分かっている争いをするのは億劫だった。
山の斜面を滑るように下り、爪先を蹴るだけで崖を飛び越え、並ぶ巨木をすり抜け、あっという間に山と村の境目まで辿り着いた。
ここまでくれば勾配は緩く、窮屈に並んでいた木々は数を減らし、踏み均されただけの道が現れる。
バクラは茂みを掻き分けて山道にいるらしき侵入者の気配を探した。
侵入者は山の入り口付近でずっとまごまごとしていたらしい。千年リングが鳴ってから、ほとんど位置が変わっていないようだった。
村人なら周辺の地形を熟知して当然だからおかしい。特にバクラの棲む山と村との境界線は、掟により子どもの頃から叩き込まれているはずだ。
ほどなくして、バクラは一人の人間が途方にくれたように力なく歩いているのを見つけた。
ひょろりと背の高い痩せ型の男。明るい髪が長く背中に届いている。わざわざ人あらざる者の力を使う必要もなさそうだ。
バクラはスピードを緩めず男に肉薄する。着物の襟を掴み上げ、握った拳を侵入者の鼻っ柱に一発打ち込もうとした。
「ま、まって!!」
制止の声に拳が寸前で止まり、侵入者の前髪が風圧で乱れる。
「あー?人ンちに土足で踏み込んで待ったはねえだろ」
バクラが腕を引いて再び拳に力を込めると、侵入者は慌てふためいて言葉を続けた。
「僕も!僕も鬼だよ!君の縄張りだなんて知らなかったんだ」
通常なら戯言と聞き流すところだが、男の瞳をまじまじと見てから拳を下ろす。
バクラと同じ赤い瞳だった。よくよく見れば、肌も髪もバクラのものとよく似た色をしている。この近辺の人間にはない色だ。
しかし、鬼である決定的な証拠にはならない。
「鬼ィ?同胞だっつーんなら角はどうした。失くしちまったなんて言うんじゃねえだろうなァ」
侵入者の頭には鬼の象徴が見当たらなかった。
「う……。耳は?ほらっ」
なぜか侵入者は気不味げに口を窄め、横髪を両手で掻き上げてみせた。髪の下から露出したのは先が尖った耳。
「いいや、ダメだ。人間でもそんくらいのやつはいる。鬼なら角を見せろ」
「うう……。笑わない?」
それまで歯を剥き出して侵入者を威嚇していたバクラは眉を潜めた。言い逃れようとしているものだとばかり思っていたが、意外な反応だった。
どう見てもないものをどこから出してくるのか。
なぜか男はもじもじと恥ずかしげに身体を揺らしている。
「笑わねえから早くしろ。なに勿体つけてンだ」
煮えきらない態度にバクラの口調が刺々しくなる。
侵入者は頭をバクラに見えるよう背を丸めた。両手を頭頂部に乗せて髪を寝かせる。ふわふわとボリュームのある髪が押さえられ、頭の形が明らかになった。
「どこに角があるってんだ」
「ここ……」
さらに侵入者が身を屈めて頭を突き出す。両手の間、頭部の中央に一つの小さな突起物がバクラの目に飛び込んできた。
直径数センチ、高さは親指の長さほどの円錐形。小さくとも先端はしっかりと尖っている。形状的にただの出来物の類いとは思えない。
特筆すべきは、バクラのように骨の一部が露出したものではなく、頭皮が盛り上がっただけのものということだ。
主な有角類がそうであるように、鬼も生まれたときに角は生えていない。
頭蓋骨から骨の一部が突き出して角が形成される。
生え始めは皮膚をまとい、柔らかい。成長するにつれて皮膚が削げ、硬度が増し、バクラのような立派な角になるのだ。
牛の角を想像すると分かりやすい。
六歳を迎える頃には角として粗方の形は出来上がるはずだが……。
「確かに証明にはなったが……。小さいな。皮も剥けてねえし」
「だから嫌だったんだ……」
侵入者は下唇を噛んで鼻を啜る。
角は鬼の象徴。力を示すもの。
あまりにも哀れな同胞の姿に、鬼界でも名の知られた孤高の存在であるバクラですら居たたまれない気持ちになった。
「父さんはお前に鬼としての自覚がないからだって言ってた」
侵入者はぽつりぽつりと身の上を話し始めた。
生まれは海に臨む町に隣接する森の中。両親に妹を加えた四人で静かに暮らしていたという。
人間の青年と同じように独り立ちを促され、中途半端な角のまま家を出された。
棲み処となる場所を方々巡って探してみたが、なかなか見つからない。
他の鬼と縄張り争いなることを恐れ、深い山や森に入ることを避けていたせいだろう。
そして一ヶ月前、角が目立たないことを利用して、この村の外れに人間と偽って住むことにした。
僻村では、同じ人間であっても、外から来た人間には厳しいもの。
村人たちとほとんど交流はなく、一ヶ月経っても村には馴染めず、土地には疎いまま。
村の掟も知らずに迷ってうろうろしていたところ、バクラの縄張りに入ってしまったのだ。
情けねえ話、と呆れた言葉がバクラの喉元まで出かかった。
鬼の尊厳にも関わる角について触れてしまったばかりなので、口には出さずにぐいと飲み込む。
侵入者の父親が言うとおり、鬼にしては優しすぎるのだろう。人間を足蹴にするくらいの気概がなければやっていけない。
それでも、角がなかなか生えてこないというのは珍しい話だったが。
「お前の角、触ってみてもいいか?」
「うん。でも、まだ敏感だから強くしないでね」
バクラは親指と人差し指でそろりと角を摘まんだ。
まだ肉の塊のようにぶよぶよとしていて、生え始めの角そのもの。硬化する前だから、強く触れば痛みも感じるのだろう。
それ以上力は入れずに、表面を指の腹で撫でた。触り心地は血液が溜まったたんこぶと同じだ。
「成長が止まってるってわけでもなさそうだな」
「うん。少しずつだけど伸びてる」
頭からせり出した物体は皮の中で窮屈そうに見える。
「皮剥いてやろうか?」
「うーん……。痛そうだし遠慮する」
「変なクセがついてもよくねえし、やめとくか」
バクラは先の尖りをくるくると撫で回した。もう少し大きなサイズになれば、自然と先端から皮が剥けてくるはずだ。
「先は少し固くなってるな」
「……んっ。そうならいいけど」
侵入者はピクリと肩を震わせる。角が触られる度に弱い電気のような刺激が走るのだ。
力を入れられれば飛び上がるほど痛みを感じるが、優しく触られれば痛みとむず痒さの中間くらいの感覚がある。
「皮が被っているうちは丁寧に手入れしろよ。剥ける前にダメにしちゃ元も子もねえ」
「清潔にするようにはしてるよ。君みたいに立派な角になればいいけど」
しばらくバクラは小さな突起を触り続けた。
「お前の名は?」
角から指を離し、侵入者に向かって尋ねる。
「リョウ」
髪を手櫛で直しながらリョウが答えた。
「リョウ、人間の村なんか捨ててオレんとこ来い」
バクラの提案にリョウの目が丸くなる。
「え、でも……」
「今のうちは問題ないかもしれねえが、角が目立つようになれば誤魔化し利かねえぞ」
リョウは俯いて考え込んでしまった。
人間だと偽って生きてきたリョウにしてみれば、鬼として生きるか、人間として生きるかの分かれ目になる。
もちろん角が生えてしまえば、人間として生きる道はなくなってしまうのだが。
悩み始めたリョウをバクラはまじまじと見つめる。
生っちょろい姿ではあるが、リョウはバクラにとてもよく似ている。非常に近い種なのだろう。先祖を辿れば繋がりがあるのかもしれない。
鬼は昔と比べて数が少なくなっている。人間の文明が発達するに連れ、陰で押しやられきたからだ。
一匹狼のバクラも貴重な同胞には心を砕いている。
リョウはそんな同胞の、しかも非常に近い存在だ。
若い頃は一人でやりたい放題の日々を過ごしてきたバクラでも、そろそろ身を固めなければと最近は思っていた。
生涯の伴侶を得て、のんびり余生を過ごす。
リョウは伴侶に打ってつけだ。鬼の力はまだ発揮できないだろうが、飯炊きくらいはできるだろう。
落ち着いて見れば、整った顔立ちをしている。
それに、なんといっても珍しい一本角持ちだ。鬼の中では吉兆の証とされている。中途半端な角でも大切にしてやらなければならない存在だ。
まさにバクラにとっては渡りに船。見方を変えれば、鴨ねぎともいえる。
「お前も痛い目を見るし、人間たちに迷惑をかけることにもなるんだぞ。オレと一緒になるなら守ってやる」
バクラはなるべくリョウの心情に寄り添って言葉を続けた。
不完全な角を見ていれば、いかに競争心に欠けているか、どんな言葉をかければ効果的なのか、手に取るように分かる。
バクラの予想通り、「迷惑」という言葉にリョウは律儀に反応を示した。
「う……ん。確かに……迷惑をかけるわけにはいかないな」
始めのうちは逡巡を見せていたリョウも最後には首を縦に振った。
「分かった。君と暮らすよ。よろしくお願いします」
「よし。じゃあ、さっさと荷物まとめてこいよ」
バクラは悦に入った表情でリョウの肩を抱いた。
「君みたいな立派な鬼と暮らせるなんて幸せだなあ」
無邪気にリョウは笑う。寄り添える存在がやっと見つかったのだ。
しばらくして、村に一つの噂が持ち上がった。
北の山に棲む鬼が二匹に増えたという。
つがいになったのかと村人たちは顔を見合わせ、以前より増して掟を守るようになった。
きっと、村にとってはありがたいことに違いないと信じて。
+++++++++++++++++++++++
節分のときに思いついたものだったんですが、どうなの!と思ってお蔵入りしてました。
一本角はとても貴重なものだそうですねえ。
痴話喧嘩 ※モブが出ます
「獏良くん聞いてくれよぉ!彼女にフラれたんだ!!」
「わあ……?!」
マンションのエントランスホールで獏良は買い物袋を両手に持っておろおろとしていた。
それというのも、自分より背の高いスーツ姿の青年に帰宅早々抱きつかれてしまったからだ。
青年は髪が乱れるのも、スーツに皺が寄るのも構わず、獏良の肩に顔を埋めてはらはらと涙を流していた。
アルコールの臭いが獏良の鼻を突く。相当飲んでいるらしい。
口にした理由からやけ酒を呷り、外の風に当たろうと思ったのか、もしくは更に酒を調達しようと思ったのか――理由は定かではないが、エレベーターで一階まで下り、買い物帰りの獏良と鉢合わせをしたのだ。
「一旦落ち着きましょう?ここだと目立ちますよ」
両手が塞がっていては腕を振り解くこともできない。獏良は努めて穏やかな声で青年に話しかけた。
誰かに見られたら、あらぬ誤解をされてしまうかもしれない。最悪の場合、マンション中に噂が広まってしまう。
それに青年の弱りきった姿を見せるわけにはいかなかった。今日が例外なだけで、普段の青年はもっとしっかりしているのだ。
獏良は顔を赤くした年上の青年に困った顔で当たり障りのない言葉をかけ続けた。
二人が顔見知りになったのは、ほんの一ヶ月ほど前。
今日と同じように獏良が大荷物を持って一階で口を開けていたエレベーターに飛び乗ったときのことだ。
青年は操作盤の前に立って開くのボタンを押していてくれた。
エレベーター内に操作盤は一つしかなく、
「ありがとうございます」
礼を述べた後に「六階をお願いします」と続けようとしたところ、
「六階だね?」
と、青年の方から声をかけてきたのだ。
このマンションの住民とは、すれ違うときに挨拶程度で深く接したことはない。
既に押されていたボタンは中層階に住む獏良に対して上層階。
引っ越したときに挨拶をした隣室や上下階の住民というわけでもなさそうだった。
肯定はしたものの、きょとんとしたままの獏良に、
「いつもスーパーに買い物に行っててエラいなって思ってたんだよ」
青年はクスッと笑いかけたのだった。
それから、エントランスホールで顔を合わせる度に獏良と青年は話をするようになった。
話といっても、エレベーターから降りるまでの間にできる他愛のない話。
互いに知ってるのは、最初に名乗った名字と住んでいる階のみ。不思議な関係だった。
青年の年齢は二十代後半といったところで、兄がいない獏良にとっては新鮮な存在だった。交流関係がほとんど学校内になってしまう高校生であれば尚更のこと。
周りにいるのは同じ年頃の少年たちばかりだ。そうでなければ、先生などのずっと年上の男性しかいない。
希望に溢れた働き盛りで、いつも笑顔の気さくな人柄。
中肉中背、堅い印象にならないくらいに櫛を入れた髪。
たまに見かけるネイビーのスーツと薄いグレーのシャツがよく似合っていた。
職種については聞いたことがなかったので、獏良は勝手に営業マンかなという印象を抱いていた。
第一線でバリバリ働き、上司からも同僚からも信頼が厚く、顧客にも好かれている。そんな理想の社会人。
獏良の住むマンションは単身者向けではない。部屋によっても異なるが、二十代の社会人が一人で住むには不向きなマンションだ。
都心ではないものの、この地域の平均家賃は決して安くはない。
話からして青年は一人暮らしをしている。若いうちからこのマンションの部屋を借りれるとは、余程収入がいいのだろう。それを鼻にかける様子もない。
獏良は青年にほのかな憧れを抱いていた。
一方の青年も獏良に好感を持ったようだった。
獏良が一人暮らしであることを告げると、「オレが高校生だったときには、なぁんにもできなかったよ。今だってコンビニばかりでほとんど自炊してない」と、大袈裟に褒め称えてくれた。
青年にとっても高校生の知り合いは珍しいらしく、行事や授業についてよく訊かれた。
少し年の離れた兄弟はこんな感じなのだろうか、と互いに思っていた。
獏良は、青年に彼女がいたことを泣きつかれて初めて知った。
その彼女は新人時代に知り合った女性で、よく互いの家を行き来していたらしい。
年齢が上がるに連れて二人とも多忙な日々が続き、デートはおろか連絡すらつかないときもあったという。
それでも、彼女を想う青年の気持ちは衰えず、結婚も視野に入れていた。
今抱えている仕事が一段落したら、ゆっくり旅行にでも行こう。そして、近いうちにプロポーズも……。
やっと連絡がついたところで、彼女から別れ話を切り出されたのだという。
酔っぱらいが泣きながらでは、話などまとまらない。
話があっち飛びこっち飛びするのを掻き集め、顔見知り程度の獏良でもなんとなく事情が分かった。
休日出勤だったと嫌な顔もせずに挨拶をする青年を見ていれば、赤の他人である獏良でも同情の念が湧いた。
一通り泣き尽くしたのか、青年は泣きじゃっくりをしながら獏良を解放した。
「ごめんよ、獏良くん……。悪酔いしたみたいだ。迷惑かけてしまったね……」
目は腫れぼったくなってしまっていたが、いつもの青年の調子に戻りつつあった。
「大丈夫ですか……?」
「うん。少し外の風に当たってから戻るよ」
とぼとぼと立ち去る青年を見送ってから、獏良はエレベーターに乗り込んだ。
六階のボタンを押して扉を閉める。
分厚い扉が外界の音を遮断し、先程までが嘘のように静寂が訪れる。
聞こえてくるのはエレベーターの微かな機械音だけだ。
――大人でもあんなふうに泣くんだな……。
顔を押しつけられた肩がまだ温かかった。
突然抱きつかれて驚きはしたものの、青年に対する評価は変わらなかった。
むしろ、ただ尊敬していたところに親近感が加わったのかもしれない。年上から頼られたことも嬉しかった。
もう少し気の利いたことが言えれば良かったけれど、と少し後悔もした。
荷物がなければ、背中を擦ってあげられたはずだ。
階数表示が六階に辿り着いたことを告げると、扉が重々しく開いた。
獏良は廊下を真っ直ぐ進み、扉の前で大荷物に苦心して鍵を取り出し、部屋の中へ入った。
住み慣れた我が家にホッと一息をつく。
が、静かな時間は一瞬で終了となった。
鍵をかけて靴を脱いだところで、もう一人が姿を現したのだ。
――きた……。
それまで平然としていた獏良の顔に皺が寄る。
予想はしていたのだ。青年に抱きつかれて、こうなることは。
「随分とお熱い仲のようで」
バクラは玄関からリビングへと続く廊下で仁王立ちをして獏良の行く手を遮った。
怒りが全面に押し出されている顔というよりは、噴き出しそうになる怒りをなんとか堪えている顔。
口元には一応の笑みは浮かべているものの、額に青筋を浮かべ、表情筋がひくりひくりと痙攣している。
獏良は目の前にいる同居人が非常に嫉妬深いことをよく知っている。
嫉妬といっても様々な形がある。バクラの嫉妬は独占欲から生じるものだ。
オレのものはオレのもの。お前のものもオレのもの。お前自身もオレのもの。
常に行動を共にしなければいけない獏良にとっては非常に厄介だった。
獏良が他人に対して特別な興味を持つことはなくても、その容姿から勝手に周りが寄ってきてしまうことはある。
女子生徒がキャーキャー騒ぐくらいでは日常茶飯事でさすがに何も言わないが、先生が親しげに肩でも触れようものなら、髪の一部を逆立てて猛烈に怒る。
「先生だよ?!ただの激励ってやつだ!」
いくら獏良が説明しようとも、
「いーや!違う!下心があったッ!」
バクラの怒りが収まることはない。
「先生がそんなわけ……」
「下心が少しもないとお前は言い切れるのか?!」
「それは……そんな人の気持ちなんて分からないし……」
「ほら見ろ!!」
しょっちゅう言い争いに発展していた。
八百屋の店員が親しげに話しかけてきてオマケをしてくれたときも。
同じ年くらいの少年がゲームセンターで獏良の腕前に興味を持って近寄ってきたときも。町中で女に間違えられてナンパされたときも。
向こうから勝手に触ってきたとしても、「触らせるな」などと言い出す。
何を言っても猛烈な勢いで言い返してくるので、最終的にはいつも獏良が折れることになる。
今度から気をつける。僕には君しかいないヨ。うん、スキダヨ。ダイスキ。
そんなことを抑揚のない声で繰り返し、バクラが落ち着くのを待つ。
今日はどうやらいつもより怒りが深刻らしい。普段ならすぐに怒鳴りつけるところだ。嵐の前の静けさか。
「仲って……。酔っ払ってたんだよ」
「酔っ払いだろうが素面だろうが関係ない。心のどこかしらにあるもんが表面化したんだろ」
「彼女持ちだって……。フラれちゃったみたいだけど……」
バクラの気迫に押し負けて、獏良の口調がついつい言い訳めいたものになってしまう。
「だからこそ、だろ」
被せるようにぴしゃりとバクラが吐き捨てた。次第に目つきが険しくなっていく。
「大体なァ。日頃から馴れ馴れしいと思ってたんだ。なんだありゃ。ヘラヘラヘラヘラしやがって。愛嬌を振り撒いてるつもりかァ?節操ねえな。てめえはてめえの上司の靴だけ磨いてりゃあいいんだ。チッ」
荒くなる語尾に獏良の身が竦む。しかし、それ以上に怒りが勝った。
せっかく仲良くなった青年の悪口は聞きたくない。仲を疑われるのも許せなかった。
「あの人はそういう人じゃない!」
獏良はあらん限りの声をバクラに向かって叩きつけた。
「あァ?」
バクラの顔は赤くなるどころか、瞬間的にサアッと青褪めた。瞳孔が縮まり、口角が下がる。
そして、深く息を吸ったかと思うと、
「認めやがったなァ!あいつに尻尾を振るのがそんなに楽しいか?!」
獏良以上の声でがなり立てる。
「あの人は立派だ!ちゃんと働いて、僕みたいな学生にも気を遣ってくれて」
「飼い慣らされたもんだなァ!今度会ったら生爪剥がすだけじゃ物足りねえ……。指先から全身の皮を引ん剥いてやる」
互いに唾を飛ばして一歩も引かない状態だった。
獏良はどこまでも青年の擁護をし、バクラは青年の欠点をあげつらう。
当事者がこの場にいないことだけが救いだ。
やがて、バクラの怒りの矛先は獏良にも向いた。
「お前はいつからそんなに尻軽になったんだ?毎晩オレの下でアンアン腰振ってるくせによォ!」
それまで軽快に言い返していた獏良も、これにはさすがに言葉を詰まらせる。頬を赤く染め、悔しげに下唇を噛んだ。
「尻軽なんかじゃ……」
勢いを失ってすっかりしどろもどろになってしまう。
バクラはほれ見たことかと得意げに鼻を膨らませた。
「宿主サマは優しい相手なら誰だっていいんだろ」
止めの一言に獏良の目に涙が滲んでいく。零れ落ちる寸前まで水溜まりは広がり、震える睫毛が小さな滴で濡れる。
「酷い……。もう無理。そんなこと……持ち出すなんて。君とはもうしない。無理にしようとしたってダメだからね。絶対声なんて出さないし、動かない……」
こうなると獏良は意固地になってしまう。唇をぎゅうと一文字に結び、その下には薄い皺が寄る。
どこからするしないの話になった?男と仲良くしていた問題はどこへいった?
いつの間にか会話の流れが変わっている。
今度はバクラが戸惑う番だった。頭の中で会話を少し前まで巻き戻し、こうなってしまった原因を確認する。
――あ?オレか……。
間違いなくバクラの暴言が原因だった。バクラにとっては挨拶程度の言葉でも、知ったばかりの夜のことを持ち出されて獏良が傷つくのは当然のこと。
青年の件に関しては、むかっ腹が立ってどうしようもない状態には変わりない。
しかし、できないのは困る。昨晩はあんなに甘えてきたのに。可愛くて寝顔をずっと眺めていたら、外で鳥がチュンチュンと鳴いていた。
――などとバクラの中で嫉妬と困惑が入り乱れ、
「言葉のアヤってやつだろ。拗ねんなよ」
結局は弁明をする羽目になってしまった。
「本当に思ってたから言ったんだよね。酔っ払いだろうが素面だろうが関係ないんだよね。僕のことはしたないって思ってるんだ……」
「思ってねーよ!それに多少乱れるくらいの方がいいだろうが」
ぐずぐずと鼻を鳴らす獏良に対し、バクラは大袈裟な身振り手振りで言葉を続ける。
決してお前は常識から逸脱した反応を見せているわけではない。もっと世の中には汚れた奴が……うんぬんかんぬん。
「……君の前だけなんだからね」
まだ瞳に多少の不信感を宿しながらも、立て続けに繰り広げられる弁明にようやく溜飲が下がったのか、獏良の肩から力が抜けた。
「それにあの人のことは本当に憧れというか、僕もあんなふうになりたいなって思ってるだけだから」
「よく分かった。あの男とお前はなんでもないんだな。そうか。ウン、それはよかった」
バクラは獏良の言葉一つ一つに赤べこを見習って首を上下させ、上向いてきた機嫌を損ねないよう努める。
その甲斐あってか、獏良の閉じた唇が微かに緩んだ。
「分かってくれたのなら良かった」
普段のやり取りとは真逆の立ち位置で一応の決着はついた。
翌週になると、青年が洋菓子の詰め合わせを持って獏良に詫びを入れにやって来た。
頻りに頭を下げる青年に、獏良が手のひらを向けて左右に振っていると、転勤で他県に引っ越すことになったことを告げられた。話を聞く限りでは、どうやら栄転らしい。
彼女とは別れることになってしまったが再スタートと思って頑張ると、青年はいつもの明るい笑顔を見せた。
その場で祝福の言葉を述べる獏良の後ろで、バクラはこっそりとガッツポーズを取ったのだった。
++++++++++++++++++++
嫉妬大会。
2017年最後の話でした。
※この話は『祀られるもの』の続きになります。
※バクラ→村に祀られている大邪神、獏良→大邪神に仕える神子
祟るもの ※二心二体、ファンタジー
まだ幼い少年が部屋に入ってきたとき、確かに空気が変わった。
父親の隣で硬くなり、ぎこちない仕草で頭を下げる様子は、普通の子どもと何ら変わりないはずなのに、一目見ただけで分かったのだ。待ちに待った存在がようやく現れたのだと。
着物の袖口から見える手首は肉がついてないのではと思えるほどに細く、風に吹かれれば飛ばされてしまいそうな弱々しい顔つき。
しかし、外見など彼には関係なかった。
まだ母親について回るような幼い子どもであることも些細なことだった。
「彼」は久しぶりに高揚していた。
早く自分のものにしたい。
なぜそんなところにいる。
お前のいるべき場所はそこではない。
早くこちらへ来い。
そのためにお前は生まれてきたのだ。
言葉には出さず、指先にすべての感情を込めて少年に向けた。
目に見えて狼狽えたのは父親の方だった。
作法を投げ捨てて仕える神に向かって説得を試みた。
その言葉のすべてが彼にとっては雑音だった。既に意識は少年だけに向けられていたのだ。
少年は困惑の色を瞳に浮かべ、呆然とその場に座ったまま。御簾の向こうにいる、顔すら知らない神の動向を見守っていた。
御簾の外側と内側、確かに二人の視線は交わっていたのだ。
***
獏良の朝は慌ただしい。
鳥が鳴き出すと同時に起床し、身嗜みを整える間もなく離れから社へ向かい、井戸から水を汲み上げる。サッと顔を洗い、汲み上げた水を台所へ運び水瓶に流し込む。
髪を高く結い上げ、たすきで袖をたくし上げて、朝食の準備に取りかかる。
かまどに火を起こし、ご飯を炊き、味噌汁を作る。その横で七輪を使って魚を焼く。その間もかまどの火からは目を離さない。糠床からキュウリを取り出して斜め切りにする。
そうして出来上がった二人分の朝食を二枚重ねた膳の上に一緒くたに乗せ、廊下を滑るように進んで奥座敷へと向かう。
拝殿と本殿が一つになっている社の中で、台所と奥座敷があるのは本殿側になる。
社の前面に当たる拝殿は、参拝客のためのもの。賽銭箱や本坪鈴が設置され、村人たちが唯一足を踏み入れることを許される謁見室もそれに当たる。
一方の本殿は、神社に祀られる神のためのもの。この神社の神は目に見えない存在ではなく、実際に顕現している。
人間と同じように飲み食いもすれば、入浴もする。生活をするための部屋が必要だ。
本殿へは神子である獏良以外の人間は基本的に入れない。
獏良は奥座敷に辿り着くと、廊下に膝を突いた。
「おはよー。ご飯の時間だよ」
中にいる社の主に向かって声をかけ、返事を確認してから障子を開ける。
この神社に祀られている神――バクラは既に起床していたが、寝間着のままだった。大きく欠伸をし、胸元を掻く。その姿はとても神には見えず、普通の人間のよう。
獏良は慣れた手つきでてきぱきと座卓を引っ張り出し、それぞれの膳に朝食を並べていく。最後に湯飲みに茶を注いで朝食の準備が整った。
「いただきます」
神を前にしても遠慮することなく、獏良は箸を進める。バクラもそれを気にすることなく平然としている。
「お、今日は味噌汁の中に里芋が入ってんな」
「うん。沢山取れたからって、お供えしてくれたんだ。まだあるから、夜には煮っ転がしにするね」
「そりゃいいな」
食事をしながら今後の予定の確認やら、奉納物の報告やらをざっくばらんに済ませてしまう。
「んじゃあ、今日明日は暇してていいんだな」
バクラはズズズと味噌汁を啜り、里芋を箸で摘まみ上げて齧る。
「うん。僕も買い出しとか布団干したいな」
しばらく二人の咀嚼音だけが続く。
「……そろそろ、一人寝が寂しくならないか?」
やんわり話を切り出したバクラに向かって、
「ならない」
ぴしゃりと獏良が打ち切る。
「お前なー、仮にも主人に対してそれはねえだろ」
「無茶苦茶するからヤダ」
他愛ないいつもの会話をしているうちに、二人の食器は空になった。
ご馳走様の挨拶もそこそこに、獏良は二人分の食器を重ねていく。
この後は洗濯が控えている。買い出しにも行くつもりだ。ゆっくりしている時間はない。
祭祀や祈祷がある場合は、家事ができなくなってしまう。やれることは時間のあるうちにやらないと、どんどん溜まっていく一方だ。
神子の役目というより、ほとんど主婦のようだった。
「君は昼寝でもしててよ」
「へえへえ」
獏良はそう言い残すと、慌ただしく奥座敷から去っていった。
朝食の片付けが終われば洗濯の時間。
獏良は井戸の横でたらいに水を溜め、洗濯板で二人分の洗濯物を一枚ずつ洗い始めた。
洗い終わった洗濯物は社の正面で干すわけにはいかない。名ばかりの神社とはいえ、いくらなんでも格好がつかない。かといって、太陽の当たらない場所では無意味だ。
参拝客の目につかないように社と離れの間に物干し竿を設置することで妥協していた。
次に、社と離れを行き来して布団を運び出し、洗濯物の隣に干した。
離れにある獏良の布団はないより幾分かましのせんべい布団だが、バクラの布団は中綿がたっぷり詰まった、二人は優に寝られる大きさの特注の布団だ。運び出して干すのにも一苦労する。
獏良がこの社に住むようになった頃は、よく二人で寝ていたものだった。
萎縮して布団の隅っこで縮こまる獏良をバクラはおいでおいでと優しく手招き、朝まで肩を抱いていた。そのときはまだ身長差は頭一つ分以上あった。
新しい生活に慣れてきたところで、獏良は離れで寝るようになった。今でもたまに枕を並べることはある。
もっともそれは、別の意味も多分に含まれている。昔のように何も知らないままではいられない。
布団を干し終われば、次は食品の買い出しだ。
田畑が広がるこの村では、供え物のほとんどが農作物になる。農作物とそこに添えられる僅かばかりの金銭で、なんとか食い繋いでいた。
村のお偉方に申し出れば、多少の生活費は工面してくれるのだろうが、他の村人たちが余裕のない暮らしをしているのを見ていれば、そんな気にはならなかった。
野菜中心の食生活には不満はない。しかし、それだけでは栄養不足になってしまう。獏良はちょくちょく数少ない食料品店に顔を出すことにしていた。
獏良が自分の側から離れることにバクラはあまりいい顔はしない。だから余計な寄り道はせずに短時間で用事を済ませる必要がある。
娯楽に乏しい生活の中、余った小銭から甘いものを買い食いするのが獏良の密かな楽しみでもあった。
獏良はべっこう飴を口の中で転がしつつ、食品で詰まった風呂敷をぶら下げて、畦道をのんびりと歩いていた。
店主が気を利かせてイワシを多めに持たせてくれたので、つみれにしてみようかななどと思案しながら。
だから、擦れ違った男のことなど目にも入っていなかったのだ。
「おい……」
突然、背後から呼びかけられ、獏良はぴたりと足を止めた。
振り向くと、見知らぬ男が拳を握り締めて立っている。
「なにか?」
誰だったかと思案しつつ尋ねる。
「その風貌、神子様ってのは、お前のことだな?」
男は怒気を孕んだ顔で人差し指を獏良に突きつけた。興奮のせいかその指先は小刻みに震えている。
獏良は男の剣幕に半歩後退った。
おかしい。この村の人間で獏良の顔を知らない者はいない。そもそも、村人なら神の威光に平伏し、獏良に対してこんな態度は取れないはずだ。
「カマサマだかホトケサマだか知らねえが、お前ら寄って集ってオレたちを馬鹿にして。偉くなったつもりかよ」
男の口からは堰を切ったように恨み言が溢れ出す。獏良にはほとんど理解ができない内容。川や土地の所有権については考えたこともない。農業用水路の権利などと言われても想像もつかない。ましてや濃労組合とこの村の関係など耳にしたこともない。まったく無関係の話ばかりだった。
言葉を重ねるだけ、男はどんどん熱気を帯びていくようだった。終いには、辺りに響き渡る声で、
「この忌み子がッ……!!」
バクラはむくりと上体を起こした。頭上にある掛け時計を見上げれば、とっくに昼は過ぎている。
いつもなら獏良が昼食を運んでくる時間のはずだ。遅れることはない。遅れるにしても、必ず一声かかるはずだ。
バクラは緩慢な動きで立ち上がり、袖廊下へ。そのまま台所に向かう。
戸口から台所を覗くと、かまどの前で慌ただしく動き回る獏良の背が見えた。
「宿主」
その背に向かって声をかける。
「あっ、ごめんね。買い物に時間かかっちゃって。もうすぐ持っていくから部屋で待ってて」
獏良は火から目を離さずに背後のバクラに向かって答えた。
鍋を掻き回し、小鍋に箸を入れ、悠長に会話をしている暇はないらしい。
「別に急いでねえから。鍋引っくり返すなよ」
それだけ言い残し、バクラは奥座敷へ戻っていった。
獏良が昼食を持って現れたのは、その十五分後。
細く障子を開け、膳を部屋の中へ差し入れると、
「お待たせ。僕、まだやらなきゃいけないことがあって。先に食べてくれる?」
ひょこんと顔を半分覗かせ、片手を胸の前で小さく挙げて謝罪を示した。
「ああ」
バクラの返事を耳に入れると、慌ただしく部屋を去っていく。
昼食はイワシの塩焼き、玉子焼き、ほうれん草のお浸し。慌てていた割にはしっかりとした献立だった。
特に玉子焼きなど、ふっくらと焼き上がっていて、断面が均一な層になっている。
手抜きだろうが、玉子が焦げていようが、バクラが食事に文句をつけたことはない。
気張りすぎじゃないのかと一つ漏らし、バクラは箸で裂いた玉子焼きを一口頬張った。
その後も獏良が落ち着くことはなく、たまにバクラの元へ茶を差し入れるくらいで、用事があると言っては社中をせかせかと動き回っていた。
雑用をすべて任されているとはいえ、些か働きすぎだ。
サボったとしても、誰が咎めるわけでもない。
バクラが「おい、茶でも……」と声をかけたところで、断りと謝罪の言葉が矢継ぎ早に返ってくるだけ。
予定がまるで入っていないバクラは暇を持て余してした。こんな日はいつもなら獏良とのんびり将棋でも指しているはずだった。
胡座を掻いた足を小刻みに揺らし、一人の時間を潰すしかない。横になってはみたものの、目が冴えてすぐに起き上がってしまった。
なぜこんなに落ち着かないのだろう。じっとしていられない。まるで獏良の慌ただしさが移ってしまったようだ。
時計を見上げれば三時過ぎ。
胸の奥にもやもやと言葉に表せない違和感が燻っている。
なぜだ、と何回も問いかけ続けてようやく一つの答えが思い当たった。
朝食以降まともに獏良の顔を見ていない。
部屋を出たり入ったり忙しなく、背中や横顔しか視界に入らなかったのだ。
言葉は交わしているものだから、なかなか気づけなかった。
落ち着かない理由が分かったところで、バクラは獏良を探しに部屋を出た。
ちょこちょこと動き回る獏良を捕まえれば、もやもやはすぐに解消できるだろう。
部屋を奥から順に見ていく。
神具室、社務室、倉庫、風呂場――。
獏良の姿はどこにもない。
最後に見たのは雑巾と桶を持った後ろ姿だった。社内のどこかにいることは間違いないはず。
拝殿に当たる「表」に向かおうとして、ふと台所に目を向けた。
まだ夕飯の支度をする時間ではない。にも拘らず、獏良は蓋をした水瓶の上に腰を下ろしていた。背中を丸めてじっとしている。
バクラは咄嗟に獏良がこの社に来たばかりのことを思い出していた。
その頃の獏良は父親の教育もあったのだろうが遠慮がちで、よく台所で隠れて食事をしたり、休憩をしたりしていた。それを見つける度に外へ連れ出さなければならなかった。
半紙に包んだ菓子を与えたり、半ば強制的に席を並べたりすることで徐々に懐かせていったのだ。
今思い返してみても、よくぞそこまで人間に心を砕いたものだと自ら感心してしまうほど。
それくらい獏良は特別な存在だったのだ。
大きくなった背中を見ても、当時と雰囲気は少しも変わらない。
肩に手を置き、どうしたと問いかけようとして、バクラは言葉を呑み込んだ。
その手を振り払わんばかりに獏良の身体がびくりと大きく跳ねたのだ。
振り返った顔にバクラの目が釘づけになる。
右こめかみの上、目からさほど離れていない場所に布切れが押し当てられ、その布には血が滲んでいたのだ。
「あ……これは……その、さっき転んで……」
しどろもどろに説明を始める獏良に向かって、
「誰にやられた?」
バクラは遮るように鋭く言い放った。
「ちがう……これは僕が勝手に」
「宿主」
転んだにしては獏良の手足には擦り傷一つない。頭だけ打ったのだとしても、隠そうとする必要はなかったはずだ。
だとすれば、獏良に怪我をさせた人間がいて、それを庇っていることしか考えられない。
「この村の奴じゃねえな」
言い訳を許さず、断定的に話を進めるバクラに対し、獏良は観念をしたように目を伏せた。
男は獏良を怒鳴りつけた後、身を屈めた。
生まれて初めて向けられた理不尽な悪意に、獏良の身体は地面に縫い止められて動けなかった。
そこへ、強く握りしめられた小石が真っ直ぐに飛んできたのだ。
逃げる暇はなかった。
ガツンと鈍い音がしたかと思うと、目の前が真っ赤に染まり、強い衝撃を頭に感じた。
「うッ」
膝から崩れ落ち、頭を押さえる。
手のひらにはぬるりとした感触。頬を伝う冷たいもの。
遅れてずきずきと痛みが襲ってきた。
「うう……いた……」
何かをぶつけられたのだと、獏良はそこで理解した。
小石とはいえども、表面がざらつき尖っていたそれは、獏良の皮膚を易々と傷つけた。
男は勝利の咆哮か、言葉にならない声を上げていた。
このままさらに暴行されるかもしれないと分かっていても、疼く痛みに地に伏しているしかない。視界にはちかちかと小さな無数の光が明滅していた。
「了さまぁ……!」
遠くから嗄れた老女の声が聞こえてきたときは、まさに天の助けかと思った。
声の主はちょうど休憩を終えて、野良仕事をするために外へ出たところだった。
人が増えた中で乱暴を続ける度胸は男になかったらしい。
一言二言悪態を吐いて、獏良の元から立ち去った。
「誰かぁー!誰かー!」
老女は獏良を抱き起こし、自宅まで連れていった。
騒ぎを聞きつけて集まった数名に説明をしつつ、獏良に怪我の手当てを施す。
村人たちはそれぞれ気色ばんで、「なんと罰当たりな……!」「早く捕まえろ!」「村から一歩も出すな!」男に対する怒りを口にした。
神社にも使いを出そうとする村人たちを獏良は慌てて止めた。
バクラがこのことを知ったら、村人同士の争いでは済まなくなる。
頼むから騒がないでくれ、と全員に懇願した。
老女が包帯を頭に巻こうとするのを丁重に断り、社の入り口まで村人の一人に付き添われて戻ってきたのだ。
村人たちに口止めはしたものの、困ったのはこの後だ。
手で押さえていても、なかなか血は止まらない。思いの外、すっぱりと切れてしまっていた。
出来立ての傷を見れば、バクラは血相を変えるだろう。
なんと言い訳をしたらよいのか。転んだ、頭をぶつけた、空から石が降ってきた――。
一日経てば、少しは傷の具合もよくなるだろうか。混乱する頭で必死に考えた。
獏良にできることは、バクラに怪我を見せないようにすることだけ。
何事もなかったように振る舞い、なるべく一つの場所に留まらないようにして視線から逃れた。
そんな涙ぐましい努力も、台所で一息ついたところで水の泡。
動揺で言い訳も言い訳にならず、あっさりとバクラに見抜かれてしまった。
「他の人に乱暴しないように青年団の人たちに探してもらってるから」
「そうじゃねえだろ……お前は……。失明してたかもしれなかったんだぞ」
獏良の予想に反してバクラは声を荒げることはなかった。
しかし眼差しだけは険しく、獏良に余計な口を挟む隙を与えない。
「もう社を出るな。明日もだ。部屋に戻ることも許さねえ」
「それはっ……」
「いいな?それと千年リングは絶対身につけてろ」
「うん……」
獏良が千年リングを身につけてさえいれば、バクラに分からないことはなかった。この件に関しても気づけるはずだった。
しかし、この村にいれば獏良に手を出す人間はいないのだ、安全なのだという思い込みが感覚を鈍らせてしまっていたのだ。
悔んでいてももう遅い。気に入りの顔は無惨にも傷つけられ、傷つけた犯人は今も逃げ回っている。
「村の連中にはオレから連絡を入れるから、お前は静かにしてろ」
バクラはそう言うと、布の上から傷をそっと撫でた。
頭にこれでもかと大袈裟に包帯を巻かれ、獏良は奥座敷に寝かされた。
夕飯はバクラが珍しく台所に立った。
夜は久しぶりに枕を並べた。
バクラは獏良を抱き寄せて離そうとしなかった。
「ねえ、僕は大丈夫だよ。心配かけてごめんね……」
何度獏良が言い聞かせても、その手が緩むことはなかった。
***
男は高揚感に浸っていた。前々から気に入らないと思っていた村の連中に一泡吹かせてやったのだ。
一晩経ってもその熱が冷めることはなかった。
村の連中は得体の知れない信仰に傾倒している。自分たちは神に守られていると驕り昂っている。
その象徴をこの手で罰してやったのだ。神より偉いのはこの自分だ。
村の一風変わった信仰は、取り立てて隠匿しているものではなかったが、みだりに言い触らすのは品格に欠けることだというのが村人たちの共通認識だった。
それでも、言葉の端や態度に表れてしまうのだ。他者を見下し、自分たちは選ばれた人間なのだと。
村全体に強い選民意識が蔓延していた。
周囲の村から反感を買うのは当然のこと。
男の暴走も起こるべくして起こったことといえた。
男がもし少しでも冷静でいられれば、村にもう一度入ろうなどとは思わなかっただろう。膨れ上がった男の全能感は背中を押すだけだった。
まだ連中は反省していないに違いない。カミサマがいるのなら天罰でもなんでも下してみろ。昨日からまだ五体満足でいるぞ。
今度は女か子どもをちょっと揶揄ってやろう。そうすれば、神に守られているなどと思わなくなるだろう。
男は意気揚々と村の小道を歩いていた。
昨日運良く出会えた神の使いを名乗る少年が痛がる様を思い出しては、にまにまと口元に笑みを浮かべる。
ちょうど目の前にその少年が現れたときは、幻かとやや面食らった。
頭を包帯でぐるぐると巻き、右目はほとんど隠れてしまっている。
その怪我は誰でもない自分の仕業と気づき、男はすぐに落ち着きを取り戻した。
まだ外をうろちょろできるのなら、もっと痛い目に遭わせてやった方がいいかもれない。
「昨日ぶりです」
少年は涼やかな声でそう言い、男を真正面から見据えている。昨日と似た状況だ。
「探したんですよ。あなたの方から来てくれて良かった」
男は襟を正すふりをして、腰に差した短刀にそっと手を伸ばした。
女子供を少し脅かしてやるつもりで持ってきたものだ。
「とても痛かったんです。どうしてこんなことしたんですか?」
少年は手を差し出し、悲しげに男を見つめた。
どうやら、話し合いにでも持ち込むつもりらしい。とんだ世間知らずのお坊ちゃんだ。これはよく躾けないといけない。
男は心の中で舌舐めずりをした。気が大きくなった男には、もはや罪悪感というものはない。
男から返答がないことに、少年は気にした素振りを見せなかった。
「気持ち良かったんですよね?僕を痛めつけられて。神様になったような気分でしたか?僕みたいな非力な存在を圧倒しただけで。随分と安上がりなものだ。そのちっぽけな自意識を満たすことができて、さぞかし楽しかったんだろうよ。だが、この代償は高くつく。覚悟はできているんだろうなァ?」
男は状況も理解できずに足を一歩引いた。
目の前にいるのは、神子などと呼ばれているが、ただ見た目が変わっているだけの痩せっぽちの少年だと思っていた。
少年の纏う空気は昨日とは比べ物にならず、言葉にできない圧力でこの場に立っていることにさえ恐怖を感じた。
まるで巨大な化け物に睨まれているよう。
少年の澄んだ瞳は今や真っ赤に染まり、男を捉えて離さない。
これでは、本当に神がかりではないか。神なんているはずがないのに。
刀に触れる手が震えた。抜いたところで噛み殺されてしまいそうな気迫だった。
目の前に立ちはだかる少年の存在が圧倒的すぎて男は気づかなかった。
いつの間にか鬼のような形相をした村人たちに周囲を囲まれていることに。
「さあ、時間だ。たっぷり罰を受けてもらうぜ」
少年の着物の合わせ目から黄金に輝く輪が飛び出した。
「うん……?」
獏良は目を開けて、周囲を見渡した。
奥座敷の布団の上で、側にはバクラが片膝を立てて座っている。
時計の針は記憶より大分進んでいた。
「もしかして僕の身体使った?」
バクラは肯定も否定もせず、ただ唇を意味ありげに横に広げるのみ。
「お前に怪我させた犯人、捕まったらしいぜ」
「えっ、ほんと?あの……キミ、乱暴なことしてないよね?」
「してねえよ」
不安に揺れる獏良の瞳に、バクラはしっかりと頷いて見せた。
男は村人たちに引き渡してやった。元々住まいのある村でもはみ出し者で、ほとんど村八分のような扱いを受けていた実にろくでもない者だったらしい。
自分たちの崇拝する神の代理人を傷つけられた村人たちの怒りは凄まじいものだった。
男がその後どうなったのか、バクラは知らない。男に指一本も触れてはいない。
罰を下すのは村人たちだ。村人たちに引き摺られていく男をただ見守っていただけ。
「お前は安心して寝てろ、な?」
バクラは獏良の額に口づけし、髪を優しく撫でた。
「うん」
獏良はようやくホッとした顔になってバクラに身を寄せた。
そう。ここにいれば、世界中のどこよりも安全なのだ。
*****************************
一回こっきりの話だったんですが、ちょっと書きたいものがあって続き?を書いてみました。
ちゃんと書けているか分かりませんが、了くんを溺愛しているバクラです。