ばかうけ

盗賊の休日

「……ねえ、困るんだけど」
「黙れ」
獏良は横向き寝のまま口をヘの字に曲げた。
原因は知らない。最近のバクラは口数が少なく、眉間に皺を寄せていることが多かった。裏でこそこそと動き回っているようだから、そこに原因がある気はした。わざわざ機嫌を窺うことをしたくはないし、訊ねたところで明確な答えがある気もしない。
何か不都合でもあったんだろう、と獏良は深く考えないことにしていた。バクラに不都合があったところで関係ないのだから――。
それがついさっきまで。今は知らぬふりをしていたことを少し後悔していた。
休日の昼下がり、ベッドでごろごろと読書をしつつ気儘に過ごしていたところ、普段は獏良の中に引きこもっているはずのバクラが姿を現した。身を起こす間もなく、背後から両腕が伸びて捕らえられた。逃げることもできず、バクラに抱きすくめられたまま小一時間。
はじめのうちは何かされるのかと身を固くしていたが、いつまで経っても何をされるわけでもなく、バクラはじっとしている。
両腕は腹付近でがっちりと交差し、動くことができないから、背後を確認することもできない。
抗議の声を上げても、ぴしゃりと言い返されてしまう。不可解な行動を理解することもできず、抵抗することを諦めた獏良はされるがまま。
そんな状態で落ち着けるわけもなく、触れる手、かかる息、背中に感じる体温、擦れる互いの素足――必要以上に意識してしまっていた。
――いつまでこうしていればいいんだろう……。
時折、鼻先がうなじを擽るのにも耐えなければならなかった。
変な反応をしてしまったら赤っ恥。なるべく別のことを考えてやり過ごそうとした。
首筋に微かな息がかかる。
「……っ」
故意ではなく、単なる呼吸によるもの。
咄嗟に唇を噛んで声を出すのを防いだ。感覚が背筋を伝って腰を痺れさせる。
まさか、朝になるまでこのままなのだろうか――。
巻きついた両腕の力がぎゅうと増した。
こんなに引っつかれたら、心臓の音を知られてしまう。どんなに冷静を装っても、心臓の音だけは正直だ。ドクドクドクと身体中に響いている。
――早く放して……。
固く目を瞑り、心の中で願う。
トク、トク、トク――。
激しく鳴り響く鼓動に、もう一つの鼓動の音が重なる。ゆっくりと落ち着いた規則正しい律動。感じているだけで、心が安らいでいく気さえする。
悪態の裏に穏やかな鼓動が隠されているなど、獏良は思いもしなかった。
こんな状態なのに?こんな状態だから――?
それ以上は深く考えないことにした。
肩の力を抜き、腕の中にいることを選んだ。
――もう少しだけこのままでいてあげる。
優しい鼓動を背に感じながら。

+++++++++++++++++

癒しタイム。


アンハッピーサプライズ

名前を呼ばれたと思った。
獏良が後ろを振り向いても、見慣れた玄関があるだけで、人の姿はない。
そもそも、獏良は一人暮らし。呼びかける者がこの家にいるはずもない。
気のせいと自分に言い聞かせて、玄関に背を向けた。廊下の先を見据え――記憶の齟齬に気づく。あれ、今まで何をしていた……?
学校から帰ったところ。いや、違う。着ているのは私服だ。遊びに出かけた帰り。荷物も持たずに?ただ自宅で過ごしていただけ。玄関に何の用がある――。
考えれば考えるほど、記憶に綻びが生じる。
幻聴が聞こえる寸前まで何をしていたか、まったく思い出せない。額に手を当てて顔をしかめる。指の隙間から見える廊下は暗い。先にあるリビングの明かりもついていないようだ。今は、昼か、夜か――。それさえも分からなくなっていることに身体が冷える。
手探りで電気のスイッチを探した。すぐに触れられた壁の出っ張りを指の先で押す。パチンと音はしたが、何も起こらない。もう一度押した。パチン。空しく音がするだけ。
何回か試し、スイッチが機能しないことを確認した。電球切れだろうか。
廊下は薄暗く、奥にはさらに暗い闇が口を開いている。そのまま壁に手を這わせ、玄関から一番近くにある洗面所を目指す。
洗面所も暗闇が支配していた。それに空気が淀んでいるような気もする。鏡台や浴室への扉がぼんやり目視できるくらいで、足元が危なっかしい。
廊下と同じようにスイッチを押した。また、点かない。
同じタイミングで電球切れの可能性は低い。停電だろうか。玄関から移動する前にブレーカーを確認すべきだった。ブレーカーは下駄箱の上にある。
洗面所を後にしようと足を一歩踏み出したとき、また声が聞こえた。
先ほどは名前を呼ばれたと思ったが、とても言葉とはいえない唸り声。鳥のようなギャアギャアという鳴き声にも、女の悲鳴にも聞こえる。何とも形容しがたい奇怪な音。それが徐々に大きくなっていく。遠くから近づいてくるような――。
鏡が一瞬だけ光を放ち、
ビタンッ。
大きな手の平が浮かび上がる。続いて、髪を逆立てた鬼の形相が獏良を睨みつけた。
「うわっ」
獏良は飛び上がった。足をもつれさせながら洗面所から廊下に逃げ出す。
背後には誰もいない。亡霊は鏡の中だけの存在だった。やけにはっきりと映った姿が見間違いであるはずはない。
廊下に飛び出した獏良は突然立ち止まった。自分の意志ではない。足が何かに捕らわれている。首をギギギとぎこちなく傾けつつ、足元を確認すると、複数の青白い人の手――よく見ると間接に継ぎ目がある作り物だった――が、寄り集まって片足を押さえつけていた。
「ひっ」
獏良はがむしゃらに足を揺する。まるで床に張りついてしまったようにびくともしない。もがいている間にも仮初の命を宿した手はカコカコと指を鳴らしながら、足を這い上がってくる。
「やだっ」
唐突に足が解放された。もう足を床に縫い止めるものはなく、勢い余って膝をついた。じんじんと痛む足を気に留める間もなく、背後から粘りつくような足音が聞こえてきた。ペタリペタリ。
獏良は床に伏せたまま、腕のみで身体を引き摺り前へ進む。足音から逃れるために廊下の奥へ。冷静に判断できる余裕はなかった。その場を離れたい一心で廊下を匍匐する。
あともう少しでリビングに辿り着く。そうして扉を閉めれば安全だ。
規則正しく敷かれた床板の先に境目が見えた。右腕をそこに向けて伸ばす――。
右肩に、ニチャアという水分を含んだ音。ずしりと食い込む重み。鼻に腐臭。
「うぐ……」
恐る恐る振り返ると、皮膚が爛れて肉が腐り落ちかけた人間――だったものが獏良を見下ろしていた。
濁った体液を滴らせながら節くれ立った手が迫る。がさり。耳障りな音と共に何かを顔に押しつけられた。すっかり色が抜け落ちて萎れた植物の束。水分を失って乾燥しきった葉が頬に触れると、パラパラと崩れ落ちて髪や肩に降りかかる。避けようとしても、執拗になすりつけられる。
「ケホッ」
両手で振り払おうとしても止む気配はなく、片足を高く蹴り上げた。ぐちゃ、という不快な感触――挽肉を捏ねているときを彷彿させた――と共に生きる屍が仰け反る。
その隙を見逃さず、獏良は床を転がり、屍と距離を取る。リビングと廊下を隔てるドアを踵で蹴って乱暴に閉めた。
廊下を塞ぐと、物音一つしなくなった。念のため、キャビネットをドアの前に引き摺って移動させる。これでちょっとやそっとの力ではドアは破られないだろう。
額で汗を拭う間もなく、今度はリビングの光景に息を呑む。天井を覆うほど薄い白煙が立ち込めている。白煙は風もないのに揺れる。その一部が白い尾を引いて円を描くように飛ぶ。まるで意思を持っているかのように。
煙の一部と思ったそれの先端には、人間の顔が浮き出ていた。
「あっ……あ……」
浮遊している煙には、幾つもの顔が存在していた。一つ一つが自由自在に空中を飛び回る。
獏良は反射的に頭を抱えて床に伏せた。その上をすうっと「顔」が滑空していく。床で縮こまる獏良にそれ以上近づくことはないようだった。好き勝手に飛び回るだけで危害は加えてこない。虻のごとく空中をさ迷っているだけ。
獏良は身を伏せたまま、リビングの端から端に移動した。自室のドアをそっと開け、中へ転がり込んだ。
背中をドアへ押しつけ、ふうと深く息を吐く。驚きの連続で疲弊しきっていた。
いつの間に我が家は化物たちの住処になってしまったのだろうか。バクバクと心臓が波打っている。押さえようと胸に手を当て、シャツの下の感触に、もう一人の存在を思い出す。やけに静かだ――。
ギシリ。無人のはずのベッドから音がした。視線を動かすと、小さな影が二つ。ベッドの上に立っている。カチャカチャカチャ。そろそろと影が動く。少女の形をした二体の人形だった。手には赤と黒の箱を大切そうに抱えている。
パクパクと口が動き、幼い子どもの声が聞こえる。機械音声のように辿々しい。
「……さ、マ。えラんで……」
「どっチ?」
二体は交互に口を動かす。
「いイの?えらんデ」
「ヒとつ、えらんデ」
箱を頭の高さまで掲げる。
「どっちか」
「どっちも」
そして、同時に、
「えらんでー!!」
ばくんと口が大きく開き、大きな眼球がぐるんと白目を剥く。
獏良はあらん限りの声を張り上げた。意識を保てたのはそこまでだった。

バクラは目を瞑って考えに耽っていた。これからどう動くべきか、慎重に計画を吟味する。手にした千年アイテムは一つ。これをいつ使うか。
こうしてどれほどの時間が経っただろうか。光の届かない空間で、立ったまま腕組みをしていた。
『バクラ様、よろしいでしょうか』
落ち着いた女性の声に片目を開ける。
「なんだ」
目の前に女性の形をした球体関節人形が姿を現した。腕の中には欠損した赤子の人形を抱えている。
人形はカチカチと腕や首を動かして無機質な音を鳴らし、人間には理解できない言語を操った。
『ご報告したいことがあります』
バクラから否定の言葉はなかった。人形は続ける。
『嫁御様のことなのですが』
バクラの頬がぴくりと動く。言葉が一旦途切れ、もう一度同じ内容を繰り返す。
『リョウ様のことなのですが』
「宿主がどうかしたか?」
人形は人形らしく表情を変えない。ただカチカチと音を鳴らすだけ。
『配下の者たちが要らぬことをしようとしたらしく、リョウ様が大層驚きになられています』
閉じていたバクラのもう片方の目が開く。
『リョウ様を喜ばすのだと張り切ってお迎えしようとしたそうなのですが』
「……もういい。それで、宿主はどうしてる?」
『ベッドでお休みになられています』
「そうか、あとはオレに任せておけ。お前たちは静かにしてろ」
人形は深々と頭を下げ、その場から消えた。一人になったバクラは両の手のひらをゆっくりと持ち上げ――一呼吸置いてからパチンと音を立てて顔を覆う。声にならない呻き声が出た。
バクラに忠誠を誓う闇から生まれた同胞たちは、人間の常識を持っていない。マスターであるバクラの命令はよく聞くが、複雑な人間の感情には疎い。一番話の分かるダークネクロフィアでさえ、「ベッドで休む」を文字通りに理解していて、「気絶」していることすら気づいていないのだろう。
闇の同胞たちはバクラの宿主である獏良のことを「マスターの大切な人間」として認識している。だから、きっと、悪気はないのだ。悪気なく獏良を喜ばせようとしたはずだ。それぞれが最良と思う方法で。
バクラに物知らずな同胞たちを責める気はなかった。すべてマスターであるバクラの責任。尻拭いはマスターの仕事。
これからのことを考えると、頭が締めつけられるようだった。
「……また好感度が下がるじゃねえか」
悲痛な声が覆った手のひらから漏れ出た。

+++++++++++++++++

バクラはいい上司。
オカルトデッキのモンスターたちは、了くんを「もう一人のマスター」と認識してもいいし、「優しい方のマスター」と思っていてもいいです。


うささわり ※獏良が半獣人化しているファンタジーです。

運命というものがあるならば、当人たちには気づかれないよう静かに舞い降りて背後からそっと肩を叩くのだろう。その日、不思議な巡り合わせによって結ばれた縁は、やはり突然、予兆の一つすら見せなかった。

バクラは市街地の細道を歩いていた。休日に恒例となっている食料のまとめ買いが終わり、当てもなくうろうろと暇を潰していた。駅からもメインストリートからも離れているせいか、道路沿いにはどこか垢抜けない店が立ち並ぶ。
気紛れにひょいと視線を投げた先が、外に向けて置かれたとある店のショーケースだった。途端にバクラの眉間に深い皺が寄る。
展示物のお陰で看板を見なくとも何の店であるか一目瞭然。これ以上ないほど合理的な宣伝方法だ。しかし、ケースの隅で蹲っている白い塊が、休日で上機嫌だったバクラの気分を害した。
半獣専門ペットショップ――。
いつからか、人間は二種類の種族に分かれた。原因は突然変異とも、先祖返りとも、遺伝子操作の副産物とも云われている。
片方は変わらず人間として生活を続け、もう片方は人間としての権利を奪われた。
半分獣の血が混じった、もう片方の種族を半獣人(ハーフ)と呼び、人間の愛玩用――飼育される者として扱ったのだ。
半獣はとても数が少なく、金持ちがステータスとして飼うのを好む。他にも、見世物や下働き、違法には当たるが売春にも使われる。
バクラはそういった半獣の扱いを毛嫌いしていた。正義感からではなく、虐げられる彼らの卑屈な目を見ていると不快になるのが理由だ。
現に客寄せとしての役目も果たせずに、頭を伏せて震えている姿を目にしたせいで苦虫を噛み潰したような顔をする羽目になった。
さっさとその場を立ち去れば、このまま変わらない日常が続いていたに違いない。足をちょっと止めていた、そのタイミングで箒を持った店主が店から顔を出した。
「おお、よろしければ、店内をご覧になられてはいかがですか?」
手を擦り合わせつつバクラを値踏みするような目つきで上から下まで見る。
バクラは内心苛立ちつつも店主の言葉を遮らなかった。それどころか、無造作にケースを指差して、
「あれは?」
と質問を投げかけた。
不愉快な気分をさせられた腹いせに少し突っついてやろうと思ったに過ぎない。
「あー、あれはですね。ちょっと変わった毛並みでしょう?それが原因で売れ残ってまして。顔は良いですし、人目を引きますから、こうして店の前に置いてるんですよ。どうしても年がいってるとお客さんがつかないんですわ。そろそろ引退かな」
踞った背には真っ白な髪が張りついている。頭から生えた特徴的な長い垂れ耳――ウサギの半獣なのだろう――も白。辛うじて見える肌も透けるように白い。
売れない半獣は殺処分こそされないものの、ペット以下の未来が待っている。過酷な労働環境に放り込まれるのはまだ恵まれている方で、実験動物として一生を終えることもあれば、海外に安値で売り飛ばされることもある。下手に生き残るより、速やかな死を迎える方がマシなのかもしれない。
二つの視線に気づいたのか、半獣が恐る恐る顔を上げた。店主の言う通り、人並み外れた容姿で、見た目ではオスかメスか判断がつかない。恐怖に染まった瞳はどこまでも深い色を放ち、人を惹きつける魅力に満ちている。
「いくらだ?」
「はい?」
驚いて訊ね返す店主にわざわざ説明はしてやらない。
「いくらだ、と訊いている」
店主が「変わった毛並み」と軽んじた色は、バクラが持っている色でもあった。

ペット用の半獣は普通車一台分の値段と云われている。幼ければ幼いほど価値が上がり、年を取れば買い手がつかなくなり、値段が下がる。
本格的に費用がかかるのは購入してからだ。人間一人分の生活費が常にかかる。飼うのは金持ちの道楽と認識されるのも無理はない。
幸いにもバクラは金銭的に余裕があった。生活費などの必要経費以外は手つかずのままの貯金がある。今まで使う暇も浪費する情熱もなかった。
どうにか流行りの高額な半獣を買わせようとする店主を制し、白の半獣を引き取った。
白の半獣は、バクラと店主が商談している間も怯えた目で見ていた。今までどういった扱いを受けてきたか火を見るよりも明らかだ。
バクラの部屋に辿り着いても、半ば呆然と立ち尽くし、不安げに周囲の様子を窺うだけ。服から少しだけ顔を出している短い尻尾は項垂れている。
「おい、お前」
呼びかけにビクンと大袈裟にも見えるほどに垂れた耳が立った。
バクラは少しだけ声の音量を落として言葉を続ける。
「喋れるだろう?」
半獣でも必要最低限の教育を受けることになっている。コミュニケーションは問題なく取れるはずだ。
ペットショップで渡された契約書には、病歴やワクチン接種の有無などが記載されていた。それはペットとして必要な情報であって、人間としての身分を証明するものではない。それも、たった一枚の薄っぺらな紙に記載されていただけのものだ。
「名前は?あの店に預けられる前に呼ばれてた名前があるだろう」
半獣の顔は強張ったまま。唇はぎゅっときつく引き結ばれ、太股の前で握ったこぶしはすっかり色を失っている。
どうやら、よほど今まで虐げられてきたらしい。警戒を解くのは一朝一夕では難しいだろう。
「まあ、いい。オレはバクラだ。よく覚えておけ。お前も名乗ることを許してやる。今日からここがお前の家だ。いいな?」
微かに半獣の頭が揺れた。バクラはそれを同意と受け取る。
「服がいるな……。布団も。あと、役所に登録しに行かなきゃなんねえのか」
半獣は伸びきったシャツに生地の薄いショートパンツというみすぼらしい衣装を身につけていた。服のサイズ自体はバクラと変わらないだろうが、ボトムスに関しては尻尾用の穴がいる。共有するわけにはいかないから、買いに行かなくてはならない。
「とりあえず、今日はソファで休め」
こうして、バクラともう一人のばくらの生活が始まった。

ばくらはソファを定位置と認識したようだった。バクラから声をかけない限りは、日がな一日ソファの上で膝を抱えて過ごす。そんな様子を目にしたバクラは、寝具を買うことを取り止め、慣れるまでは下手に動かさずに放っておくことにした。
相変わらず不安げな表情を浮かべ、一言も言葉を発しないが、手がかかることはない。一度教えたことは忘れることはないし、テーブルマナーは文句のつけようがない。食事が終われば皿を下げ、風呂やトイレに入れば綺麗に始末されている。バクラが仕事に行っている間に部屋が片づいていることもある。
愚鈍な純血種の人間より遥かに優秀だ。優れた面を前に、大人しすぎるなどというのは、大した問題にならない。むしろ、うるさくペラペラ喋るよりずっといい。
新品の衣服を着せ、毛並みを整えれば、非の打ち所がない美貌になった。
もしかしたら、価値のある拾いものをしたのかもしれない、と美しい横顔を見ながらバクラは思った。

休日、バクラがソファに座って雑誌を読み始めると、ばくらはその片隅に寄って小さく背を丸めた。ソファは広めの二人がけで、並んで座ったところで充分に余裕がある。
「別にそこまで気にする必要ねえぞ」
バクラは何気なくばくらに手を伸ばした。頭に手が触れた途端、両耳が小刻みに震え始める。怖がらせてしまったかと手を離そうとすると、上目遣いの大きな瞳が向けられていた。これまでは伏し目がちで覗くこともできなかった瞳だ。
頭に置いた手をぎこちなく動かしてみた。ばくらは触られるがままにじっとしている。少しだけ目元が赤らんだ。気をつけて見てみれば、耳が若干後方に倒れている。
――気持ちいいのか?
半獣は獣の習性が色濃く残っているという。仕草から察するに、喜んでいるのかもしれない。心なしか表情が和らいでいるようにも見える。
口に出して指摘すれば逃げ出してしまいそうで、言葉をかけることは諦めた。
しばらくの間、バクラは頭を撫で続けた。

それからというもの、空き時間には頭を撫でるという二人の日課ができた。
バクラがソファに座るのが合図になり、ばくらは遠慮がちに頭を差し出す。両手を行儀よく身体の前で揃えて動かずじっとする。その頭をバクラがやわやわと撫でる。
続けていくうちに、うっとりと目を細める余裕までばくらに生まれた。
いくら馴れ合いを好まないバクラでも懐かれて悪い気はしない。気が済むまでばくらの頭を撫で回した。
さらさらと揺れる髪。綿花のようにふわふわと柔らかい毛に覆われた耳。触っている方も心地よい。いつまでも触れていたくなる。

その日のバクラは、つい夢中になっていつもより長く頭を撫でていた。あれだけ怯えていたばくらが気を許していることに優越感すら感じ、離れ難く思ってしまったからかもしれない。
ばくらも嫌がらずにソファの上で四つん這いになるようにして頭を下げている。
頭のてっぺんを撫でていた手がするりと髪の流れに沿って滑り落ちた。そのまま頬から顎の輪郭を辿る。顎の下に四本の指が潜り込み、喉元から顎先まで往復する。
ばくらは時折ぴくんと小さく震えながらもバクラの手を受け入れていた。
顔周辺を撫で終わると、指先で長い耳の感触を付け根から先まで確かめてみた。
揃えた両手の先が微かに揺れ動く。ソファから離れまいと耐えているようだ。
存分に柔らかな毛と肌を堪能し終え、バクラが後ろへ下がると、ドンと鈍い衝撃が胸元に響いた。危うく体勢を崩しかける。
原因を探るべく視線を落とすと、胸元には白い頭が埋まっていた。続いて、ぐりぐりと額を擦りつけてくる。
「お、おい」
ぐりぐりぐり。バクラの呼びかけに気づく様子もなく、執拗にそれを繰り返す。ただの頭突きではなさそうだ。ばくらが積極的に動くのは初めてのこと。
もしやと閃き、バクラはもう一度頭を撫でてみた。すると、ぴたりと動きが止まる。手を離せば、再び頭が動き始める。よほど愛撫が気に入ったようだ。
このまま撫で続けてやるべきだろうか。腕は既に疲れている。バクラが手を頭に乗せたまま考えあぐねていると、
「――もっと」
聞き逃してしまいそうなほど微かな声がした。
困ったように、泣き出してしまいそうに、眉尻を下げて歪めた顔が見上げている。
言葉を初めて発したことに本人は気づいているのか、いないのか。
向けられた大きな瞳が言葉以上に訴えかけてくる。
その期待を裏切ることなど誰ができるだろうか。
バクラは細い顎に手を添えて軽く持ち上げた。一層丁寧に頭や顔を撫でてやる。そうしていくうちに、目元だけではなく頬まで赤く染まっていく。満足げな深い溜息が口から零れ落ちた。
こんな取るに足らないことで喜んでいる。なぜか期待に応えてやっているはずのバクラの方が満たされていくようだった。主導権を握ったつもりで、ばくらから目を離せなくなっている。油断すれば今にも溺れてしまいかねない。

どれくらい続いただろうか。
二人はのぼせ上がるほどの熱気に包まれていた。
どちらも引こうとはしなかった。余計な言葉を発したり、下手に動いてしまえば、この時間は終わる。それが分かっているから、ただ黙って互いに見つめ合う。
ばくらの瞳には薄い膜が張り、きらきらと光を含んでいる。睫毛にもそれが小さな粒となって絡む。唇は先ほどの一言からしどけなく緩み、細切れの息がフウフウと漏れていた。
ばくらの身体が音もなく横に倒れた。
終わりの合図かとバクラが思ったところで、その身体がくるんとひっくり返る。伏せに似た腹這いの体勢。ただし、頭はソファの端に、足はバクラに向けて。もちろん、足に続く下半身――尻も同じく。短い尻尾がピンと上向いているのまで見えた。
戸惑うバクラに白い頭が振り向き、物言いたげな視線が送られる。尻が少しだけ持ち上がった。
――交尾……の催促か……?
バクラは半獣の生態にはそこまで詳しくはない。本能の部分は動物に近いという知識くらいなもの。仕草の意図は掴めない。
尻尾が左右に揺れた。
バクラは誘われるように揺れる尻尾の周辺に触れる。
そうだと言わんばかりに、尻尾の動きがぴこぴこと早まった。さすがに喜んでいるらしいことは分かる。
触れるか触れないかの力加減で小振りな丸みを上から下へ撫でた。部位が部位だけに頭と同じように堂々と触るのは気が引ける。
ふりふりふり。今度は尻が上下に揺れる。もっと、ということなのだろうか。
例えようのない胸の疼きに責め立てられながらも撫で続けた。上下、左右、ときには円を描くように。
「…………あっ」
途中で小さな悲鳴が上がった。
「そこは……ダメ……」
どうやら、撫でているうちに厄介な部分に触れてしまったらしい。
「悪かった」
素直に謝罪を口にしてから、なぜ詫びる必要があったのかとバクラは首を傾げる。
けれど、気持ち良さそうに尻尾が揺れるのを見ると何も言えなかった。
高まる疼きの捌け口が見つからないまま手を動かす。
やはり、大変な拾いものをしてしまったようだ。
ウサギが貪欲な生き物だとバクラが知ったのは、それからしばらく後のこと。
「――おねがい、もっと」

+++++++++++++++++++

ウサギのおしりは可愛いです。
多分そのうち同じベッドで寝る(そのままの意味で)ことに。

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