ばかうけ

!すべてパラレル、二心二体です。!


和菓子職人と常連さん

昼下がりのオフィス。ほとんどの従業員が出払い閑散とした中で、バクラは山積みの案件を抱えて昼飯を食いっぱぐれていた。
社内切っての精鋭といえば聞こえはいいが、それだけ業務が上から下へ、右から左へ、流れてきやすいという境遇にある。
昼飯の代わりに缶コーヒーを口にしながらパソコンに向かわなければならなかった。
社内に籠りきりで営業にも出られず、肩周りがガチガチに張って腕が満足に上がらない。
昼休みを返上した甲斐あって、ようやく一区切りがつこうとしているところだった。
出来上がった会議用の資料をざっと見直し、社内サーバーのフォルダに放り込む。上司に報告するのは後回しでいい。
次の作業に移ろうとしたところで、背後から声をかけられた。
「今、ヒマかい?」
バクラは相手の顔を確認もせず、手元の資料に目を落としたまま。
「見りゃ分かんだろ」
「そうかそうか。それはちょうど良かった。ちょっとしたおつかいを頼みたくってさ」
「てめェ」
デスクの下に収まっている長い足で側板を蹴り飛ばし、回転するキャスターの勢いのまま後ろを振り返ると、他部署所属のマリクがパーテーション越しにしたり顔で立っていた。
マリクは手のひらを見せて睨みつけるバクラを制し、
「注文しておいた手土産を取りに行きたいんだけど、お客さんに捕まっちゃってね。すぐそこの大通りに面した店なんだ。頼む。簡単だろ?」
そこからは社内名物ともいえる二人の応酬。マリクが強引に話を進めようとし、バクラが要求を撥ね除ける。どちらも一歩も引こうとしない。
言い合いの果てに、バクラは会議の手伝いと引き換えに引き受けることにした。渋る振りを続けながら、あとで存分に扱き使ってやると目論みつつ。ちょうど外の空気を吸いたくなってきたところでもあった。
「会計済みだからさ。これが予約票だ」
マリクはひらひらと手を振り、バクラを送り出した。
「店でいいことがあるかもしれないぞ」

車が絶え間なく行き交う通りには、飲食店が多く立ち並んでいる。 何度となく付近を通っているはずだが、バクラの記憶に目指す店は存在していない。マリクから渡された予約票に記載された住所だけが頼りだ。
事務所から十数分ほど歩いたところで、間口三間半ほどの小さな店を見つけた。注意していなければ通りすぎてしまうところだった。今まで気づかなかったのも無理はない。
背の高いビルばかりの都会でそこだけ時間が止まったような、町屋建築風の、趣のある佇まい。入口はガラス張りの格子引戸で、中がよく見えるようになっている。
店内には、ショーケースカウンターと白い制服を着た店員が一人。
間違いない。ここが探していた和菓子屋・童実野堂だ。
バクラが戸に手をかけ、ガタガタと音を立てながら横に滑らせると、
「いらっしゃいませ」
朗らかな声が店内に響いた。
店員は長い白髪を後ろで一つに結わえた整った顔立ちの青年。年齢はバクラとそう変わらないようだ。女とも見間違えるほど身体の線は細い。世間擦れしていない雰囲気が店に合っている。
予約票を見せると、店員は「いつもお世話になっております」と丁寧に頭を下げ、店の奥に引っ込んだ。当然カウンタは無人となる。
バクラは手持無沙汰になり、ケースの中へ視線を落とした。そこには様々な種類の和菓子が収まっている。
大福やどら焼きなどの定番品から始まり、供え物によく用いられる干菓子、目に涼やかな水もの、色とりどりの練りきり――。
バクラは甘味を好まないため、食指はあまり動かないものの目の保養にはなる。
特に練りきりはどれも美しく繊細だった。薔薇や菊の花びらが一枚一枚まで丁寧に表現されている。食べてしまうのが勿体ないくらいだ。
見る者の目を奪う芸術品ばかりかと思えば、コミカルな表情の雪だるまや雪うさぎなどの可愛らしいものまで並んでいる。
「お待たせ致しました」
暖簾の奥から先ほどの店員がよたよたと覚束ない足取りで、大きな紙袋を二つ持って戻ってきた。
中身を確認しなくとも、ぱんぱんに膨らんだ紙袋を見れば重量の予想がついた。
――あの野郎……。
「またのご来店お待ちしております」
バクラの怒りなど露知らず、店員はにっこりと柔和な微笑みを浮かべた。

事務所に戻ったバクラは、紙袋を手に早速マリクに文句をつけにいった。
「いやぁ、ごめんごめん。助かった」
マリクは大して悪びれもせず、片手を胸の前まで上げて軽く謝罪の意を示すのみ。
「でも、いいことあっただろ?」
「あ?」
「店番してた子」
ああ、なるほど、とバクラは合点がいき――しかし、すぐに首を横に振る。店員が少しばかり美人だったとして、マリクに一杯食わされたのに変わりはない。
バクラの心中を見抜いたように、マリクは補足説明を始めた。
あの店員は名を獏良といい、なんと店長だという。とはいっても、自分で店を構えているわけではなく本店は別にあるので、雇われ店長になるらしいが。
若くして店を任されるだけあって、和菓子職人としての腕はかなりのもの。美しい練りきりはすべて彼の作品だった。
多忙ゆえにほとんど厨房に籠りきりになるが、客の顔が見たいとの希望から、手透きになるほんの少しの時間だけカウンターに立つ。
他に支店があるにもかかわらず、マリクの部署がその支店を利用するのは、店長の腕を買っているからとのこと。
「繊細で確実な仕事をしてくれるんだ。そういうの、お前結構好きだろ?」
マリクの指摘は正しかった。芸術品の数々があの細腕から生み出されていたのだと思うと興味が湧いてくる。もっと話がしてみたい。
バクラは辛うじてそれを顔には出さずにマリクの追求をかわした。
「明日までに会議用の資料を三十人分製本しとけよ」

取引先からの帰り道、バクラは偶然にも和菓子屋の前を通りかかった。
横目でちらりと店内を確認すると、例の職人が店番をしている。
表に出ることは珍しいとマリクが言っていたことを思い出し、事務所に向かうはずの足を店に向けた。
「いらっしゃいませ」
職人――獏良は前回と同じように丁寧に頭を下げ、
「本日は何をお包み致しましょうか」
一度しか来店していない客の顔を覚えていることにバクラは少しだけ驚きつつも、「悪いな。今日は私用なんだ」と、平然を装って言った。
つい数十秒前までは来店するつもりなど微塵もなかったのに。しかし、嘘は言っていない。
「そうでしたか。それでは、ごゆっくりご覧下さい」
今日もショーケースには様々な菓子が並んでいる。中にはだいぶ数が減っているのもあった。どうやら贔屓にしているのは、マリクの部署だけではないらしい。
バクラは目についた数点の菓子を指差した。
注文を受けた獏良は菓子を紙器に詰め、上から包装紙をかけて紐で結ぶ。
「お待たせしました」
差し出された包みにはほっそりとした指がかかっている。この指が餡を手に取り、精巧な細工を施すのだ。食欲とは関係なくバクラの喉が鳴った。
深い色の瞳が菓子たちに向けられ、長い睫毛が影を落とす。
決して見ることはできない舞台裏を想像してみた。
涼しげな表情の裏で、どんな情熱をもって菓子作りに向き合っているのだろうか。

それから、バクラは時間を見つけ、童実野堂に通うようになった。
通っているうちに獏良と話すようになり、和菓子について聞くことも多くなった。
月替わり商品はなるべく季節感を意識するようにしていること。どれか一つは気に入ってもらえるように多くの種類を出すようにしていること。子どもが喜びそうなデザインのものを必ず置いてあること。
「僕の立場でこんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど、やっぱり特に子どもにはケーキとか洋菓子の方が人気だと思うんだよね。だから少しでも色んな人に興味を持ってもらいたくて」
暖かくなってくれば、桃の花や鶯、雛人形の姿をした淡い色の菓子が並んだ。夏には寒天に魚が泳ぎ、秋になると紅葉や南瓜が目を楽しませる。
ショーケースの中は小さな美術館。いつ訪れても飽きないように工夫がされている。
菓子の作り方を訊けば、丁寧な答えが返ってきた。
「丸めてお団子状にしてからヘラで形を作るんだ。これは型で抜く。それは卵白を泡立てて寒天で固める」
獏良は菓子を一つ一つ慈しんで作っている。それが言葉からひしひしと伝わってくる。店の雰囲気にもよく表れている。一度訪れれば、二度三度と通いたくなる。
バクラが足繁く通っているうちに、いつの間にか一年が過ぎようとしていた。

いつものようにバクラが戸を開けると、獏良は一拍間を置いてから顔を上げた。
「いらっしゃい」
笑顔に少しだけ違和感があった。受け答えは変わらないものの、どこか浮かない顔をしている。
「何かあったか?」
普通の客なら見逃してしまうような些細な変化。他には誰も気づかなかっただろう。
獏良自身も気づかれるとは思っていなかったようで、一瞬だけ驚きの表情を浮かべてから、「まいったな」と眉をハの字にした。
「初めて工芸菓子のコンクールに出場することになったんだけど、デザインに迷って……」
工芸菓子とは食べられる材料のみを使った観賞用の菓子のことだ。童話の中に出てくる「お菓子の家」のようなもの。場合によっては複数人数で製作する大がかりなものもある。
和菓子に関しては四季折々の風景を写実的に表現するのが基本になっている。和菓子の技術の他に日本画の知識と感性も求められる。
獏良は本店からコンクールの出場者に指名されて喜んだものの、出るからには童実野堂の顔になる、失敗は許されないと必要以上に気を負ってしまったらしい。
もうそろそろ製作に取りかからなければ間に合わなくなってしまう。焦りでさらに悩みに拍車がかかり、今日まで来てしまった。
「上手くしようとすれば、ありきたりなものになるような気がして。どうしたらいいか……」
深い溜息が獏良の口から零れ落ちる。
バクラにはその重圧がどれほどのものか想像もつかない。和菓子を作る苦労も知るはずがない。
できることは、今日まで獏良が生み出した和菓子を見てきて、客として思ったことを素直に伝えるだけ。
「お前が普段作っているようなものを出すんじゃダメなのか?」
「え?」
「お偉いさんは、お前の普段の働きを見て出ろっつたんだろ。なら、普段通りにすりゃあいい。それで良かろうが悪かろうが、選んだヤツの慧眼次第ってことだ」
そこまで語ったところで獏良の顔は晴れない。浮かぶのは戸惑いばかり。笑顔を作ろうとするも、口元が歪んでしまっていた。
「それにオレはお前が作ったものを気に入ってる」
バクラは片眉を上げて軽い調子で口にした。眼差しだけは真剣に揺るぎなく獏良に向けて。
コンクールのことはさておき、純粋に「いい」と思っただけのこと。獏良がいつも手を抜くことなく厨房に立っていることは、今まで聞いて、見て、食べて、分かっている。
「そう……」
獏良はショーケースに並んだ和菓子たちを見つめ、それから表情を和らげて、バクラに向かって言った。
「ありがとう」

それを最後に獏良は店番に立たなくなった。コンクールに向けて作品を作るべく集中しているのだろう。他の店員が応対していた。
たまに覗きにいけば、よく知っている雰囲気の和菓子たちが獏良の代わりにバクラを出迎えてくれる。姿を見せなくとも普段の仕事っぷりは変わらない。
バクラは持ち帰ったクリスマスリースの形をした練りきりを摘まんで目を細めた。

ようやく再会できたのは一ヶ月半が過ぎた頃。
「いらっしゃいませ」
出会ったときと同じようにゆったりとした心地好い空気をまとっていた。店の雰囲気までどこか明るくなっている。
「よう」
バクラは空白の時間など気にせず、カウンターに片腕を乗せて獏良の顔を覗き込んだ。
「お陰様で一仕事終わったよ」
一枚の写真が獏良からバクラへ差し出される。
「大賞は逃したけど、新人賞をもらえたんだ」
そこに収められているのは、一面の雪景色。一見して冬枯れの樹木が雪原にぽつんと佇んでいるだけ。写真を手に取ってよく見てみると、雪の下からは緑が芽吹き、葉が一枚もないと思われた枝には僅かにほんのりと色づいたつぼみがついている。
ほとんど色のない世界のはずなのに春の訪れを感じさせてあたたかい。希望に満ちた作品だった。
「お前らしいな」
「ふふっ。ありがとう」
写真を前にしばらく作品について話が弾む。製作過程。苦労したこと。よくできたところ。搬入時のトラブル。すべてが楽しそうだった。
「そうだ。励ましてくれたお礼に、ちょっとしたものがあってね」
そのうちに獏良はぽんと手を打った。
「別に礼なんて……」
バクラに出されたのは、膳に乗せられた桜の形をした一見何の変哲もない和菓子。五枚の花弁からなり、ほのかなピンク色に彩色されている。
「甘さ控えめだよ。少し餡に塩も混ぜ込んであるんだ。食べてみて」
バクラはそれに手を出さず、
「なんでだ?」
ただ一言だけ漏らした。
その言葉の意味は、「なぜ礼をするのか」でも「なぜ礼が和菓子なのか」でもない。
「君、甘いのあまり得意じゃないでしょう?」
獏良は戸惑うバクラに向かってクスクスと口元を押さえて笑う。
和菓子屋でわざわざ「甘味が得意ではない」などとは言わない。獏良がバクラの好みを知るわけがないのだ。
「黒餡より、抹茶や白餡が使われてるものをよく選んでたから。煎餅やおこしも多かったよね。だから得意じゃないのかなって」
獏良は立てた人差し指をくるくると空中で回して推測を述べた。驚くことにすべて当たっている。商品を購入する短時間の中でしっかりとバクラのことを見ていなければ分からないこと。
「それで僕甘いものが苦手な人向けのメニューも取り入れてみようかなって思ったんだ。まずは春の新作に第一弾。感想を聞かせてよ」
少し間が空いてから、
「あ、そうだ。苦手なのに、なんでうちに来てくれるの?」
丸く目を開けてまじまじとバクラを見つめる。
「さあな」

新しい季節と共に小さな桜の花たちが店頭に並んだ。
売れ行きは好調で地元紙に掲載され、ちょっとした流行を起こすことになる。
インタビュー記事には、「大切なお客様からヒントをもらいました」と書かれていたという。

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了くんがお店をやると、もれなくバクラが常連さんになります。


魔のものは、招かれなければ家に入れない ※短いホラー

トントンとノックの音がする。
なぜチャイムを鳴らさないのだろう。不思議に思って、子ども部屋からリビングに出た。
いつもいるはずの母親の姿がない。
トントンと飽きもせずにノックが続く。
仕方なしに廊下を通って玄関に向かった。
トントントントン――。
止む気配はない。少し気味が悪かった。
背伸びをしてドアスコープを覗く。丸く切り取られた視界には、何も映ってはいない。
もしかしたら、向こうも背が足りなくて見えないのかもしれない。
「だあれ?」
恐る恐る発した声はやはり少し震えていた。
『………………………………』
不明瞭な音が聞こえた。どうやら返答らしいが、一つも音が聞き取れない。
「パパもママもいません」
今度は腹に力を入れて声を出した。
一呼吸の沈黙。
『用があるのは、お前だ』
ようやく届いた声は子どものものだった。
やはり、ドアの向こうに立っているのは、ドアスコープでも見えないほど背の低い子ども。それならば、怖がることはない。
「知らない人は家に入れちゃいけないんだ」
『知らない人、じゃない』
「パパとママの許可がなきゃ入れられない」
『父親には許可を取ってある』
一向に引き下がらない招かれざる客に焦れる。しかも、父親の知り合いだなんて見え透いた嘘をつく。子どもの知り合いなんて聞いたことがない。
早く父親でも母親でもいいから、帰って来て欲しい。むずつく足をもう片方の足でこする。
もし、向こうの言うことが本当なら……?
どうするのが正解なのだろうか。
『一人なんだろう?』
迷う心を見抜いたように、声の主が問いかける。
『心細くはないか?』
指摘されると、背後の薄暗い廊下から気配がするよう。
『よければ、遊んでやるよ』
語尾に甘ったるい響きが加わる。前方の楽しげな誘惑と後方の薄ら寒い雰囲気。
少年は、ドアを開けることを選んだ。
「少しだけだよ」
そこに立っていたのは――。
『ありがとうよ』
ズクン、と胸を突き刺す痛み。とても立っていられず、後ろへ倒れる。いつまで経っても頭にも背中にも衝撃はなかった。代わりに、意識が遠退いていく。

『はいれた』

ケタケタと笑う声を聞きながら。

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タイトルがすべて。


紅い月が嗤う夜に ※バッド風、少し絡みあり

森には濃い影が落ちている。月の仄かな光など地面に届くはずもなく、黒い獣がうずくまっているような闇がそこにあった。
密集した常緑針葉樹により昼間でも暗い。地面は一年中じめじめと湿っていて、空気が澱んでいる。夜に近づく者はいない。
大人たちが怖い昔話を子どもたちに聞かせ、決して入ってはいけないと忠告するような森だ。
青年は焦っていた。親戚の家からの帰り道、少し話が弾んでしまったという理由だけで、日が落ちてから森に入ることになり、一本だけ通っている街道を見失ってしまった。
燃料がたくさん入っているはずのランタンの火が消えてしまったのも運が悪かった。父親が整備を怠るなと口うるさく言っていたことを思い出し、今さらながら後悔する。消えたランタンを不様にぶら下げ、暗闇の中を一人でさ迷う。
背の高い樹木のせいで、星の位置を知ることもできない。焦れば焦るほど、見当違いの方向へ進んでしまっているように思える。
時折、フクロウの鳴き声と虫かネズミが葉を揺らす音が聞こえるだけで、青年の足音が静けさを掻き乱す。
ランタンを持つ手がじっとりと汗で濡れた。こうして迷っているうちに野犬に襲われたら一溜まりもない。
昔話では、この森にはよく得体の知れない化物が棲んでいることになっていた。もうそんな話を信じる年ではないが、野犬よりも厄介なものが徘徊しているのではないと思いたくなる。
それは獰猛な動物かもしれないし、正気を失った人間かもしれない。青年はこれまでの行いを神に懺悔した。
四半時ほどさ迷ったところで、ゆらりと小さなオレンジ色の光が視界の先に現れた。
人だ!と喜んだのも束の間、すぐに疑問が頭をもたげる。
こんな場所で人と遭遇することがあるだろうか。偶然の一言で解決できるとは思えない。本当に人なのだろうか。まさか、迷い人を狙う野盗か。
青年は立ち止まり、近づく光を見つめる。すぐに逃げた方がいいのかもしれない。しかし、もし本当に僅かな確率で人が通りかかったのなら、今すぐ助けを求めた方がいい。足は前にも後ろにも進もうとはしない。
どうするか迷っているうちに、光は人の輪郭を暗い森に浮き立たせた。
冷たい汗が青年の背中に流れ落ちる。どうして、明かりを持たない青年の元に迷いなく向かってくるのだろうか。森の暗闇と同化してしまっているのに。
あと、数メートルというところで、さらに二つの光が灯っていることに青年は気づいた。オレンジ色の光よりも上、横に並んだ小さな光。燃える炎のような深紅色。青年にまっすぐ向けられている。
――瞳だ。夜行動物のように瞳が輝いている。青年が光の正体に気づいたところで、
「こんばんは、迷い人さん」
漆黒を抱えた森に似つかわしくない涼しげな声が聞こえた。それと共にオレンジ色の光が声の主を照らし出す。足元までローブで身を包んだ長い髪の少年。その顔はこの世のものとは思えないほど美しい。手にはランタンのみ。旅人ではなさそうだ。
青年が答えに窮していると、
「困っているんだね?僕の家がすぐそこだからついておいで」
少年は優しく微笑んで告げた。

青年に選択肢はなかった。森で野たれ死ぬか獣に食い殺されるのが嫌なら、少年について行くしかない。森に何者かの住み処があるとは聞いたことはないけれど。
少年の家は歩いて五分ほどの距離にあった。木造の小さな一戸建て。他に人の気配はしない。
少年はランタンの明かりを消し、青年を家の中へ誘った。
「君は運がいいね。近くまで来てくれなければ、分からなかった」
通されたのは、食卓の間。テーブルの他には飾り棚と壁かけの装飾鏡、時計があるだけ。暗闇に包まれた窓外の景色も含めて簡素な部屋だ。
夕飯を食べ損ねた青年のために簡単な夜食が用意された。
「ごめんね。こんなものしか用意できなくて」
丸パンと野菜がたっぷり入った鶏肉スープ。少年は向かいの席に座り、自ら注いだ紅茶を啜っている。
部屋の明かりの下にいる少年は先ほどとは印象が変わっていた。真っ白な髪に透き通るような白い肌。美しいことには間違いないが、普通の人間に見える。表情は明るく、親しみやすい。肌が白すぎることと闇夜に光る瞳については気になるが。
青年は恐る恐る一口パンを食べ、安全なことを確認すると、休む間もなく口に詰め込み始めた。
「よかった!口に合って。人のために料理するのは久しぶりだから」
その食べっぷりを少年は満足げに見守った。口元を弧の形に緩めると、カップに口をつける。
スープを一滴も残らず平らげたところで、青年はやっと人心地がついた。
周囲を気にする余裕が出てくる。こんな森の奥で一人暮らしなど不便ではないのだろうか。何か理由があるのだろうか。
「色々訊きたいって顔をしてるね」
少年はテーブルの上で両手を組んで、静かで落ち着いた声音で話し始めた。明かりの下で透明度の高いルビー色の瞳が光沢を帯びる。
「昔話に付き合ってくれるかな」

    *

昔々、あるところに仲のいい家族がいた。父親と母親、少年、それに妹。決して裕福な家庭ではないけれど、少年は幸せだった。小さな村で慎ましやかに暮らしているだけで充分だったんだ。
ある日、夜半に一人の男が家を訪ねてきた。黒衣に身を包んだ長身の男。どうやら旅人のようだった。一晩泊めて欲しい、とその男は言った。
親切な父親は喜んで男を中へ招き入れ、旅の話を聞かせてくれと上機嫌に食卓に誘った。それを少年と幼い妹はドアの隙間から見ていた。少年はなんだか不安になってベッドに戻ることもできず、妹を抱きしめた。男が気味悪く笑ったように見えたからだ。
母親は腕によりをかけてご馳走を振る舞う。父親と男はワイングラスを鳴らし、何か楽しそうに話している。それを見ていた少年は突然強烈な眠気に襲われ――。
気づいたときには夜明けが近い時間だった。父親も母親も妹も床に倒れていた。少年は驚いて身を起こし、家族に走り寄った。食卓の間には、旅人の男だけが立っていた。
「今夜は運がいい。いいものを見つけた」
男は笑い混じりに言った。大きく開いたその口に見えるのは鋭い牙。
「本来なら全員食い殺すところ。だが、一宿一飯の恩義ってもんがある」
男の瞳は冷たく、一切の感情がこもっていない。
「お前」
先の尖った爪が少年に向けられる。
「お前の身と家族の命を引き換えてやろう。お前がその身を捧げれば、家族は殺さないでやる。いいな?」
少年は言葉の意味も分からず、首を縦に振った。とにかく家族を救わなくては、という想いだけだった。
次の瞬間、男が少年に飛びかかった。鋭い痛みが首元に走ったかと思うと、再び意識が暗転し――、深い森の中に倒れていた。
起きたときに少年は理解していた。人間ではなくなっていることに。体温が恐ろしいほどに冷たくなっている。男の手によって闇の眷属にされたのだ。
太陽が昇っているうちは外を歩けない。反面、夜目が利くようになった。聖なるものを嫌い、影を地面に描くことも、姿を映すことも叶わない。そして、人間の血がどうしても欲しくなる――。

    *

青年はびくりと身体を震わせた。目の前にいる少年は困り顔で変わらず微笑んでいる。
「少年は家族に会いには行けなかった。変わり果てた自分の姿は見せたくない。それに、吸血衝動に負けて、牙を向けてしまうことが何よりも怖かった。それ以来、人間を避け、森に住んでいる。臆病な吸血鬼の話――」
話が終わると、部屋に静寂が訪れた。古びた照明の微かなジジジという音が耳に入るほどに。信じがたい話と胸騒ぎに青年の視線が泳ぎ、壁にかかった鏡を捉えた。部屋全体がそこには映っている。窓、テーブル、食器、ポッド――少年の姿は、ない。
今度こそ青年の顔が青褪める。歯をガチガチと鳴らすも、身体は動かない。
「話に付き合ってくれてありがとう。久々に人と話せて楽しかった。明かりはあげるから、お帰り」

青年は小屋から転がり出るように森の中へ走りこむ。その様子を獏良は窓から眺めていた。青年の姿が完全に見えなくなると、空になった食器に視線を落とし、「無駄にならなくてよかった」と寂しそうに呟く。
夜を支配するものの眷属になってからというもの、人間の食べ物は一切受けつけなくなった。食べることはできるが、まったく味がしない。それは人間が空腹のあまりに砂や石を口にする行為と同等。腹が膨れる感覚を誤魔化すくらいで大半は吐き出してしまう。
吸血することを拒み続ける獏良には、それしか栄養を摂る方法はない。
しかし、根本的な解決にはならず、どうしようもない飢餓感を抑えることはできない。
肉を生で食べることで多少は飢えを凌げることは知った。吸血鬼になりきれていない獏良には、冷たい感触も生臭ささも弾力のある歯応えも、苦痛そのものだった。それでも、生きていくにはそうするしかない。
森に棲む獣を捕まえれば、もっと楽になるかもしれないと頭をよぎったが、いよいよ人間であることを諦めるような気がしてできなかった。
運良く行商人に出くわし、動物の血を売ってもらうこともあった。それは本当に稀で、行動時間が決まっている獏良には、他に手はなかった。
もう今では、どこまで人間であるのか、どこから人間としての禁忌行為に当たるのか、分からなくなっていた。
干からびてしまいそうな飢餓感に抗い疲れてしまったのかもしれない。ほとんど気が狂っているのかもしれない。空の皿が恨めしくもあった。
時計の針が深夜の十二時を告げた。
昔話には青年には話していない続きがあった。意識を失う前、男の笑い声と共に聞こえたのだ。
『五年と五ヶ月後、迎えに行くぞ』
獏良は両手の指を組み合わせ、ぎゅっと目を瞑った。神に見放された身では、祈る相手もいない。今日が宣告の日だ。ただ時間が過ぎるのを待つしかない。
――コンコンコン。
ノックの音がする。あの日の出来事が獏良の脳裏に蘇る。男は父親に許可をもらっていたが――、
――ばたん。
男にその身を捧げた獏良にはドアの施錠など意味はない。
獏良の前に現れた男は、黒衣を身にまとい、あの日と寸分違わない姿だった。
色を失った長い髪に、生気を感じられない蝋の肌。瞳の色は獏良と同じだが、もっと深く、奥に闇を内包した底知れぬ紅。薄っすらと笑みを浮かべた口元には鋭い犬歯が覗いている。
「久しぶりだな」
獏良は椅子から立ち上がり、血の契約上では主人に当たる男と対峙する。額から玉の汗が吹き出る。男はそんな警戒心など物ともせず、ずかずかと大股で距離を詰め、
「お前、まだ意地張ってんのか。干からびかけかよ」
ゾッとするような血を思わせる真っ赤な瞳で獏良の顔を凝視した。
「せっかくオレ好みに育ったっつーのに」
大袈裟な溜息を一つ。肩を竦めてやれやれの身振り。
「このままじゃお前、不死とはいえ、滅びることになるぞ」
「僕は……」
主人を前にした本能的な恐怖に震えながら、獏良はこぶしを作る。
「人間だ」
男は片眉を跳ね上げ、くつくつと喉を鳴らした。
「その痩せ我慢がいつまで持つかねェ。数日後には『死ぬ』ぞ」
表情こそ笑みの形を作ってはいるが、瞳の奥には冷たい光が宿っている。「死」の言葉に顔を歪める獏良の前に、二本の指が突きつけられる。
「オレとしても見す見す死なせるわけにはいかねェ。お前には選択肢が二つある。一つ目は、このまま血を拒んで『死ぬ』こと。二つ目は、人間の血を口にすること」
獏良は指を食い入るように見つめる。このどちらかしか道はない。人間のまま死ぬか、人間としての尊厳を失うか。それは、どちらにしろ『死』だ。この男は『死ね』と言っている。紙のように白い獏良の顔に青みが差した。
獏良の動揺は男にしっかりと伝わったらしい。妙な猫なで声で恭しく手の平を上に向けた。
「まあ、特別なお前のことだ。三つ目の選択肢を与えてやってもいい」
それは悪魔の囁き。退路がない者にとっての甘言。迷える獏良を白い手が誘っている。他に道はない。獏良はその手を――。

*****

ランプの明かりだけで照らされた薄暗い部屋で、男が肘かけ椅子に腰かけている。よく研がれた長い爪が生えた指をくの字に曲げる。さらに濃い影の中から少年の姿が滑り出し、男の前に佇む。男は襟のボタンを引き千切るように外すと、白い首筋を晒した。顔を傾け、喉元から鎖骨まで得意気に披露する。
ハア、ハア、ハッ、と少年が短く苦しげな息を吐き出す。唇からだらしなく垂れた舌には液体が滴っている。途切れ途切れの息は、早く、とせがんでいるようだった。
「来いよ」
居ても立っても堪らないとばかりに、細い腕が勢いよく首に巻きつく。首筋に牙が突き立てられ、ズブリと肌にめりこむ。少年に伝わるのは、肌と肉を貫く不快な感触。それでも奥に進む。
弾力のある血管に辿り着き、ぶるぶると逃げてしまうのを必死に追いかけ――ぷちんという微かな破裂音と共に、口の中に生暖かい液体が広がる。ワインよりも濃厚で甘ったるく、視界がぱちぱちと弾けて眩暈がするほど芳醇な香り。喉の鳴らす度に渇きが癒えていく。
どろりとした舌に絡む粘り気は泣き出してしまいたくなるほど。吸えば吸うほど生気が蘇る。もっと欲しい。しかし、生き物として受け入れ難い生臭い味がする。喉は紅の美酒を求めている。
「う……ううっ……」
獏良は涙を溢しながら、赤く染めた唇と舌を肌に這わせる。
「おいおい、慌てるなよォ」
男は恍惚の表情を浮かべて、獏良の後ろ頭を掻き抱く。
「な、お前はオレなしじゃ生きていけねェんだ。それをよく覚えとけよ」
笑い声が夜の静寂を貫く。空に浮かぶのは鮮やかな紅い光を放つ月。人を惑わし、人ではないものを祝福する危うげな魅力を秘めている。

++++++++++++++

吸血鬼同士ってキスするとき大変そうですね。バクラの方が人間でも良かったんですが、人外成分が欲しかったので。二人とも吸血鬼で。
バクラが獏良を追い詰める様を書くのは楽しいです。

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