『クリスマス2018』
気軽な約束だった。
童実野町に巨大ツリーが飾られるという宣伝を聞きつけ、話の流れで見に行くことが決まった。待ち合わせたのは、いつものメンバー。日時と場所はその時のノリで。どうせならイブに行こうと盛り上がった。
何しろ大きなクリスマスのイベントは童野町で行われたことがない。精々小さな電飾を街路樹に飾り、店の窓にステッカーを貼るくらい。それだから、クリスマスに向けて住人たちの期待は否応なしに高まった。
*****
当日、獏良は途方に暮れていた。
高さ十メートル、一万個の電球を使用したクリスマスツリー。夜空の下で星屑をモミの木に散りばめたように輝いて幻想的。
付近の店舗もツリーに合わせて例年よりも華やかな飾りつけをしていた。赤、青、黄、白、金――様々な色の電飾がちかちかと点滅して目が眩む。
あちらこちらから流れる数種類のクリスマスソングは混ざり合い、耳障りであるどころか、この日だけは気分を盛り上げるために一役買っている。
見慣れた商業街から煌びやかな別世界へと迷い込んでしまったよう。
「――失敗だった……」
初めての企画に人が集まらないわけがなく、加えて今日はクリスマス・イブ。ツリー周辺は人でごった返していた。考えもなしに「じゃ、現地集合で」だなんて、クリスマスという特殊イベントを甘く見ていたにも程がある。
今回は女子会に呼ばれているために不参加の杏子が待ち合わせに疑問を呈していたが、調子づいた男たちには響かなかった。
『あんたたち、本当に大丈夫?』
もっとしっかり忠告に耳を傾けるべきだった。後悔しても時すでに遅し。人混みの中で待ち合わせ相手が誰一人として見つからない。連絡を取ろうにも混雑で電波が繋がりにくくなっている。メールが辛うじてぽつりぼつりと遅れて届く程度。他のメンバーもどこかで泡を食っているらしい。
改めて他の場所で集まり直すにしても、この混雑では少しツリーから離れるしかない。そのやりとりですら、届くメールが前後してなかなか進まない。
『ダメだ。こっちも混んでら』
『ごめん。メール見てなくて、駅まで戻っちゃったよ』
『着いたぞー』
せっかくの特別なシチュエーションなのに獏良は人混みの中で一人だった。今年のクリスマスはみんなでワイワイ騒げると思っていたのに。
周りの人々は、家族、恋人、友人……それぞれの連れと寄り添っている。顔を見合わせて微笑み、ツリーを見上げて。寒くとも連れ合いの温もりがあるから平気に違いない。とうとう隣にいるカップルが盛り上がってキスを始めてしまい、真っ赤になった顔を背けた。
こんな中で何をやっているのか。白い息を吐き出して苦笑いを一つ。誰も自分なんか見ていないと分かっていても、一人でいることがなんだか恥ずかしかった。
冷えきった身体を温めようと、ポケットに手を突っ込み、その場で足踏みをする。じっとしているのも居心地が悪い。
携帯が震え、また連絡が届いた。
『穴場発見!南口の――』
送られてきた場所を確認し、すぐに向かおうとして、足を止める。
「……ねえ」
友人たちと過ごす時間もいいけれど、それだけでは勿体ない。
眩い光をまとったツリーから目を離さずに、
「少し遅れていこうか――」
獏良の目を通して眺めているだろう、もう一人にこっそりと話しかけた。
++++++++++++++++++
二人っきりの……。
『学パロ×幼なじみ×恋人未満』
空には鮮やかな青、まばらに浮かんだちぎれ雲がゆっくりと流れている。バクラはのどかなその様を一人で見ていた。仰向けに寝転がり、組んだ手を枕に、優雅に日向ぼっこ。
バクラがしばしの休息所としているのは童実野高校の屋上――より一段高い塔屋の上。屋上扉が背中の下にある。多少屋上に人がいても、誰にも気づかれずに静かに過ごせるお気に入りの場所だ。
今日は運のいいことに昼休みになっても誰も現れない。もう一眠りするかと、目を閉じると同時に、どたばたと慌ただしい足音が聞こえた。閉じた目の片方だけを開く。
バタン、と無作法極まりない音がして、
「どうしよう⋯⋯」
続く声はバクラがよく知っている声だった。
他の誰かなら無視を決め込むところだが、唯一それをできない相手が下にいる。億劫そうに上半身を起こし、声のする方へ呼びかけた。
「おい」
声をかけられた相手――獏良はきょろきょろと辺りを見回し、塔屋の上に突き出た頭を見つけ、
「なんでそんなところにっ」
大きな目をぱちぱちと瞬かせる。
「それよりなんの騒ぎだ」
バクラが言い終わるか終わらないうちに、獏良の足音が可愛く思えるほどの騒音が聞こえた。複数の足音に甲高い声。
「わあっ」
獏良は真っ青になって落ち着きなくその場で足踏み。両手は頭へ。逃げ出そうにも、もう逃げる場所はないといった様子。
それを見ていたバクラは大体の事情を察し、
「こっちに来い」
「えっ。どうやって??」
突き上げた親指を後ろへ倒す。
ちょうど屋上扉の反対、搭屋の裏側とフェンスの間に点検用のはしごが設置されている。ぱっと見には分かりづらい場所。実際に何度も訪れている獏良も気づいていなかった。
「へえ、こんなところに⋯⋯」
複数の乱雑な足音が近づいてくる。獏良は言葉を中断し、慌ててはしごに飛びついた。へっぴり腰で一段ずつゆっくりと上がる。
「やっぱり屋上じゃない?」
まとまりのない音として遠くで聞こえていた声が、今度ははっきりと聞こえた。ドアの向こう側まで迫っている。
やっと天辺に手をかけたところで、獏良はもたもたと手間取っていた。常用する目的のはしごではないため、桟の間隔が広く上がりにくい。
「うわ、来ちゃうよ⋯⋯」
「仕方ねえな」
バクラは重い腰を上げ、獏良の手を取った。同時に屋上の扉が開き、何者かが雪崩れ込んできた。
「獏良くーん」
「いない!どこ行っちゃったんだろう」
「お弁当食べてもらいたかったのにぃ」
「あたしなんてクッキーも作ってきたのよっ」
女子生徒の賑やかな声が屋上の穏やかな雰囲気を台無しにする。それぞれが勝手なことを口にしながら獏良の姿をしばらく探し、いないことが分かると、また同じように扉の奥に消えていった。
「ふーっ」
完全に足音が遠ざかったのを確認してから、獏良は額の汗を拭い、青空を仰ぎ見た。気が休まったところで吸う息はなんと美味しいことか。
気づけば、二人は誰にも見つからない吹きっさらしの場所で、肩を並べて腰を下ろしている。
「相変わらずモテるな」
「助けてくれてありがとう。でも、なんでこんなところ⋯⋯ああっ!」
獏良の人差し指の先が無遠慮にバクラに向けられる。
「いつもここでサボってるんだ!」
「うるせえな。こんなことなら気づかないフリしときゃよかったぜ」
バクラは再びその場で寝転がり、指で耳の穴を塞ぐポーズ。
「午後の授業もサボるつもりだったね?」
獏良はその顔を呆れて覗き込む。バクラが度々教室から姿を消すことは以前から気になっていた。幼なじみということで、担任から何度も行方を訊かれてうんざりしていることもある。
「お前もたまにはサボってみろよ」
バクラの右手が獏良に伸び、腰をぐいっと引き寄せる。長い髪がさらりと肩から落ちた。
「もう」
息がかかるほどに近づいた顔は、口では否定的でも怒ってはいなかった。いくら注意しても無駄なことはよく知っているのだ。いつもこうやって、うやむやにされてしまう。
チャイムが昼休みの終わりを告げる中、見つめ合う二人は――。
++++++++++++
リクエストです。昔、このサイトに置いてあった海馬学園という設定の話です(話自体はログに保管してあります)。多分十年前くらいに書いたものなので、細かい設定は変わっています。
『コンと鳴いたら~お狐様と白蛇様~』
昔々ある森にお狐様が住んでいました。風が吹けばさらさらと靡く白い毛並み、頭の上にピンと立った大きな耳、触れた手が埋もれるほどのふわふわの尻尾、誰もが羨む美しい容姿、水干――縫い合わせ目にふさ飾りをあしらった袴――を身につけたお狐様の了です。
白狐は清らかな魔力を持つといわれ、人間からも崇められています。了は森に産み落とされてから、ずっと一人でこの地を守り続けていました。謂わば、森の神です。
魔力や美貌に惹かれて寄ってくる動物たちに慰められるものの、了には話し相手はいませんでした。小鳥の囀りや虫の演奏、草花の囁きを聴きながら、退屈を紛らわせます。それでも、どうしようもなく話し相手が欲しいと思ってしまうときもありました。
あるとき、了がいつものように森を散歩していると、草の影に見慣れないものを発見しました。白くて長い縄のようなものが隠れています。
不思議に思って近づいてみると、それはただの縄ではなく、てらてらと光る鱗に覆われた生き物の一部ということが分かりました。
了はその場に屈み、雑草を優しく手で掻き分け、さらによく長細い生き物を観察してみます。影から頭部らしきものが出てきました。
小さく開いた耳孔とルビーのような緋色の双眼。頭から尾の先まで全身真っ白の蛇でした。蛇は了に見つけられてもぴくりとも動きません。微かながら呼吸は感じられます。
了は恐る恐る両手で白蛇を抱き上げました。
太陽に照らされた純白は、きらきらと虹色に光輝きます。鱗の一枚一枚に至るまでそうなのです。ずっと見ていても飽きません。
「――きれい」
自然と了の口から感嘆の声が零れ落ちていました。
了は気づいていませんでしたが、普段まとわりついて離れない森の動物たちが草木に隠れて遠巻きに見守っています。頭だけを覗かせて、おっかなびっくりといった様子。
他の生き物に触られても、白蛇は動きません。かなり弱っているようです。手に伝わる体温はひんやりと冷たいです。
浅い知識ではありますが、蛇は体温の調節が自分でできないことを了は知っていました。今感じている体温は、もしかしたら蛇にとっても低いのかもしれない。
そう考えた了は、胸元に白蛇を抱き寄せ、手でさすり始めました。正しい行動なのか定かではありませんでしたが、とにかく白蛇を温めてあげたい一心でした。自分の体温を分けてあげるように抱きしめ、優しい手つきで蛇をさすります。鱗だらけの体が意外と柔らかいことを初めて知りました。
しばらくそうしていると、白蛇の長い舌がチロチロと伸び、了の手を一舐め。
「あっ!」
白蛇はするりと腕の中から抜け出して地面へ。
「元気になったんだね。よかった」
了が微笑みかけるも、白蛇はどこ吹く風。身体をくねらせて何処かへ帰るようでした。先ほどまで倒れていたのが嘘のように悠然と地面を這っていきます。
「無理しちゃダメだよー」
白蛇は一度も振り返りませんでした。その後ろ姿が見えなくなるまで、了は大きく手を振っていました。
◇
了は人間が使っていた山小屋を寝床としていました。それは猟師が狩りに出るときに拠点とするもので、寝起きするだけの大変簡素な小屋でした。必要最低限の設備しかありません。それでも了にとっては立派な城でした。綺麗に磨き、気に入った家財道具を持ち込み、悠々自適の生活です。
囲炉裏の前に座って野菜鍋を煮込んでいると、
トン、トン――。
戸を叩かれました。
鍋を掻き回す手を止め、了は考えます。こんな森の奥に誰が訪ねてきたのだろう。そんなことは一度もなかった。
そうこうしているうちに、今度は乱暴に叩かれました。
ドンドンドン――。
古びた戸が吹っ飛んでしまいそうでした。手で叩いているというよりは、殴ったり蹴ったりしているような音です。
「ヒッ」
驚いた了の耳がピンと天井を向いてから、元気を失い前へ倒れました。尻尾もくるんと縮こまります。
「なに……?」
もしかしたら、道に迷った人間なのかもしれない。切羽詰まった状況で助けを求めているのかも。それなら早く助けてあげないと大変だ。
万が一、凶暴な害獣だとしても、了には強い力があります。優しい性格ゆえに、今まで本気で戦ったことなどありませんでしたが。よほどのことがない限りは自分で対処できるはずです。
ぐっとこぶしに力を入れてから、戸に手をかけました。
ガタガタガタ。
外に立っていたのは一人の男でした。
「ったく。さっさと開けろよ……」
来訪者にしては不遜な態度。迷い人とはとても思えません。白髪に白を基調とした狩衣、この世のものとは思えない美貌の持ち主でしたが、刺々しい表情がそれを隠してしまっています。
「邪魔するぞ」
すべてが色彩に乏しい中で、唯一毒々しいとさえ思える緋色の瞳が爛々と輝き、了の中で過去の光景と鮮烈に重なりました。
「あ…………」
「なんだよ」
敷居を跨ごうと片足を上げた男の動きが止まります。自分の家ではないのに不服そうに顔を顰めました。
「昼間の……」
なぜか昼間助けた白蛇と男の姿が思い出していました。共通点は「白」だけです。了がぽかんと口を開けてまじまじと見つめると、男は少しだけ表情を和らげ、「そうだ。よく分かったな」と正体を明かします。
男はただの蛇ではなく、バクラという蛇神様でした。のっぴきならない事情で力を使い果たし、弱体化していたところに了が現れたということです。
「あのときは助かったぜ。お前から力をいただかなければ、さすがのオレ様も危なかったな」
「そう、それはよかった……」
バクラの口調は親しげで、ともすれば心を許してしまいそうなものでした。しかし、夜行性の蛇がそうであるように瞳孔が縦に細く伸びたのを了は見逃しませんでした。その瞳を見ていると、なぜだか背筋にぞくりと悪寒が走ります。
「わざわざ来てくれてありがとう。今、料理の途中だから……」
了が本能に従って会話を打ち切り、引き戸に手をかけると、
「まあ、待てよ」
ダンという乱暴な音と共に強い力で戸の側面を押さえつけられました。
「まだ話は終わってないぞ」
「鍋が焦げちゃう……」
戸を挟んで内と外、両側で引く力と押す力という相反する二つがせめぎ合います。
「オレはお前に恩返しに来たんだ。悪い話じゃないだろ?」
容姿に似合わない言葉に、了の手から力が抜けました。
「おんがえし?」
バクラはふふんと鼻を鳴らし、
「受けた恩には報いないとな。今日から一緒に住んでやる」
「エッ!」
了の豊かな毛並みの尻尾がぶわっと逆立ちました。
「布団をあたためてやるし、身支度の手伝いや毛繕いだってしてやるぜ。ずっと一緒にいてやる。お前には話し相手が必要だ」
うっとりと言い連ねるバクラの口からは細長い舌がチロチロと見えるよう。
仇敵との戦いで力を失ったのは不覚でしたが、了と出逢えたのはバクラにとって幸運そのものでした。抱きしめられたときの、あたたかい手や胸の優しい感触、優しい声、清らかで心地よい魔力は忘れられません。できるなら、もっと味わいたいものです。今日だけとはいわずに、明日も明後日も、それこそ永遠に――。
「いい!大丈夫!いりません!間に合ってますッ!!」
了は青くなって首を激しく横に振ります。
「まあまあ、遠慮するなよ」
妙に優しい声で囁くバクラの足が敷居を跨ぎました。
「帰ってーーー!」
森に轟く了の悲鳴を聞いた動物たちは一斉に震え上がりました。ああ、やっぱり、アレは悪いものだったのか、と。
+++++++++++++++++
世界一不要な恩返し。
※性的描写少しあり。仲良しではありません。
『身売り』
身体中が痛い。ベッドの上で身を起こし、顔を歪めた。特に普段は自分でさえ触れない場所がズキズキと悲鳴を上げていた。
殺風景な部屋に丸裸の獏良が一人。寝具に包まり、憂鬱な表情を浮かべている。
隣にいたはずの人間の姿は見えない。ベッドが冷えきっていることから、獏良が起きるのを待たずに出てしまったのだろう。
――呆気ないものだな。
窓から射し込む光を受けても、頭がまだ半分眠っているかのようにぼうっとする。もしかしたら、現実と認めたくないのかもしれない。
獏良はベッドから降りる気も起きず、再び身体を横たえた。
*****
重い病にかかった最愛の妹を救うため、薬代として金貨二枚が必要だった。
金貨二枚は庶民にとって高額には違いないが、決して手に届かないという値段ではない。父親の事業が失敗するという不運が重なってしまった。
働いた経験のない若造が雇ってもらえる仕事など限られているし、病は待ってはくれない。 金繰りに東奔西走し、最後に辿り着いたのは、今まで足を踏み入れたことさえなかった花街だった。
派手な外観の店が立ち並ぶ通りに弱々しい瞳を向ける。
――だって、これしかない……。
女だけでなく男の春を売る店もあると噂で聞いたことがある。知識などないから、どうしたらいいか分からなかったが、どこかの店で訊ねてみればいい。それほどまでに切羽詰まっていた。
一人で商売をしてみるという気にはならないだけましだった。素人が下手に玄人の真似事をすれば、事件に巻き込まれかねない。残っている理性が待ったをかけた。何としてでも金を稼いで家族の元へ届けなければならないのだ。
ふらふらと吸い寄せられるようにして目についた店に向かおうとする。
――が、そんな獏良の腕を強く引き止めた者がいた。こんな場所に用があるはずのない旧知の男。どこか不機嫌そうな顔で口を開いた。
「何処へ行く」
獏良とその男――バクラは知り合いといっても、肩を組むような仲ではなく、そもそも住む世界が違った。噂では真っ当な職についていないというから、交流することを避けていた。その程度の知り合いにわざわざ声をかける理由などないはず。
獏良が答えに窮していると、バクラは嘲るように片方の口角だけを上げた。
「金が必要か?」
すべてを見透かした物言いに、獏良は下唇を噛んだ。誰にも知られたくないことをよりにもよってこの男に。屈辱的だった。
獏良の沈黙を肯定と受け取ったバクラは言葉を続けた。
「いい話がある」
バクラの持ちかけた話は、獏良が必要とする額で一晩買ってやるということだった。よくも分からない店で素性の知れない者に身を売るより良いだろう、と言葉を添えて。
バクラは懐に余裕があるらしく、いつも小綺麗な服装をしている。真意は不明だが、金貨二枚など、はした金ということなのだろう。
しかし、獏良にわざわざ声をかける意味がない。ただの親切なわけがない。
バクラの顔をいくら見つめても答えは出ず、答えが出たところで選択肢など端からないことを思い出した。獏良は絶望に沈んだ顔で小さく頷くしかなかった。
*****
「…………うぅ」
雫によってシーツに染みが一つできた。昨晩のことを思い出すだけで涙が溢れてくる。
バクラの自宅へ導かれ、そこで言われるがままに服を脱いだ。ベッドに押し倒され、唇を塞がれ、呼吸の仕方を覚える前に全身をまさぐられ、強引に貫かれた。何をされているのか、ほとんど理解はできなかった。後半になると記憶が曖昧で、気づけばすべてが終わっていたという感覚に近い。
夢だと信じたかったが、秘部の痛みがそうはさせてくれない。シーツに皺が寄るのも構わず、手で握りしめる。キスすらしたことがなかったのだ。それを無理やり、しかも男の手によって辱しめられた。
行為の前、バクラは枕元に金貨を二枚投げて笑い混じりに言った。
『これでお前はオレ様のモンだ。良かったな、望みが叶って。お前はたった金貨二枚でその身を売ったんだ』
できることなら金貨は突き返したかったが、懐に入れなければ妹は救えない。
獏良のプライドはズタズタに傷ついた。今後、誰かを好きになったとしても、深い仲になる気など起きないだろうと思えるほどに。
さらに、事を済ますだけ済ませたら、相手はさっさと家を出てしまった。まるで使い捨ての道具だ。外を出た瞬間に獏良のことなど忘れてしまったに違いない。
一刻も早くこんな場所から逃げ出して家に帰りたい。しかし、心も肉体も傷ついて動けない。今だけは泣かせて欲しいとシーツに顔を埋めた。
ガチャリ――。
数分と間を置かずに、寝室の戸が開いた。出かけたはずの家主が入口に立っている。
「なんだ随分ゆっくりだな」
「…………っ!」
獏良は涙を拭うことも忘れ、慌てて上掛けの下に潜り込んだ。
「すぐに着替えて出ていくから……」
絞り出した声は情けなさに湿り気を帯びてしまう。目を合わせて会話をする気力さえない。
「出ていく必要はない」
乱暴な足音が近づき、
「お前はオレ様のモンと言っただろ」
獏良の身体を隠す上掛けが勢いよく剥ぎ取られる。
「あっ……ひ、一晩だけって言った……」
一瞬遅れて腕全体を使い、見られたくない場所を隠す。
「金貨二枚ならな」
ニタリ、とバクラの唇に薄気味悪い笑みが浮かぶ。
「手に入れた秘薬で確かに妹の命は助かるだろうよ。で、どうする?峠を越えたところで、しばらくは療養しなくてはならない。そうだろう?病で弱った身体をすぐに元気にするなんて都合のいい薬はないんだからよ」
ぐにゃりと獏良の視界が歪んた。目先のことを解決するのが精一杯で、それ以降のことなど頭になかった。妹の命を救うためには金貨二枚の薬が必要だと医者に言われるままに信じ込んでいた。妹の体調が完全に回復するまでどれくらいかかる?その間の治療費は?それに――。
「お前の親父、今は無職みたいなもんなんだろう?設備の整った病院に預ける余裕があるのか?そもそもお前ら食っていけんのか?」
まるで獏良の思考を読んだようにバクラが言った。
「せっかく命が助かっても、また同じことの繰り返しだな。可哀想だなァ」
嘲笑いながら吐かれる言葉が獏良の心にずしんと重くのしかかる。できることはやった。身体すら売った。これ以上できることなんて――ない。
獏良は愕然として頭を垂れた。もう何も思い浮かばない。一人ならなんとかやっていけるだろうが、病にかかった妹を抱えてはとても生きてはいけない。
「まあ、そう嘆くなって」
チャリン、と金属の音が鳴った。獏良の視線がシーツから音の出所に移る。バクラの手のひらに光るものを見つけ、
「鍵……?」
見慣れた形に虚ろだった目が見開かれる。
「鍵だ。……僕んちの」
いつもズボンのポケットにしまってあるはずのものがどうして。慌てて衣服を探すも、ベッドの下に皺だらけのまま放置されている。恐らく、ズボンのポケットは空になっているのだろう。自宅に金目のものなどないはずなのに、なぜ鍵を取り上げられなければならないのか。
「かえして……」
「お前がこれからオレに尽くすというなら、お前の家族ごと面倒見てやってもいいんだぜ」
バクラは鍵についたリングに細い人差し指を通し、玩具でも扱うようにぐるぐると振り回した。
「ただし、安くない金を払うからには、逆らうことは許さねえ」
口調は楽しげ、瞳の奥は鋭い光が隠れている。昨夜は選択肢を提示されたが、今回の選択肢は形式だけのただの要求でしかない。
獏良は歯を欠けてしまいそうなほど食い縛り、家族の顔を一人一人思い浮かべ、喉から声を絞り出した。
「…………お願いします」
その答えを聞いたバクラの表情から不穏な気配が消え失せ、口にはパッと白い歯が覗く。
「そうか!お前ならそう言うと思って、荷運びの手配はしておいたんだぜ。鍵はちょっと借りただけだ、な?」
上機嫌な様子で獏良に歩み寄り、項垂れたまま動かない剥き出しの肩に手を置いた。
「もう何も心配いらねえぞ。お前はいい決断をしたな」
*
勝った――と思った。
長年、手に入れたいと渇望していた少年をやっと自分のものにできた。不安げに目を伏せる獏良を見下ろしながら、バクラは愉悦を感じていた。
そもそも、顔を合わせようとすらしないことが腹立たしかった。早く跪かせてやりたかった。
妹が病に倒れたと聞いたときは、「幸運」だと思った。とても獏良に聞かせられることではないが。さらに愛娘の身を案じた父親が焦って事業で判断を誤った。少しでも多く利益を得ようとした結果だ。
あとは獏良の動向を気にかけていれば、簡単にことが進んだ。
よかった、とバクラは両手を広げた。酷いことをせずに済んだ。もう少しで周囲の人間を排除して、孤立させるところだった。
獏良を無駄に苦しませずに済み、自分の手を汚すことなく、すべてが上手くいった。これは、「幸運」だ、と心の底から思う。
バクラは晴れやかな気持ちで獏良を優しく慰め続けた。
*****
清潔なベッドで横になる妹の顔を見つめ、獏良は細く長い息を吐いた。
バクラは嘘をつかなかった。妹の命は助かり、近辺では一番腕がいいとされる病院へ収容された。父親には多額の援助金が送られた。家族全員が穏やかに微笑み、獏良だけが浮かない顔だ。
これでよかったんだ、と何度も自分に言い聞かせる。
花街で身を売るだけでは到底稼げなかった金を手にできたのだ。悪いことなど一つもない。
妹の静かな寝息を確認してから、獏良はそっと病室を出た。重い足を引きずり、帰り道を辿る。彼の待つ部屋へと――。
+++++++++++++
バクラは善行を積んだと思ってます。
愛の巣と蜘蛛の巣くらい認識の差がある。