『思念』
どこにでもある写真。体育祭や文化祭、修学旅行など、学生たちの青春を切り取った賑やかな記録。どこにである光景――であるはずが、一つだけおかしな部分があった。
一人の学生だけボヤけて曖昧な姿として残ってしまっている。それも一枚だけではなく、すべての写真に於いてだ。
ブレていたり、ピントがずれていたり、発光していたり。他の人物たちはしっかりと写っているのに、「彼」だけは記録に残すことを禁じられているように正しい姿を写せていない。辛うじて、風景から浮いている白色が目立っているだけ。
写真を見返した学生たちは一様に首を傾げた。
――ここに写っていたのは、誰だっけ?
教室を見回しても、該当者はいない。やがて、朧気な記憶から一つの名前を思い出す。とても変わっていた名字だから辛うじて記憶が残っていただけで、下の名前となるとはっきりしない。
もう学校にはいない存在。いなければ、元々存在していなかったように扱われてしまう。
――ああ、あの不吉な……。
思い出した全員が全員、顔をしかめて写真を見なかったことにした。そうすると、もう関わりのない人物のことなど本当に綺麗さっぱり忘れてしまい、誰も気にしなくなる。
忌まわしいものとして蓋をされた写真の一枚。修学旅行の班に一人だけ外れ、写真の隅に映った彼はやはり白いモヤで姿を隠されている。そのモヤは彼を包み込み、まるで誰の目に触れることも許さないように見えた――。
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独占欲。
『真夜中のひととき』
時計の針は天辺を過ぎたというのに、獏良の部屋には煌々と明かりが点いていた。
背中を丸めて机に向かい、手を淀みなく動かしている。机の上には、ノートパソコン、筆記用具、ノート用紙、そして机の隅に積まれた数冊の本。
カタカタカタとパソコンのキーを叩き、時折ノートに目を走らせ、本を手に取って付箋のついたページを開く。大学で膨大な量のレポート提出を求められ、せっせと片づけていた。
講義を選択する前にレポート好きの教授とは聞いていたが、内容に惹かれて時間割りを組んでしまったのが運の尽き。
毎回、教授は口癖のように「ここまでの内容をレポートで提出して」と講義を締めくくる。成績には関係ないとは説明を受けているものの、万が一に手を抜いて評価を下げられたりしたら堪ったものではない。
根が真面目な獏良は今夜も真正直にレポートに取り組むのだった。
忙しなく動いていた獏良の手が初めて止まった。目と手に疲労、肩全体を覆う重み、椅子で圧迫し続けた脚に軽度の痺れ。
両手を挙げ、上体を反らし、ゆっくりと深呼吸。
「うう……ん」
ギシリと椅子が軋んだ。
大体の要点はまとめ終わったが、規定の枚数にはまだ足りない。内容が薄い箇所を肉づけして――と考えるとまだまだ時間がかかりそうだ。
獏良は眠い目をこすってから、ピンと背筋を伸ばして椅子に座り直した。
そのとき――。
コンコン、と速いリズムでドアが叩かれた。
「はーい」
椅子ごと身体を回転させ返事をすると、ドアが静かに開き、寝ているはずの同居人が姿を現した。数時間前には就寝の挨拶をしてそれぞれの部屋にこもったはず。
同居人ことバクラは片手にマグカップを持って獏良に向かって歩み寄った。
「まだ終わらないのか?」
コトリ――。机にマグカップが置かれる。カップからは白い湯気がゆらゆらと揺れて立ち上っている。ふわっと甘い香りが獏良の鼻まで届く。カップの中には白茶色の液体。
「ありがとう。あともう少しかかる」
獏良は礼を言ってからカップに口をつけた。口の中にまろやかな甘みとコクのある味わいが広がる。コーヒーに多めのミルクと砂糖。疲れた脳が癒えていくようだった。
「美味しい……」
鼻に抜ける香りを楽しんでからカップを机に戻す。
「ひょっとして、起きててくれた?」
表情を窺いつつ期待を込めた問いかけに答えはなく、
「あんまり無理すんなよ」
一言だけ残してさっと部屋から出ていった。
ドアが閉まると何事もなかったように部屋が静まり返る。ただコーヒーの湯気だけが今あったことを示している。
獏良はもう一度コーヒーを啜る。こくりこくり、と温かいものが胃に落ちていく。
バクラが背を向けた一瞬、口元に微かな笑みが浮かんでいたことを獏良は見逃さなかった。
耳をそばだててみれば、隣のリビングから物音がする。口から飛び出しそうになる笑いを噛み殺し、前屈みになって背を震わせる。
コーヒーのお陰で腹がじんわりと温かくなっていた。
それにしても――。
再び共に暮らすようになり、一番始めに言い聞かせた、「部屋に入る前にノックを必ずすること」がしっかりと守られていることが微笑ましい。
「よしっ」
獏良は両腕を天井に向かって伸ばしてから再び机に向かう。先ほどよりも軽快な音が夜の静寂に溶け込んでいくのだった。
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自分で淹れたものよりも何故か特別のような気がして。
『ハロウィン2019』
冷えきった空を暗幕が覆い隠し、小さな光が疎らにチカチカと輝いている。その中には一際存在感を放つ淡い色のベールをまとった大きな光が一つ。本来ならば、眠りにつくはずの町が、今夜は少しだけ騒がしい。人通りはいつもより多く、どこか浮ついた雰囲気がある。おまけに町全体がオレンジや紫などの奇妙な色合いで彩られている。
地上を埋め尽くすかのように乱立するビル群には煌々と明かりが点いていた。
その一室。デスクがずらりと並ぶ味気ない空間。既に空席が目立ち、残っている人間もそれぞれが他愛のない会話に花を咲かせている。
「今日はハロウィンだし飲んでくかー」
男が背伸びをしながら椅子の背もたれをギシリと鳴らして言った。
「またそれ。何回目?先週の口実はなんだっけ」
「好きだねえ」
「自分へのご褒美ご褒美」
湧いたカラカラという笑い声が昼間の繁忙が幻だったかのように場を和ませる。
そんな賑やかな輪を避け、足音も立てずにさっと出口に向かう従業員が一人。姿を消そうとする背中に輪の中から声がかかる。
「あ、獏良さん。獏良さんも飲んできませんか?」
呼び止められた獏良はぺこぺこと頭を数回下げ、手を横に振った。そして、今度こそ戸口の向こうに蟠る闇の中へと吸い込まれていった。
「大人しい人だよね」
「忙しいのかな」
人付き合いの悪い同僚に一同は首を傾げるも言葉に誹謗は含まれてはいなかった。彼は口数が極端に少ないが、それで業務に支障が出ることはなく、むしろ言動は静かながらも丁寧だから誰も悪くは思わない。良くいえば無難、悪くいえば空気のような人間。職場の人間たちは、大人しい性格であると理解していた。関わりが少なければ、興味を持つこともない。職場の人間関係などそんなものだ。
姿を消した同僚の話題はすぐに終わり、また別の話で盛り上がり始める。薄暗い廊下には、明るい笑い声が反響していた。
*
すっかり肌寒くなった夜の町を獏良は足早に通り抜ける。町の至るところに、カボチャや魔女、ゴースト、黒猫などの飾りつけが溢れている。
場所によっては街路樹がライトアップされていたり、街灯に旗が揺らめいていたり、通行人の目を引くようになっていた。
既に珍妙な格好をした人間とすれ違うも、獏良の足は止まらない。お祭り騒ぎから逃げるように人気のない細道へと足を向ける。
そこには街灯の光はほとんど届かない。大通りから離れ、壁を隔てたことで楽しそうな人の声や愉快な音楽は遠くに聞こえる。
ようやく獏良の足が止まった。
鞄を持つ手に不自然なほど力が入っている。
最初はカチカチと小さな音が鳴った。続いて短くて速い呼吸音。握った手が震え出す。唇が薄っすら開き、覗く白い歯が小刻みに動いている。カチカチという音の正体はそれだった。顔色は青白く、表情は強張っている。
「…………ったから」
白い息に紛れて微かな声が空気を震わせた。
「断ったからっ」
二回目は言葉になったものの、悲鳴に近い響きだった。
獏良の両肩付近の空間に二つの白い花が咲いた。細長い五枚の花弁からなる奇妙な形――ではなく、よく見れば先端には先の尖った硬質の小片がついている。
人間の手、だった――。
指を広げた手のひらが宙にある。不可思議な現象に獏良は驚くわけでもなく俯いていた。
手のひらが現れた次には手首、前腕、と徐々に前へと伸びていく。
肌の色は生気を感じさせない白。存在が希薄であるようにところどころ透けて夜の闇に溶け込んでいる。
上腕の半ばでふつりと途切れ、その先はない。見えないだけなのか、本当に「ない」のか、獏良ですら知らない。
宙に生えた二本の腕は海底で揺れる海藻のように獏良のそばで空を掻いていた。
「誰とも仲良くしてない」
なんとか絞り出した掠れ声が腕に届いたのかは定かではない。
獏良の全身を撫でるように揺れ動く。頬、鼻、唇、顎、首、胸、腕、脚――鼻先をヒラヒラと。肌には決して触れず、ただ身体の芯まで凍りつかす冷気が通りすぎるのみ。
ヒッと小さな悲鳴が獏良から漏れる。
その腕に意思があるのか、ないのか、確かめる術はない。
だから、獏良は思いつく限りの弁解と謝罪を口にする。相槌があるわけでもないのに。
「余計なことなんてしてないから。必要最低限の会話をしてるだけ。ごめんなさい……。一人でいるから。ごめんなさい。楽しいことなんかない。ずっと。もう、許して……」
すべてが悲哀に満ちていて、聞く者が耳を塞ぎたくなるほど痛ましい言葉の羅列。
最後には、ごめんなさい、ごめんなさい、と許しを請うだけになる。
言葉が出なくなったところで腕は満足したのか、徐々に色が薄くなり、輪郭を失い、闇夜に霞み、はじめから何もなかったかのように跡形もなくすーっと消えていった。
お祭り騒ぎの対岸、人々から忘れ去られた裏道に残るのはか細い呼吸のみ。
獏良は涙が浮かんだ目をぎゅっと瞑り、動悸が治まるのを待った。
いつからだろう。すぐ側で気配を感じるようになったのは――。
忙しく動いているときは気にならない程度。特に日中はほとんどその存在感は薄れている。しかし、立ち止まったとき、考え事をしているとき、横になったとき――ふとした瞬間に、確実に微弱な気配――視線のようなものを感じる。
誰か、などと考える必要はなかった。思い当たるのは一人しかいない。人と数えるのが正しいかは判断に困るところだが。
もうこの世にはいないと思っていた。いや、元々生者であるかも怪しい。
幽鬼なような存在――本人の言からすれば、闇そのものは、現世から追放されたことにより、いよいよカタチというものを失った。
普段は現世に介入することはできないが、冥界との境界が曖昧になるときに獏良の前に現れる。
ちょうど今晩のように――。
獏良は苦しげに白い息を吐いた。見上げれば、澄み切った夜空に星々が輝いている。それは絵に描いたような穏やかな世界だったが、獏良を慰めてくれることはなかった。今もすぐ隣で存在しないはずの視線を感じるから。
+++++++++++
追放されたというより、解き放ってしまったの方が正しい。
『逃げ恥プチパロ』
獏良は大学で学芸員の資格を手に入れるも就職難に悩んでいた。正規の雇用となると枠が少なく、非正規でなんとか職を得るも契約が終了してしまったばかり。新卒時に独立心から父親のコネを蹴ってしまったこともあって焦るは募る。
「僕なんか必要ないのかな?」
そんな中、友人から家事代行業の話を持ちかけられる。独り暮らしの同僚が家事に費やす時間がなく、ハウスキーパーを探しているとのこと。戸惑う獏良を前に友人は強引に日時を決めてしまう。
悪い話ではない。まだ就職先は見つからない。プライドでは飯は食っていけない。
獏良は悩んだ末、仕事を引き受けることにする。
家事用具を手に教えられた住所へ。
「家事代行サービスの獏良了です」
引き受けた以上、しっかりとやらなくては。背筋を伸ばしてドアの前に立つ。
現れたのは、不機嫌そうな顔の男。
一瞬怯みそうになるも、改めて挨拶をする。精一杯の笑顔を浮かべて。
依頼人であるはずの男――バクラはやはりぶっきら棒に頷いて、獏良を部屋に通すのだった。
「……どうぞ」
バクラは早口で部屋を案内しながら、獏良に仕事内容を説明していく。それでも指示は明確で分かりやすい。
獏良は聞き逃さないようにメモを懸命に取る。
「分かりました?」
二度は説明しないというようなやや威圧的な口振りに、
「はいっ!!早速取りかかります!」
ハキハキと答える獏良。
初めてバクラの表情に何かしらの感情が浮かぶが、他者に読み取れるものではなかった。
バクラは最後に本契約ではなく試用期間であることを伝えると、給料の入った封筒を獏良に手渡す。仕事ぶりに満足できなかったら、この一回で終わり。前払いなら契約が終了になったとしても、余計なやり取りをせずに済む。
バクラは淡々と説明を終え、会社に向かうため部屋を出ていった。
獏良の仕事は、バクラが会社に行っている間に部屋を綺麗にしておくこと。
自室には入らない。ゴミは漁らない。家具の裏の埃もきっちり取る。窓に拭き跡は残さない――。
獏良は細かい指示通りに丁寧な仕事をしていく。
「仕事だからきっちりやらなきゃ」
部屋の隅までしっかりと床拭きし、シンクもピカピカに磨いた。
少しの間バクラと接しただけで理解した。恐らく、縄張り意識が強いタイプ。考え方は合理的。ならば、きちんと言われたことを守り、一定水準以上の結果を出せばいい。それと可能ならばプラスアルファ……。
家主が帰ってくる前には施錠をし、鍵はポストに入れる。
合格になるかは分からないけど、やりがいのある仕事は久々だったと、達成感に満たされながら帰路に就く。
その晩、携帯に「来週も同じ時間にお願いします」と連絡が入ったのだった。
数日前。
バクラが会社の休憩室でコーヒーを飲んでいると、同僚のマリクがご機嫌な様子で隣の席に座った。
「ハウスキーパー探してるって言ってただろ?」
バクラは紙コップに口をつけたまま最近の出来事を思い返した。
酒の席でそのようなことを言った気はする。ただ時間がないことをぼやいたくらいで具体的な話ではなかったはずだ。
「……それがどうした?」
「僕の友だちに家事が得意な子がいてね。頼んでおいてやったから」
「は?」
マリクは既にその友人に話を通し、連絡先まで教えてあるという。
「てめえ、何勝手なことやってんだ」
「手際の良さを褒めて欲しいくらいさ」
もう組まれてしまった予定を断るのも手間がかかる。家事代行を頼みたいと思っていたのは事実。唯一気に入らないのは、他人によって話が進むことくらいだ。
「使えねーヤツが来たら、すぐ切るからな」
バクラは空になった紙コップを手でグシャリと潰し、マリクの顔を睨みつけた。
「こんにちは!」
玄関の外で笑顔を浮かべる同僚の友人に、扉を開けたバクラの動きが止まった。
人並み外れた美貌にモデル並にすらりとした体型。屈託のない笑顔。
――こんなん聞いてねえぞ……。
自分のペースを乱されまいと、努めて冷静に用件を伝える。
例え好みの外見であろうとも親切にはしない。慈善事業ではないのだから。
一息で言い終え、値踏みをするような視線を獏良に送る。
「分かりました?」
理解してもいないのに頷くなど言語道断。素直に聞き返すのはまだマシだが、能なしを雇う気はない。ただ聞かれたことに対する「はい」も「いいえ」もこの場で望んでいなかった。
獏良が口にしたのは、
「はいっ!!早速取りかかります!」
曇りのない明朗快活な答えだった。自信ありげな表情で袖を捲る。
「では、よろしくお願いします」
バクラが会社から帰宅すると、獏良の宣言通り部屋は埃一つなく綺麗に磨かれていた。
テーブルにはメモが一つ。
『今日もお仕事お疲れ様でした。ポットにお茶を入れておきました。よければどうぞ』
それから、休む間もなくソファで携帯に何事か入力するバクラの姿があった。
真面目に仕事をこなす獏良と合理的に指示を出すバクラ。二人は雇用主と従業員という距離感を保ったまま、信頼関係を築いていった。
次第に食事作りや銀行口座の振り込みも任されるようになる。
ところが、獏良の父が定年を機に田舎に引っ越す計画を立てていることが発覚。引っ越し先についていけば、今の仕事は手放さなければならない。独り暮らしをするには貯蓄が足りない。
「どうしよう……」
答えが出ないまま、バクラに状況を説明する。
「せっかく雇ってくれたのに……辞めることになるかも……。急でごめんなさい。」
「お前は辞めたいのか?」
獏良は首を横に振り、
「できるなら……でも……」
肩を落とし視線を下に向けたまま言葉を飲み込む。
「なら、住み込みで働かないか?」
「えっ。そこまでしてもらうわけには……」
「だから、事実婚という形を取る。籍は入れずに住民票だけを移す。オレはお前を養い、お前は就職してここに住む。オレにとってもメリットはある。外食や家事代行に頼らずに済むからな」
バクラは概算した費用を獏良に提示する。
日常の働きに対する基本給。冠婚葬祭に同伴時には特別手当てがつく。
事実婚――内縁の妻という扱いなら、契約が終了した後も戸籍は動かない。
「どうだ?オレと結婚するか?」
「――うん。よろしくお願いします」
世間体を考え、周りにはもちろん獏良の両親にも婚姻関係を結ぶことを説明。
顔合わせでは獏良の父が感極まってバクラに何度も礼を言った。
「君のようなしっかりした青年が了と結婚してくれて良かった。親が言うのもなんだが、了は容姿には恵まれているというのに昔から恋人の影もなくて……」
「父さんっ」
慌てて獏良は口を挟む。
学生時代は女子生徒にまとわりつかれ、ファンクラブもあったほどモテた獏良だが、それがかえって縁遠くなってしまった原因でもあった。恋愛ごとにそれほど興味もなかった。女性と親密な仲になることなく今日まで来てしまった。
隣に座るバクラに聞かせたくなくて、懸命に話題を変える。まともに付き合ったこともないのに結婚に踏み切ったなんて恥ずかしいことこの上ない。本当はキスの一つもしたことはない。
両親は結婚式を挙げないことには不満を感じていたようだが、二人の決めたことと干渉はしなかった。
バクラの同僚たちは独身主義と思われたバクラが結婚をしたことに驚き、こぞって興味を示した。
本人に新婚らしき浮かれたところはないが、毎日愛妻弁当は持ってくる。
マリクをはじめとする何名かが家に偵察に来るも、新婚の演技で疑惑を晴らす。
契約としての結婚だから寝室は別々であるし、新婚の雰囲気がないのかもしれない。
そう感じた二人は火曜日にハグをするという決め事を作る。
日頃から触れ合っておけば、急な来客があっても自然と夫婦として対応ができるはず。
ハグなどしたことがない獏良は緊張の面持ちでバクラを見つめる。
「お前のタイミングでいい。手を広げてこっちに来い。そうしたら、オレが抱き止める」
「う、うん……。はい……。行くよぉ」
愛情表現というよりスポーツ競技のようなぎこちなさで始まったハグの日。
けれど、相手の体温を感じる心地よさを獏良は知った。
――ハグって気持ちいい。とても癒される。バクラの特別になったような気になる。
週に一度のハグの日を繰り返すことで二人の距離が自然と近づく。
寝起きのダラけた姿を見せるようになる。
雇用主と従業員の関係という垣根を越えつつあった。
「僕は……キミが好き。僕は何があってもキミの味方だよ。……妻として」
誰にも必要とされていないと思っていた空虚感がいつの間にかなくなった。偽物の関係だとしても、獏良の心は満たされていた。
そんなとき、獏良の父が式を挙げない二人に新婚旅行をプレゼントした。
新婚の二人だから当然同室、ベッドはダブル。
「ごめんね……。父さんが強引で」
「しょうがねえ。社員旅行っつーことで行くぞ」
別室で寝ていたところに突然新婚プランの旅行を押しつけられても、一線を越えることはなく、獏良は必要以上にドキドキするだけで一晩過ぎてしまった。
――いつもいつも僕ばっかり意識してしまって……。バカみたいだ。家に帰ったらまた雇用主と従業員の関係に戻るのに。もう何も期待しないことにする。そうすれば平穏な日常のまま。
帰りの電車が終点間近になり、すべてが終わると思ったとき、獏良の唇が塞がれる。
「…………悪い」
その後の会話はなく、二人は自宅に戻った。
――どうして……?
獏良はキスの理由が分からないままモヤモヤとした時間を過ごす。直接訊ねようと思っても勇気が出ない。
ベッドに入った後も考え続けていると、メールが一通入る。
『悪かったな。お前の気持ちも考えずに』
『謝らないで。僕は嫌じゃなかった』
『分かった』
何が分かったんだろう?疑問に思いつつも、少しスッキリした気分で携帯を握り締めた。
翌朝、獏良がいつも通りにバクラを玄関まで見送ると、ぎゅっと抱きしめられる。
「今日は火曜日だ。遅くなるから先に寝てろよ」
全身が痺れて動けない。バタンと閉じられた扉をいつまでも見ていた。
次の火曜日も同じように玄関で別れの挨拶をする二人。
「今日は定時に帰る」
「そうなんだ。じゃあ、早く帰ってきてね。今日は、ハグの日……だから……。待ってるね」
手を振って扉が閉まったのを確認し、獏良はリビングへ小走りで戻り、ソファへ飛び込んでクッションに顔を埋めた。足をじたばたさせる。
「あーっ」
――大胆だったかな?変に思われてないかな?恥ずかしい……!!
一方、バクラは扉を閉めてから、覚束ない足取りで廊下を進み、手すり壁にもたれかかる。
――なんだアレ……。無理だろ……。初めて会ったときから可愛いヤツだと思っていたが、これは……。帰るまで死なねえ。
灯りのついている家に帰ることに幸せを感じる。家で誰かが帰ってくるのを待つことに幸せを感じる。火曜日はぎゅっと抱き合って二人の距離を確かめる。
「もう簡単には手放してやれない」
「二回目のキスはないのかな?」
ぎこちなかった疑似夫婦が恋愛という一歩を踏み出したのだった。
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布団に入ってお互いの匂いを感じて動揺したり、好きのぶつかり合いになったりするんですが、まとまらないのでこれまで。