ばかうけ

※モブ視点。ちゃんとバクラも出てきます。

『隣のクラスの獏良くん』


◯月✕日

早朝、いつものように校門をくぐると、校舎の近くに人の群れが見えた。すべてが女子で何かに向かって黄色い声を上げている。
この童実野高校では珍しい光景じゃない。群れの中心にいるのは、隣のクラスの獏良だろう。
知り合いじゃないが、有名だから名前だけは知っている。女子から絶大な人気があって、こうして毎日のように人集りを作っている。
自分みたいな一般人には関係ないことだ、と騒ぐ女子を横目に玄関へ向かった。


◯月△日

廊下でクラスメイトと話している獏良を見かけた。話し相手は城之内と本田と……あと知らない奴。
城之内はケンカが強いと有名だから知っている。最近は大人しいらしいが。
そんな奴と獏良が仲が良いとは意外だ。全く違うタイプに見えるのに。
その奥の曲がり角で数人の女子がもどかしそうに獏良たちを見ているのが面白かった。城之内たちが邪魔で話しかけられないんだろう。


◯月□日

購買でパンを買い、列から離脱。早めに並んだお陰で目当てのサンドイッチが手に入った。少し遅くなっただけで余り物のパンしか選べなくなるから誰もが殺気だっている。食べ盛りの食に対する執念は恐ろしい。
購買のおばちゃんから貰った釣銭を財布にしまおうとしていると、購買目がけて突進する男にぶつかられた。数枚の釣銭が床に落ちて、コロコロと転がっていく。げっ。上手い具合に側面が上向きになって、車輪のようになってしまった。
慌てて追いかける自分よりも先に前方で白い手が硬貨を掴み取る。
「はい」
その手を差し出したのは獏良だった。
礼を言って硬貨を受け取る。直接話したのはこれが初めてだ。
獏良はそのまま廊下の先へ歩いて行った。
近くで見ると本当に美形だった。普通の男とはオーラが違う。あれはモテるな……。


◯月◎日

今日の日直という理由だけで古典の先生に呼び出された。ついてない。宿題ノートをクラス全員分集めてこいとのこと。提出物の締切に厳しい先生だから責任重大だ。
約三十人分のノートを積み重ねて指定された教室へと急ぐ。貴重な休み時間を潰している。のんびりしてはいられない。
教室の戸を開けると、机に置かれた紙の束が目に入った。それと先客が一名。隣のクラスの獏良だ。獏良も運悪く日直だったらしい。
回収したノートを机に置き、引き換えに新しい課題用紙を受け取る。これをクラスの人数分配布するように言われた。となると、休み時間を謳歌するのは諦めた方が良さそうだ。
肩を落としながら教室を出ると、獏良が困り顔で話しかけてきた。
「僕も君もツイてないね」
教室への帰り道、不幸仲間で会話をした。共通の話題として、古典の授業について愚痴を少々。
落ち着いて獏良の容姿を見ると、大きな目、長い睫毛、筋の通った鼻——一つ一つのパーツがくっきりしている。白い肌はつるつるで汚れが見当たらない。それでいて身体は細くてもしっかり男の骨格をしている。
同じ男なのについつい見入ってしまいそうになる。
「ふふっ。こっちも授業前になるとみんな教科書広げてるよ」
女子に群がられていることから獏良にあまり良いイメージは持っていなかったけど、話してみると良い奴だ。人懐っこさすら感じる。
あっという間に教室に着き、互いに別れを告げる。その後ろ姿を見て名残惜しく思ってしまった。


◯月▼日

廊下ですれ違うときに獏良が話しかけてくれるようになった。他愛のない内容だけど、女子に人気な存在を一人占めしているようで優越感がある。
意外とゲームをするらしい。趣味が上手いこと合って、とあるゲームの話で盛り上がった。


◯月◆日

なんだか最近は毎日楽しい。今日も獏良と話をした。興味があると言ったゲームを学校までわざわざ持ってきてくれた。「誰にも内緒だよ」と囁かれたときドキッとした。


◯月●日

放課後、廊下を歩いていると、聞いたことのある声が聞こえた。普通の雰囲気ではなく揉めているいるような声だ。思わず耳を澄ますと理科準備室からだった。
「あッ、やめて……下さい。先生……そんなつもりじゃ……」
獏良の声だ。気づいた途端に背筋が凍った。ただ事じゃなさそうだ。
壁に耳を当てて中の様子を窺う。
がたごとと激しい物音がして、「やっ……触らないで!なんでこんな……嫌です!」はっきりと拒絶の声が聞こえた。
すぐ中に入るべきか!?それとも人を呼んで来た方が良いのか?迷っている間に、乱暴に戸が開き、獏良が飛び出してきた。自分には気づかずに正反対の方向へ走っていく。
その後ろ姿をすぐに追いかけた。追いつけるか不安だったが、見失う前に空き教室へ駆け込む姿が見えた。
自分も教室に入ると、獏良は酷く怯えた顔で振り返った。
「あ……君か……」
想像していた相手と違ったからか、すぐに安心した顔になる。
制服の前が不自然に大きく開いていてギョッとする。白い胸元が見えてしまっていて気まずい。どこを見たら分からなくて視線が泳ぐ。
不審な様子に気づいた獏良は胸元をサッと押さえた。その手が小さく震えている。
想像が正しければ、理科準備室で話し相手の「先生」に乱暴を受けたのか。
動揺する姿に心の底から熱い衝動が湧き上がってくる。気づいたときには勝手に身体が動いて獏良を抱きしめていた。
すぐに不味いことをしたと思って手を放した。言い訳をしようにも、「随分慌てた様子だったから」と意味のない言葉しか出てこない。襲われた現場の近くにいたなんて言えない。
しどろもどろになっている自分を獏良はじっと見つめ、
「なんでもないよ。驚かせちゃったね」
と、いつもと変わらない笑顔を作った。


◯月☆日

なんてバカなことをしたんだ……。後悔ばかりで何度も自分を責めた。話してるだけで楽しかったのに。


?月?日

やっぱりちゃんと謝ろうと決意し、放課後になってから獏良を探した。教室にはいなかったが、「まだ鞄があるから帰ってはいないようだ」と獏良のクラスメイトに言われた。
しばらく探していると、人気のない社会科教室で見つけた。扉が開きっ放しになっているからすぐ分かった。こっちに背を向けて窓の外を見ている。
名前を呼んで教室に足を踏み入れた。
どぷり、と妙な感触。足が床に沈んだ。床が沼にでもなったのか。ありえない。
さらに、周りの景色がぐにゃぐにゃと歪んだ。目眩かと錯覚したが、本当に壁や窓が軟体動物にでもなったように動いていた。
悲鳴を上げたところで、獏良が振り返った。
いや、獏良によく似ている別の誰かだった。
獏良は柔らかい雰囲気をしているが、目の前にいる人物は高圧的な表情をしている。目の色も違う気がする。獏良のものよりももっと暗い、血のような色だ。
獏良に似た人物は低い声で笑い始めた。
「随分宿主と仲良くしてくれたな」
ヤドヌシ?彼は聞き慣れない単語を口にした。笑い声が徐々に大きくなっていく。教室中に響き渡る。
おかしなことに、窓の外は夜になったように真っ暗だ。聞こえるはずの環境音も一切聞こえない。
怖くなって一歩下がる。ぐちゃ。沼のようになってしまった床に足を取られる。
「安心しろよ。命までは取らないでやる」
どこからか音が……金属の音のようなものが聞こえる。ちゃりちゃりと擦れ合うような音。
彼は口端を吊り上げて、立てた人差し指をこちらへ向けたーー。

*****

男子生徒は床に倒れて気絶していた。意識を取り戻したときには、ある一定の期間の記憶を失くしていることになるだろう。
「彼」は倒れた男子生徒のことは気にも止めず、教室を後にした。意識は次の標的に向かっている。
獏良に手を出すものは誰であろうと許すつもりはない。
「これはオレ様のモンなんだからよォ」
夕日が差し込んで真っ赤に染まった廊下に、どこからか聞こえる金属音と共に低い笑い声が満ちた。

+++++++++++++

不埒な教師も罰ゲームされました。お気の毒様です。



※全員獣化

『ぐるーみんぐ!』


獏良は眠い目を擦りながら起きた。大あくびをして前足を伸ばし、身体をぷるぷると震わせる。寝惚け眼で藁を集めた隣の寝床を見ると、もぬけの殻だった。既に同居の友は活動を開始しているらしい。
獏良もノソノソと寝床から出て、蓄えてある食料を口にした。乾燥させた草や果物が主だ。味は落ちるが日持ちがする。それらをゆっくり咀嚼していると、徐々に目が冴えてきた。
巣穴から顔を出し、外の様子を窺う。ひくひくと動く鼻。天気は晴れ。外敵の匂いはなし。安全確認が終わり、巣穴から躍り出た。尻尾を揺らしながらのんびりと歩き、散歩がてら縄張りを見回りする。心地よいそよ風が、緑の草原を優しく波打たせる。しばらく歩いていると、知っている匂いが鼻まで届いた。
「あっ!」
獏良は嬉しそうに尻尾を大きく揺らしながら草原を走る。匂いを辿り、小さな丘を駆け上がった。その先には小柄な獣が一匹。
「遊戯くーん」
昔からの友だちに走り寄る。遊戯と呼ばれた小柄な獣も振り向き、同じように距離を縮める。鼻先まで近づくとお互い鼻をひくひく。同時に尻尾を千切れん限りに振り始める。
「獏良くん!調子はどう?」
「最近はずっと平和だよ。遊戯くんは?」
二匹は楽しげに話を続け、途中で遊戯はふと何かを思い出したように声を上げた。
「なあに?」
遊戯は気まずそうな表情を浮かべ、足元ときょとんとした顔の獏良に視線を行ったり来たりさせる。そして、おずおずと話を切り出した。
「あの……まだバクラくんと一緒に暮らしてる……?」
「?うん」
バクラというのは、昔から獏良と共に行動している獣だ。遊戯もよく知っていることで、今さら確認されることではない。獏良ははてなと首を傾げる。
「あのさ、あくまでも噂だから気を悪くしないで欲しいんだけど……。みんなが言ってて……」
ぱちぱちと獏良の目が瞬く。次の言葉をよく聞くために耳をピンと立てた。
「君たちはツガイだって……」
「ええっ?!!」
獏良は口をあんぐり開けて叫ぶと、その場でくるくると回った。予想もしていなかった単語に頭の中が混乱する。
——ツガイ?!番ってあの?!夫婦のことだよね?!なんでっ!なんで??
「ごめんごめんね!変なこと言って!あくまで噂なんだ!」
慌てて遊戯がフォローに入るも、獏良は興奮した鳴き声を上げ始めた。落ち着くまで数分かかり、その間も遊戯が懸命に宥めていた。
「ごめんね。僕、びっくりしちゃって」
「ううん。こっちこそ、ごめんね」
お互いゼーハーゼーハーと荒い呼吸をしながらぺこぺこと謝ってから、噂の詳細について話をした。

バクラと獏良はずっと一緒に行動をしているから番だと、この周辺に棲む獣たちは思っているらしい。獣にとって雄同士の組み合わせは珍しくないものの、添い遂げるまでの関係になるとやはり注目の的となる。しかも、バクラは闘争が強い個体として有名がゆえに噂が過剰に広まってしまったらしい。

——そんなあ……。
獏良は遊戯と別れてから、耳と尻尾をしょんぼりと下げながらトボトボと草原を歩いていた。自分の知らない間に変な噂が立っていたとは、恥ずかしいやら悲しいやら。バクラは特別な友だちであって、番相手ではない。
獏良は両親の都合で幼いときに独り立ちをさせられた。どうしたらいいか分からず、不安で寂しくて洞穴から月を見上げながらきゅんきゅん泣いていたときに、どこからともなく現れたのがバクラだった。バクラは獏良に生きる術を教えてくれた。二匹が一緒に暮らし始めるのは自然な流れだった。幼い頃の獏良にはバクラしか頼るものがおらず、バクラも獏良の面倒をよく見た。
食料不足のときは二人分を遠くまで集めにいき、外敵が現れたときは獏良を庇って一匹で追い払ったのがバクラだ。親と離れた身では、どれほど救われてきたか。獏良にとっては信頼できる友だ。
——それを番だなんて……。
大好きではあるけれど、恋とは違う。家族には近いかもしれないが。関係を勘違いされるのは侮辱されていることと同じだった。
——でも……。
二人の距離が近いのは事実だ。
バクラはよく丁寧に獏良の毛繕いをする。それがとても気持ち良くて獏良は身を任せてしまう。ゆっくりと全身を優しく舐める舌。程よい力加減。毛繕いの感触を思い出した獏良の顔にとろんと締まりがなくなった。すぐにいけないと首を横に振り、真面目な顔に戻る。
獏良もお返しとして一生懸命に毛繕いをするが、経験不足か舌使いが辿々しくて上手くできている気はしない。それでも、バクラは目を瞑って大人しくしている。「ごめんね」と謝ると、「謝らなくていい。続けろ」とまったく気にしていない表情で答えが返ってくる。
獣にとって同性との触れ合いは親交を深める大切なもの。だから、獏良はバクラとの仲は当たり前のことなのだと思っていた。しかし、周りはそう思ってはくれないらしい。
このことをバクラが耳にしたらどう思うか心配だった。やはり、嫌な気持ちになるのだろうか。
——もう子どもじゃないのに、ずっと一緒にいるのは変だよね……。
獏良が俯きながら歩いていると、前方に見たことのない三匹の獣が現れた。
「こいつはバクラのツレですぜ。ムカつく匂いが染みついてやがる」
「ほう……あいつのか」
獏良の全身の毛が逆立つ。強いことで有名なバクラは敵を作りやすい。目の前にいる奴らもその類に違いなかった。
獣たちは舌を出して下卑た笑い声を一斉に上げた。
「弱そうだなあ!あいつが来る前に締めちまいましょうぜ」
「見ろよ怯えてブルブル震えてら!かわい子ちゃんでちゅねー……いや、ホントに顔イイな……毛並みも良い」
「グダグタ言ってねえで、とっととやるぞ」
鋭い爪が素早く繰り出される。獏良は咄嗟に身を引くも、前足に痛みを感じた。悲痛な鳴き声が辺りに響く。地面にどさりと倒れ、四足が投げ出される。攻撃を受けた足はざっくりと皮膚が切れ、血が滲んでいる。じんじんと広がる痛みが恐怖を加速させた。三匹に囲まれたら逃げられない。ぺたんと耳を伏せて、身体を強張らせた。次の瞬間——。
草むらから猛然と一匹の獣が飛び出した。獏良の前に立ち塞がると、三匹を威嚇し始めた。歯を剥き出し、低い唸り声を上げる。真っ白な毛並みに燃えるような深紅の瞳。
「バ……バクラだぁ……!」
獣たちが怯んだ隙を狙い、バクラはリーダーを見定めると懐に飛び込み、首元に噛みついた。情けない鳴き声が獣の口から漏れ、三匹は尻尾を巻いて草むらの中へ逃げていく。
獣の気配が完全に消えると、バクラは顔を大きく振り、吐き出すような仕草をした。
「三下が」
憎々しげに呟くと、手負いの獏良の元までやって来て、
「大丈夫か?」
刺々しさが取れた声をかけた。身体を屈め、獏良の前足に顔を近づける。痛々しい傷口に顔をしかめた。
「血が出てるな」
すぐに舌で血を拭い、傷口を丹念に消毒し始める。今までだったら、獏良は自然に受け入れていたかもしれない。しかし、遊戯の言葉を思い出し、前足を引こうとした。
「も、もういいよ。ありがとう。大丈夫だから」
「大丈夫じゃねえだろ」
バクラは両の前足で獏良を押さえつけ、再び舌をねっとりと傷口に触れる。
「あいつら不衛生に決まってるぜ。傷口が化膿したらどうする。顔も土で汚れてるな」
さらに顔も舐めようと近づくバクラから獏良は顔を背け、元気のない声で言った。
「僕たち離れて暮らした方がいいかも」
「は?」
バクラの瞳が鋭く光り、威圧的な雰囲気を漂わせる。その迫力に怯むも、獏良は先ほど聞いた話を打ち明けた。
「——だから、僕たちは一緒にいない方がいいんだ。誤解されちゃうから……」
話し終えてからシュンと肩を落とす。自分の言葉に傷ついてしまった。「一緒にいない方がいい」などと言ってしまうなんて。
バクラは後ろ足で首元を掻き、「んー」と考える素振りを見せ、
「それで?ただの噂だろ?この話はこれで終わりだ。帰るぞ」
もういつもの目つきに戻っており、平然とした口調で言った。
予想外の反応に獏良は慌てふためき、言葉を強く言い直す。
「だって!番って勘違いされてるんだよ?!」
「それで何か困るのか?」
短い問いかけに適切な答えは見つからなかった。獏良はぎゅっと口を結び、訴えかけるような目でバクラを見つめる。確かに物理的に困ることはない。しかし……。
「自分でショック受けることなんか言うな。離れて暮らすってのは、噂とやらを真に受けただけで、お前の考えたことじゃないんだろ?」
「……うん」
バクラの口調はまるで子どもを宥めているような穏やかさがあった。続けて獏良に言い含める。
「他獣には好きに言わせてろ。そういう奴らはただ野次馬根性で楽しんでるだけだ。それでオレたちが困ることは一つもない。お前の知り合いだけに、しっかり誤解されないよう話しておけばいいだろ」
「……うん」
「それとも、お前はただの噂の方を気にするのか?オレは今の生活を気に入ってる。お前は違うのか?」
「ううん……。僕も君と一緒にいたい……」
バクラは満足げに笑った。尻尾を大きく振り上げる。
「な?他の奴らなんざ関係ないのさ。堂々としてろ。そのうち噂にも飽きるだろ」
「うん」
獏良はようやく顔を上げた。まだ少し不安の残る表情をしてはいるが、不器用な微笑みを浮かべる。
「さあ、帰るぞ。巣にお前の好きなやつ運んでおいたから食おうぜ。それから毛繕いもしてやる」
「うん!」

バクラは後ろをついてくる獏良にチラリと視線を送る。先ほどまでの不安はほとんど消えたようだが、少し迷いが混じっているように見える。
——噂、か。
いくらマイペースな獏良でも、さすがに周辺で口々に噂をされれば気づくものだ。少し遅いくらいではある。
噂されるのは当たり前だ。バクラは「そういうふう」に振る舞っているのだから。友好を深めるための行動だと、獏良の方は思い込んでいるらしいが。周りの獣たちに牽制の意味を込めて「コイツはオレのものだ」と知らしめるためにやっているのだ。
物の分からない幼少期とは違い、大人になりつつある今なら様々なことに疑問を持ってもおかしくない。一刻も早く不安な気持ちを和らげてやらなくては。
——帰ったら念入りに毛繕いをしてやるかァ。
バクラは舌で口周りを大きく舐めた。
月明かりの下で親恋しさに哀れな鳴き声を漏らす小さな獣がどんなに「美味そう」だったか。当時のことを思い出すだけでも涎が出そうだった。
機嫌良く尻尾を揺らしながら、二匹の巣穴へ軽やかな足取りで向かうのだった。

++++++++++++

光……源氏……計画。

バクラが途中不機嫌になったのは、了くんに言われたくないことを言われたからです。すぐに真意ではないことが分かったので元に戻ってます。もし、本気の言葉だとしたら、どうなるんでしょうね?



※二人とも人間、元カップルのパラレル設定。
※詳細はありませんが、バクラに女子と付き合っていた過去あり。
※性描写ほぼなしですが、普通にしています。
※執着心が強い元カレ×狙われた美人。


バクラは童実野美術館に足を運んでいた。休日なだけあって家族連れやカップルなどが多い。和やかな雰囲気が満ち溢れる中、展示物には見向きもせずに目的地まで足早で向かう。
特設展示コーナー前には短い列ができていて、一人の係員が誘導していた。そこを通る女性客はほとんどが逆上せ顔で、ちらちらと係員に視線を送っている。客の一人が何事か話しかけると、係員は腕を伸ばして先の道を示しながら答えていた。
バクラの口が横に広がる。足の速度を緩め、ジーンズのポケットに手を突っ込み、素知らぬ顔を作った。そして、特設展示コーナーに辿り着くと、係員の存在に今気づいたというように口を開いた。
「よぉ、久しぶりだなァ」
声をかけられた係員は一瞬だけ驚いた表情をしてから、すぐに仕事上の笑顔を張りつける。
「お久しぶりです」


『別れても好きな人』


他人行儀な口調に怯まず、バクラは距離を詰め、
「久しぶりに会ったんだ。飲みに行かねえか?」
「今は業務中ですので」
係員は笑顔を崩さず、しかしはっきりと突っぱねる。見えない火花が二人の間に散るようだった。少しの間だけ無言で見つめ合う。
先に動いたのはバクラの方。世間話をするように自然な態度で、声のトーンを少し上げた。
「悪かったな、仕事中に。つい懐かしくなっちまってよォ。仕事が終わったらいいだろ?正面口で待ってるからな」
客の不躾な視線には気がつかない振りをし、手をひらひらと振ってその場を立ち去る。
係員は物言いたげな顔をした後に、悔しげに口を引き結び、声をかけることなく客の対応に戻った。
バクラはそのまま展示室を通過し、出口へ向かう。美術館の営業終了時間までまだある。どこかで時間を潰さなくては。人混みを避けながら、美術館を出た。

*****

二人は恋人同士だった。高校時代の短い間だけだが。係員の名は獏良といい、素行の悪かったバクラと違い、優等生だった。どうしてそんな二人が付き合うことになったのかというと、きっかけは二年生のときに行われた文化祭まで遡る。
たまたまバクラが教室の飾りを褒めた。文化祭の飾りつけを担当していた獏良は喜び、二人は初めてまともな会話を交わした。会話の中で校門の立体的なアーチも獏良が設計したということが分かった。大したものだというのが率直なバクラの感想だった。良くも悪くも学生らしかった去年の飾りよりも、ずっと完成度が高いものだったからだ。
そこから、二人はよく話をするようになった。ゲームの趣味が合い、考え方も似ていた。共に過ごす時間が長くなり、休日に出かける回数も増え、自然と付き合い始めた。
しばらくは楽しく二人の時間を過ごしていたが、バクラの素行の悪さは変わらず、それを良しとしない獏良との喧嘩が増えていった。最後の方になると獏良はいつも泣いて怒っていた。結局、高校卒業前に別れてしまった。
それからはそれぞれの進路を選び、連絡も取らずに今に至る。
バクラは納得して別れたわけではなかった。売り言葉に買い言葉で喧嘩は山ほどしたが、獏良を疎ましく思ったことなど一度もない。話し合う余地もなく、一方的に拒絶されて終わっただけだ。自分を曲げて相手に合わせることができなかったのは、若さゆえだ。縋りつくのはプライドが許さなかった。手放したくなかったはずなのに、追いかけることをしなかった。
それから何人か言い寄ってくる女と付き合ってみたが、どれもつまらなかった。媚びた声を出して身体をくねらす女と獏良では比べるまでもない。獏良はどの女よりも美しかったし、一緒にいて苦痛を感じたことはなかった。居心地が良いというのだろうか。家でボードゲームをしたり、ゲームセンターで銃を撃ち合ったり、ジオラマを見物したり——。
元々の趣味は似ていても、興味のない世界の話をされることもあった。それでも、獏良が楽しそうにしていたから聞いていられたのだ。他の誰かが同じことをしたなら、一分も持たずに席を立ってしまうだろう。
ずっと同じ町に住んでいれば、人伝に獏良の情報は入ってくる。父親の所有する美術館で働き始めたという。「いいよなー、坊々は」などという付随する戯れ言は、どうでもよかったので聞き流した。美術館の場所は付き合っていた当時に会話の中でちらりと出てきたことがある。会いに行くのに迷いはなかった。
なにしろ、バクラにとっては獏良との関係は本当の意味では終わっていない。別れてからもずっと心の中に残っていたのだ。
わざと客前で逃げられない状況を作り、突っぱねることもできないだろうと見越して誘った。獏良の性格は変わっておらず、予想通りになった。約束を無理やり取りつけてしまえば、なかったことにできないはずだ。心情がどうであれ、必ず待ち合わせに来る。
太陽が西に傾き始め、気温が低くなってきた。冷たい風がぴゅうと吹きすさぶ。バクラは街路を歩きながらコートの合わせ目を手で押さえる。己の執着心を自覚して笑いが込み上げてきた。

六時過ぎに美術館から出てきた獏良は、意外にも抵抗せずに不承不承といった様子でバクラについてきた。歩いてすぐのバーまで行き、カウンター席に並んで座る。バクラはロックのウイスキー、獏良はラムのカクテルを頼み、相手とは視線を交わさずに正面を見ながら話し始める。
「高校以来だな」
「で、何しに来たの?美術鑑賞なワケないよね?」
獏良は気怠げに言うと、グラスに口をつけた。細かな氷がカクテルを泳ぎ、シャリシャリと音を出す。
「お前に会いに来たんだ」
バクラは素直に目的を明かした。回りくどい言い方は不評を買うような気がした。
「あんな呼び出し方はやめてよ」
獏良の反応は冷ややかなものだったが、来るなという言葉が出てこない。隙があるのかもしれない。バクラは鞄から名刺を取り出し、テーブルに置く。
「これでも真面目にやってんだぜ」
紙片にちらりと視線が送られたのを確かめてから、さらに言葉を続ける。
「お前、頑張ってんだな。仕事してる姿見たぜ。資格取ったのか?」
片肘をカウンターにつき、獏良の顔を横から覗き込むように見つめる。高校時代にはまだ幼さが残っていた頬が、大人っぽいシャープな線になっている。いつも柔和な微笑みを見せていた顔は、猫のようにツンとしている。元カレ相手ではそれも当然なのかもしれない。バーの間接照明が似合う美しさになっていた。
「客応対も完璧だった」
獏良の眉がぴくりと跳ねる。それ以外は表情に出さず、両腕をカウンターに置き、斜め下を見ていた。学生時代はもう少し顔に出るタイプだった。これは思っていたよりも時間がかかるかもしれない、とバクラは目を細める。
獏良の接客姿に非の打ち所がないのは本当だった。背筋を伸ばした立ち姿は堂々としていたものだったし、客に話しかけられても慌てずに対応していた。美術館のスタッフは展示品への理解がなければ務まらないのだろう。業界に詳しくないバクラにでもそれは推測できる。資格——学芸員だろうか——を取り、専門知識を深めていく。展示物は入れ替わるだろうから終わりはない。一朝一夕ではできないものだ。
美術館での立ち振舞いは、確固たる自信に裏づけされたものだった。親のコネによる就職だとしても、人並み以上に努力をしているに違いないのだ。ただのお飾りなら見た目に現れるはず。だから、「親のコネ」という獏良に対する陰口など、バクラの耳には入らない。
さあ、どこから打ち崩していこうか、とバクラは心の中で舌舐りをした。

「うぅ……目が回る……」
「お前なァ、弱いんだったらカパカパ飲むなよ!」
バーのあった路地をバクラは獏良の肩を抱いて引きずるようにして歩く。獏良の足は力が入っておらず、役に立たなくなっていた。

バクラは酒を飲みながら獏良にたくさん話をした。あれほど熱心に口説くのは初めてだったかもしれない。他のどんな女にもそんな労力を使ったことはない。
認めて褒めて持ち上げつつ、信頼に足る自分の現在もつけ加える。弱味もちらつかせる。完璧な流れだと悦に入りながら隣を見ると、真っ赤な顔で首を前後に動かしてうつらうつらとしていた。
「嘘だろ?!」
思わず声が出た。バーに入店して一時間も経っていなかった。大人っぽい雰囲気はどこか遠くに飛んでいったらしい。バクラは身を乗り出してマスターに言った。
「水ッ!!」

バクラの完全な計画ミスだった。高校時代までの付き合いだったために、獏良のアルコール耐性まで把握していなかった。披露した数々の言葉はほとんど無意味だったことになる。こんなに酔った状態では、話を続けるのは無理だと判断した。
いくら細身とはいえ成人男性を運ぶのは苦労する。周囲を見回し、道を確認し、苦労して運ぶ。とてもこんな状態の獏良を一人で帰すわけにはいかない。どこかで倒れるのが落ちだ。大通りに出てタクシーを拾うか、と考えつつ、
「お前、家はどこだ?前と変わってないのか?それなら……」
バクラが言いかけたとき、身体が前に強く引っ張られた。体勢が崩れそうになる。数歩よろめいたところで耐えた。
「おい……」
文句を言おうと口を開いたところで、獏良がバクラの胸元をぎゅうっと引っ張り、
「もう歩けない。今すぐ休みたい……」
酔いで顔は赤いものの、真剣な眼差しはしっかりとバクラに向けられていた——。

翌朝、バクラは髪を掻き上げて大あくびをしながら起床した。眠気の取れない眼でベッドの隣を見ると、もぬけの殻になっている。額に手を当てて長い息を吐く。
近くのホテルに辿り着き、部屋に足を踏み入れたときには獏良の意識はすっかり元に戻っているように見えた。シャワーを浴び、ベッドに入れば、昔に戻ったように口づけを交わしていた。
どういうことだったのか、とバクラは裸身のまま頭を抱える。美術館を訪れたのは、軽いジャブのつもりだった。一度で落とせるとは思ってはおらず、ましてやベッドを共にする予定などなかった。
別れる直前も昨晩も、獏良はバクラに冷たい態度を取っていたのに、誘ってくるとは不可解だ。性格を考えれば簡単に寝ることなど決してしないはず。
獏良はベッドの中で指を絡め、「どうして?」と、繰り返して涙を流していた。
「……どうして?ずっと好きだったのに……。別れたくなんてなかった……どうして……」
見下ろしたときの切ない表情が脳裏に残っている。目尻から溢れた透明な液体が細い筋となって横に流れていた。雫が絡んだ睫毛と濡れた眼が宝石のように光って見えて、バクラの目を奪った。
獏良を問い質したくとも、朝になってみれば夢だったように消えていた。シーツの皺や微かな温もりがそれを否定している。あれが獏良の本心だとすれば……。
バクラは身を起こし、シャツに袖を通す。ボタンを留め、長髪を手で掬い上げる。バサリと髪が肩にかかった。
美術館に行けば、また獏良に会える。そのときに真意を訊けばいい。
服を着ていると、ベッドの脇に備えつけられた小型の丸テーブルに何かが置いてあることに気がついた。昨晩は何もなかったはずだ。不審に思い近づく。千切ったメモ用紙と紙幣。律儀にホテル代を置いていったのだろうか。
バクラは紙切れを手に取り、視線を落とす。内容を目にして口元に笑みが浮かんだ。連絡先が素っ気なく書かれていた。まだチャンスは残されているらしい。バクラはそのメモを胸ポケットに大事そうにしまうのだった。

++++++++++++

獏良の飲んでいたカクテルはモヒート。カクテル言葉は「心の渇きを癒して」です。

元カレ話は一度書いてみたかったのです。離れられない二人。タイトルはどちらのことも指してます。

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