『五月晴れ』
毎年獏良家では、子どもの日が近づくと五月人形を居間に飾る。
両親が物置から運び出し、幾つもあるパーツを一つ一つ箱から取り出して丁寧に組み立てる。片付けるときも同じく、すべて乾拭きしながら解体する。
それは獏良が産まれたときに購入したもので、大人たちは口々に立派な五月人形だと持て囃す。しかし、当の本人は気に入ってはいなかった。
太刀や弓まで、すべて揃った大鎧。高さは幼い獏良の胸元まで迫る。床台も含めれば、もっとだ。実在の武将がモデルらしく、兜の下に見える面頬は厳つい。まるで魂が入っているよう。
——とても恐ろしかった。
格好いいと素直に喜べる単純な男子なら良かった。遊びに行った友人の五月人形は兜のみで、その分煌びやかな細工が際立ち、輝いて見えた。また別の友人の人形は人気のキャラクターもので、それもまた愛らしく素敵に見える。つい「羨ましい」と口にすれば、「お前んちの方がスゲーだろ!」といつも言い返されてしまう。
獏良は両親に自分の気持ちを言えないでいた。二人がとても気に入っていることも、高価なことも、理解していたからだ。
客人すら称賛するものだから、ますます言いづらい。高名な作家が手がけた、家紋入り、各所に施された龍の彫金——値打ちを引き立てる言葉を聞く度に気が滅入る。
五月人形が飾られている間は居間が居心地悪く感じた。夜中にトイレへ行くときは特に苦痛で、だからといって親を起こすわけにもいかず、目を瞑ってやり過ごすことにしていた。
見ないふり。気づいていないふり。
一年に一度、わずかな期間だけ我慢すればいい、と自分に言い聞かせた。
そうでなくても、本棚の隙間、扉を閉め切った廊下、襖が薄く開いた押入れ、そこかしこに蟠る闇はいつも怖い。
祖母は獏良の気持ちに気づいていたらしく、誰も家にいないときに手招きしてそっと言い聞かせてくれた。
「この鎧さんは、了ちゃんを守ってくれるんだよ」
そんな祖母も大分前に他界してしまった。
どんなに素晴らしいものでも、本人が価値を見出だせなければ意味がない。
*
その日、獏良以外の家族は出かけていた。行事を大切にする母は、夕食にご馳走を作るのだと昼食後に買い物へ出かけた。妹はさっさと友人の家に遊びに行ってしまった。
獏良はブロックを広げて積んでいた。例のごとく鎧には背を向けて。
午後になれば方角の関係で室内全体が影に包まれる。日当たりに関しては居間が一番まし。少しの間見ないふりをすればいい。
黙々とブロックで城を作っていると、首の後ろがチリチリと焼ける感覚がした。窓は開いていないのにヒュウと風が流れる音。周りの空気が粘り気を帯びた気がした。なんとなく息苦しい。
獏良はじっとしていられず、ブロックから手を離して立ち上がった。膝頭がむずむずする。
子ども部屋に行こうかと思ったが、開口部に乏しく、何より内向きで閉塞感がある。状況が良くなる気がしない。
その場で足が動かなくなる。
外の空気を吸えば気分が変わるかも——。
どうにかしてこの部屋から逃げ出したかった。
居間から玄関に向かおうとして、進行方向にあるものに気づく。
外へ出るには甲冑の前を横切らなくてはならない。既に闇が満ちつつある中を。
躊躇う獏良の背中にひやりと悪寒が走る。
深く考えている余裕はなかった。いつものように目を瞑って通り過ぎればいい。
家具にぶつからないよう注意をしながら覚束ない足取りで前へ進む。
ゴツ——。
爪先が硬い何かに当たった。足元を確認するために薄目を開けると——目の前には怒ったように開いた口。中にはずらりと細かい歯が並んでいる。
「ヒッ……」
硬直する獏良の耳元にふわっと生暖かい空気がかかる。
今度こそ前にも後ろにも進めない——。
足の裏が痺れて感覚が失せる。
——もうダメ……。
助けを求める声が出る前に、
——チッ……。
小さな音と共に寒気が一瞬で消えた。
後ろを振り返っても、散らばったブロックがあるだけで、何者の気配も感じられない。
部屋には向かい合う鎧と獏良だけだった。
鎧は相変わらず威嚇するような表情をしている。何事もなかったかのようだ。祖母の言っていたことは本当だった。
それから、獏良は五月人形が怖くなくなった。威厳に満ちた表情に安心感さえ抱いた。端午の節句に合わせて居間に飾られれば、誰に教わることなく手を合わせてみた。
「お兄ちゃん何してるの?」
兄によく懐いている妹も真似をした。二人並んで威厳のある仁王立ちの武将に頭を下げた。
毎年、獏良の家にはどっしりと力強い五月人形が飾られる。
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悪さはできませんでした。残念。
※バクラ不在。
※大学生設定。
※モブ多め。モブ姦未遂。
※でも、バク獏。
『永久セコム』
「まあまあ緊張しないで。気楽に。気楽にさぁ」
夕刻、二階建てのアパートに若い男が二人。片方はヘラヘラと軽薄そうな笑みを浮かべて喋り、もう片方は聞いているのかいないのか反応に乏しい。前者はどこにでもいそうな風貌をしているのに対し、後者は人目を引く中性的な容姿をしている。
二人はコンビニのビニール袋をぶら提げ、老朽化して錆びだらけの鉄骨階段を規則的に硬質な音を鳴らせて上がっていく。廊下に並んだドアのうちの一つに辿り着くと、平凡な方の男がじゃらじゃらとマスコットのついた鍵を取り出し、ドアノブに挿し込んだ。
「さあ、入ってー」
男が愛想よく笑い、連れの背中を軽く押す。部屋に入ってドアを施錠し、間取りについて説明を始めた。大学からの道中も今も、男の話は一瞬足りとも間を置かずに続いている。
それも仕方がない。相手が大学で有名な美青年だから、見つめているだけで焦ってしまうのだ。
それでも男はしめしめと内心ほくそ笑む。自宅まで来ればこっちのものだ――。
*
獏良は大学に入学したときから話題の中心だった。恐ろしく綺麗な新入生がいると大学内中に知れ渡るまで時間はかからなかった。
人並外れて整った容姿の前では女も霞む。どこかこの世のものでないような儚い不思議な雰囲気もまとっていて、誰の目も釘づけにした。
それなのに特定の相手と付き合っていないらしい。噂を裏づけるように教室でも食堂でも一人でいる。たまに他の学生と会話をしていても、親しげではない。好奇の視線を集めても、誰も近寄ろうとしないのだ。
獏良と幾つか同じ講義を受けている男は不思議に思い、噂好きの女子たちに話を聞いてみた。女子たちは顔を見合わせ、意味ありげに笑い、
「あー。獏良くんねー。観賞用としては良いんだけどねー」
「カレシとしてはねー。ちょっと気後れしちゃうっていうかー。綺麗過ぎてうちらじゃお呼びじゃないんだよねえ」
好き勝手なことを述べ、理想の彼氏談へと話を広げ始めた。
男は出口のない会話を聞き流し、なるほどと口元に手を当てる。
誰もが認める美青年は恋愛には向いていないらしい。噂によると恋人はいない。交友関係も希薄。そして、男は今珍しく彼女が途切れている。
手のひらの下で唇を歪めた。笑い声が溢れそうになる。チャンスだと彼の勘が告げている。この後ちょうど同席の講義がある。寂しそうな子は慰めてあげなくちゃね、と眼に肉食動物を思わせる欲望の光が灯った。
教室でも獏良は一人だった。大人しく後ろの端の席に座っている。男が声をかけると少し驚いたようだったが、友好的な笑みを貼りつけていれば特別に警戒はされなかった。講義の内容を話しながら自然と隣の席に座る。
近くで視線を真っ直ぐに向けられると類い稀な美貌に尻込みをしそうになる。そんなことは男にとって初めてだった。美人な女とはいくらでも付き合ってきたが、獏良は他にはない清廉とした雰囲気を持っている。
男は唾を飲み込んで気を引き締めた。今まで誘いを断られたことはほとんどない。周りから一目を置かれている美青年を物にできれば、どんなに自慢になることだろう。そこら辺の女とは比べ物にならない美貌だから性別など気にならない。獏良は男の強い自己顕示欲を満たしてくれる相手に違いなかった。
「せっかく同じ学科なんだから」「親睦を深めるつもりで」「宅飲みにも慣れておいた方が良いと思うよ」など決まった誘い文句を重ねていると、獏良はあっさり首を縦に振った。育ちが良いという噂は本当だったようだ。まったく警戒している様子がない。講義が終わった後、大人しく男の自宅までついてきた。
*
「狭いけど自由にして」
アパートの部屋は学生の一人暮らしらしい手狭な1K。玄関の正面にすぐベッドと座卓があり、廊下側の壁に小さなキッチンがついている。
床に座り、座卓に先ほどコンビニで買ったつまみや缶アルコールを並べた。男はビールを選び、獏良はアルコール度数の低いチューハイを選ぶ。アルコール片手に音楽や映画など他愛のない話をする。
話しかけているのは専ら男の方で獏良は口数少なく小さく頷くだけ。アルコールもチビチビと飲んでいた。男はなぜか言葉にできない焦燥感に駆られていた。獏良の透き通った瞳を見ていると妙な気分になるのだ。口説こうとしているのに、まるで自分の方が追い詰められているよう。初めての感覚に戸惑う。
一缶空ける頃には、とうとう獏良をベッドに押し倒した。相手をその気にさせるどころか、打ち解けてすらいないというのに。不味いと思っていても止まることはできなかった。早口で獏良の外見を褒めつつ、「もっと仲良くなりたい」と言って馬乗りになる。
獏良は表情を変えずに男を見上げ、静かに言った。
「後悔するよ」
澄みきった双眸が底知れない色を湛えている。見つめられていると、自分が汚いものだと思わせるような曇り一つない輝き。
男はその瞳から逃れて獏良の身体に飛びついた。シャツの裾から手を入れ、滑らかな肌を撫で回す。いくらぞっとするような美形でも中身は他の人間と同じなのだ、と自分に言い聞かせて。獏良から反応は返ってこなかったが、吸いつくきめ細やかな肌に夢中になっていった。
*****
獏良は男にまさぐられながら天井をただ見ていた。身体中を這い回る手にも、肌をくすぐる生暖かい息にも、粘液をまとったなめくじのような舌にも、何一つ感じなかった。
男はうわ言を呟くように話しかけてくるが、まったく耳に届かない。時間が経てば経つほど二人の温度差は開いていくばかり。早く終わらないかな——と獏良は冷静な頭で考えていた。
男も女も花に誘われる虫がごとく獏良に魅了されて近寄ってきた。そして、都合の良い言葉を吐いては勝手に夢を見て幻滅する。
遠巻きに不躾な視線を送る連中も同じだ。無責任な噂を面白おかしく口にする。
「は?」
獏良の肌を味わっていた男の手が唐突にぴたりと止まった。
*****
獏良からは頭の芯が痺れるような甘い香りがする。男が夢中で柔肌に触れていると——。
ザリッ——。
玉の肌には似合わない荒い感触。そこだけ岩場のようにデコボコしている。男は我に返って間の抜けた声を上げた後、奇妙な手触りの正体を探るべく周りを確認した。
ザリ、ザリ——。
同じような感触が続く。腫れ物にしては規則正しく並んでいる。男は違和感を払拭するために獏良のシャツを捲り上げた。
「うっ……」
胸にほぼ同じ形の傷が五つ。半円を描いて並んでいる。新しいものではない。皮膚が抉れたままになっている。とてもただの怪我には見えなかった。故意に傷つけなければ、このような痕にはならないのではないだろうか。そうだとしても、傷つける理由が想像できない。
どう見てもまともではない傷痕を目の前にし、男の熱はすっかり冷めていた。とても仕切り直す気分にはなれない。完璧に見えた容姿の中にある唯一の欠点はそれほど存在感があった。
それ以上行為は続けられず、今までの行動は酔いのせいにし、最後にはバイトがあるのを思い出した、と男は苦しい言い訳で飲み会を中止にした。
*
予定が突然なくなった獏良は、アパートから駅に向かった。人気のない住宅街の小道を歩きながらぽつりと呟く。
「だから後悔するって言ったのに」
古傷を服の上から撫でた。今はもうない千年リングが獏良の胸を突き刺したときにできた傷。五本の針の痕は数年経っても残ったままだ。それどころか、時が経つに連れ、濃くなっているような気さえする。
人を驚かせないようになるべく隠してはいるが、獏良にすり寄ってくる者は後を絶たない。断ると余計に面倒になるので仕方がなく応えていると、大抵は先ほどの男のように慌てふためき、自ら去っていく。
極稀に傷痕について根掘り葉掘り訊きたがる野次馬もいるが、そうなると獏良は恋愛対象から外れ、噂にならない程度のそれらしい理由を見繕ってやれば、好奇心が満たされて自然と離れていく。
独り身を好む獏良にとっては好都合だった。
「それにしても、いきなりびっくりしたなあ……」
間延びした声はどこか他人事。のんびりと歩き、アパートから遠ざかっていく。
傷痕は時折存在を示すように、ちくんちくんと疼く。忘れるな、と言うように。
獏良に近づける者は誰一人としていない。それは、消滅してなお「彼」の意志が残っているかに見えた。こいつはオレ様のものだ、と言わんばかりに。
++++++++++
マーキング。
※人外ものです。
※最終回から?年後の話です。
『人外常しえ』
気づいたときには、彼は深い山の中にいた。いつからかは分からない。それまでの記憶は曖昧で、頭に靄がかかっているようだった。
己の姿形すら分からなかった。瞳に映した手は歪で鋭い爪がついていた。頭に手を当てれば、角らしきものが生えている。無理に顔を傾ければ、背に一対の羽が見えた。
身体は木々の高さを易々と越え、鬱蒼と生い茂る緑から頭が突き出すほど。
この世界からはみ出した存在だということはすぐに理解した。何せどの物体に対してもほとんど干渉ができない。精々、羽ばたいたときに微風を起こすか、歩いたときに葉を揺らすくらいだ。
だから、この世界で最も繁栄しているらしい種族——人間がその巨躯に気づくことはない。五感が優れている一部の動物だけがたまに気配を察知をする程度。例えるなら、大気のような存在だった。世界に害を与えることも与えられることもない。
ただそこにいるだけ。
木々の中でじっとしているか、空を飛んで気を紛らわすかして、日がな一日を過ごしていた。
彼は自分が何者であるかも分からなかったが、一つだけ確かなことがあった。それは己が闇から生まれ落ちた存在だということ。だから、太陽の光が降り注ぐこの世界は息苦しい。心に渦巻く支配欲はすべてこの性分が原因で湧き上がる欲求だった。
この世のすべてが闇に染まればいいのに。そう思っていても、魂だけに近い存在では無力だった。
しかし、鬱屈とした毎日を長く送ることはなかった。彼の傍らにいつも「青年」がいたからだ。
太陽の光で輝く白い長髪。常に柔和な表情を浮かべている整った顔立ち。すらりと背が高く細い身体。
いつだったか、彼がいつものように身体を丸めて木々の間に埋もれていたときに青年と出会った。物好きにも山道から外れた場所までよろけながらやって来て、汗だくで嬉しそうにくしゃりと笑って言った。
「やっと見つけた」
あまりにも純粋で美しい表情だったから彼は見惚れた。
はっきりと視線を向けられている。人間に見られているということにも驚いたが、青年が好意的な眼差しをしていることに困惑した。人間にとっては異形の怪物に見えるはずなのに。青年は恐れもしていない。失った記憶の中にいる知人なのだろうか。
彼が反応に困って青年を見つめていると、青年はその表情を読み取ったのか、「覚えてない?」と口にした。その質問には答えられなかった。彼にとって記憶とは、覚えているいない以前の問題なのだ。分からないとしか言いようがない。
青年は無言を肯定と取ったようだったが、気にする素振りは見せず、「ばくら、りょう」と名乗った。
何回かその名を口の中で呟いても、彼には何も思い出せない。
青年は何故か困り笑いを浮かべ、
「宿主って呼んでもいいよ」
と言った。
言われた通りに「宿主」と口にすると、どこか懐かしい感覚があった。だから、彼は青年のことを宿主と呼ぶことにした。
青年は彼に寄り添い、彼を孤独にしなかった。彼が青年を見つめていると優しい眼差しがいつでも返ってくる。透き通るような綺麗な瞳が眩しい。それだけで彼の心の底に吹き溜まったはずの負の欲求が綺麗さっぱり失くなり、逆に穏やかな気持ちになっていく。
なぜ青年がそうしてくれるのかは分からない。青年の言葉を借りれば、「同室のよしみ」なのだろう。次第に世界に対する執着も薄れていった。世界が光の中にあるか闇の中にあるかなどと、大した問題ではなくなっていた。
不思議と青年は肉体のない彼に触れることができた。彼が大きな手を差し出すと、両手で受け止め、頬を擦り寄せる。彼の肩に乗り、顔に身体を預ける。彼のような不安定な存在をこの世界に繋ぎ止める唯一の存在のようだった。
木も花も動物も、その他の人間も、触れられなかったのに青年だけは何故……と疑問に思うも、あまりに青年の振る舞いが自然だったために深く考えはしなかった。あえて理由をつけるのなら、「宿主だから」になる。
青年と触れ合うだけで、すべてが満たされた。
いつまでここにいるのか、と一度訊いたことがある。青年はいつものあたたかい笑みを浮かべて「ずーっとだよ」と答えた。その言葉が嬉しくて、彼は両手で青年を優しく包んで持ち上げた。忌々しい太陽が霞むほどの眩しさ。屈託のない笑い声が耳に心地よい。ずーっと、という言葉が何回も頭に響いている。青年は永遠の宿主なのだ。
このまま青年と過ごしていれば、もしかしたらいつか浄化され、常しえの闇——冥界へ還ることができるかもしれない。青年に見守られながら迎えるその瞬間は最上のものに思える。すべてを失った彼は、唯一無二の安らぎを手に入れたのだった。
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青年と共にある。