ばかうけ

男心は難しい

自室の机上には大量のチラシが積まれている。獏良はそれを一枚ずつ覇気のない顔でめくる。唇からか細い吐息が流れ出た。
「なんだそれ?」
背後からバクラが獏良の手元を覗き込み、眉をひそめる。
チラシはどれも洋服のもののようだが、普段着には見えないからだ。しかも、とても獏良の好みとは思えないものばかり。執事服、コックコート、ギャルソンユニフォーム——。
獏良は困った顔をして、「ほら、今日学校で文化祭の話し合いがあったよね? そのときに……」と話を切り出したところで、バクラの反応が鈍いことに気がついて中断した。身体を共有しているとはいえ、人間の日常生活に興味のないバクラは、心の奥に引っ込んでうたた寝していることが多い。学生の話し合いなど聞いているわけがないのだ。
獏良は前置きを省き、バクラの質問に答えることにした。
「文化祭でうちのクラスがカフェをやることになったんだ」
「フーン」
「それで配膳役はそれっぽくユニフォームを着ようって盛り上がっちゃって……僕は裏方がいいって言ったんだけど……」
そこまででバクラは事情を察し、
「ああ、女どもがお前にソレを着せたがったんだな?」
腑に落ちた顔をした。
話し合いで衣装の話になった途端、女子生徒の意見はまとまった。その後の行動は速やかで、獏良が戸惑っている間に、机の上にありとあらゆる衣装のチラシが置かれた。学生の行事で使用するものだから安物ばかりだ。経済的に余裕がなくても、ディスカウントショップに行けば、それなりの種類が選べる。
女子たちは鼻息荒く、「獏良くんはこういう上品な執事服が似合うと思うの!」「いや、絶対に和服!」「シンプルなカフェエプロンの方がいいよ!」次々と意見を述べた。
控えめに「僕はキッチン係の方がいいなあ」と獏良自身が言っても、女子たちに届くはずもない。そのまま衣装を選ぶようにとチラシの束を押しつけられて帰宅したというわけだ。
「へー」
バクラは指を耳に突っ込んで感情のない相槌を打った。話の途中から興味を失っていたようだ。
当事者の獏良の方は沈痛な面持ちでチラシに視線を落としている。このままでは、どの衣装を選んでも女子たちの玩具だ。人に囲まれるのは苦手なのに、目立つ衣装を着て配膳係など獏良にとっては悪夢でしかない。
「絶対撮影されるよ……。囲まれたり……やだなあ……」
ぽつり、と溜息混じりに獏良が不安げな独り言を漏らすと、
「ちょっと待て」
低い声が割って入った。
バクラは今までとは打って変わり、真剣な眼差しでチラシの小洒落た衣装たちを見つめる。
外見に恵まれた獏良は、どの衣装でも着こなしてしまうだろう。クラスメイトも客も見惚れてしまうのは確実。そうした熱しやすい者たちを獏良は器用にかわせない。
バクラの脳裏には、老若男女から群がれて好き放題に玩具にされる獏良が浮かんだ。
「……却下だ」
「なに?」
獏良は目を丸くして後ろを振り向く。鬱々としていたからバクラの言葉が上手く聞き取れなかった。目に入った顔は嫌悪感たっぷりで獣のように牙が剥き出し。びくりと獏良の身体が跳ねる。
「お前に男娼みたいな真似させるわけにいかねえっつてんだよ!」
「いやいやいや! 何を考えてるか知らないけど、ただの文化祭だよ?」
「お前は絶対ゴミ出し係にしろッ!!」

    *

獏良が翌日に目が覚めたときには、チラシの山がゴミ箱に突っ込まれていた。
そして、知らない間に文化祭の役目は裏方に決まっており、クラスメイトから遠巻きに顔色を窺われ、何となく状況を把握したのだった。男心ほど、面倒臭いものはないのである。



手まねき

冬は死の季節。
植物は枯れ、動物は眠る。生命にとって厳しい。人間にとっても例外ではなく、身を縮めて春の訪れを待つばかり。寒冷が身体を突き刺し、肌をなぶる。人々は足早に道を急ぐ。
獏良もその中の一人。ダウンコートを身にまとい、猫背気味に町を歩いていた。
運が悪いことに、食器洗剤を切らしていたことに気がついたのが今朝。それから確認してみたところ、ティッシュペーパーも歯磨き粉も残り少なかった。
外出するのを躊躇するには充分すぎるほどの寒さだったが、一人暮らしでは他に頼れる者もいないため、断腸の想いで家を出た。予備も買おうと決意して。
居住地区から人通りの多い表通りへ。寒さのせいか活気は少ない。いつもと変わらない景色だ。
二車線の信号待ち。小さく足踏みをして待つ。車が数台通っていく。
付近に人はいないのに、獏良は気配を感じていた。コートのポケットからスマホを取り出して画面に視線を落とす——。

冬になると目に見えないはずのものが見えやすくなる。かつて生きていたものたちが、命の欠片となって滞留している。小さな影のような靄のような存在。それは、植木のそばに同化していることもあるし、ガードレールの下に踞っていることもある。
大多数にとっては見えない存在であるらしく、誰かが言及しているところを獏良は見たことがなかった。もしかしたら、大抵が気がつかないほどの微細な現象なのかもしれない。
昔からそれらが見えていた獏良にとっては身近な存在だった。幼い頃はわざわざ指摘をしたり、話しかけたりしていた。そうすると、そこにいるだけでは雑草くらいでしかない存在が興味を持って近寄ってくる。害を与えようという意思はない。けれども、生者にとっては毒に近い存在だ。この世の者でないのだから。
この獏良の体質は、海外を飛び回る豪胆な父ではなく、母の家系から来るものだった。昔から母親からは「見ちゃダメ」「気がつかないフリして」「連れていかれちゃうから」、と口を酸っぱくして教えられた。
その甲斐あって、獏良は見て見ぬふりが上手くなった。亡くなった妹はそれが上手くできずに、この世ならざるものたちを惹きつけてしまうことがよくあった。華奢な手を引いて町中走って逃げたことだってある。だから、「彼ら」の扱いには慣れっこだ。今だってスマホに注意を向けることでやり過ごしている。
歩行者信号はまだ青にならない。

ひたり——。
獏良の背中に悪寒が走る。背後に何かいる。すぐ後ろに死の気配。通常なら虫程度の、あるかないかの存在感のはず。明確な意思すら持っていない。
それなのに、背後に佇む「それ」は、けたたましいくらいに主張している。『こちらを向け』『見ているぞ』。
獏良は手に持ったスマホを握りしめる。さ迷いそうになる視線を画面に繋ぎ止めた。気がつかないふり。気がつかないふり。そうすれば、諦めてくれるはず。今までそうだったんだから——。
歯が鳴らないよう奥歯を懸命に噛み締めた。一生にも感じた長い長い時が経ち、信号が変わった。途端に獏良は早足で横断歩道を進む。後ろを振り向かないままで。
後ろから溜息が一つ。
『あーあ。惜しかったな』
すべてが息を吹き返す始まりの春までまだ遠い。



クリスマスマーケット

最近の童実野町は普段と違った雰囲気が流れている。メインストリートに並ぶ店にはどれも華やかな装飾が施され、街路樹には電飾が巻かれている。どこからか常に流れているのは軽快な音楽。気温は寒くなっていく一方だというのに、町を行き交う人々の顔は明るい。
クリスマスマーケット。童実野町ではクリスマスを題材にした販売が始まっていた。
いちごが宝石のように輝くケーキ、大きな骨つきチキン、雪に見立てた粉砂糖が降り積もったシュトーレン、切り口が鮮やかなローストビーフ。クリスマスツリー、リース、ガーランド、キャンドル。
もはや関係ないのでは、と頭を捻る畳や布団までも、「クリスマスフェア」と称して売り出している。
獏良はダウンジャケットを着込み、白い息を吐きながら、そんな賑やかな町を目を輝かせて眺めていた。ご多分に漏れず、クリスマスという特別な雰囲気に飲まれているよう。
一方で彼に潜むもう一つの魂は冷めた目を向けていた。「クリスマス」というだけで普段と異なる雰囲気に飲まれるのはおかしい。ましてや日本では大勢が宗教的に無関係ないはずだ。この場でたった一人だけ懐疑的な視点を持っていた。
獏良は少し前からクリスマスに浮かれていた。クリスマス特集をやっているテレビ番組を流し、ポストに届いていたクリスマスマーケットのチラシをテーブルに並べ、楽しげに独り言を口にした。「あ、これ美味しそう!」「うわあ。デザイン凝ってるね」「今年は奮発して買おうかな」
獏良とバクラは二心同体。嫌でも行動を共にしなくてはならない。だから、バクラはまったく興味のないクリスマスの情報を受動するはめになった。そして今も休日を利用したウィンドウショッピングに付き合わなければならない。バクラは他人には不可視の姿で鼻を不満げに鳴らした。
獏良本人はインテリアショップで飾りが沢山ついたクリスマスツリーに目を奪われている。人の背丈よりも大きい立派なタイプで、とても学生の独り暮らしには不釣り合いなもの。
その前に見ていたのは丸々一羽のターキー、さらに前はいちごが沢山乗ったホールのクリスマスケーキ。
——ぜってー一人で食い切れないだろ……。
バクラはその様子を呆れて見ていた。
「そもそも」と疑問が一つ浮かぶ。毎年これほどまでに獏良がクリスマスを楽しみにしていただろうか。実家のささやかなクリスマスパーティで普段より少し豪華なメニューを楽しんでいたくらいの記憶はある。わざわざ飾りつけをしていなかったし、ウィンドウショッピングに出かけるのも初めて見る。そして、サンタクロースのプレゼントを楽しみにする年齢はとっくの昔に終わっている。
今は雑貨屋でクリスマスの装飾品に意識が移っていた。
今年は何かあったのか——?バクラは獏良の言動に初めて首を捻った。色彩豊かなオーナメントを一つ一つ手に取っている横顔をじっと見つめる。鼻歌でも歌い出しそうな面持ちだ。
「随分楽しそうだな」
バクラの口から違和感が形となって出た。
「ん?そうだよ」
クリスマスツリーを彩る赤色のボールから視線を外さずに獏良が答える。口角がいつになく上がっている。
「楽しいよ」
内緒話をするような小さな囁き声。少し悪戯っぽい音を含んでいる。
「だって今年のクリスマスは僕一人じゃないから」
獏良は穏和な口調で意味ありげに言葉を結んだ。澄んだ目が柔らかく細まる。それから「楽しいね」とつけ足す。
それを受けたバクラの表情から皮肉めいた色が消えた。獏良から向けられている感情に気がついたからだ。自宅での独り言も、今のウィンドウショッピングも、獏良にとっては一人相撲ではなかったらしい。相手から返事がなくとも。
「ねえ。大きなクリスマスツリーは無理でも、テーブルに置けるミニツリーなら飾ってもいいんじゃないかな?」
やはりクリスマスが待ち遠しいと頬を好調させる姿に、バクラはやっと初めて短く肯定の返事をしたのだった。

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