誰も知らない君
「うぅ……」
獏良は玄関の中に入った下駄箱の前で足を止めていた。まだ早い時間だから人は少ない。クラスメイトは一人もいなかった。それでも十分もすれば生徒は集まってくるだろう。
靴のままでスノコにも上がらず、足をその場でもたつかせていた。胸の前でランドセルの背負い紐を両手とも握りしめ、緊張の面持ち。顔色悪く目を泳がせている。
小学校に通い始めたのは、昨日今日の話ではない。もう五年目になる。だから勝手が分からないわけがない。けれども、通い立ての一年生のように戸惑っていた。
クラス替え。学生にとっては一大イベント。進学だけではなく、クラスメイトも担任教師も変わってしまうのだから、生活そのものに変化があるといってもいい。
担任教師は親からも児童からも評判のいいベテラン教師。実際に、聞き取りやすい授業とユーモラスな会話に好感が持てる人物だった。
獏良にとっての問題は、クラスメイトだった。知らない生徒ばかり。何人か前年度とクラスが同じ生徒もいたが、ほとんど話したことのない顔触れだったのだ。
クラスの雰囲気もがらりと変わってしまい、まったく別の学校へ迷い込んでしまったような印象を獏良は受けた。
周りは獏良を置いてけぼりにして仲良くなってしまい、新生活が始まって間もないのにグループもできつつあった。その中に獏良は溶け込めなかった。だから、毎朝教室に行くことがストレスになってしまうのだ。
敏感な年頃ではこんなことを家族に打ち明けられなかった。低学年ではなく、もう高学年。情けなく思われてしまうかもしれない、と怖かった。
母遅刻してはいけない、と母親は早くに獏良を家から送り出す。獏良の学校生活が順調であると何も疑ってはいない。きっと新しいクラスでも上手くやっていると思っているに違いない。
獏良は学校の玄関まで辿り着くと腹が痛くなるようになっていた。いつも決まったタイミングでキリキリと痛み始める。精神的なものだと医者でなくても分かった。
億劫そうに靴を脱ぎ、スノコに上がる。下駄箱から上履きを取り出す。靴を下駄箱に収め——足が動かなくなった。上履きを履くだけなのに身体が動かない。
教室に入るとき、感じる空気に身が縮む。喉奥が詰まって上手く声が出せない。頭で考えるより心が拒否サインを送っている。ここから逃げ出したい。
その間にも児童たちが何人も玄関に現れ、廊下へと消えていく。そろそろ人が増えてくる頃だ。ずっと立ち止まってはいられない。
獏良は細く長い苦しげな息を吐いた。まるで断頭台に上がるような面持ちで上履きを履く。トントン、と爪先を叩き、背負い紐を握りしめる。逃げ場はないのだから、教室に進むしかない。今のうちなら人が少ないだろう。部屋に入りやすい。
獏良は決意し、廊下に身体を向ける——と、前方に視線が釘づけになった。
視線の先、下駄箱の奥に一人の少年が立っていた。登校時にわざわざそこで足を止める必要はない。間違いなく獏良を意識している。他に該当する生徒はいない。
獏良は混乱した。クラスメイトだろうか。まだ全員の顔と名前を覚えていない。しかも、その生徒は通学帽を目深に被っていて、顔が影で隠れてしまっている。体格からすると、同じ高学年には違いない。
戸惑う獏良に、はっきりと彼は言った。「おい」
「いつまでそうしてやがる。さっさと行くぞ」
荒っぽいが、快活のよさが不快にさせない不思議な語調。獏良は怖いと感じる前に、思わず頷いてしまった。遠慮がちに彼へと近づく。辿り着く前に手首を強く引っ張られる。
「行くぞ」
迷う暇も考える暇もなく、手を引かれるままに教室へと向かうことになった。足早に階段を登っていく。
予想通りまだ数名しか登校しておらず、教室は静かだった。いつもなら入口で一呼吸を置くところを立ち止まることなく中へ導かれる。
「お、おはよう……」
咄嗟に獏良の口から出た言葉に、あちらこちらからクラスメイトの返事が戻ってくる。その光景を見ただけで胸のつっかえが取れたような思いがした。
いつの間にか獏良の手は自由になっている。教室から目の前に視線を戻したときには、ここまで一緒だった生徒の姿は消えていた。
——あれ?
獏良はきょろきょろと周りを見回すが、姿はない。不思議に思いながら自身の席に着席をする。その後すぐに生徒が増えていき、授業が始まった。獏良に深く考える時間はなかった。
ただ、クラスメイトの中に彼の姿は見つからなかったし、その後に校内でも一度も見かけることもなかった。しばらくは「誰だったんだろう」と気にしていた。そのうちに新しい友人ができ、行事で忙しくなり、名前も知らない少年のことは記憶の彼方に消えてしまった。それから学校生活が上手く行き始めたという事実だけを残して——。
ゴールデンウィーク
新学期の慌ただしさが落ち着き、新しいクラスに慣れ始める四月後半。獏良は携帯の画面を熱心に眺め、画面をトントンと指で叩く。
ゴールデンウィークに開催される模型ホビーショー。大手プラモデルや模型メーカーが集まる催しだ。
このショー限定の展示や新製品の発表が行われる、業界のファンには涎ものの内容。公式サイトには、獏良が気になっている製品も展示されるとの情報が載っている。
開催概要のページを見ると、開催場所は童実野町から電車で一時間ほどの距離。あまり知らない場所だが、行動範囲内だろう。
入場料はそれほど高くない。ゴールデンウィーク内の暇な日に行ってみてもいいかもしれない。
入場には前売券と当日券がある。前売券をわざわざ買う必要はあるだろうか? 映画と同じく当日に現地へ行っても問題はない気がする。
獏良はカレンダーに視線を向けて、どの日に行こうかなとのんびり考え始めた。この日は用事があるし、あの日は混みそう——先着限定配布のグッズには興味がなく、あえて急いでいく必要もない気がした。
——そんなに急がなくていいかな……。
ゴールデンウィーク後半になってから考えればいいか、というのが獏良の出した決断だった。
「ンな、悠長に言ってる場合かッ!!」
突然、襟首を掴まれて後ろに引き倒される感覚。気がついたときには身体の自由が利かなくなっていた。いや、身体は動いている。動かしているのが自分ではないのだ。
新しい身体の操縦士は軽快に携帯を弾き、ページを次々と開いていく。イベント概要、開催場所、有志によるまとめ、電車の乗換案内、チケットサイト——。あらかた見終わると、獏良に向かって不機嫌そうに口を開く。
「前売券は買っておけ。日にちは……ここでいいな。コンビニ決済。明日までに済ませろ。で、場所はここ。駅は名前からすると、こっちに見えるが、最寄駅はこっち。いいか、こっちだぞ! 間違えると十分以上遠回りになる。覚えておけ。入場時間が決まってるから、十時半までに行けよ。分かったな!!」
もう一人は畳みかけるように話し、最後の「な」を言い終わる前に操縦権を獏良に渡す。それから心の奥へと引き込んでいった。あとにはチケット予約完了の画面が表示された携帯が残されたのみ。
「……分かった」
獏良は呆けた様子で聞こえているかも分からない答えを「彼」に返した。
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了くんがのんびり屋なので、世話を焼いてくれる系寄生体。
在りし日
繁華街で男子高校生三人が獏良の前に立ちはだかっていた。三人とも高圧的な態度でにたにたと笑っている。制服は童実野高校のものではない。
対する獏良は及び腰で、顔色は病人のように真っ青。
「よお、久しぶりだなあ。お前、こんなところにいたんだ?」
「うん……。久しぶり……」
男子高校生たちは獏良を取り囲むように並ぶ。外から見れば、仲のいい友人同士にしか見えず、微笑ましいとさえ思われるかもしれない。その証拠に通行人は誰一人として一瞥もくれなかった。
彼らは獏良の「元」同級生。「元」であるのは、それなりの事情がある。
獏良はとある理由で転校を繰り返していた。最初の頃は自身の不幸を知らず、ただ戸惑うだけだった。今着用している制服は、そのときの学校のもの。当時は三年間着ることになると信じていた。
「今はどこに住んでんだ?引っ越しただろ?」
「うん……」
獏良は曖昧な言葉を返す。背中から冷や汗が吹き出るよう。この場から逃げ出したいという焦燥感に襲われていた。
彼らとは決して仲がよかったわけではい。嫌な絡まれ方をされた記憶がある。その頃はまだ意識不明になった友人たちのことが事件化されていなかった。だから、なぜ彼らに嫌な思いをさせられたのか、今でも不明だ。いくら考えても獏良に答えは出なかった。不快な気持ちだけが残っている。
それもそのはず、獏良に落ち度は一切なかった。いや、「落ち度がなかったから」という言い方ができるかもしれない。
獏良は校内で目立っていた。容姿に優れ、資産家の親がいる。女子生徒には人気がある。本人がそれを鼻にかける性格でなくとも、一部のクラスメイトは面白くなかった。
彼らは獏良に適当な理由をつけて嫌がらせをした。といっても、外から分かるような派手なことはしない。あくまで仲のいいクラスメイトという体は崩さずに因縁をつけた。ちょうど今のように。
獏良が「家庭の事情」で転校するまで嫌がらせは続いた。その後の学校で友人たちの昏睡事件が騒ぎになり、以前の記憶は薄まってしまったが……。こうして、かつてのクラスメイトが目の前に現れると時間が戻ったように鮮明に思い出された。
彼らの威圧的な態度に獏良の身が竦む。童実野高校で明るくなったというのに、まるであの頃に戻ってしまったようだ。
視線がおどおどとさ迷い、弱々しくなる。例えるなら、捕食者と被捕食者。捕食者たちは獏良の態度に気を大きくする。さらに痛めつけてやろうと、嫌らしい目つきで弱みを探す。
「そうだ。お前の妹は元気かよ?確か名前は……」
彼らのうち一人が下卑た笑みを浮かべる。他の二人もそれに倣う。格好の玩具を見つけた子どもに似た顔つき。
獏良の妹については校内で有名な話だった。女子に人気のある男子生徒のセンシティブな家庭の事情は、過敏な学生には刺激的な内容だった。芸能ゴシップに群がる無責任な大人たちに似ていた。
彼らは獏良がもっとも反応する話題をよく理解している。鋭利な刃物になりえる話題を選んだ。
その甲斐あって、獏良は唇の色が白くなるまで動揺した。血の気が引く、では言い表せない変化。まるで死人だった。彼のたった一つの言葉がそこまで獏良に傷を負わせた。
そして、その言葉は疑問系。獏良に対する質問形式になっている。当然答えを要求しているのだ。「妹は既に亡くなっている」と獏良自ら口にすることを——。
獏良の唇が引きつった。目の縁に涙が溜まっていく。今にも溢れだしそうなほどに。
ヒヒヒ、予想通りの反応に彼らは歪んだ笑みを浮かべる。玩具は以前とまるで変わっていない。今も遊べるものだ——。
——そう思っていた。次の瞬間、彼らの方が言葉を失うことになった。
落ち着きない振る舞いをしていた獏良の動きが止まった。足を肩幅に開き、堂々とした姿を見せる。目を吊り上げ、好戦的な表情。一瞬の間にまるで別人になったようだった。
獏良は彼らを睨めつけ、「ケッ」と吐き捨てる。その風格に彼らはたじろぐ。
「まったく……。しつこい奴らだぜ。群れると途端に強気になりやがる」
獏良らしくない乱暴な口調は、彼らを萎縮させるのに充分だった。
「な、なんだこいつ……いきなり……」
それから、まったく躊躇わずに距離を詰め、中央に立っている代表格の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
想像もしていなかった暴力的な態度に泡を食った彼らは、情けない声を上げて激しく抵抗をし、その場から死ぬもの狂いで逃げ出した。
獏良はそれを捩じ伏せるわけでもなく、追いかけるでもなく、蔑みの目で見ていた。
「二度とそのツラ見せるな。ド雑魚がッ」
その背に向かってとどめとばかりに言葉を投げつける。彼らは「ヒイッ」とか「ウェ」とか情けない声を出し、通りの向こうへ消えていった。
獏良は不機嫌に鼻を鳴らすと、背を向けて自宅方面に向かって歩きだした。
*
元クラスメイトに言い返したのは、獏良本人ではなく、心の中に居座る別人格の方だった。彼——バクラは主人格である獏良と違って暴力を厭わない。まるで正反対の性格をしている。
そもそも獏良が転校を繰り返した原因ではあるが、最初の高校で問題になった彼らとの揉め事については不干渉だった。それでも獏良を通して観察してきたし、嫌がらせをしてきた者の顔も覚えている。
あの頃の獏良は精神的に参っていた。最愛の妹を亡くし、家庭が荒れて不安定な状態だった。学校では外に出さないようにしていたらしいが、いつ爆発してもおかしくはなかった。
バクラはそれを本人にばれないように、しばらく内側から助力していた。睡眠時間を確保したり、話題を振ろうとする同級生を避けたり。それは親切ではなく、己の目的のため。努力の甲斐あって獏良は少しずつ自分を取り戻していった。
——あのときは、苦労したぜ。
歩みを進めながら、バクラは忌々しげに息を吐き出す。獏良に害を与える者は、己の障害と見なす。今までもこれからも許さない。
獣のような鋭い眼差しで前を見据え続ける。獏良がこのことを知ることはない。いつもの日常が戻ってくるだけだ。それでいい、と心の奥で眠り続ける姿を思い浮かべのだった。