ばかうけ

授業から解放された生徒たちで、放課後の教室はざわついていた。
「獏良くん、今日この後空いてる?」
くりくりと大きな瞳を輝かせて、遊戯が獏良の顔を覗き込んだ。
「ごめん。今日は弟が帰ってくるから、早めに帰らないといけないんだ」
問われた獏良は教科書を鞄に詰め込みながら困り顔を見せる。
遊戯は獏良家の事情をよく知っている。それだけで状況を察した。
親しい友人のみに明かしている事情。
獏良に弟がいることを知っている者すらほとんどいない。
遊戯は獏良に同情するように、うんうんと頷く。
「そうなんだ。相変わらずなんだね……」
「ごめんね」と、もう一度頭を下げて、獏良は教室から飛び出した。


家族になろうよ


獏良の両親は仕事で海外を飛び回っている為、ほとんど日本に帰ってくることはない。
両親からは定期的に生活費が振り込まれ、高校生には少々贅沢なマンションの一室を与えられている。
同級生にこのことを話すと羨ましがられるが、家事を全て自分でやらなければならないことを考えれば、得とも損とも思えなかった。
そして、獏良にはもう一人家族がいる。
弟のバクラだ。
年齢も背格好も同じなのに、性格はまるで反対の弟。
性格が真逆なら顔つきも全く違って見える。
よく他人からは、「似ているようで似ていない双子」と言われていた。
高校には行かず、よく分からない職――本人は探偵業と言っていた――に就いているらしい。
何をしているのか全く分からないが、ペット探しや不倫調査をしているのではないかと、獏良は勝手に思うことにしていた。
獏良には何も告げず、何日も帰ってこないことも多い。
例え兄弟であっても、バクラの言動を理解することは難しく、接し方が分からない。
家族なのだから、もっと分かり合えたらいいのにと、獏良は常々思っていた。

夕飯用に野菜類と豚肉を購入し、自宅へと戻る。
豚肉はバクラの好物なので、少し奮発して厚切りのものを買った。
炊飯器に米の準備だけをしておき、先に宿題に取りかかる。
家事と学業の両立は慣れたものだ。
バクラからの連絡は、メールで「帰る」としか書かれていなかったので、いつ帰ってくるか分からない。
だから、早めにやれることはやっておかないと後が困る。
バクラの方が先に帰宅してしまうと、「どこに行っていたのか」とか「家にいろ」などと怒り出すのでタチが悪い。
これでも連絡が来るようになった方で、帰るときは必ず連絡をくれと怒ったことで、やっと一言だけメールを送ってくるようになったのだ。
カリカリとノートにペンを走らせながら、獏良は弟の帰りを待った。

玄関で物音がしたのは、それから二時間ほど経ってからだ。
獏良はフライパンで豚肉を炒めている手を止めて音の主を待った。
リビングに現れたのは獏良と瓜二つの弟だ。
穏和な性格の獏良と違い、刺々しい雰囲気を漂わせている。
「おかえりー」
獏良は菜箸を持ったままでキッチンから声をかけた。
意識をして声を出していかないと、会話すら成立しなくなってしまう。
バクラはちらりと獏良に視線を送り、テーブルの上に手に持っているビニール袋を置いた。
「もう少ししたら出来るから、先にシャワー浴びてて」
「ん」
第一声は愛想も小想もない返事だった。
それでも、大人しく獏良の言葉に頷くだけマシといえる。
バクラは気怠げにリビングから消えていった。
テーブルの上に残されている袋は、コンビニのものなので、おそらく洋菓子だろう。
バクラが自宅に戻るときは、洋菓子を持って帰ることが多い。
甘いものは獏良しか食べない。
誕生日にはテーブルゲームなどを獏良に押し付けることもある。
が、そこに会話があるわけではない。
仲は悪くはないが、良いともいえない。
獏良にとってバクラは必要最低限の会話のみで永遠に交わらない相手だった。
ぴーぴーと鳴り響く炊飯器の音を合図に、獏良は再び夕飯の準備に戻った。

食卓でも二人の会話は弾まない。
テレビの音声をBGMに黙々と食事を進めるだけ。
無理に会話をしても気不味いだけなので、獏良からもほとんど話しかけることはない。
「明日は出かけるの?」
「早めに帰る」
素っ気ない連絡事項だけが取り交わされる。
後は食事をする音だけが部屋に広がっていた。

いつから、こんな関係になったのだろうか。
風呂場で一人になった獏良は、周りの目を気にせずに深く長い息を吐いた。
バクラは昔から愛想のいい子供ではなかったが、幼い頃は二人で遊んでいたはずだ。
握った小さな手の温もりが今でも思い出される。
――彼女とかいるのかな。それでなかなか帰ってこないのかも。
スポンジにボディソープを付け、腕を洗い始める。
仲のいい兄弟ではないとはいえ、弟のことを全く知らないことに少し寂しさを感じた。
前を洗い終え、背中に移ろうとした時、勢いよくバスルームの扉が開いた。
「へっ?」
スポンジを握り締めたままで扉を見ると、そこにはバクラが立っていた。
「な、なに?!」
反射的にバスチェアーの上で身体を丸める。
「背中を洗ってやろうと思ってな」
獏良の答えも聞かず、バクラは服を着たままでバスルームの中に足を踏み入れた。
ジーンズを膝の上まで捲り上げ、膝立ちになる。
「どうしたの、急に……」
「いつも家事を任せっきりだからな」
バクラは少しだけ口元を緩めた。
「そ、そう?」
戸惑いを残しながらも、獏良は身体から力を抜いた。
たまには兄弟が仲良くしても罰は当たらないだろう。
「じゃあ頼むよ」
無防備な背中をバクラに向けた。
バクラはボトルのポンプを押し、ボディソープを手に取る。
手の上でそれを泡立て、獏良の肩に直接触れた。
「えっ!素手っ?」
ぺたりとした感触に驚き、獏良は思わず腰を浮かす。
「当たり前だろ。お前はごしごし擦りすぎなんだよ。肌が荒れるだろ」
バクラは当たり前のような口調で言った。
手を肩に乗せたまま表情を変えない。
だから獏良は、驚いた自分の方がおかしかったのかと思わされた。
「……確かに」
肌が頑丈ではないことは確かだ。
改めてバスチェアーに深く座り直した。
泡のついた手が肩を撫で、後ろから首元に回り、また肩へと戻る。
今度は腕を指の先まで滑っていく。
指の間にするりと指が絡み、また腕を上がっていった。
人の肌が直接触れる感覚に、獏良は恥ずかしさを覚えた。
ただ身体を洗ってもらってるだけ。ここで変な気分になるのはおかしいと、自分に言い聞かせる。
バクラの手は背中をくるくると撫でながら下がっていく。
腰まで下がりきると、脇腹まで手が回った。
そこでとうとう身体のむず痒さに耐えきれなくなり、
「ありがとっ!もう大丈夫だよ」
自ら待ったをかけた。
その声にぴたりとバクラの手が止まる。
「あんまり長湯すんなよ」
それだけ言うと、大人しく浴室から出ていった。
完全に解放されたことが分かると、獏良はホッと胸を撫で下ろした。
こんなに緊張をする風呂が今まであっただろうか。
身体についたボディソープを洗い流すため、獏良はシャワーのハンドルを勢いよく回した。

二日目

「むー……?」
翌朝、獏良は寒気を感じて目が覚めた。
眠い目を擦りながら身を起こす。
自分の身体に目を落とすと、パジャマの前がぱっくりと開いていた。
――昨日、暑かったっけ?
深くは考えずに、そのままパジャマを脱ぎ捨てる。
制服に着替え、リビングルームへと向かう。
バクラはまだ起床していないようなので、朝食は簡単にトーストのみで済ませることにした。
皿を片付けている間に、バクラも自部屋から姿を現した。
さすがに、眠気には勝てないようで、だらりと背中を丸めている。
朝食も食べずにソファに座り込み、ぼーっとテレビを眺め始めた。
「出かける時は、ちゃんと戸締りしてよ」
「……ああ」
力のない返事を聞き、獏良は学校へと向かうために玄関に向かう。
バタンとドアが閉じられる音が、バクラの元まで届いた。

人気のない路地裏を男が後ろを振り返りながら駆けていく。
「ヒィ……」
息が乱れているのは、疲労からではない。
焦りと恐怖が彼の足をもつれさせた。
ここで立ち止まるわけにはいかない。
身体が倒れないように踏ん張り、足を前へと動かす。
追手の影は見えなかった。
きっと、仲間の方に向かっているのだろう。
自分だけは助かりたい。仲間の身を案じることよりも、そのことで頭は埋め尽くされていた。
この路地を抜ければ大通りに出られる。そうすれば、人混みに紛れて逃げ切れるはず。
道の先に現れた光は、彼にとってはまさしく希望の光だった。
汗塗れの顔に笑顔を貼りつけ、光の中へ向かう。
そんな彼の進行を妨げるように、目の前に一人の男が現れた。
ほっそりとした体形の男で、このままの勢いで当たれば、簡単に跳ね飛ばしてしまえそうだった。
立ち止まっている暇はない。とすると、答えは一つしかなかった。
「邪魔だ、どけえ!」
男は残った力を振り絞り、速度を速めた。
ぶつかる寸前で細身の男の姿がゆらりと揺れた。
男の視界からその姿が消え――。
次の瞬間、男の腹に強い衝撃が走った。
「ごえっ……」
何が起こったかもわからず、男は地面に転がった。
遅れて腹の痛みが脳に伝わる。
両腕で腹を押さえて呻いた。
虫のように地面に這いつくばる男に、今度は容赦ない蹴りが飛んで来た。
男はもはや自分を庇う力すらも失い、手足をだらりと投げ出した。
その顔面に向かってさらにこぶしが振り上げられる――。

「おやおやぁ、一匹逃したか」
動かない獲物の襟首を掴み、ずるずると引きずりながら路地の奥からやってきたのは、バクラの仕事仲間である闇マリクだった。
「雑な仕事をしやがって」
完全に動かなくなった男を足で小突き、バクラが吐き捨てた。
「少しは運動になっただろぉ?」
闇マリクは軽薄な笑い声をけたけたと上げた。
二人はいわゆる「なんでも屋」に勤めていた。
事務所には様々な依頼が来るが、二人によく振られる仕事は荒事ばかりだ。
今日も指定された場所にやって来る男たちを適当に痛めつけて回収しろという指示が下っていた。
この男たちが何をしたのか、この後どうなるかは、バクラの与り知るところではない。興味もない。
後は責任者に男たちを引き渡すだけだ。
闇マリクの方が先に携帯を取り出し、電話をかけ始めた。
もちろん相手は事務所の責任者だ。
「オレだ。問題なく終わったぜぇ、主人格様」
闇マリクは猫撫で声で電話相手と話し始めた。
「もういいよな。後は頼んだぜ」
一方的にそう言うと、バクラは闇マリクに背を向けた。
「まだ終わってねえのによぉ」
それには返事もせずに表通りへ歩いていく。
「チッ、なんだアイツは」
『早く帰りたかったんだろ』
闇マリクの声に限りなく似ているが、少し高いトーンの声が携帯電話から流れた。
電話相手は漏れ聞こえたやり取りで、おおよその状況を把握していた。
『後は引き渡しだけだから、放っといてやれよ』
「そんなにお兄様が恋しいかねぇ」
バクラの消えた方向を見つめ、闇マリクは白け顔で不満を溢す。
『お前には分からないかもね』

バクラは周りに目もくれず、自宅に向かっていた。
報酬目当てで始めた仕事なので、仕事場に長居するつもりなどない。
仕事内容によっては、数日に渡って拘束されることもある。
報酬が高額でなければやっていられない。
詳しい仕事内容を獏良に話せば、面倒なことになるので「探偵業」と伝えていた。
実際にそれと近いことをやっているので、完全な嘘ではない。
都合の良いことに、獏良は犬や猫を探し回っていると思い込んでいるようだった。呑気なものだ。
バクラの口からくっと笑いが漏れる。
ずっと共に暮らしているのに、性格がこうも違うと逆に面白い。
二人はまるで光と影のようだった。

玄関を開けると、ふんわりとよい香りが漂ってきた。
獏良が先に帰っている証拠だ。
これがないと、家に帰った気がしない。
バクラは靴を脱いでリビングへと向かう。
「おかえり」
料理の手を止めて、わざわざキッチンから獏良が出て来た。
「今日は早かったね」
エプロンで手を拭きながらバクラの元へ近寄る。
しかし、そのにこやかな表情が一瞬で強張った。
「怪我してる」
獏良はバクラの右手を慎重に両手で掴んだ。
恐らく、殴ったときについた傷だろう。
かすれ傷が手の甲に出来ていた。
本人が今まで気づかなかったくらいの傷だ。
それでも、獏良は真剣な顔で傷を見ている。
「もー、何処でつけてきたの?」
「塀にぶつけた」
人を殴ってましたなどと言ってしまったら、獏良から大目玉を食らう。
バクラは平然と嘘を口にした。
それを疑うことを獏良はしない。ぶつぶつと文句を言いながら、救急箱を出してきた。
「大袈裟だな、お前は」
「ちゃんと消毒しないと。それに、また同じところをぶつけてくるでしょ」
救急箱から消毒液や脱脂綿を取り出し始める。
バクラの意思は通らないようだった。こういう時の獏良は絶対に引かない。
獏良が傷口にぴたぴたと消毒液を浸した綿を当てる。
その顔をバクラはじっと見つめた。
怪我をした手は獏良の両手に包まれている。
目の前の獏良はとても無防備だ。
バクラが何を考えているか露ほども知らない。
だから、バクラは無性に憎たらしくなる時があった。
この距離でも気づかないのだ。仕返しをしたくなってしまう。
自然と獏良に触れている指が動いた。
「ん、沁みた?」
バクラの手が優しく握られる。
「もう終わるからね」
それを惜しむ間もなく、ぺたりと絆創膏を貼られ、獏良の手が離れていった。
「じゃ、晩御飯にしようか」
本当に憎たらしく思うのだ。

二人の生活リズムは少しずれている。
獏良は高校生で、バクラは社会人なのだから仕方がない。
登校時間が早い獏良の方が、いつも早く床へ就いてしまう。
一方のバクラは、時間はまちまちだが、大抵は二時近くにやっとベッドに入る。
今晩も夕食の片付けを終えた獏良は、早い時間から自室に引っ込んでいった。
バクラはテレビを眺めていた目線を、時計へとちらりと向けた。
一時過ぎだ。
リモコンを操作してテレビを切る。
向かう先は自室ではなく、もう一つの部屋だ。
音を立てないようにそっとドアを開け、すうすうと寝息を立てる獏良へと近づいた。
あどけない寝顔が布団から覗いている。
バクラはその頬に手を添えた。
ゆっくりと頬を撫で、そのまま唇へと移る。
「……ん」
獏良の唇から小さく息が漏れた。
柔らかく弾力のある感触が指に伝わってくる。
指で唇を割り、口の中へ押し入った。
指の腹で歯列をなぞっていく。
端まで辿り着くと、指をちゅぽんと引き抜いた。
唇と指の間を繋ぐ銀糸が光る。
それでも起きる様子がない獏良に、バクラは唇を近づけていく。
額に優しくキスを落とした。
「……おやすみ」
獏良の寝顔に小さく言い残し、静かに部屋を出ていった。

三日目

今日は休日。獏良はいつもより少し遅めに起床をした。
パジャマのままリビングに出ると、既に着替えたバクラがソファに座っていた。
「おはよー。早いね。今日は仕事?」
欠伸混じりにバクラに尋ねる。
「休み」
バクラから素っ気なく答えが返ってきた。テレビから視線は離れない。
「そう。じゃあ、フレンチトースト作るよ。待ってて」
それだけ言うと、獏良は洗面所に向かった。
出かける予定もないので、シャツにジーンズだけのラフな格好に着替える。
バクラと休日が丸一日被ることは珍しい。
たまには、まともな会話をしなくてはと思った。
キッチンに行き、冷蔵庫から卵と牛乳、バターを取り出す。
ちょうど食料棚に賞味期限間近の食パンが残っていた。
パンを食べやすく半分に切っていく。
ボールに卵を割り入れ、泡立て器で簡単にかき混ぜた。
そこへ牛乳と砂糖を入れて、満遍なく混ぜ合わせる。
大きめの皿に出来上がった卵液を流し込む。
その中へ食パンを浸し、そのまま皿をレンジに入れる。
加熱している間、フライパンを温め始めた。
レンジから皿を取り出してパンをひっくり返し、さらにレンジで加熱をする。
これで充分に卵液が染み渡るはずだ。
フライパンにバターを一匙落とし、ぐるぐると滑らせた。
あとは、パンを両面焼くだけでいい。

バクラの耳にじゅうという音が届き、続いて芳ばしい香りが漂ってきた。
獏良の作るフレンチトーストの味は、よく知っている。
甘いものは得意ではないが、出されれば食べてきた。
獏良の作る料理はどれも何ともいえない優しい味がする。
それを受け入れることは、まるで味覚が支配されているようだと思った。
いや、支配されているのは――。
「出来たよ」
バクラの思考を遮るように、獏良の明るい声が届いた。
テーブルに食器が並べられる。
獏良はハチミツをかけ、バクラは何もかけずに食べ始めた。
バクラの口の中には、記憶通りの甘くて優しい味が広がる。
「今日は何かすることあるの?」
ナイフとフォークがカチャカチャと鳴る音が二人の間に響く。
「別に。何もねえけど」
バクラは口の中のものを飲み込んだ。
「そっか。久しぶりだね、ゆっくり出来るの」
獏良はバクラの顔色を窺いながら、おずおずと切り出し、
「たまにはさ……遊ぶ?昔みたいに……」
控えめに笑みを向けた。
バクラの皿にカチャリとナイフとフォークが置かれた。
刺すような視線が獏良に届く。
「ご、ごめん」
その視線に耐えきれず、獏良は慌てて謝罪を口にした。
同時に、なぜ謝らなければならないのかという、納得のいかない気持ちも生まれていた。
いつもこうなのだ。
どうしても、心が通じ合わない。
何を考えているか全く分からない。
長年一緒に過ごしていても、二人の関係は交わることのない平行線のようだった。
家族とはなんなのだろうか。
それっきり会話はなく、各々が食器を下げて朝食は終わった。

どうせ獏良も社会に出るようになれば、それぞれの道に進んでいくのだろう。
いずれ離れていく存在だ。
それに男兄弟なのだから、あえて仲良くしなくてもいいのかもしれない。
それでも、その日までは少しでも打ち解けたいというのは、自分の我儘なのだろうか。
獏良は自室で本を開いたまま、そんなことを考え込んでいた。
――このままじゃ、他人と暮らしているみたいだ。
進まない本をぱたんと閉じ、天井を見つめる。
少し凄まれたくらいで怯んでしまったのは、失敗だったのかもしれないと今になって思った。
休日の時間はまだ残っている。
ぱちんと両手で頬を叩き、気合いを入れた。
――一応これでも、兄さんなんだから!

一方、バクラはリビングで朝食での会話を頭の中で反芻していた。
怯えさせるつもりはなかった。
ただ、引け目を感じている様子やおどおどしている様子にたまらなく腹が立ったのだ。
無警戒かと思えば、必要以上に萎縮する。
バクラの態度を前にすれば仕方がないことではあるのだが。
優しく接するのはどうしても無理だった。
仮に優しい声をかけたなら、恐らく無邪気な好意が返ってくる。
良くも悪くも素直な獏良ならそうする。
それを考えただけでも、タガが外れてしまいそうだった。
苛々とバクラが唇を噛んだ時、獏良がリビングに現れた。
「やっぱり、カードゲームでもしない?」
その悪意のない笑顔に、バクラの我慢が限界に達した。
「あーあ、余計なことばかりしやがって」
面を食らう獏良の胸を乱暴に突いた。
たまらず、獏良は床に尻餅をつく。
手の中のカードがバラバラとその場に散った。
獏良の上に被さるように、バクラは手と膝を床についた。
「何する……」
言い終わる前に、獏良の口が塞がれた。
それがバクラの唇だと気づいたのは、その一拍子後だった。
「んんんっ……」
仰天して逃れようとする。
けれども、床に押し付けられ、動くことも出来ない。
息が続かないと思った時、ようやく唇が解放された。
「……っはあ」
新鮮な空気を大きく息を吸い込む。
「お前、自覚ねえのかよ。人を挑発しやがって」
バクラの顔は怒りと笑いが複雑に混じって歪んでいた。
「な、なに?」
その様子に獏良は戸惑いの声を上げることしか出来ない。
「いつまで経ってもお前は……」
もう一度、獏良の唇が塞がれた。
今度は先ほどよりも深く、乱暴に。
獏良は混乱と酸欠で頭が回らなくなっていった。
なぜ?どうして?
そればかりが頭に浮かぶ。
「やめてよ。僕らは兄弟なんだよ……」
離された獏良の唇から、か弱い声が漏れた。
その言葉にバクラの目が吊り上がる。
「血なんて、ほとんど繋がってねえだろうがッ!!」
心の底からの叫びだった。
それを聞いた獏良の目から大粒の涙が溢れ落ちた。

「今日から君は了の弟だ」
そう言ってバクラを獏良の元へ連れてきたのは、獏良の父親だった。
それより前のバクラの記憶は、霧の向こうにある。
忘れたのではなく、思い出すのも不必要なものとして記憶にフタをしていた。
幼くして家族を亡くし、親戚中を転々とたらい回しにされた。
家族を始めとする繋がりを持つことを馬鹿らしく思うようになっていた。
そんな時に現れたのが、遠縁に当たる獏良の父親だった。
遠縁とはいえ息子によく似たバクラに運命を感じ、父親は快く引き取ることにしたのだ。
以前よりマシな生活が出来るなら、何処でも良かった。
バクラは荒んだ瞳のまま、父親に手を引かれた。
目の前に現れたのは、何の苦労も知らないような男児だった。
バクラにそっくりなのに、にこにこと人の悪意を知らない純粋な笑みを浮かべていた。
獏良は黙って立っているバクラに、小さな手を差し出した。
「僕と一緒に遊ぼう」
なぜか、自然とその手を取ってしまった。
握り返された手はとても温かかった。

「一度も兄弟なんて思ってねえんだよッ!」
バクラは勢い任せに感情をぶつけた。
家族など願い下げだと思う一方で、そばにいたいという矛盾。
手を握れば握り返され、眠れないと言えばおやすみのキスをされる。
それはバクラの望む関係ではない。
隣に立っているはずなのに、とても遠く感じていた。
「何されても気づかないでヘラヘラしやがって」
獏良は呆然とバクラを見上げたままだ。
火のつくような熱い感情を今までぶつけられることなどなかった。
ぴりぴりと肌に伝わるほどの強い想いをどう受け止めていいか分からない。
震える手をバクラの頬に伸ばした。
「僕はどうしたらいい……?」
獏良にはなぜだかバクラが泣いているように見えたのだ。
泣いているのは獏良の方なのに。
「オレだけのものになれよ」
バクラは望みを低く力強い声で言った。
しかし、獏良の首がすぐに横に振られる。
「それは出来ない。だって僕たちは家族なんだよ」
バクラにとって一番残酷な言葉だった。
いっそのこと、この場で全部壊してやりたい。
そう思えるほどだった。
「『だから』、君が望むならずっとそばにいる」
獏良は出会った時と変わらない優しい眼差しでバクラを見つめる。
その瞳で見つめられたら、何も出来なくなってしまう。
獏良は両手を広げた。
「来て」
導かれるままにバクラは獏良に身を預ける。
そっと優しく頭が撫でられた。
「家族なんかじゃねえよ」
ぽつりとバクラが呟いた。
温かい獏良の体温を感じながら。
「そうだね……」




「……そろそろ離れようか」
「嫌だね」
バクラは獏良の胸に顔を埋めたままだった。
体重をかけられているので、バクラが退かない限りは、獏良は動くことが出来ない。
「オレの諦めの悪さを思い知らせてやる」
バクラは微塵も動こうとはしなかった。
「何言ってんだか……」
困ったような口ぶりの獏良も、抵抗はしていなかった。
バクラの執念深い性格はよく知っているのだ。
好きにさせておいた方が得策だろう。
「家を出たら養ってやるっつーのに」
「君が?僕を??」
中学卒業後に稼ぎやすい職に就いたのは、さっさと家を出たかったのと、獏良を引き取るつもりだったからだ。
獏良は目を丸くした後、大きな口を開けて笑い始めた。
あまりに笑いすぎたので涙まで流れ出る。
「しょうがないなぁ……。食生活が乱れそうだから、その時は付いて行ってあげるよ」
獏良の口から深いため息が漏れる。
それは諦めとほんの少しの決意の証。
「本当だな?」
「ずっと一緒だよ」
疑いの目を向けるバクラに向かって小指を立てた。
「君の本当の家族になるよ」

+++++++++++++++++++++++++

お兄ちゃんをずっと溺愛し続ける弟の話でした。
ラブコメ書きたい!と思って書き始めて、ラブコメではなくなったものです。なので、その名残があります。
年齢的にいったら確実にバクラの方がお兄ちゃんですが(おじいちゃん)、忘れちゃならない了くんのお兄ちゃん属性!と思ってこうしました。

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