ばかうけ

オフィスラブ未満

「う"ーーーっ」
獏良は眉間に皺を寄せてパソコンの画面を睨んでいた。
指は止まることなくキーを叩いている。
それを邪魔するように電話が鳴り始めた。
「んもう!」
苛つきを隠すことなく乱暴に受話器を引っ手繰り肩に挟む。
「はい、童実野社です」
顔は引きつったままでも口調だけは柔らかく、視線はパソコンから離さない。
受話器の向こうから聞こえてきたのは同僚の声だった。
「なんだ……。で、なに?」
お客様用の応対から声がワントーン落ちる。
淀みなく指を動かしながら、素っ気ない態度を取った。
忙しい時の社内の人間からの連絡は、大抵有り難くないものなのだ。
「うんうんうん。うん、忙しいけど……。は?……いつまで?ええっ、今日中?ちょっと……はあ?」
いつの間にか、指が止まっていた。想像通りの有り難くない営業からの頼み事。
手一杯な状態であることに変わりはないが、獏良は額に手を当てて律儀に時間の計算をする。
――無理。無理無理。
頭ではそう理解した。
「……それで、客先は?」
しかし、デスクの隅に置いてあったメモ帳に手を伸ばし、ペンを走らせ始めた。
「まあ、期待しないでよね」
必要事項を全て書き取ると、ガチャリと受話器を置いた。
時計を見ると既に11時半を回っている。昼飯を食べている時間などない。
「よし!」
腹が決まれば、それまでの苛つきも空腹も気にならなくなる。
獏良はまた軽快にパソコンのキーを叩き始めた。

――午後三時半。
バクラは脱いだスーツを片手に事務所に戻ってきた。
今日の外回りは全て終わった。ネクタイを緩めて息を吐く。
残りの時間は中で事務作業をするだけだ。
事務所の隅で獏良がパソコンに齧りついているのが見えた。
電話口で焦っていることは伝わってきたが、思ったより深刻な状況だったらしいことが見て取れた。
そっと獏良の背後に寄り、パソコンを覗き込む。画面に集中している為、全く気づく様子はない。
目に入った作業画面で大体の事情の察しはついた。
間抜けな上司が新規顧客向けの資料作りの指示を忘れていたらしい。
本来ならば、とっくに出来上がっているはずの資料だ。
獏良が焦って入力をしている姿を見れば、急に無理矢理押しつけられたのであろうことは想像に難くない。
他の内勤では間に合わないのだろう。
「戻ったぜー」
バクラは獏良の椅子の背もたれに両手を置いて声をかけた。
「お疲れ様」
パソコンから目を離さずに獏良が答える。
「頼んだやつは?」
「君の机に置いてある」
内勤のデスクとは離れたところにある自分のデスクに目をやると、きちんとホチキス止めがしてある紙の束があった。
「さすが、宿主様。仕事が早いな。双六商店の営業も褒めてたぜ」
手を動かしながらも、その一言に獏良の心が小さく弾む。
「どうも」
だが、それを手放しで喜んでいる余裕はない。
「まったくよォ。変なモン頼まれちまって。テキトーにやりゃあいいんだよ」
バクラはぐいぐいと背もたれを上から押しながら言った。
反動で獏良の身体がぴょんぴょんと跳ねる。
「もー!邪魔しに帰って来たの?」
そこで初めて獏良が椅子ごと振り返り、じろりとバクラを睨んだ。
「おー、こわ。まあ、根を詰めすぎんなよ」
バクラは手をひらひらと振り、あっさりと自分の席に戻っていった。

獏良自身も本当は分かっているのだ。要領が悪いことは。
頼まれたら断れない。君しか出来ないと言われたら、断り切れないのだ。
いま手が塞がっているのは、情報伝達を怠った上司のせいだ。
獏良がやらなければ事務所全体が困ることは確かだが、資料は骨組みだけ作り、あとは責任のある上司に任せてしまえばいい。
しかし、やるからにはしっかりやらないと気が済まなかった。手が抜けない性分なのだ。
こつこつじっくりと物事に取り込むのが得意な獏良の欠点だった。
いまいち頼りにならない上司。一人では手に負えない仕事量。こんな会社に入ってしまったのが運の尽き。
同業他社である海馬コーポレーションやインダストリアル・イリュージョンに入れば、仕事がきつくても遣り甲斐があっただろうなと思う。
いや、まず大企業に入る実力など自分にはないと、すぐにその考えを打ち消した。
自分には、この小さな会社が合っているのだ。
その点、営業のバクラは違っていた。
トップの成績を保ち、仕事の処理も早い。
同僚からほとんど妬みで汚い手を使っているなどと陰で言われているが、そうではないと獏良は分かっている。
慇懃無礼な上に滅多に頭を下げることをしない態度は一定の客からの受けは悪いが、仕事は正確で相手を知り尽くしたフォローも上手い。
一見派手だが、顧客分析など地味な作業を怠らないのだ。
最初から合わない顧客はさっさと切って捨て、やり易い相手に利益を出していた。
本来ならば、もっと大手の会社に入っていてもおかしくない。
本人はこの会社を選んだ理由を自宅に近いからと述べていた。
仕事をちょくちょく頼まれるのは腹が立つが、そんな相手から頼りにされるのは少し良い気分だった。
「他のヤツらじゃ、話になんねえからな」
と、バクラはよく口にする。
そんな時、こんな自分でも役に立っているのだと思える。

――よし、今日中に終わらせる!
獏良は気合いを入れ、作業を進めることにした。

「で、出来た!あとは出力して……」
ようやく肩の力が抜けたのは、終業時間からだいぶ経ってからだ。
上司を含めて他の社員たちはとっくに帰っており、電気は獏良の周りだけにしか点いていなかった。
暗い事務所は空しいが、心は安心感で満たされている。
あとは、出来上がった資料を明朝に上司へ叩きつけるだけだ。
コピー機が動く音を聞きながら、獏良は背伸びをした。
「んんー……げえ」
パソコンに表示されている時刻が23時を回っていることに気づき、ぎょっとして固まる。
その時、頬にひやっとした感触が触れた。
「ひゃあ!」
飛び上がって振り向くと、コーヒー缶を啜っているバクラが立っていた。
「ん」
獏良の頬にもう一つのコーヒー缶をぴたと押しつけている。
「え、ありがとう……」
それを両手で受け取る。
バクラの飲んでいるコーヒーは、その真っ黒な色からブラックだと分かる。
「でも、僕、にが……」
全てを言い終わる前に、自分の手の中にあるコーヒーがミルクたっぷり・砂糖増量中であることに気づいて口を閉じた。
プルタブを開け、コーヒーを一啜りする。
「残ってたの?」
「まあなー」
しれっと言うバクラに違和感を覚える。
いつもはほぼ定時内に仕事を終わらせて帰ってしまうはずだ。
「もしかして、待っててくれた……?」
「まー、お陰で仕事が捗ったぜ」
バクラは表情を変えずに、コーヒーを飲み干した。
まさか待っているとは思わなかった。
礼を言うべきか迷い、獏良は手の中の缶をぎゅっと握る。
「腹減ってるだろ。今日は特別にオレ様が奢ってやるから、さっさと帰ろうぜ」
そんな獏良の肩を軽く叩き、バクラは背を向けた。
「……うん!僕、お腹ぺこぺこなんだ!」
獏良の顔から疲労の色が綺麗さっぱり消え失せる。
デスクから勢いよく立ち上がり、慌ててバクラを追いかけていった。
二人の影が去った後、ぱちりと事務所の電気が落とされた。

+++++++++++++++++++++++++

バクラ→獏良=好き、獏良→バクラ=手のかかる同僚
次の日は仕事みたいなので、お持ち帰りはされませんよ!
小さな会社と設定してしまったので、バクラは独立して了くんに寿退社させるのを目論んでいるのかもしれません。



「はい、童実野社です!」
今日も獏良は明るくオフィスに鳴り響く電話に出る。
「はい。はい?……えっ!ちょ……材料が入ってこない?ま……待って下さい!!」
しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、絶望的な連絡だった。


オフィスラブ未満・納期トラブル


獏良が勤務しているのは小さな玩具メーカーだ。
電話は材料を仕入れている取引先からだった。
いくらメーカーといえども、材料が入ってこないと何も出来ない。
仕入先は原材料の不足と機械トラブルを理由に挙げていたが、そんなことはどうでも良かった。
この会社にとっては、「客先に納品できない」という現実だけが突きつけられたのだ。
仕入先のトラブルなど客先には関係ない。客先にだって予定があるのだ。簡単に納得はしてもらえないだろう。
「うう……」
獏良は喉から絞り出したような声で呻いた。
先ほどから解決策を考えているのだが、ないものはどうすることも出来ない。
結局は得意先に謝り倒すしかないのだ。
直属の上司はゴマすりが得意なだけの人間で役に立たない。
獏良はのろのろと受話器を取り、かけ慣れた番号を打った。
「あの……童実野社の獏良と申します。いつもお世話になっております。担当の――」
いきなり、既に注文を受けている分を納品できませんとは言えない。
大事な客先の信頼を事務の独断で失うわけにはいかない。
納期を延ばしてもらえないか、探りを入れるつもりだった。
厳しそうなら担当営業と営業課長に相談する。
残念なことに、この担当営業も頼りにならないのだ。
自分が出来ることを最大限にやるしかない。
せめて担当がアイツだったらと、獏良はずきずきと痛むこめかみを押さえながら思った。

――得意先からの答えも絶望的だった。

納期は絶対にずらせない。
ウチの予定はこれだから。
そもそも、なんで確認するの?

「あ、いえ、念の為の確認で……はい、申し訳ありません……」
いつになく弱々しい声で獏良は電話に向かって頭を下げた。
その様子を外から戻ったバクラが目にしていた。
それとなく獏良の電話内容を耳に入れる。
バクラは胸ポケットから携帯を取りだし、何処かに電話をかけ始めた。

「……はい。かしこまりました。今後、注意致します。申し訳ありませんでした」
相手が先に電話を切るのを待ってから、獏良も受話器を置いた。
勝手に深いため息が口から漏れる。
最悪だった。
相手の虫の居所が悪かったのだろうが、確認だけのはずなのに機嫌を損ねてしまった。
求めていた答えが得られないどころか、納期はずらせないと断言されてしまった。
泣き言を言いたくなくても、「僕のせいじゃないのに」という言葉が勝手に頭に浮かんでくる。
獏良は工場の工程表を引っ張り出して見つめた。
製造の予定が日付とグラフで分かりやすく示されている。
この通りに進められていれば問題はなかったのだ。
普通のトラブルなら、この製造予定を組み替えたり、ずらしたりすることで対応できる。
今回は材料がないのだからどうすることも出来ない。
――こんなもの、見ていてもしょうがないのに……。
獏良は沈痛な面持ちで工程表をデスクの上に伏せた。
まずは、担当の営業に事の次第を説明しなくては。
獏良はいま一度、受話器に手を伸ばした。
それを後ろからぬっと現れた手に押さえられる。
振り向くと、バクラが知らぬ間に背後に立っていた。
「しょげてんなァ……」
口の端を吊り上げて獏良を見下ろしている。
「……お疲れ様」
獏良はさすがに力なくバクラを見上げるしかなかった。
「ほれ、見てみろ」
「ぐえっ」
バクラが腕で乱暴に獏良の首を引き寄せた。
そして、携帯の画面を開いて見せた。
画面には通話履歴が表示されており、その相手は――。
「御伽企画?」
「3日までなら納品待てるってよ。貸しは作っとくもんだな」
自慢げにバクラが手の中の携帯をぴろぴろと振った。
それはバクラの担当する得意先だが、問題の客先とは違う。
しかし、獏良はハッと顔を上げた。
先ほど見ていた工程表に再び目を通す。
問題の客先と作業工程がほぼ重なっている客先があった。
それがバクラの言う御伽企画だ。
運良く型の似た注文を受けている。
「この材料を流用すれば……。100は無理でも30ならいけるかな……」
即座に頭をフル回転させた。
納品が全く間に合わないのと、多少でも可能なのとは天と地ほどの差がある。
「どうだ?いけるか?」
バクラは顎に手を当てて考え込む獏良のこめかみをつついた。
いまだにバクラの腕が獏良の首元にあるので、二人の顔の距離は近い。
「うん!なんとかなりそうだよ!交渉して絶対うんと言わせてみせる」
先ほどまでとは打って変わり、獏良は嬉しそうに目をきらきらとさせた。
「その意気だ」
バクラは大きく頷く。
「助かったー!」
意気消沈していた反動で、周囲の目も気にせずに獏良はバクラに抱きついた。
さりげなく、その背中にバクラの手が回される。
「今度、奢るからね!」
それも短い間で、獏良はパッと手を離してデスクに向き直った。
「期待して待ってるぜ」
忙しなく電話をし始めた獏良の背中に向かってバクラは薄く笑った。

++++++++++++++++++++++++++

くどいようですが、バクラ→獏良=大好き、獏良→バクラ=仕事っぷりは認めているけど、やっかいな同僚。
バクラは手料理すら食べたことはありません。



オフィスラブ未満・おもちかえり

狭い座敷の中で取り留めのない会話が飛び交い、グラスや皿が触れ合う音と混ざり、雑音となってその場を満たしていた。
バクラはテーブルのはす向かい側の様子を睨みながら、苛々とビールを呷っていた。
同業他社との親睦会。名目上はそうなってはいるが、実際はただのどんちゃん騒ぎだ。
月一程度のこの飲み会にバクラはあまり顔を出さない。コネ作りには多少利用できるので、年に数回参加をするくらいだ。
仕事はきっちりとこなすが、馴れ合いは好まない。ちっぽけな会社で大人しく働いているのも、独立のための下地を作るためだ。
今回バクラが飲み会に参加した理由は、仕事のためでも何でもなく、視線の先にあった。
テーブルの隅で他社の営業数名に囲まれた獏良の姿。
あちこちから話を振られ、グラスを両手に持ったままで忙しそうに視線を動かしていた。
時折、浮かべている人の良さそうな愛想笑いが、ますますバクラの苛立ちを増長させていた。
――勝手に触んじゃねェぞ!
膝を上下に揺すり、またぐびりとビールを喉に流し込んだ。
事務員である獏良は、普段はこういった親睦会には参加しない。
丁寧な対応と適切な仕事ぶりで客先からの信頼も厚く、かねてから一度飲み会に連れてきて欲しいと上司に打診があったのだ。
先日とうとう断りきれずに、上司は獏良に頼み込んだ。
仕事のためと言われれば、根が真面目な獏良は断れない。渋々に首を縦に振ったのだった。
それを給湯室で偶然聞いていたバクラは目を剥いた。
獏良の電話口の優しげな声と飛び抜けた容姿の噂は、他社の人間の興味を大いに引いていた。
事務員という表に出て来ない存在だということが、それに拍車をかけていた。
噂に尾ヒレがつき、大袈裟に他社の人間に伝わっていく。
一度見てみたいという下心満載の輩が集まってくるに違いない。
こうして、欠席するつもりだったバクラは、急遽参加することにしたのだ。
結果は予想通りだった。
獏良が飲み会の席に現れた途端、数名の男たちがだらしなく鼻の下を伸ばし、群がり始めた。
さすがのバクラも仕事に関わる人間をいきなり投げ飛ばすことはできない。
バクラはバクラで他社の営業課長と酒を酌み交わしつつ今に至る。
――しかし、ガードゆるっゆるだな……!
思わずグラスを持つバクラの手に力が入る。
男たちが仕事の話にかこつけて、お近づきになりたいと思っているのは明白。
獏良はそんな中でも律儀に受け答えをしていた。
おそらく、本当に仕事の話を振られているのだと思っているのだろう。
肩に触れられていることに気づく素振りも見せない。
バクラは感情をぶつけるように乱暴にビール瓶の首を掴むと、営業課長のグラスに問答無用にビールを注ぎ込んだ。

「ごめんね。長引かせちゃって。獏良くんのこと頼むね」
上司はぺこぺこと頼りなく頭を下げると、居酒屋へ戻っていった。
既に終電の時間はとっくに過ぎてしまっていた。
――飲み会に引きずり出すならフォローしてやれっての。
バクラは仏頂面でその背中を見送る。
飲み会は大盛り上がりを見せ、なかなか解散する様子もなかった。
上司に先に獏良を帰らすように進言をしたが、他社の役職付きにへこへこするばかりで何もしなかった。
バクラが酔っ払ってすがりついてくる連中を追い払いつつ、獏良を表に連れ出した時にはもう遅かった。
それに獏良はすっかり酔いが回ってしまい、ぐったりと真っ赤な顔をしていた。バクラが支えてやっと立っている状態だ。
バクラの家は会社からも居酒屋からも近い。
通勤時間で会社を選んだくらいだ。
獏良の家は電車で三十分ほどの距離にある。
選択肢は一つしかない。

バクラは獏良を担いだまま、アパートの鍵を開けた。
部屋は単身者用のワンルームで、冷蔵庫やベッドなどの必要最低限の家電と家具しか置いていない。
靴を脱がせ、獏良を部屋の奥にあるベッドに引きずっていく。
上着も皺にならないように脱がせた。
ベッドに寝かせても、獏良は何も反応をしない。
人形のように眠り続けているだけだ。
獏良は酒に強くも弱くもない。でたらめな飲み方をしないので、酔い潰れることはない。
獏良がこれほど泥酔するのをバクラは初めて見た。
今日はそれほど飲んでいないはずだ。
慣れない相手に囲まれ、緊張から酔いが回ったのだろうか。
獏良の額にかかった髪をバクラは優しく払ってやった。
起きているときよりも幼い印象のある寝顔をじっと見つめ、
「ベタベタ他人に触らせやがって……。おそっちまうぞ」
と小さく囁いた。
しばらく、バクラはそのままでいたが、獏良の身体に布団をかけてやり、ベッドから音を立てずに離れた。

耳に微かな音が聞こえてくる。複数の活気のある声と軽快な音楽。これはテレビの音だ。
もそりと布団の中で寝返りを打つ。
いつもとは違うベッドの感触。疑問符が頭に浮かぶ。
まだぼんやりとする頭で記憶を辿ってみた。
確か飲み会で……。
急に意識が覚醒し、獏良はがばりと起き上がった。
居酒屋から家に帰った記憶などない。ならここは、どこなのだろう。
「よお、起きたか」
ベッドから離れた場所にある座椅子に座ったバクラが、首だけ傾けて声をかけてきた。
獏良には見覚えのない部屋だった。
バクラのそばには座卓とテレビ、奥には玄関とオープンキッチンが見える。
無駄な家具も家電もないようだ。
広さは八畳ほどで決して広くはないが、 余計なものがない分、余裕があるように感じる。
獏良はするりとベッドを降り、バクラのいる方へ、二、三歩近寄ると、
「……ごめん、やっちゃった?」
額に手を当てて項垂れた。
「もう、ベロベロだったぜ」
「本当にごめん」
もう一度謝罪を口にし、深々と頭を下げる。
獏良は状況を全て理解した。
ここがバクラの部屋であること、バクラが酔っ払った獏良の世話をしたこと。バクラのベッドを占領したこと。
バクラは立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
「なんか飲むか?っつっても水しかねェけど」
中から小型のペットボトルを取り出し、獏良に向かって差し出す。
「ありがとう」
バクラの部屋に来たのは初めてだった。それどころか、プライベートの姿を今まで見たことがなかった。
だから、獏良はペットボトルを持ったまま、まじまじとバクラの姿を眺めた。
「なんだよ」
「いやあ、意外と綺麗にしてるんだなって」
ぱたぱたと手を振ってその場を取り繕う。
「寝に帰るだけだからな」
綺麗というよりは、殺風景ともいった方がいいかもしれない。
あまりに物がないせいで全く生活感がなかった。
数少ない家具などは、モノトーンで統一されていて見映えは悪くない。
「料理もしないの」
「あまりな」
獏良はペットボトルのキャップを開け、乾いた喉を潤した。
バクラの家は会社のあるオフィス街の外れにあったと記憶している。 家賃相場は高めのはずだ。
しかし、この部屋の間取りでは、かなり家賃を抑えていることが窺える。
獏良の中で倹約という言葉がバクラと結びつかない。必要ないものは要らないというタイプではあるが。
「もっと広い部屋に住んでるのかと思ってた」
「欲しいモンがあるんだよ」
「ふーん」
獏良はもう一度ペットボトルに口をつけた。
心なしかバクラの視線が熱く感じる。鋭い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。
意識した途端に頬が紅潮し、喉がひりついた。勢い良く水を飲み込む。
「メシ、食いに行くか?」
先ほどの視線の意味を考えないようにしながら、獏良はこくりと頷いた。

「バクラー!」
煙草を吸いに出た廊下で、バクラは後ろから呼び止められた。
小走りで獏良が近づいてくる。小さな包みを胸に抱いて。
「どうした」
バクラが問いかけると、胸元にその包みを押しつけられた。
「これ、先週のお詫びとお礼。結局、ご飯も奢ってもらっちゃったし……」
中身はチーズ味やコショウ味の甘くない味のラスクだ。軽食としても手軽に食べられる。
雑貨店や菓子店をいくつか回り、散々悩んで決めたもの。
バクラの部屋を出た後は、カフェで朝食を取りながら様々な話をした。
仕事以外の話をバクラとじっくりするのは初めてで、獏良はとても新鮮に思えた。
趣味であるゲームの話で盛り上がれたのが嬉しかった。
「別に気にしてねェし」
包みを受け取りつつも、バクラは口を尖らせた。
「食事はちゃんと取った方がいいよ」
ほとんど空っぽの冷蔵庫といい、綺麗すぎるキッチンといい、バクラの食生活がどんなものであるか、初めて部屋を訪れた獏良にも分かってしまった。
「ね、今度僕がご飯作りに行こうか?こう見えて、結構得意なんだよ」
「は?」
ふふと笑う獏良に、危うくバクラの目尻が下がりそうになる。
――来たのか。とうとうチャンスが。来やがったのか。
小躍りしたい気持ちを抑え、
「どんなもんか味見してやろうじゃねェか」
澄まし顔を作った。
「僕おすすめのゲームも持っていくから、よろしくね!」
バクラの下心など露知らず、獏良は機嫌良く手を振った。

++++++++++++++++++++++++++

繰り返しになりますが、バクラ→獏良=大好き、獏良→バクラ=仕事のできる同僚+最近趣味が同じことに気づいた。
意図せず行ったことの方が上手くいくという教訓?です。
了くんが帰宅後、残していったペットボトルを前にバクラは悶々としたかもしれません(台無し)。

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