ばかうけ

※ごりごりのファンタジーパラレルです。完全に原作とは違う世界になっています。
※なので、獏良にバクラを嫌う理由はありません。
※二心二体。
※獏良=ハイエルフ(白魔導士)、バクラ=???(盗賊)。
※絡みなし。
※好き勝手に書いています。



太古の昔、人類がまだ誕生していなかった頃、光と闇の神々が戦いを繰り広げていた。戦いの果てに光の神が勝利し、様々な生物を生み出した。これがこの世界のはじまり。敗北した闇の神は地上に落とされ、後の魔王となる。魔王は魔物を操り、長い間人々を苦しめ続けた。荒れる大地を憂いた光の神が一人の人間に七つの宝具を授ける。その人間は勇者となり、宝具を用いて魔王を封印した。こうして世界に平和が訪れたのだった。


たとえ太陽が消えたとしても


視界のすべてが赤。空まで燃え盛る炎が唸り声を上げている。家屋を飲み込み、なお勢いを増していく。恐ろしい光景を目の当たりにした少年は立ち尽くし、手に持っていた花々を落とした。アネモネ、ラナンキュラス、スミレ——色とりどりの花が無惨に地面に散らばる。
「あ……ああ……」
現実を受け入れられず、言葉が出てこない。家を出たときは何事もなかった。妹が部屋で人形遊びをしていて、母親がパンを焼いていて、父親が家の裏で薪割りをしていた。隣の家のおばさんが洗濯物を取り込んでいて、村の出入口で村長さんが「遅くならんようにな」と声をかけてくれて——。
それが全部あの怪物のような炎の中にあると理解して、喉の奥から叫び声が飛び出した。
「パパ……!ママ……!!」
呼びかけても答えは返ってこない。それどころか、無情にも炎の唸り声に掻き消される。彼はぼろぼろと涙を溢し、目の前に広がる光景に成す術なく見ていることしかできなかった。

*****

朝早く寝床から這い出した少年は、一階に下りてキッチンへと向かう。見た目は十代後半。よく手入れされた輝くような白い髪は長く、歩く度にふわふわと揺れる。それを一つに束ねて高く結んだ。髪の下に隠れていた尖った耳がぴょこんと顔を出す。
かまどに火を起こし、刻んだ野菜を干し肉と共に煮込む。昨日の残りのパンを軽く炙り、薄く切ったチーズを乗せる。沸かしたお茶をコップに注いだところで同居人の男が二階から起きてきた。
「おはよう」
爽やかに笑う少年とは対照的に、あくび混じりの男は席に着き、煎れたての茶を啜った。機嫌が悪そうなのは寝起きだからか、素の表情なのか。少年が気にしていないところを見ると後者のようだった。
少年は食事をテーブルに並べ終わると、男の向かい側の席に座り、両手を合わせた。
「いただきます」
美味しそうにパンを頬張る少年に対し、男は仏頂面でスープをスプーンで掬っている。半分ほど食事が進んだところで、
「飯食ったら出かけるぞ」
「へ?どこ??」
「都より西に二、三日かかる場所にある村だ。遠くねえ」
「分かった。すぐ準備するから」
少年は残りのスープを掻き込むようにして急ぎ飲み干す。詳しい話を聞くのは後だ。男の決定は絶対だから、余計なことは口出しをしない。朝食の食器を下げ、迅速に旅支度に移った。

    *

少年の名は獏良といい、エルフ属の中でも稀な存在で妖精に近いとされるハイエルフだ。深い森で自然と暮らしている種族のため、森人などと呼ばれている。人前に出てくることはほぼない。神より授かる神聖な白魔法に精通し、長い耳と美しい容姿が特徴で、他の種族とは比べ物にならない長い寿命を持つ。獏良の見た目はほぼ年齢通り。もう少し時間が経つと老化が止まり、千年も二千年もそのままの姿で生きることになる。

十年前、獏良の住んでいる村が野盗に焼かれた。誕生日を迎えた妹のために朝早くから花を摘みに行っていたため、獏良だけがそれを逃れた。
混乱と絶望の中、助けを求めて森を走っているところ、前述の野盗に捕まった。首枷をつけられ牢屋に放り込まれた。そこで聞こえたのは救いのない話ばかりだ。獏良は奴隷として売り飛ばされる予定らしい。野盗たちの目当ては村で大切に保管されていた黄金の冠。杜撰な手口で必要以上に火の手が上がってしまったのだと。この土地の領主は人間主義者の傾向が強く、エルフ狩りはかえって喜ぶのだと。耳を塞ぎたくなるような話と下卑た笑い声が共に流れてきた。
獏良は歯をカチカチと鳴らし、怒りとも悲しみともつかない感情で身体が震えた。乾いた目からは涙もでない。
そんなとき、現れたのがバクラだった。野盗たちをあっという間に倒し、獏良を牢から救い出した。
それから、二人は共に暮らしている。後から故郷の様子を確認したが、やはりすべて焼け落ち、誰も生き残ってはいなかった。だから、獏良にとってバクラは命の恩人であり、たった一人の家族なのだ。冒険者ギルドに所属せず、一人で冒険を続けているバクラの力になりたくて、成長してからはパーティを組むようになった。

*****

獏良は旅支度を終えた。白を基調に青の装飾が入ったローブを身につけ、手には五本の針が特徴的な形状の輪型金具が頭についた錫杖。錫杖はバクラから貰ったもの。魔力が飛躍的に上がる効果つきだ。
職業は白魔導士。回復、防御、補助などの魔法を中心に使える。
バクラは探索を得意とする職業の盗賊。重い装備はつけず、革ジャケットと全長八十センチのショートソードのみ。速さを生かす軽装だ。
旅に必要な携帯食料や照明器具をまとめて二人は旅立った。
居住地は郊外の森にあり、そこから最寄りの町に出る。町からは中心都市に続く街道が北に通っているから、それに添って進む。乗り合いの馬車も利用しつつ一日かけて都市についたら、今度は西へ。都市から離れると緑が多くなり、道も険しくなっていく。一晩野宿をし、さらに半日かけて目的の村についた。
村は比較的賑やかで、宿屋や食料品店、武器屋まであった。しかし、どの商品も都市に比べると少し流行遅れのものが並んでいる。
獏良は耳と容姿が目立たないようにフードを深く被り直す。大きな町では様々な種族が入り乱れているために特別目を引かなくても、こういった村では余計な噂を立てられてしまうことがある。珍しいハイエルフでは尚のこと注意が必要だ。
太陽が傾き始めているので、今日のところは宿屋の部屋を二つ取り、出発は明朝と決めた。
宿屋は一階が食堂兼酒場、二階が宿泊室という一般的な造りになっている。二人は取った部屋に荷物を置いた後、手っ取り早く一階で食事を取ることにした。入口から離れた一番奥のテーブル席に座る。遅い時間になるに連れて客は増えていく。外から来た客は少なく、地元民らしき客が多い。いくら比較的栄えている村といっても、酒が飲める店は限られている。村民の憩いの場になっているのかもしない。
冒険者が珍しかったのか、酒の入った一人の男が話しかけてきた。
「あんたら都から来たのか?」
「そうだ」
バクラは視線だけを男に送って無愛想に返事をした。
「あれだろ。あれ。廃神殿の魔物退治」
我が意を得たりといった調子で男が太い人差し指を突きつける。
獏良は一瞬だけバクラの瞳が微かに光ったのを見た。
「詳しいのか?」
「詳しいも何も、ここいらじゃ有名な話だ」
男によると、かつてここ周辺はもっと栄えていたそうだ。付近には神殿があり、巡礼地としての実入りが少なからずあった。時代は移り変わり、参拝客は段々と少なくなり、ついに神殿は打ち捨てられてしまった。
人の手が入らない神殿は森に飲み込まれ、いつの頃からか魔物が棲みついていると噂になった。近くに住む村人はたまったものではない。その魔物は村を襲いに来たことはなくても、いつ襲われるか分からない恐怖はずっと続く。国に討伐依頼を出したが、実害が確かではない案件に対して王立騎士団が動くことはなく、冒険者ギルドに丸投げ。
ギルドから依頼を受けた冒険者はたまにやって来るが、誰一人として帰ってきた者はなく、有耶無耶のまま神殿は放置されている。
「みぃんなやられちまったってオレたちは思ってるよ。あんたらも気をつけた方がいい。しかも、盗賊と白の魔法使いじゃあ、ちとバランスが悪くねえか?」
顎髭を撫でながら悪気なく繁々と二人を見つめる男に、バクラは一枚の銀貨をテーブルに滑らせた。
「情報提供に感謝する。神殿の詳しい場所を聞きたい」
男は驚いた顔で断ろうとしたが、結局は頭を下げつつ丁寧な地図まで書いて置いていった。
「半日もありゃ片はつきそうだな」
男が去った後、バクラは地図を眺めながら獏良に言う。しかめっ面が少し緩んでいる。食後酒の入ったグラスを手にした。
「新しい呪文を覚えたって言ってたな?」
「うん。『光の壁』の魔法だよ。魔力だけじゃなく、体力も消耗するから使えるのは一度きりだけどね」
「上出来だ。いざというときまで温存しておけ」
そう言葉を結ぶと獏良だけに見せる微笑を浮かべ、酒を飲み干した。

宿泊部屋にはベッド、サイドテーブル、椅子、ワードローブが一つずつ設置してあった。出入口の正面に当たる壁には通りを見渡せる窓。旅人が短期間過ごすには充分な設備だ。
獏良は頭からフードを取り、髪を手で軽く整え、長い耳を露出させた。解放感でその尖った先端が上下する。
「ふー」
ベッドに腰かけ、明日の廃神殿探索のために荷物を整理をし始めた。楽に動き回れるように持っていくものを厳選する。モンスターと遭遇したときに荷物が重くて動けないなど言語道断だ。
それが終わると今度は装備も含めたすべてを点検していく。カンテラの油は充分か、水筒や薬品は水漏れしていないか。最後に錫杖を手に取り、破損がないか調べた。
バクラはこの頭にある装飾品を千年リングと呼ぶ。上手く扱える者はなかなかいないらしく、獏良が初めて手に持ったとき、バクラは驚きと喜びが入り交じった表情で絶賛した。何年も暮らしを共にしてきたが、あんな表情はあのときだけだ。そのときのことを思い出し、獏良は錫杖を軽く振った。しゃらりん、澄んだ音が鳴る。
『お前にはやはり素質がある』
柄を大事そうに両手で持ち、バクラの言葉を噛み締める。
明日は閉鎖的な空間で行動することになる。神殿内では何が起こるか分からない。覚えたばかりの『光の壁』はいざというとき、躊躇いなく使うつもりだ。体力をすべて出し切り、動けなくなるまで。絶対にバクラは守る。たった一人しかいない家族なのだから——。

    *

翌朝、バクラと獏良は男から貰った地図を頼りに、村と隣接する森に入った。背の高い木々が密集していても、巡礼地だった名残か歩きにくい道ではなく、太陽の光も微かに射し込み、楽に奥へと進めた。
時折、単体のコボルトやゴブリンが出没し、獏良が身構える間もなくバクラがあっさりと切り捨てる。小型のモンスターが郊外に徘徊することはよくあること。むしろ、平均からすると数は少ない方だ。
低木などの障害物を倒すような容易さでモンスターたちを排除していく。そうして、村を出てから一時間もしないうちに、森の中に不釣り合いな巨大な建物が見えてきた。
建物は石造りの長方体をしており、装飾も含めてきっちり左右対称。高さとしては、四階建てと同じだろうか。周囲の地面まで丁寧に舗装されている。入口の手前には建物と同じ高さの石柱が二本。何かの生物を象った石像も待ち構えていたが、損傷が激しく、元の形は分からない。そのどれもが苔や蔦植物の侵入を許している。
木製の扉は既に朽ちていて、開口部に木片として残るのみ。かつては信徒たちが通っていたであろう通路は、ぽっかりと開いた暗い穴となって奥まで続いていた。
獏良はカンテラの灯りをつけ、中を照らした。モンスターの気配はしない。
「いくぞ」
バクラは尻込みする様子もなく足を踏み入れた。その背中に獏良も続く。盗賊は前衛向きではないが、物理攻撃力の少ない獏良が必然的に後衛となる。
一般的には剣士や槍術士が前衛を務める。敵を前衛が受け止めているうちに、後衛の魔法使いや弓使いが攻撃をするのが冒険者にとっては定石。それなのに、前衛のバクラは攻撃向きではない盗賊。後衛の獏良に至っては、補助呪文が主な白魔導士。宿屋で男が「バランスが悪い」と言ったのも尤もなのだ。それでも二人はこの陣で冒険を続けてきた。仲間が足りない場合は冒険者ギルドで募集するものだが、そもそも登録すらしていない。それどころか、獏良と出会う前のバクラは一人で旅をしていたという——。

人の手が及ばなくなった神殿には湿った臭いがこもっている。元々の作りがしっかりしていたのか、打ち捨てられて長いというのに、石が敷き詰められた床は安定していて歩きやすい。鼠や蝙蝠が出てくるくらいで、モンスターは影も形もない。順調に通路を進むと、左右と正面の三つに道が分かれていた。
「まあ、こっちが礼拝堂だろうな」
来た道から前へと続く方をバクラが指差す。獏良も頷く。どの神殿でも通常は中央に礼拝堂を配置する。そして礼拝堂は建物の大部分を占める。
「魔物が棲みついてるっていう噂は本当のようだな」
ダンジョン化した建物なのに一度もモンスターを見かけないのは不自然だった。それどころか、小動物以外の生物さえ現れない。周囲の森に出現していたモンスターたちがここだけを避けるのはおかしい。雨風を凌げて住処としては最適だろう。
強いモンスターがこの神殿にいるのだ。確実に。弱いモンスターを寄せつけないほどの。獏良たちは既にそいつの縄張り内にいるということだ。
錫杖を握る獏良の手に力が入った。まだ見ぬ強敵に対して緊張が走る。
「狭い部屋にそいつが縮こまってるわきゃねえよな。分かりやすいぜ」
バクラは迷うことなく足を前へと進めた。
通路の壁に彫られた模様が目につく。内部のせいか、外の石像などとは違い雨風に曝されていないから劣化が少ない。植物をモチーフとした模様だが、信仰が絶えた今では何の意味があるのか分かるはずもない。
通路の最奥は両開きの重厚な扉によって塞がれていた。二人は扉の前に立ち、視線を送り合う。扉の向こうから何者かの気配がする。小型モンスターでは到底出せない威圧感のある気配が——。
「行くぞ」
バクラがゆっくりと左右の扉を押すと、不快な軋む音を鳴らしながら奥へ向かって開いていく。開いた先は長方形の広い部屋。かつては百人を超える信者が集まって祈りを捧げていたのだろう。しかし、今はそこにあったであろうベンチは撤去され、塵や埃だけの空虚な空間になっている。三階層はある吹き抜けの天井がその侘しさに拍車をかけていた。
一番奥——礼拝席だった場所から一段高い、聖職者が立つ内陣には神殿であった証はない。本来は主神像やステンドグラスがあるはずだが、打ち壊されて壁面が剥き出しになっている。その代わり、神殿の主に成り代わった者が立っていた。
内陣の両側には祭事用の背の高い篝火台があり、燃え上がる炎がその姿を照らし出している。全身を覆う鱗、ゆらゆらと揺れる長い尾、人間より一回り大きい体躯、手にはロングソードと盾——爬虫類の人獣、リザードマン。戦闘能力に優れた種族で、通常は群れを成して暮らしている。礼拝堂からは他に気配はしない。一匹ということは、群れに馴染めなかったか、追い出されたか。どちらにしろ、まともではない。
「珍しいな。はぐれか」
バクラは腰の鞘から短剣を抜いた。相手の武器と比べると、圧倒的に攻撃力も攻撃範囲も足りない。それでも怯んでいる様子は見ない。
「小さキ者よ、我ノ棲家に何用カ?」
リザードマンが口を開く。紡がれるのは辿々しい人間語。人間と身体の構造が異なるため、時々不明瞭な音が混じる。
「立ち去レ。さもなくば、そノ儚い命、摘ミ取ってやル」
顔の半分まで裂けたように大きな口から赤い舌がチロチロと出入りした。
「おいおい宿主、どうやら奴さん、自分ちだと思っているようだぜ。井の中の蛙だな。いや、蛙じゃなくて蜥蜴か」
軽口を叩いても、バクラの視線はリザードマンから外れない。
「何ダと?」
怒気を孕んだ声が空虚な部屋に響き渡り、同時にシューという空気が漏れるような音が発せられる。
バクラは躊躇なく前へと飛び出した。身を屈めて矢のような速さでリザードマンに向かって迫る。
合図を送られなくとも、獏良はバクラが走り出したと同時に呪文を唱え始めていた。魔力の強いエルフの魔法は、人間より詠唱が短く、精密性も威力も高い。
——攻撃力向上、防御力向上、俊敏性向上、体力向上。
リザードマンとの距離、約三十メートルをバクラが駆け抜ける間に、連続で白魔法を放つ。強化された肉体は目にも留まらぬ速さで、あっという間に内陣へと辿り着く。 勝負は一瞬だった。頼りなく見える短剣から繰り出される渾身の一撃が、リザードマンの剣を容易く弾き飛ばした。キィンという音が鳴ったかと思うと、剣は玩具のように回転しながら明後日の方向へ離れていく。
普通ならこれで終わりだった。続く二撃目で終わり。相手は、人間よりも遥かに戦闘力が高いリザードマン。武器を失った次の瞬間には、手のひらに燃え盛る炎の玉を生み出していた。
——マズい!
獏良は考えるより先に錫杖を両手で握り締めていた。唱えるのは、『光の壁』の呪文。相手は物理攻撃も魔法攻撃も得意とする個体だったらしい。こんなところで大きな呪文を放たれたら、建物そのものが無事では済まない。獏良の中にあるのは、バクラを守らなくては、という純粋な想い。
——僕の身体はどうなっても構わないっ!間に合え——!
獏良が呪文を唱え終える前に、リザードマンの動きがピタリと止まった。火の玉を発動させず、手に持ったまま。ぎょろりと盛り上がった大きな目をさらに見開く。信じられないというように。目の前にいる人間にしか見えない男を凝視した。
「ククッ……相手が悪かったなァ」

*****

幼い獏良が閉じ込められた牢は出入口の扉以外は何もない完全な密室だった。その扉さえも監視用の覗き窓と食事用の小窓を閉じてしまえば、外との連絡手段はない。
一日に一回、死なない程度に硬いパンと水が投げ込まれる。排泄は専用の壺にして、小窓の近くに置いておく。知的生物としての尊厳を何度も踏みにじられた。
牢に鍵がかかってなくとも、首枷がなくとも、外から聞こえる野党たちの残酷な会話は、獏良から逃亡する意志や希望さえ奪っていった。
野党たちに襲われたときに靴を失くしてしまったせいで汚れて真っ黒になった足を擦り合わせ、膝を抱え、両親たちのことを考えた。もうこの世にいないなら、このまま自分も死んでしまいたい。家族の元へ行きたい。既に涙を流す気力も、声を出す気力もなかった。光の消えた虚ろな瞳で床を見つめるのみ。

獏良が捕まってから何日経っただろうか。それまで聞こえていた野党たちのうるさい声が消えた。代わりに野生動物が騒ぐような音が遠くでしている。徐々にその音は近くなり、やはり人の声なのだと気づいた。——野党たちの悲鳴。尋常ではない様子の声が知性のない生物の鳴き声に聞こえたのだ。しかも、一つの叫び声が聞こえたかと思うとプツリと途切れ、また別の声が聞こえては消える。命の炎が一つ一つ吹き消されていくような音だった。
さすがに心が折れかけていた獏良も外の様子が気になり、顔を上げて扉を見つめる。
「ギャアアアアア」
耳を塞ぎたくなる絶叫と落ち着きない足音が牢屋の前を通りすぎた。そして、蛙の潰れたような音がしたのを最後に声は聞こえなくなった。
コツ、コツ、コツ、コツ——。
野党らしき人物が走ってきた方向からゆっくりとした足音が聞こえてきた。それ以外の音はもう何もしない。
コツ、コツ、コツ、コツ——。
足音は獏良のいる牢屋の前で立ち止まった。
カタン——。
覗き窓が開き、血のように真っ赤な双眸が小さな長方形の穴に浮かんだ。
「ほう、珍しいな。女神の末裔か。強い魔力を感じる。こいつは使えそうだな。運がいい」
声からすると若い男。獏良は状況を理解しようと耳を澄ませた。言葉の意味は分からないが、野党の仲間ではなさそうだ。
「おい、お前、ここから出してやってもいいぜ。オレ様の役に立つならな。このままだとお前は死ぬ。お前の親は犬死を望むか?」
獏良に選択権などなかった。「親」という単語に消えかけた気力が少しだけ戻る。乾いてカサカサに張りついた唇を薄く開け、
「出、た、い……」
嗄れた声を絞り出した。
「その願い、叶えてやろう」
その言葉がするや否や、勢いよく扉が開く。
獏良は扉の外に巨大な気配を感じていた。だから、ドラゴンやサイクロプスのような強大な何かを想像していた。しかし、戸口に立っていたのは、野党たちと同じくらいの背丈で細身の青年だった。姿形はどこから見ても普通の人間。気配という空気が風船から抜けて急激に萎んだような印象だった。
青年は首枷を壊し、獏良に自由を与えた。牢屋から出ると、野党たちは全滅していた。当時の獏良はほとんど心神喪失状態でそれについて疑問は持たなかった。ただ青年の背中について行っただけ。

青年はバクラと名乗った。ハイエルフの森では珍しくはない姓だ。同じ名でも聞き慣れた音を獏良は素直に受け入れた。
仲間も仕事の仲介も不要という理由で冒険者ギルドには所属しておらず、盗賊として一人で冒険者を続けているという。だから、補助魔法に長けた種族であるお前が必要だ——と彼は言った。
バクラの計らいで故郷の森の状態を確認した後、改めて仲間に誘われた。断る理由はなかった。他にはどこにも行く当てはない。
お前の故郷がなくなった原因をすべて滅ぼしてやろうか?とも言われたが、それには首を横に振った。今更どうしようもないことだし、復讐をしたとしても死んだ仲間たちは戻ってこない。それに何より、もうこれ以上は誰であっても「死」を見たくない。
それから、獏良は身体を清め、上等な服を着せてもらった。町から離れた森の中にバクラの住まいがあり、そこで共に暮らすようになった。始めの内は家事をして冒険へと出かけるバクラの帰りを待つのが獏良の仕事だった。五年経った頃からパーティを組むようになった。白魔法を幾つか授かった獏良に千年リングが渡された。そのとき以上にバクラが歓喜したのは見たことがない。
いつの頃からか、獏良はもっとバクラの役に立ちたいと思うようになった。その感情は家族以上のものなのかもしれない。
バクラは出会った頃から少しも姿は変わらず、年齢を重ねているようには見えなかった。獏良の身長が追いついてからは、二人は双子の兄弟と錯覚しそうになるくらいになった。バクラの見た目はただの人間だ。長寿の種族に現れる特徴はない。それでも獏良は何者なのか?としつこく問うことはしなかった。バクラはバクラなのだ。そばにいられればそれでいい……。

*****

リザードマンの瞳に浮かぶのは驚愕。次に畏怖。魔法を発動させることも忘れ、身体が小刻みに震えていた。離れた場所にいる獏良にはその様子は分からない。ただリザードマンの動きが止まったので、訝しく思いながらも呪文の詠唱は中断した。警戒は解かないまま、いつでも相手の反応をできるようにする。
バクラは口の端を吊り上げ、巨体に嘲笑を浴びせた。
「さすが末席とはいえ竜属に名を連ねる者。詠唱なしで炎を生み出せるのか。だが、所詮はトカゲ風情だな。この程度の魔力じゃ、小せェ城を守るのが関の山だ」
リザードマンはそこでやっと口を抉じ開け、乱れた呼吸混じりに言葉を漏らした。
「ァ……貴方様は……」
すべてを言い終わる前に、短剣が振り上げられる。
「もう遅い」
強化された肉体による跳躍は易々と巨体を越す高さまで達し、その頂点にある切先が鋭い輝きを放った。次の瞬間には、真っ直ぐ縦に一線。
リザードマンが最期に見たものは、篝火に照らし出された侵入者の膨れ上がる影だった。見下ろせる身長だったものが天井まで届いている。大きさだけでなく、形も人のものではなく、別の「何か」へと変貌していた。角、翼、爪——。
ああ、やはり——とリザードマンが確信したときには、視界に一本の線が走り、意識が暗転した。
ドウン——。
獏良の位置から確認できたのは、バターのように易々と縦に一刀両断された爬虫類の肉体が倒れるところだけ。ずっと今までこうしてやって来たのだから疑問も抱かず、バクラの元へと駆け寄る。怪我はないか、心配で頭を一杯にして——。

今は失われた祭壇の裏に当たる場所には隠し扉があった。扉からは細い通路が伸びていて、その先へ進むと魔物が執着していた理由であろう宝物庫を見つけた。
部屋には溢れんばかりに詰まれている金貨。平民では一生手にできない程の量。その山の上に金の装飾品や工芸品が無造作に置かれている。一部の竜属は金を集める習性があるというが、先程の個体もそうだったのだろう。
「荷物になるな。テキトーにポケットにでも突っ込んでおけ」
バクラは目が眩む金貨を前にしても平然としていた。それどころか山を乱暴に踏みつけ、部屋の奥へと向かう。意味深に置かれている小型の箱を見つけると立ち止まり、両手で持ち上げる。
周囲のものと比べると、それだけ古めかしい。もしかしたら、神殿の創建当時からあるものかもしれない。バクラは箱を丁寧な仕草で開き、ふうと息を吐いてから——一切の興味を無くしたように、後ろへ粗雑に放り投げた。ぽーんと弧を描いて飛んだそれは、狙ったのか偶然か、獏良の頭に乗る。
「髪飾り?」
獏良は頭にあった物を手に取り、まじまじと見つめる。人間業とは思えないほど精巧な細工が施してあるティアラ。これも例に漏れず黄金製。もしかしたら、ここにあるすべての金貨よりも価値があるかもしれない。
「売って金にするか。しばらく食うには困らないだろ」
どこか投げやりな言葉の後に、忍び声が追加された。
「また空振りか……」
聴力に優れた尖った耳を持つ獏良はそれを聞こえなかった振りをしてティアラを荷物入れの中に仕舞い込んだ。今バクラが発した言葉の意味を尋ねたところで明確な答えは返ってこない気がする。
バクラはいつも何かを探しているようだった。旅の目的はそれで、冒険を生業としているわけではない。だから、仲間を作らず、冒険者ギルドにも所属しない。
獏良は「探し物」がバクラの正体に繋がっているような気がしている。それでも、決して自分からは訊かず、目当ての物が分からないまま捜索を手伝うだけ。
いつか——いつか、話してくれるときが来るのだろうか……。
獏良は前へ迷いなく進む背中を見つめながら、先の見えない未来に想いを馳せるのだった。

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コンビな二人を書くのは楽しかったです。

※あってもなくてもいい設定。
獏良は原初神に近い(遠い親戚とか子孫のような)種族=バクラに見た目が似るのも当たり前。
獏良の故郷を襲わせたのはバクラという案も考えましたが、救いがなさすぎるのでやめました。

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