ばかうけ

「獏良くん、ちょっといいかしら?」
またか、と獏良は思った。
呼び止められたのは校内の廊下。
獏良は職員室から教室に戻るところだった。
今はちょうど昼休み。数学の分からない箇所を聞きに行っていたのだ。
話しかけてきたのは、数学とは関係のない女教師。
獏良は足を廊下の先に向けたまま、上体だけ捻って女教師に顔を向けた。
女教師に対してのささやかな抵抗のつもりだったが、伝わるはずもなかった。
その証拠に、女教師は数メートル先からでも鼻に届く香水の香りを漂わせ、金髪のハリウッド女優でもないのに腰を大きく左右に振りながら、獏良の元へやって来た。
「なんですか」
獏良ができるだけ感情を込めずに女教師に向かって問いかけると、
「頼みたいことがあるの」
女教師の真っ赤に塗られた唇がきゅっと弧を描いた。
学校内で獏良はよくモテる。
眉目秀麗、頭脳明晰、品行方正、温厚従順――校内での獏良の評価には、こういった言葉が並ぶ。
親しい友人たちによる評価はさておき、女子生徒たちにとって、まさに理想の王子様。
転校初日にファンクラブができたほどだ。
女に好かれることを鼻にかける男もいるが、獏良は残念ながら正反対の人種。いくら周りから羨ましがられようが迷惑でしかない。
そして、好意を寄せるのは女子生徒だけではなかった。
女教師もその一人。
獏良を気紛れに呼びつけ、小さな頼み事を幾つもする。
プリントを配れだの、授業で使う備品を持っていけだの、誰でもできることだ。
係でも日直でもない獏良にわざわざ頼む。
好意を口にするわけでも、ましてや身体に触れてくるわけでもない。
大人の女は厄介だと獏良は思い知った。
女子生徒はまだ可愛いものだ。テレビの向こうにいるアイドルに熱を上げるように騒ぐだけ。見た目にも分かりやすい。
女教師とのやり取りは、傍目から見れば、通りすがりの生徒に頼み事をしているだけにすぎない。
しかも、城之内や本田など、騒ぎ立てる生徒の前では絶対に声をかけない。
とうの立った女が欲求を発散するための、ねちっこい遣り口だった。
相手が教師である以上、獏良は嫌な顔はできない。
もしかしたら、下手に反応するだけでも成績に影響するのではないかと思ってしまう。
担任でないことだけが救いだった。
まだ獏良は女教師の感情も行動もよく理解できなかった。
なぜこんなに回りくどいやり方をするのか、考えるだけで頭が痛くなる。
薄ら寒い好意を向けられていることだけは分かってしまう。
なるべく感情を出さずに女教師と接した。
頻度が多いわけではないが、顔を合わせると胃が重くなる。
あまり嫌だ嫌だと口にすれば、「それがお前の願いか」と腕捲りをする人物が出しゃばってしまう。
獏良の密かなストレス源だった。
女教師に誘われるままに職員室までついて行くと、陶器の小箱を手渡された。
六角形の蓋つき。大きさは片手に収まる程度。真っ白で滑らかな表面には朝顔の絵付けがされている。
淡い藍色の小さな朝顔の花と箱に巻つくようにくるくると弧を描く蔓が華美すぎず上品だった。
「これは?」
今度は何の頼み事をされるのだろうと身構えていた獏良は拍子抜けしてしまった。
両手の上に乗せられた小箱を凝視する。呼ばれた理由と目の前の小箱がどうしても結びつかない。
「いつも手伝いをしてくれるお礼。好きに使って」
しまった。そう来たか。
獏良は仰天して思わず、「いりません!」と声に出しかけた。
一旦言葉を飲み込み、教師相手に差し障りのない断り文句を探す。
「僕なんかが戴いては申し訳ないです……。高価なものなんですよね。なおさら、戴くわけには……」
相手の面子を潰さないように、ひたすら低姿勢で首を横に振る。
女教師は獏良の言葉に笑顔を深くした。
「いいのよ。こういうの、うちに沢山あるの。祖父の趣味が骨董品集めだったから。それに価値の分かる子に貰って欲しいのよ」
獏良が幾ら断ろうとしても、女教師は引かなかった。
場数を踏んだ大人の女に草食動物のような男子高校生が口で敵うはずもない。
「大事にしてね」
最後には押し切られてしまった。
まいったなと、頭を掻いて陶器製の小箱を握り締めたまま、獏良は教室に戻った。
好きでもない相手からの贈り物は困る。
形に残るものは特に。
学校から帰った獏良は勉強机の上に小箱をとりあえず置いてみた。
仲の良くない相手からの、しかも中古品など、とても使う気にはなれなかった。
しかし、一度貰ったものを捨てるのも気が引ける。
取っ手のないつるんとした蓋を持ち上げてみた。
六角の空洞があるだけで中には何もない。
内側には絵付けはされていなかった。
TRPG用のダイスくらいは問題なく入れられる。 でも、それはしたくない。
なぜもっと強く断らなかったのかと、今になって後悔した。
主要教科ではないとはいえ、成績に響いたら困ると思ってしまったのだ。
今日の女教師はやけにしつこく絡んできた。
普通に断りを入れただけでは引き下がらなかった。
「はあ……」
獏良は蓋を閉じ、ごろんとベッドに横たわった。
――このまま足が生えて勝手にどこかへ行ってくれないかな。
これ以上捨てられないものが増えてしまうのは困る。
例えば、獏良の首から下がる千年リングのように。
寝転がった獏良とは反対に、もう一人の姿が獏良の身体から分裂するようにむくりとベッドから起き上がった。
「ふああ……」
大きく両手を天井に向けて伸ばし、宙にふわふわと浮かぶ。
目尻が下がっているところを見ると、本当に寝ていたらしい。
「ねみぃ……」
やにわに獏良に覆い被さり、頭を胸に押しつける。
「重い。暑い。どいて」
「重くも暑くもないだろうが。どかねえよ」
実体を持たないもう一人はけたけたと笑った。
露骨に顔をしかめる獏良を楽しげに見つめ、ぱたぱたとその両足が踊った。
「もう!」
悪態はついても獏良は押し退けようとはしなかった。
抵抗しても無駄だとよく分かっている上に、千年リングの亡霊に揶揄われるのは慣れてしまっていた。
もしかしたら、麻痺しているのかもしれない。
バクラはしばらく上機嫌にトカゲかヤモリのごとく獏良にへばりついていたが、突然身体を起こして一点を見つめた。
視線の先には机の上に置かれた小箱。
「あれは?」
小箱から目を離さずにバクラは尋ねた。
「よく気づいたね。学校の先生から貰ったんだ。どうしようか考え中。いらないとは言ったんだけどね……」
「フーン。お前、よく変なのに好かれるな」
「褒めてないよね、それ」
それから日が落ちるまで、ベッドの上で動物のじゃれ合いにも似た不毛な攻防が繰り広げられた。


夕食を取り終わって獏良が皿を片付けていると、顔が火照っているように感じた。
手を頬に添えてみると確かに熱い。そのまま額に手をずらす。やはり、熱を持っている。手が少しひんやりと冷たい。
薬箱から市販の風邪薬を取り出して水で流し込んだ。
熱を測るまでもないだろう。一晩寝れば明日には回復しているはず。
獏良はそう考えて風呂には入らずに、早めにベッドに入ることにした。
それから三十分後、猛烈な吐き気に襲われた。
口を押さえて耐えようとしたが、喉に迫り上がってくるものを感じてベッドから跳ね起きた。
トイレか洗面所に走り込むつもりだった。
「ウッ!」
部屋を出ることも叶わず、切羽詰まった獏良はゴミ箱に顔を突っ込んだ。
食べたばかりの夕食をすべてゴミ箱の中にぶちまける。
吐き気は止まらず、何度も何度も嘔吐を繰り返した。
胃の中が空になった後も胃液を吐き出す。苦いものが混じり始めていた。
胃が絞られているような痛みを感じ始めたとき、やっと吐き気が治まった。
ゴミ箱を抱えたままティッシュ箱を引き寄せ、口元と目元を拭う。鼻も思い切りかんだ。
「はあはあ……」
胃の不快感は残ったままだが、先に胃液と胆汁で汚れた口内を洗い流したかった。
「みず……」
床に手をついて立ち上がると天井がぐるぐる回った。
ふらつきながら台所へ向かう。
立ってはいられずにシンクにしがみつき、コップに注いだ水を飲み干す。
それだけでは足りずに、もう一度水を汲んだ。
寄りかかって頬に当たるステンレスシンクの縁が冷たい。
もしかしたら、熱が上がっているのかもしれない。
体調を崩すことをした覚えはない。
夜間診療所に駆け込むべきか。救急車を呼ぶべきか。
開いている病院を調べる気力も、一人で向かう体力もない。
救急車は大袈裟な気がする。
朝まで安静に過ごし、かかりつけの病院に行く方が無難に思えた。
一人暮らしは体調を崩したときに不便だと身に染みた。
獏良は重い身体を引きずり、ベッドまで戻った。
眠れる気はしなかったが、無理やり瞼を閉じた。
嘔吐で体力を消耗したお陰か、あっさりと獏良の意識は落ちていった。


獏良は夢を見た。
暗闇の中から細く長い紐のようなものが両手首と両足首に巻きつき、ぎりぎりと獏良を締めつけていく。
振り解こうと藻掻けば藻掻くほど、身体に絡みついてくる。腕と足を覆い尽くしても止まらない。
紐はやがて腹や首までに達した。
――くるしい……!
助けを呼ぼうにも喉を締められたのでは声が出ない。
薄れゆく意識の中で、獏良はそれが植物の蔓であることに気づいた。
――たすけ……ァ……。


翌朝目覚めても、不調は続いていた。
昨晩のように吐き気に見舞われることはないものの、今度は内側からずきずきと響く頭痛に悩まされた。
昨日よりは幾分かマシだったが、起き上がる気にもなれずにベッドの中で唸っていた。
既に病院は開いている時間だ。
「思ったより早かったな」
ベッドの横に立ったバクラが腰を屈めた。
獏良の額に他人には不可視の手を当てる。
「苦しいか?」
霞む目で獏良は頷いた。
「本当にお前は変なモンを引き寄せる」
そう口にするバクラの視線は、勉強机に置かれたままの小箱に注がれている。
昨日と似た状況だった。
『フーン。お前、よく変なのに好かれるな』
――あれは……先生のことじゃなかったの。
バクラは昨日も同じように小箱を見つめていた。
「アレはお前の元に行きたかったんだろうな。持ち主の先生とやらは、てめえでも気づかないうちに手助けしちまったのさ。本人は一切悪気ないだろうから恨むなよ。受け取ったのはお前だ。これに懲りたら、もう古いモンには手を出すなよ。今は挨拶代わりみたいなもんで、これからじわじわと心と身体を蝕まれるぞ」
「……君みたいだね」
カラカラの喉から絞り出した声にバクラはにやりと笑った。
「そんな悪態つけるなら大丈夫だな」
獏良も疲れきった表情ではあるものの、微かに唇を笑みの形に歪めた。
「あれはなんなの」
「あれの正体は関係ない。それに中に何が入っていたのか、もう想像しようがないからな。重要なのは年月だ。人から人の手に渡る内に穢れていく。些細なことの積み重ねで、その物自体が意思を持つこともある。古いモンっつーのは厄介なんだよ」
「君も……そうなの?」
今度の質問にはバクラは答えなかった。
ただ目をスッと細めて獏良を見下ろしただけだ。
その表情からバクラの心情は読み取れない。
正解なのか不正解なのか、獏良には分からなかった。
「お祓いに行けばいいのかな」
「やめとけやめとけ。信頼できる徳の高い坊さんやら神主がいて、尚且つこの近所にある寺社をお前は知ってんのか?」
「うー……。壊すのは?」
「悪手だな。それこそ祟られるぞ」
獏良はずきずきと痛むこめかみを擦った。
頭痛のせいで上手く考えがまとまらない。
お祓いはダメ。壊すのもダメ。
これ以上考え込んだら、熱が上がりそうだった。
バクラはそんな獏良の様子を横目で見て、
「……十字路に捨ててこい。なるべく道幅が広い場所がいい」
淡々と言い放った。
「え?」
獏良が聞き返そうと頭を持ち上げたときには、既にバクラの姿は消えていた。
「どういうこと?」
いくら尋ねてもバクラの返事はなかった。
胸の千年リングがチャリチャリと虚しく鳴るだけだ。
壊すのは良くないが、捨てるのは良いとは、どういうことだろうか。
十字路に意味があるのだろうか。
考えに耽る余裕はない。
今はバクラの言うとおりにするしかなかった。一刻も早くこの頭痛から解放されたい。
獏良はゆっくりと身体を起こし、パジャマの上にジャケットを羽織った。
透明のビニール袋に小箱を入れ、ふらつく足で外に向かった。
こんな時におかしな話だが、「明日はちょうど燃えないゴミの日だ」と考えながら靴を履いた。
獏良が思いつく大きな通りといえば、学校へ向かう途中の商店街へと続く道だ。
しかし、バクラの指図とはいえ、人目につく場所は避けたい。
友人たちならともかく、同じ学校の生徒に見つかれば面倒だ。
通学路を辿り、目当ての大通りの手前にある住宅街を抜けた場所で立ち止まると、きょろきょろと辺りを見回した。
運良く十字路の脇にゴミ収集場を発見した。
獏良は勝手にごめんなさいと心の中で呟いてビニール袋に包まれた小箱を置いた。
これで明日の朝には回収されるだろう。
前日のゴミ出し禁止という自宅マンションの張り紙を思い出し、後ろめたくもあったが止むを得ない。
不審に思われないうちに小箱に背を向けた。
帰り道は不思議と身体が軽くなったようだった。
薬を飲むと治った気になる現象と似たものだろうか。
自宅に着く頃には痛みは残っているものの、靄がかかっていた頭はスッキリと冴えていた。
体調が少し良くなったからといって油断はできない。体力も落ちている。
学校は休むことにして、今日一日は大人しくしようと決めた。
ベッドに入る前に獏良はふと本棚から一冊の本を取り出した。
パラパラとページを捲り、文字を辿る。
バクラの言葉が気にかかっていた。
あっさりと解決に導く手腕には舌を巻く。お祓いの才能でもあったのか。本人が怪奇現象のようなものなのに。
十字路にどういった意味があるのか知りたかった。気になって眠れないかもしれない。心身共に余裕が出てきた証拠だ。
引っ越す前に父親から譲り受けた蔵書の中には、風土史や民間習俗に関する本もある。
本に目を走らせていると、地形に関する項目に辿り着いた。


四ツ辻(十字路または交差点)は、あの世とこの世が交わる不吉な場所とされてきた。西洋と東洋のどちらにも魔のものが住んでいるという伝承は多く見られる。
行き交う人々の中に人ならざる者が混じっているのではないかと思われてきたからだ。その為、四ツ辻は魔術的な儀式を行う場所として、しばしば登場する。
日本では、「四」が死を連想させることと、交差した形状が×(バツ)に見えることから、忌避されてきた。×の印は呪いにも使われ――。


そこまで読んで獏良は本から目を離した。あとは様々な具体例が書き連ねているだけだ。
――あの世とこの世の境目か。
獏良が十字路という言葉で思い浮かべたのは、「魔の交差点」という不吉なイメージだ。
それを考えれば、意味のある場所なのではないかと思えてくる。
十字路に呪われた小箱を置くことは、儀式のようなことなのではないか。
――あの世に持っていってくれるとか??
バクラが意味のないことをさせるとは考えづらい。
なぜ解決方法を知っているのかは分からないが、本人がその中心にいるせいか超常現象に関しては信用できそうだ。
バクラは獏良に指図した後は沈黙を保っている。
こうなると、眠っているのか動向を見守っているのか、獏良には判断がつかない。
――どうか、成仏して下さい。
作法など知らないが、とりあえず手を擦り合わせてみた。
それで獏良はすべてが終わったような気になり、安心からか瞼が重くなってきた。
原因が取り除かれたとはいえ、不調なことには変わりない。
のそのそとベッドに上がり、もう一眠りをすることにした。
今度はいい夢が見られますようにと祈りながら。


獏良が次に起きたのは昼過ぎだった。
倦怠感はすっかり失せ、今朝のことが嘘のようだった。
「んー……」
横になったまま猫のような仕草で伸びをして、あちこちと身体の具合を見る。
吐き気なし。頭痛もなし。恐らく、熱もなし。
腹はぐうぐうと唸り声を上げている。
ベッドから降り、リビングへ向かった。
朝から何も食べてないのだ。昨日戻してしまったこともある。
本当なら消化の良いものを選ぶべきところだが、早く固形物を寄越せと胃が催促していた。
キッチンの棚からシリアルの箱を取り出し、中身をボールに入れる。
その上にぽいぽいとスプーンで一口大に切ったバナナを放り込んだ。
ボールと牛乳パックを手に持ち、スプーンを口に咥えてテーブルに運ぶ。
腹ペコ状態なら牛乳を注いでスプーンでボールを掻き回しているだけでご馳走に見えてしまう。
水分も一緒に摂れるとは、シリアルを考案した人物は偉大だなと賛美を送りながら頬張った。
「お、随分と顔色が良くなったじゃねえか」
向かい席にバクラが姿を現した。余裕たっぷりといった様子でテーブルに肩肘をついている。
何度呼びかけても答えなかったにも拘わらず、呼んでもいないのにこうしてあっさりと顔を見せる。今さら驚くことはない。
獏良は平然とシリアルをスプーンで掬った。
「おかげさまで」
牛乳でふやけた穀物の塊を咀嚼する。
「オレの言うとおりにして正解だっただろ」
「うーん、まあ……アリガト」
素直に頭を下げるのも居心地が悪く、勿体つけてから礼の言葉を口にした。
「アレの誘惑にも乗らずに手放せるとは、さすがはオレの宿主だな」
「厄介なのは君一人で充分」
ぷいとバクラから顔を背けた。
バクラは機嫌が良いのか、にこにこと獏良を眺めている。
もしかしたら、バクラなりに獏良を助けたことを誇っているのかもしれない。
「君がお祓いに詳しいとは知らなかった」
「ん?」
「十字路に置いたら解決するだなんて、僕は全然知らなかったよ。あの世とこの世の境目なんだって?」
獏良は砂糖が溶けて甘くなった牛乳を一啜りした。
「解決?あの世?」
バクラは笑顔を崩さずに獏良の言葉を繰り返した。
「おまじないみたいな意味があるんだよね?」
「ねえよ、そんなもん」
冗談でも口にしているように笑いが混じる。
言葉と表情が合っていないように獏良には見えた。
「じゃあ、なんで十字路に置いてこいだなんて言ったの」
獏良の質問に対し、バクラは一呼吸を置いた後、口を半月型に大きく開いた。白い歯が唇から覗く。
「人通りの多いとこじゃねえと、引き取り手が現れねえもんなァ」
「引き取り手?」
不穏な言葉にスプーンを持つ獏良の手が止まった。
「良かったな。これでお前は安心して元の生活に戻れる」
獏良の問いに対する答えが返ってこない。含みのある言葉だけが続いていく。
言い知れぬ不安が獏良の心を包み込む。
「ねえ、答えてよ。引き取り手って何?」
「言葉通りの意味だろ。あの箱を拾う誰かさんのことだよ」
「それって、その人が酷い目に遭うんじゃ……」
「ハア?それ以外に何がある」
バクラの当然といった調子に獏良は今度こそ言葉を失った。
「おいおい、宿主様。赤の他人がどうなろうと知ったこっちゃないだろ。都合の良い解決方法だとでも思ったのか?」
「だって……君がそうしろって言ったから……。何か考えがあるのかなって」
「すぐに人間ってやつは物事に意味を持たせたがる」
バクラは頭が痛いとばかりに首を横に振りつつ深く息を吐いて、
「オレはなァ、お前以外の人間がどうなろうと知ったこっちゃないんだよ。他の人間が苦しもうが死のうがどうでもいいことだね」
獏良は呆気に取られていたが、徐々に険しい表情に変わっていった。
「そんなこと、僕は望んでなかった!」
言い捨てると、食べかけのシリアルを置いたまま席を立ち上がった。
今朝と同様にパジャマの上から上着を羽織り、壁のフックにかけてある鍵をもぎ取る。
「自分から災厄を呼び込むのか、バカ」
「バカで結構。僕のせいで他人が不幸な目に遭うのは嫌なんだ」
呆れた様子のバクラにぴしゃりと言い返し、獏良はドアノブに手をかけた。
そのまま一目散にゴミ捨て場へと向かう。
「やれやれ、お優しいことで」


獏良がゴミ捨て場に着くと、不幸中の幸いにも若い男が箱を持ち去ろうとしているところだった。
慌てて呼び止めて不手際で捨ててしまったことを伝えると、男はバツの悪そうな顔をしてあっさりと箱を手放した。
箱が獏良の元へ帰りたがったのか、単に男がゴミ漁りを後ろめたく思ったのかは不明だ。
何はともあれ無事に箱を取り戻して、めでたしめでたし……というわけにはいかない。
これではただの元の木阿弥だ。
家に帰ってからすぐに獏良の体調不良がぶり返した。
「うー、きもちわるい……」
「良かったな。お前の望みどおりだ。奴さんもお前の元に戻れて喜んでらァ」
獏良は布団の中で丸まって、先ほど食事を取ったことを後悔した。
吐き気に耐えながら唸ることしかできない。
バクラは繭と化した獏良を見下ろし、眉尻を下げて声を立てずに笑った。
盛り上がった布団の上に手を乗せ、
「なあ、宿主。お前の呪い、引き受けてやろうか」
思いも寄らない言葉に獏良は布団から顔を出した。
「それじゃあ、君が……」
「なんだ、オレ様の心配までしてくれんのか。優しいねェ」
口角を持ち上げて顎を撫でるバクラに、
「そうだよ。僕のせいで誰かが傷つくのは見たくはないんだ。君だってそうだよ」
声は弱々しくともきっぱりと言い切った。口を真っ直ぐに結び、意思の強さを示す。
「ハハハ、面白ェ面白ェ。お前にへばられてたんじゃオレも困るからな。五十年だか百年だか知らねえが、ちょっとばかり古いだけのモノにオレが傷つけられるわけがないだろ。お前は呑気な顔して胡座を掻いてろ」
ぽんぽんと獏良の頭に手を乗せた。
「うん……」
獏良は不安げにしばらくバクラを見上げていたが、しばらくして体力の限界とばかりに静かな寝息を立て始めた。
「オレも、か。バカだな。本当にお前はバカだ。甘すぎて涙が出るぜ」
言葉に反してバクラの声に軽蔑の音色は含まれていなかった。温かく慈しみの感情さえ込められているようだった。
「好かれちまうのも分かるけどよ」
柔らかい眼差しを獏良に注ぐ。
「生憎こいつは何年も前からオレのモンでね。あんまり好き勝手されちゃあ、どうにも腹の虫が治まらねえ。こいつに手ェ出した代償は高くつくぜ」


翌朝、獏良が目覚めると体調はすっかり良くなっていた。
まさか……と、千年リングに声をかけたところ、欠伸混じりの眠そうな声が返ってきたので、獏良はホッと胸を撫で下ろした。
寝込むばかりで学校の準備を何もしていなかった。
慌てて教科書を引っ張り出して鞄に詰め込む。
制服に着替え、鞄を抱えて部屋を出ようとして気づいた。
机に置きっ放しだった小箱に、蓋から本体にかけて縦に真っ直ぐヒビが入っている。
「え?ええっ!何もしてないのにっ」
祟りがあるのでは……と机に縋って青くなる獏良に、やはり間延びした声がかけられた。
「別にお前が壊したんじゃないなら気にするなよ。くあ……」
「でも……割れるなんて不吉だよ……」
「ソイツの寿命だったんだろ」
納得のいかない顔で獏良は小箱のヒビを見つめていたが、時計の針が予定を過ぎていることに気づくと、じっとしているわけにもいかなくなった。
「ま、長生きするのが嫌になったんだろ」
「フーン」
早くしないと学校に遅れてしまう。
獏良の頭から壊れた小箱のことは抜け落ちていき、休んだ授業のことで一杯になった。
心配の声をかける友人に笑顔を向け、平和な一日が始まる。
不思議なことが一つあった。
あれだけ獏良に執着していた女教師は、憑き物でも落ちたかのように近づかなくなった。
廊下で擦れ違っても獏良を一瞥もせずに去っていく。
声をかけられなければ、週に数回しかない授業以外は関わらずに済む。
本当に元通りになったと晴れ晴れとした顔で、獏良は振り返らずに廊下を進んでいった。

----------------

たまにオカルトめいた話を書きたくなります。
どんなに強力な幽霊や妖怪が出たとしても、三千年モノに敵うと思ってんの言いたくなります。
これが百話目です。

前のページへ戻る