ばかうけ

獏良は机に向かってペンを走らせていた。
もう一組の眼は頭上から、背後から、あるいは獏良自身の目を通して、様々な角度から獏良の姿を見ていた。
机に広げられたノートに視線が注がれることはなく、長い睫毛を伏せて俯いた顔や一心に動かされている手、表情筋に至るまで隅々と観察している。
獏良本人はそれに気づいていない。
ただ黙々とペンを走らせているだけだ。
固く結ばれている唇が呼吸を忘れて窒息してしまうのではないかと、過剰に案じてしまいそうになる。
獏良が趣味に没頭しているときはいつもこうなのだ。今さら案じる必要はないはず。
バクラは観察を中断し、意識を内側に向けた。
視界が移り変わり、世界の秩序から解き放たれた空間へ。
人や獣、無機物、色も種類も一切統一感のない模型や収納箱からひっくり返して広げられたような玩具の数々、入り乱れて賑やかな場所。
重力にも支配されていない空間をバクラはふわりふわりと漂い下降していく。
周囲にバクラの知った顔が現れては消える。家族、親戚、友人、クラスメイト――。
合間合間に様々な色の靄が花火のように浮かんでぱちぱちと弾ける。
人間の心の中はとても複雑だ。
記憶や感情が絡み合って難解な迷路になっている。
時によっては本人すら理解できないこともある。
どんな感情を抱いているのか、本人でも分からなくなってしまう。
自分の感情をすべて把握して制御できていれば、感情が爆発することも歪むこともないだろう。
人間が感情に流されて自分を見失ってしまうことは少なくない。
獏良の心の中は大好きな玩具でいっぱいだ。
友人とコミュニケーションを取るための道具でもあるから、獏良の中では重要な位置付けになっているのだろう。
心の中へ入れば、まずたくさんの玩具が迎えてくれる。
そして、思い出。
特に大切な人との思い出が八ミリフィルムのように不鮮明な映像となって流れる。
古い記憶であればあるほど、音声が切れたり映像が飛んだりする。
周囲に浮かんでいる靄は感情だ。
心の中は感情によって刻々と表情を変えていく。
オレンジは喜び、青は悲しみ、黄は楽しみ――。
赤は激しい感情――怒りだが、獏良の中にはあまり現れない。
浮ついた色は少なく、緑や白などの落ち着いた色が多い。最近は暖かい色が多くなってきた。
ピンクや紫などの艶っぽい色がまったく現れないのは、年頃の少年としては少し残念だ。
しばらく前は青が多かった。なぜ多かったのかは、考えずとも分かる。
ごちゃごちゃと乱雑で整理のつかない心の中だが、これらはすべて表層に過ぎない。
バクラはもっと深いところへ下りていく。
それは海の中へ潜る様に似ている。
深度が増していくに従って周囲の色が失われていく。
先ほどまで満ちていた知人たちの声も遠ざかっていく。
深く暗い心の底へ。
誰も知らない、獏良自身も知らない、深層へ。
バクラだけがその道を知っている。
光が届かない真っ暗な闇に包まれ、バクラは海底ならぬ心底に下り立った。
音も色もない静かな場所だ。
数メートル先に気配がした。
バクラは暗闇に臆することなく、そちらへ向かって歩を進める。
闇より一層濃い影が視界の先にうずくまっていた。
「やあ、来たね」
バクラの気配を察知したのか、影は立ち上がって口を開いた。
影から紡がれたのは、鳥の鳴き声のように透き通った高い調べ。
実際に影は小さな人の形をしていた。
「おう、大好きな趣味に夢中になっているからな」
くすくすと微かな笑い声が聞こえた。
「それで、今日は何して遊ぶ?」
今度は影がバクラの方へ歩み寄った。
色彩のない世界で闇を掻き分けるようにして影の姿が現れた。
白い髪に柔和な顔立ち。折れそうなくらい細い手足。
バクラのよく知っている顔だが、背丈はバクラの胸の辺りまでしかない。


彼は獏良の「自我」。または、無意識。
心の中で最も重要な部分だ。心そのものといってもいい。
意識から切り離された、獏良自身より獏良を知っている存在。
生まれたときから今までのことをすべて把握している。
例えるなら、催眠療法で呼び起こす潜在意識。それが彼なのだ。


バクラは両手を前に出した。
片方は手の平を上に向け、もう片方は下に向け、両手の間に長方体があるような仕草。二つの手は対角線上で結ばれている。
「今日はこれだ」
さらにバクラが手を前に突き出すと、四角い箱が生まれた。
「わあ、バトルシープだ!」
「やりたがってただろ」
「うん!さすが、僕のことはなんでも知ってるね」
「獏良」は屈託のない笑顔を浮かべた。
姿も表情もまるで子どものようだ。
二人はその場に座り、ゲームの箱を開けた。
中に入っている駒とフィールドを取り出す。
「お前は何色にする?」
「僕は青!」
バクラは四色の駒から青色の羊が描かれた駒の袋を選んで獏良に渡した。
「オレは赤、な」
自身は赤色の駒を手にする。
他の二色は箱へ戻し、横によけた。
フィールドは一枚のボードではなく、幾つもの正六角形のタイルから成っていた。
二人がかりで辺と辺を合わせて広げていく。
四角を目指すのではなく変則的に。すべて床に置くと、飛び出した部分もあれば、虫食いのような穴も開いていた。
「さて、やるか」
簡単な陣取りゲーム。
交互にフィールドである六角形のタイルの上に駒を置き、自分の領土を確保していくルールだ。
形式はオセロに似ているが、駒はひっくり返さない。ただ置いていくだけだ。
ただし、行く手を塞がれないように相手の動きを気にしなければならない。
領土の広さを競うという点では囲碁にも似ている。
もちろん、駒の多い方が勝者。
ルールがシンプルなだけに頭を使う。
子どもには少し不利なゲームだが、バクラと相対しているのは子どもではない。
姿は幼い子どもでも、獏良は獏良なのだ。
「最近はどう?」
タイルに駒を置きながら獏良が尋ねた。
「どうもこうも。誰かさんが頑固だからな。なかなか協力が得られなくてよ」
対するバクラも駒を置いた。
二人はフィールドから少しも目を離さない。
互いに顔色を窺うこともせず対話をする。
ここは心の奥底。剥き出しの心がある場所だ。
嘘も隠し立ても必要ない。
あるのは本音だけ。
真剣勝負に挑むだけだ。
「だからこうして、口説きに来ている」
ぱちんぱちんと駒が乗せられていく。
「ふふふ、仕方がないよね。君が僕に何をしてきたのか。あの日のことを覚えていないとはいえ」
獏良はにこやかなまま駒を進める。
「そんなに僕が必要?」
「必要だ。お前以上の宿主はいない」
それまで流れるように動いていた獏良の手が止まった。
「……フーン」
互いの色に染まってきたフィールドを獏良は静かな瞳で見つめる。


バクラがこの場所を見つけるまで長く時間がかかった。
見つけたのはごく最近のことだ。
初めて獏良の自我を目にしたときは驚いた。
人間の自我は様々な形をしている。
本人そのままの姿をしていることはまずない。
もしかしたら、武藤遊戯は武藤遊戯のままで存在するかもしれないが。
人間の形すらしてないことも多い。
にこにこしている人間の中にある自我が、獰猛な獣の形をしていることだってある。
逆に厳つい顔をしている人間の自我が、小さなネズミだということも。
心とはそういうもの。
表面からでは心の奥底まで見えない。
獏良は獏良だった。
それも、出会ったときの幼い獏良のままだった。
あの頃のまま純粋でいて、同時に頑なでもある証拠でもあった。
変わらない、変わろうとしない、変わりたくない。
バクラと対面した獏良の自我は、最初は口も聞いてくれなかった。
膝を抱えたまま睨みつけてきた。
それが獏良の中の真実だった。
バクラが辛抱強く足を運ぶと、一言二言言葉が返ってくるようになった。
乱暴な手がなかったわけではない。
この獏良を落としてしまえば、あとは煮るなり焼くなり好きなようにできる。
外側からではなく内側から心を開かせるということだ。
しかし、下手なことをすれば、自我は壊れる。
自我が壊れれば、人間はただの人形になる。
バクラとしては、今の段階で廃人になってもらっては困る。
獏良の表層部――記憶を消去、改竄してきたバクラであっても、自我には慎重に言葉をかけていった。
会話ができるようになったところでゲームを持ち出した。獏良が大好きなボードゲーム。
最初から上手くいくはずはない。長期戦になるかと覚悟をしていたところに、獏良はあっさりとゲームに飛びついた。
それから、二人は何度もここで遊んでいる。
頑なかと思えば、無防備な姿を見せる。
なかなか、バクラには理解し難い存在だ。
そうでなければ、千年リングを所有するに値しないのかもしれない。


長考状態に入っていた獏良の手が再び動いた。
「……ねえ、今書いてるTRPGのシナリオ読んだ?」
明後日の方向から話題が放り投げられた。
バクラは机に向かっている獏良の姿を思い出した。
「いんや」
ノートに書き込むほっそりとした手は見ていたが、中身までは見ていない。
「見てないんだ」
「ああ。どうせそのうち、フィギュアだのフィールドだの作り出すだろ。その時分かるのにわざわざ見ねえよ」
ぱちんとバクラが新たな駒を置いた。
「それに、出来上がる前に見ちゃつまんねェだろ。宿主様渾身の力作なんだぞ。ゲームマスターとしての腕は買っている。それなりに敬意を払ってるつもりだ」
ぷっと吹き出す音が聞こえた。
「あは、あはははは。そう。そうなんだ。ふーん」
ぱちん、ぱちん、ぱちん――。
弾む笑い声に駒がタイルを叩く音が重なる。
「楽しみにしてて。僕の力作。……はい、これで置くとこなくなったね」
獏良が最後の駒を置いた。
ぽつりぽつりと空いた数箇所以外は赤と青に染まっている。
「っかー、オレの負けか。ここでは勝てねえなァ」
バクラは後方へ倒れるように手を突いて背中を大きく反らした。
これでバクラの全戦全敗記録が更新されてしまった。
この空間での読み合いになると、どうしても獏良に勝てなかった。
「今度は『外』で挑んでみたら。『僕』が勝負に応じる可能性は低いけど」
勝者の余裕たっぷりの笑顔が眩しい。
獏良は青の駒を一枚一枚回収し始めた。
「ねえ、君。僕がどうしてこの姿でいるか分かる?」
バクラは駒を片付けもせずに獏良を眺めていた。
「なんとなくな」
幼い姿のままでいる人間の攻略法など見つからない。
畜生や化け物の方が分かりやすい。醜い人間の本性はそんなもの。金や権力に弱ければ、適当に与えてやればいい。
本性が子どもであるからといって、飴やチョコレートを与えても気は引けないだろう。
どうすればこの宿主を取り込めるか、今までずっと考えてきた。
身体をいくら乗っ取ったところで、心までは自由にできない。
答えは出ないままだ。
獏良は駒を集め終え、袋の中へざらざらと収めた。
「僕は君に出会ったときから酷い目に遭わされてきた。悲しくて辛いことばかりだよ。でも、僕がこのままの姿でいる……いられるのも、君のお陰なんだ」
バクラを真っ向から見据え、幼い中にもはっきりとした意思が視線の中に感じられる。
「僕の心は君に守られてもいる。だから、変わらない姿でいられるんだ」
「嫌味か?」
つい、ぽろりとバクラの口から本音が零れた。
獏良の口から否定以外の言葉が出てくるとは、あまりに信じられなかった。
邪魔者は排除するが、守っているつもりはない。
第一、周囲の人間を人形にしていったことを獏良は恨んでいるはずだ。
獏良は首を横に振る。
「いいや。君も分かっているはずだよ。『僕』は本当のことしか言わない。だから、君はここに来ているんだろう」
バクラは首を縦にも横にも振らなかった。
自分より一回りも二回りも小さな子どもを真剣な眼差しで見つめている。
「僕は今の僕のこと好きだ。僕の創る世界も。そして、その世界を気に入ってくれている君のことを認めるよ。気持ちは変わっていくものさ」
しばらくして、バクラはやっと肩の力を抜いた。
――認める、か。大進歩だな。
赤だけになったフィールドの駒を掻き寄せ、口を開けた袋の中へ入れていく。
フィールドも元の小さなタイルに崩し、すべて箱の中へ放り込んだ。
バクラは立ち上がり、蓋を閉じた箱を小脇に抱えた。
「じゃあな。新しいシナリオ、楽しみにしてるぜ」
獏良に背中を向けて、挙げた片手を左右に軽く振る。
去ろうとするバクラに、少女のように高く澄んだ声がかけられた。
「また、遊ぼうね。待ってるよ」
「獏良」は、嘘はつかない。すべてが真実。
バクラは一度だけ振り返り、白い歯を見せて笑った。
「今度勝つのはこのオレだ」

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仲良くゲームをしたり、心を見せ合うことは、なかなかない二人なので。

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