ばかうけ

その空間には一つの扉以外に存在するものは何もなかった。
ぽつんと扉がだけが立っている。
空間と空間を繋ぐことが扉の役目だとすれば、機能を果たしていない、まるでただの飾りか冗談のようだった。
クリーム色のきめ細かい重厚な石でできた両開きの扉。花崗岩かそれに近い材質のように見える。
大人を三人縦に積み重ねても、両腕を広げても届かない高さと幅。
表面は凹凸を残したまま仕上げられていて、権力者が好むよく磨かれた大理石や宝石を嵌め込んだものとは異なり、飾り気はない。
しかし、扉には植物の蔦や幾何学模様がアラベスク風に並んで刻まれており、精巧な細工は途方もない手間をかけたものだということが分かる。
両面に寸分の狂いなく同様の細工が施されている。
どちらが表側か裏側か、はたまた外側か内側か、見分けがつかない。
扉の前に立ち、ひょいと身を捩って反対側を覗いてみれば、同じ光景が広がっているのだから。
空間には昼も夜もなく橙色と冥色が混ざり合い、立ち込める薄い靄に色が溶け込み、夕靄のような様相を呈している。
獏良は扉の端に立っていた。
いつまで経っても同じ風景であるはずなのに、真っ直ぐに飽きもせず前を見つめ続けている。
獏良がここに来てから、どれくらいの時が流れたのだろうか。
時折現れる見知った顔が知らせるくらいで、変化のない空間では時の感覚を忘れてしまう。
獏良は扉のことは一つのことを除いて何も知らず、通ったことは一度もない。
門番のように立ち続けているだけだ。
初めて扉を前にしたとき、獏良は既視感に首を捻った。
はて、どこかで見たような。
形ではなく、もっと本質的な何か。
うんうんとしばらく唸り、やっとのことで思い当たった遠い過去の記憶に頷いた。
なるほど、確かに見覚えがあるのも当然かもしれない。
一度だけ訪ねたことのある……いや、正確には二度だ。はっきりとした記憶がないだけで二度訪ねたことのあるあの場所で、よく似た雰囲気を持つ扉を見たのだ。
記憶は薄れても、あの場にいた感覚だけはしっかりと残っている。
瞼を閉じれば脳裏に甦る懐かしい友たち。
その後、いくら年を重ねても、あの頃に出会った友以上の宝はなかった。
薄靄の向こうから、今まさに思いを馳せていた友がゆっくりと姿を現していた。
「やあ、いつぶりだろう。久しぶりだね、遊戯くん」
獏良の方から声をかけた。 ここに来る大抵の人間たちは意識が朦朧としているか、事態についていけずに困惑している。
だから、獏良は意識が自身に向くように配慮をしたのだ。
声をかけられた遊戯は一度立ち止まり、瞬きを数回してから獏良に笑顔を向けた。
「獏良くん!」
駆け寄り、獏良の手を握ってぶんぶんと上下に振る。
「久しぶり!こんなところで会えるなんて!」
一番古い記憶から少し大人びた姿の友人に獏良の目が潤んだ。
「懐かしいね」
「最後に会ったのは……えっと……」
難しい顔をし始めた遊戯に、獏良は正解と思われる時期を伝えた。
「そっか。じゃあ、あれから随分と経つんだね」
「そうだね。城之内くんや本田くん……みんな来たよ。扉の向こうにいる。君が最後みたいだ」
よく知る名前を耳にし、遊戯の表情が輝いた。
しきりに懐かしい懐かしいと口にしながら。
「この扉の向こうに行けば会えるんだね?」
「うん、僕も向こうがどうなってるかは分からないけど。みんな待ってるはずだよ」
「獏良くんは?行かないの?みんなをここで見送っていたの?」
獏良は目を瞑って首を横に振った。
「うん、僕はまだ行かない。入ると戻れなくなっちゃうんだって。僕にはまだすることがあるから」
遊戯は大きな瞳で獏良の顔を見つめた。
そして、少しだけ小さく頷いて、それ以上追求はせずにただ一言だけ、「待つんだね」と呟いた。
獏良は肯定も否定もしなかった。
代わりにこの場所で出会った友たちと同じように思い出話を始めた。
「あはは、そんなこともあったね!」
「その時の城之内くんったらさあ!本人に向こうで会ったら聞いてみてよ」
時間が存在しない空間で二人は子どものように無邪気に笑った。
「あー、おっかしいっ!こんなに笑ったのは久々だよ」
目に涙まで浮かべた遊戯が腹を押さえる。
獏良も久方ぶりの友との会話に喜び浸っていた。
雑談から変わらない調子で、
「向こうにはアテムくんもいるんだよ。中の人に聞いた」
心に留めていたことを伝える。
その言葉に遊戯の瞳が見開かれた。
くしゃりと顔が歪み、下唇を噛んで笑顔を無理やりに保つ。
それでも足が今にも駆け出しそうに震えている。
「僕のことは気にせずに先に行ってて」
「でも……」
「すぐに行くから」と獏良が安心させるように微笑むと、遊戯は大きく頷いた。
「ずっと待つつもりなんだね。彼を」
獏良は困り顔を作っただけで問いかけには答えない。
「別に健康に気遣ってた訳じゃないのに、長生きしちゃったからなあ。不思議なもんだね。みんなはもっと長生きしたけれど」
「幸せだったよ。みんな」
遊戯の言葉に今度は頷いた。
「幸せだった」
しばらく二人の間に沈黙が続く。
重苦しい時間ではなく、過ぎ去った日々を懐かしむ静かな時間。
沈黙を破ったのは獏良の方だった。
「だからさ、人生の締め括りにあいつに一言言ってやりたいのさ!」
にっかりと悪戯っ子のように歯を見せる。
「うん」
遊戯が前に立つと、扉はゆっくりと奥に向かって開いた。
それまではただの置物と化していた扉の隙間から眩い光が漏れて遊戯を照らす。
中の様子は真っ白に塗られて見えない。
しかし、ただ扉の反対側に繋がっているわけではないことは明白だった。光は一方にしか伸びていない。
この空間ではない何処かへ繋がっている。
獏良はそれまで他の友にしてきたように、手を振って見送る。
「またあとで!」
友が残した最後の台詞だった。
遊戯が完全に向こう側へと消えると、またゆっくりと独りでに扉が閉まった。
獏良は扉に背を向けて、遊戯と再会する前と同じように静かに佇んだ。
これで知り合いは全員扉の向こうに去っていった。
遊戯のように長々話す者もいれば、一瞥しただけで颯爽と扉の奥に消えていった者もいた。
姿は人それぞれで、学生時代のままであったり、壮年期や老年期である場合もあった。
その違いについては、人生の中で一番印象強い姿でここに現れるのではないかと獏良は思っている。
遊戯はゲームクリエイターとして活躍していた青年期の姿で現れた。


ここは死後の世界。
命を終えた人間がやって来る場所だ。
正確には現世と冥界の狭間。
扉が二つの世界を繋いでいる。
獏良は他の人間と同じように、気づいたら扉の前に立っていた。
きちんと己の死を理解しており、扉を通れば恐らく天国のような場所へ辿り着けるのだと直感が働いた。
実際に扉の光に包まれた者たちは、漏れなく満たされた表情をするのだから、当たらずいえども遠からずだろう。
扉を通れば、安らかな世界と友が待っている。
しかし、獏良は扉から動こうとはしなかった。
冥界へ一歩足を踏み入れれば、元の世界には戻れない。死者は現世に留まり続けてはいけないのだ。
扉の外から中へ向かって大きな声で尋ねてみた。
中にいるはずの人物が本当にいるか。
答えはノーだった。
それから獏良は扉の前に立ち続けている。
中から冥界の使者が何度か声をかけてきても首を横に振った。
使者といっても声が聞こえるのみで、相手がどんな姿をしているのかも獏良は知らない。
宗教画で見た天使のような姿をしているのか、はたまたもっと別のものなのか。
人が冥界に向かう様を何度も見て、遅れてやって来た友と言葉を交わし、徐々にこの場所と扉について理解していった。
友たちはみんな誇らしげな顔をして去っていく。それぞれ最期まで幸せだったに違いない。
生前、頻繁に取っていた友との連絡は、各々の生活があり少なくなっていった。
中年以降はそれも顕著になり、たまに届く便りに若い頃を懐かしんだ。
顔を合わせる機会も同様で、老年期に入れば、外出すら少なくなる。
ここで顔を合わせることは、おかしな話だが同窓会のようだった。
獏良の命が尽きてから何年も経った。
それでも獏良は彼を……バクラを待ち続けている。


十代の頃は波乱に満ちていて、喜びに悲しみに、ありとあらゆる感情を味わった。
比べてその後の人生はなんと平和だったことか。
バクラとの出会いは、獏良の人生の中で一番強烈で忘れられない出来事だ。
いつまで経っても獏良の中で薄れていく気配はなかった。
何も言わずに消えてしまったバクラに対して負の感情は持たず、ただ遠くに行っただけと納得していた。
そこへ、派手ではないが穏やかで満ち足りた人生を終え、もう一度顔を見ることになるのかと扉の前に立ち、「いない」という返事を聞かされたのだ。
あれから何十年も経つのに、何処で何をしているのだろうか。
獏良はバクラがすぐに分かるようにと別れたときの姿を取った。
しかし、一向にバクラが現れる気配はない。


薄靄の中に人とも獣とも見分けがつかない黒い影のような、泥の塊のような物体が、のっそりと地面に身体を引きずるようにして現れた。
扉に向かって蠕動運動を繰り返し、遅いながらも確実に扉に向かってやって来る。
獏良は躊躇わず影に歩み寄り、「君はあっちへ行けないんだ。遠くへお行き」と優しく言い聞かせた。
影は動きを止めて、言葉にもならない不明瞭な唸り声を発し、すごすごと来た道を戻り始めた。
獏良は決して嫌がらせをしたわけではない。
以前、光の中へ飛び込もうとした影が、まるで太陽に目を焼かれるが如く哀れな呻き声を上げ、地面にへばりつく姿を目にした。
彼または彼女は冥界へ行く資格を失っているのだろう。
同じような影は何度となく現れ、扉の近くでじっと様子を窺ったり、元来た道を戻ったり、行動は様々だった。
なぜそんな姿になってしまったのか、元の姿を忘れてしまったものは冥界には行けないのかと、獏良の胸がちりちり痛んだが、できることは影たちが光に身を焦がさないように追い払ってやることだった。
長い間じっとしていて塵となって消えてしまった者もいれば、うろうろしている内に元の姿を思い出して辛うじて人間の形を取り戻し、扉の向こうへ消えていく者もいた。
助けを求めているのか、新たに訪れた魂に縋ることも稀にある。
悪気はないのだろうが、捕らえられた魂は道連れにしかならず、影は元の姿を取り戻すどころかますます黒ずむだけで、どちらにとっても救済にはならない。
人間に悪さをする悪霊とは、もしかしたらこのように生まれるのかと獏良は思った。
――悪霊。
獏良にとってバクラの存在は、厄介な悪霊に取り憑かれていたのと同じだった。
獏良の中から消えたとしても、存在が闇だと自称していたバクラが完全に消滅したとは考えられなかった。
元の姿でなくても、目に見えなくとも、何処かで何かの形で存在しているのではないか。
いつかまた出会うのではないかと、頭の片隅でそんな考えが浮かんでいた。
平穏で幸せな人生を終えて、肉体から魂が解放されたとき、今がその時なのだと悟った。
獏良の寿命を削るようなことばかりしてきたバクラ。
だから、言ってやろうと思ったのだ。

『どうだ!長生きしてやったぞ!』

傷つけてばかりとはいえ、獏良を不幸にすることが目的ではなかったバクラには、蛙の面に水で痛くも痒くもないかもしれない。
「ナニ言ってンだ、お前?」と鼻で笑われるかもしれない。
あまりにも近くに居すぎたために容易く想像ができてしまう。
それでも、言ってやりたかった。
誰にも恥じることのない幸せな人生を歩んで、精一杯生き切って見せたかった。
胸を張って言ってやるのだ。
「何処をフラフラしてるんだよ……」
遊戯には大丈夫だと伝えたが、さすがに何年も同じ状態が続いて不安は大きくなる一方。
いつまで待てばいいのだろうか。
バクラも扉を通る資格を失い、人の成り損ないのような黒い塊になってしまっているのかもしれない。
元の形を忘れて延々と現世と冥界の間を彷徨う。
罰が課せられているかのよう。
ならば――。
――僕なら、あいつの姿を取り戻させることができる。
同じ姿をしている獏良を見れば、思い出せるかもしれない。
――あいつがどんな姿をしていても、僕なら……きっと、多分……絶対、分かる。
それでも、探しに行くのは無謀なことだった。
どうやってここに辿り着いたのかも分からないのに、一度扉から離れてしまったら戻れないような気がした。
扉の前で待つしかない。
何処にいるかも分からないバクラを探しに行きたいという衝動を必死に抑えてきた。
そして、何より恐ろしいのは、とっくにバクラの魂が消滅してしまっている可能性だ。
――あいつはしぶといんだ。何度も僕の前に現れた。簡単に消えっこない……。
恐ろしい想像にぶるぶると震える腕で身体を抱きしめた。
どんなに悪事を働いたとしても、人の形を奪われた挙げ句に消滅させられるなんて残酷ではないか。
せめて償う機会を与えて欲しい。
――勝手に消えるなんて許さない……。
冥界でも言いたいことが言えないなどとは考えたくない。
――あいつは現世に三千年も居座り続けたんだ。こんなところで消えたりなんか……。
じわりと獏良の目尻に涙が滲む。
――幸せだったんだぞって自慢してやるんだ。……聞いて。僕の話を聞いてくれよ……。
このまま扉の前に立ち続ければ、獏良の魂も黒く染まってしまうかもしれない。
資格がありながら、扉を通ることを拒否して現世と冥界の狭間に留まり続けていれば、黒い魂たちと同じ。
目に薄らと透明な涙の膜が張る。その奥に潜む瞳の緋色が漂っていた。
今にも目から涙が溢れ落ちんばかり。
――会い……たい……。
心からの言葉だった。
肉体を離れ、現世を離れ、立場も因縁も関係がなくなった今なら、真っ直ぐな言葉を交わすことができるはず。
それこそ、分かり合うことも……。
――飽きた降参だって言わせるまで話してやるんだ。
獏良は手の甲で涙を拭った。
泣いていたなんて知られてしまったら馬鹿にされてしまう。
堂々と扉の前に立って迎えなくては。
そう思ったのも束の間、新たに浮かんだ涙が目の縁に溜まる。
火がついたように目の周りが熱い。
「うっ……」
わななく唇から微かな嗚咽が漏れる。物言いたげに開閉するが、言葉は出てこない。
鼻を啜り、歯を食い縛った。
獏良の目線は変わらず前方から動かない。
漠然と視線を送っているのではなく、意思を持って前を見つめていた。
「うう……」
水気を帯びて輝く宝石のような瞳に、薄靄から現れた一つの姿を映して。
再び獏良の口が声なく開閉し、はっきりと顔が判別できる距離に迫ったところで、ついに胸に押し寄せるすべての感情を吐き出した。
「…………おそい……ッ!!」
獏良の前に立ったもう一人は唇を弓なりに歪める。かつて見慣れた表情。
そして、口を開いた。
獏良の耳に懐かしい音が届く。
もう獏良を抑えているものは何もなく、感情のままにつんのめるようにして彼に飛びついた。

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いつかどこかで再び会えることを願って。

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