ばかうけ

獏良が「もう嫌だ。僕の身体を好き勝手にするのはやめてくれ」と泣き始めたとき、バクラは苛立つよりも先に呆れ果てていた。
そして、代わり映えのしない言葉の応酬に「またか」と舌打ちをする。
いつ始まっても、どんな言葉を交わしても、結局は同じ結末に至るのだから、最近はすっかり食傷気味だった。
泣き喚く獏良を力で捩じ伏せて、心の奥底に閉じ込める。
気に入らない者や威勢の良い者を屠ることが許されるのなら望むところだ。喜んで責め苦を与えてやろう。
力の差がある者を黙らせることは面白味がない。
大した抵抗もできずに泣くばかりの人間など征服し甲斐がない。
嗜虐欲は満たされるが一時のもの。
何度も同じことが繰り返され、それもとっくにバクラは飽きていた。
大人しくなった獏良の感情を少し弄ってやる。
闇遊戯に打ち負かされてから、獏良の警戒心を解くために始めたこと。
あまり不審の念を抱かれては、行動を起こせなくなる。
悲しみや恐怖といった負の感情をできる限り取り除く。
心を壊さないよう慎重に。虫の羽を殺さずに剥いでいくように。最小限の力で獏良の心に触れる。
これも気が重い作業だった。
加減するということは難しい。一思いに殺してしまう方がどんなに楽か。
獏良はバクラにとって必要な人間だ。どんなことをしても生かし続けなければならない。
そこらへんを歩いている有象無象とは違い、二度と手に入らない上質な器だからだ。
作業は億劫ではあるが、手間を惜しまずに「大切」にしなければならない。絶対に――。
針穴に糸を通すような感情の除去手術を終えると、獏良の顔から翳りが消える。
最後まで「消さないで」とうわ言を繰り返していたが、明日になればすっきりとした表情で学校に向かうはずだ。
しかし、しばらくすれば失った感情を取り戻してまた騒ぎ出す。
感情は絶えず移り変わるものだから、ずっと同じ状態ではいられない。
応急処置にしかならないとは分かってはいても、バクラは続けなくてはならない。
いっそのこと記憶ごと抜き去ってしまいたかった。
それでは周囲と記憶の齟齬を引き起こしかねない。
遊戯を始めとする友人たちと少し話せば、すぐに明らかになってしまう。
一言で表せば、今の状態はバクラにとって一番の面倒事だった。
しかもどういうわけか、獏良が騒ぎ出すまでの期間が徐々に短くなっているのだ。
もしかしたら、普通の人間より心の抵抗力が強いせいなのかもしれない。
千年リングの邪念に耐えられる魂の持ち主が、そう易々と心の操作を受け入れるわけがないということなのだろうか。
表面上取り繕うだけでは無意味なのか。
打開策を見つけなければ、気が滅入る作業をずっと続けなければならないことになる。
バクラは静かに眠る獏良の顔にそっと視線を送った。


翌朝、獏良は何事もなかったかのように学校へ向かった。
友人と会話を交わす表情も明るい。
そうやってずっと暢気に笑っていれば互いに楽だろうにと、獏良とは正反対にバクラは渋い顔をしていた。
獏良の学校生活にも私生活にもまるで興味はない。
それなのに何が楽しくて見張ってなければいけないのだろう。
突き動かす何かが獏良の心に生まれたのだろうか。
バクラに屈してはいけない、負の感情を消されてはいけない理由が。
バクラからすれば自分に都合の良い面はあるものの、悪いものを取り除いてやっているつもりで、獏良が心底嫌がる心情を理解できない。
学校にいる間は獏良に変化はなく、まったく平和な時間が流れていった。
事態が一変したのは自宅に帰ってからだ。
それまで獏良は学校で出された提出物を片付けるために大人しく机に向かっていた。
教科書を開き、ノートに文字を書き込んでいく。
定規をペン立てから取り出し、引き出しの一番上にある蛍光ペンで線を引く。
蛍光ペンを引き出しにしまい、今度は下の引き出しを開け、視線を落としたところで獏良の動きがぴたりと止まった。
時間にしてほんの数秒ほどで、獏良は指の先で静かに引き出しを押し戻した。
そして、紙に皺が寄ることを気にも留めずに、机に広げられた教科書とノートの上に突っ伏した。
人間の機微を理解しないバクラでも、さすがに察した。
――今度は一日と持たなかったか。
いくらなんでも早すぎる。これではイタチごっこだ。
「……やめてって言っても、やめないんだろうね」
獏良が顔を伏せたままぼそりと震える声で言った。
「ご自分の立場をよぉく理解しているようじゃないか」
誤魔化すことは無意味と悟り、バクラは不遜な態度を取ることに決めた。
泣いても笑っても結果は同じなのだ。
「でも、僕は何度でも言うよ。僕の心を弄るのだけはやめて欲しい」
「ほー。じゃあ、オレ様がお前の身体を使って悪さをしても口は出さないって言うのかい」
「それは……」
バクラの切り返しに獏良は言葉を詰まらせる。
狼狽えるあまりに顔を上げ、実体のないバクラを探るように椅子に座ったまま向きを変えた。
振り返ったところでバクラはそこにはいない。いるのは獏良の中だ。
二心一体だということを分かってはいても、反射的に人間相手に話しかけるよう身体が動いていた。
それでもその場に立ち上がり、虚空に向かって声を上げる。
「何をしようとしているのかは知らないけど、君だって無闇に人を傷つけることはしないはずだ」
「そうだな。確かにその通り。メリットがないからな。でも、相手がお前のオトモダチなら話は違ってくるな」
「……なんでそんな言い方」
「オトモダチ」の言葉に獏良の顔色がさっと青醒め、唇がわなわなと震え出した。
落ち着かない様子で部屋の中をうろうろと歩き回り、
「僕の……言ったことは……そうじゃ、なかった……」
一語一語確かめながら口にする。
「そう、僕は勝手に僕の気持ちを弄るなと言ったんだ。余計なことを言ってはぐらかそうとするな」
「わりいわりい。そんなつもりはなかったんだが、お前の顔を見てたらつい、な。怒ったり泣いたり大変だな」
獏良の耳にわんわんと、さも楽しげな笑い声が響き渡る。
「うう……」
耳を塞いだところで意味はない。堪らずに獏良は頭を押さえて呻いた。
第三者からは幻聴に悩まされる少年の姿にしか見えない。
獏良は頭を押さえたままふらふらとよろめき、ベッドの上に俯せに倒れた。
「僕の心を取らないで……」
「盗るのがオレの仕事だからよ。残念だったな」
「嫌だ……」
溢れる涙がベッドのシーツに染みを作る。
髪が乱れるのも構わずに頭を振る。
バクラは取り乱す獏良に優しい声音で言葉をかけた。
「なあ、宿主。お前に乱暴をするつもりはないんだぜ。大人しくしているだけでいい。お前は大切な存在なんだ」
それは嘘偽りないバクラの本心だった。


大切な存在だからこそ、生かして守ってやってるのだ。
こんなにまどろっこしいやり方をするのも好意の表れ。
なぜ、抵抗する必要がある。
生まれてから十六年しか経っていないのだから仕方のないことかもしれない。
三千年の時を過ごせば、きっとお前にも理解できるだろう。
どれだけお前を「大切」に思っているのか。


およそ人間には理解できない身勝手で傲慢な思考回路。
獏良を騙すつもりは僅かもない。慰めるための言葉。
だから怖がるなと、優しく手を差し伸べるがごとく。
この世界にいる何人の人間が信じるのだろうか。人間にとっては意味をなさない暴論。
どの口で言うのかと憤慨するのが普通だ。人間なら突っぱねて当然のこと。
しかし、不幸なことに獏良は耳を傾けてしまった。七十四億分の一の確率だったかもしれない。
獏良は頭を持ち上げ、充血して潤んだ目をきょときょとと動かし、
「たいせつ……」
バクラの言葉をなぞるように唇を動かした。
「そうだ。だから、オレの言うことを聞いてくれるな?」
やっと大人しくなったとバクラが安心したのも束の間、再びぽろぽろと獏良の目から涙が溢れ始めた。
シーツをぎゅっと握り締める手が白い。
「大切でも、やめないんだね」
嗚咽混じりの言葉には落胆の色が滲んでいた。
結局は同じ――。
いつも同じところへ行き着く。
獏良は四肢をあらん限りの力でバタつかせて抗った。
バクラは内側からそれを押さえつけようとした。
身体の主導権の取り合い。
他者の目には異様な光景に映るだろう。ベッドの上で少年が一人で暴れている。
口からは二つの人格の言葉が交互に流れ出す。
「大人しくしろ」「どうしてこんな」「黙れ」「嫌だ」
仰け反っては転がる姿は、まるで陸に打ち上げられた魚。ぴちぴちとベッドの上を跳ねる。
永遠に続くかと思われた攻防も、全身が大きく痙攣したのを最後に、ピクリとも動かなくなった。
静けさが部屋に満ちる。
しばらくして開かれた瞳は眼光鋭く、先ほどとはまるで別人。
何事もなかったかのようにするりとベッドから降り、乱れた衣服を直し、髪を片手で整える。
結果が見えていても、獏良は最後まで抵抗をやめなかった。
今は心の奥底で静かに眠っている。
バクラにしてみれば心外だった。あれほど優しく接してやったのにという想いが強まる。
抵抗など無意味なものであるはずなのに。
すぐに面倒な作業をする気にもなれず、バクラは首をコキコキと鳴らした。
獏良が抵抗した際に手足を突っ張ったせいで筋肉が強張っている。
余計な体力を使ってしまったと、肩を回して一息つく。
人間の中でも獏良の言動は不可解そのもの。
大人しくなったと思えば喚いたり、泣いていたと思えば耳を傾けたり、扱いづらいことこの上ない。
負の感情を取り戻したときなど、勉学に励んでいる真っ最中だった。
――きっかけも何も……。
獏良の行動を振り返り、バクラは引っ掛かりを覚えた。
そういえば、と机に歩み寄る。
泣き出す前に何かを見ていなかっただろうか。
記憶を頼りにバクラは机の引き出しを開けた。
一段目、ペンやノリなどの文房具が種類別に仕切って収納されている。
二段目、便箋と封筒の束が積み重なっている。
引き出しを閉めようとしたバクラの手が止まる。
一通だけ封の閉じられた封筒が束の上に置かれていた。
取り立てて珍しいことではない。亡き妹に手紙を書くのが獏良の習慣だ。
書いていることは把握していても、内容まではバクラの頭に入っていない。
たかが手紙に興味が持てなかったのだ。
目にしたことはあっても、読もうとしたことはしなかった。
近況報告であったような記憶だけが微かに残っている。
手紙を書き終わると、いつも獏良はしばらく引き出しの中で眠らせる。
気の済むまで保管した後は、ポスト代わりのゴミ箱に「投函」し、また次の手紙を書く。
バクラから見ればまったく無意味な行動だ。
しかし、どこか儀式めいた獏良の習慣を不快には思えなかった。
獏良なりの供養のつもりなのだろうと、勝手に解釈をしていた。
引き出しに入っていた封筒は、そんな獏良の日常の一部に見えた。
しかし、よくよく注意すれば様子が違っていることに気づいた。
バクラの記憶では封筒の中央に「獏良天音」と書いてあるはずだった。
死者に住所などありはしない。手紙という形式を取るために名前だけ書くことにしているのだろう。
引き出しの中にある見慣れた無地の封筒には何も書かれていなかった。
しかし、封はきちんとしてある。
手に取ると薄い膨らみが空ではないことを証明していた。
――これを見ていたのか?
つまらないただの封筒がなぜだか今日は気になる。
バクラは封筒の端を破って中身を取り出した。
中には簡素な便箋が丁寧に折り畳まれている。
便箋を開き、目にした文字にバクラは息を呑んだ。


僕の中に住むもう一人へ

初めてキミに手紙を書きます。どうしても伝えたいことがあるんだ。
僕は口で伝えるのがあまり上手くないし、キミを目の前にすれば言葉が出てこない気がして、
やはり僕には慣れたこの形が一番合ってるのだと思いました。

僕の感情を勝手に消すのはやめて下さい。
僕の感情を取らないで下さい。
僕の心は僕のものです。
たとえ嫌な記憶でも、気持ちでも、そのままにしておいて欲しい。

なぜなら、僕はキミのことが好きだからです。
おかしいと思うだろう?バカなことだと笑う?
これが僕の本当の気持ちです。

今までずっとキミのことを考えていました。
キミのことを理解できなくて、考えるしかなかった。
それは知りたいという気持ちに変わっていきました。
キミが何を思って、何を目的とするのか。
好物は?嫌いな物は?趣味は?好きなゲームは?
どこで生まれたんだい?僕のことはどう思っているの?
キミのことを僕は何も知らない。
キミのことばかり考えて気づいてしまった。
相手のことを知りたいと思う気持ちは、好きだということ。

僕はどうしても君のことが知りたい。
僕はキミのことがどうしようもなく好きなんだね。
とても嫌いになんてなれないよ。

キミに触れる不安も悲しみもすべて僕には大切なものです。
いらないものに見えるかもしれないけど、キミと過ごす時間が生んだものなんだ。
どうか、僕から取り上げないで。
それが僕からのお願いです。
キミがこの手紙を読んでくれることを願って。


手紙にはよれている箇所が幾つかあった。
その箇所の文字は微かに滲んでいる。
どんなに乾かしても元には戻らない小さな水たまりの形跡。
目を擦りながら手紙を書く獏良の姿がありありと目に浮かぶようだった。
想像するだけでやるせない、とても痛々しい姿だ。
バクラでさえもそう感じるのだから、当の本人はどんな心情でこの手紙を書いたのだろうか。
読まれるとも限らない、読まれる可能性の低い、手紙を。
――このオレを好きだと……?
予想外の内容にバクラは手紙を手に持ったまま愕然としていた。
あの小さかった少年が、抵抗してばかりの少年が、自分のことを好きだとはとても信じられない。
しかし、手紙の文章は獏良の心を真っ直ぐに語っていた。
大切な存在だと口にしながら、その大切な存在の言葉を疑うという自己矛盾に苛まれる。
――なんだ、これは……。
ぐにゃりとバクラの足元が歪んだ気がした。


半時が過ぎて、獏良はベッドの上で目を覚ました。
シーツは皺だらけになっているのに、不思議と服や髪に乱れはなかった。
意識が途切れる前にあったことを思い出してみる。
胸に響く痛みも悲しみもまだ残っている。
まだ、何もされていない。
ゆっくりと起き上がり、部屋を見回した。
一見変化はないように思えたが、机の上に開いた封筒と便箋が置かれている。
「読んでくれた……?」
「ああ、読んだぜ」
獏良が口にした疑問に対してすぐに反応があった。
「どういうつもりだ」
続く問いかけに、獏良は机の上の手紙より先、遠くを見つめたまま口を開いた。
「あの手紙に書いたとおりだよ」
「好きだなんだと書いてあったが」
「そうだよ。信じられない?」
信じられるわけないという言葉がバクラの喉元まで出かかった。
その心情を察したように獏良は頷く。
「僕も信じられないよ。でも、君が僕を見ていたように、僕も君を見ていたんだ。ずっと一緒にいて、僕が何も思わなかったと思う?君は酷いやつなのにね」
唇には寂しげな自嘲に似た笑み。
本人も分かっているのだ。尋常ではない想いなのだと。
異質な関係で結ばれた者だけが知ることを許される。
手紙に余すことなく書かれた獏良の心情。
バクラは認めざるを得ない。この少年に想いを寄せられているのだと。
「……オレは奪うことしか知らない。お前が望むことは恐らく何もしてやれねえんだぞ」
「うん、知ってる。僕はただ気持ちを伝えたかっただけだから」
「手紙を書くだけでいいのか?」
獏良はこくりと首を縦に振った。
バクラに湧き上がった感情は人間風に表現すれば、「愛しい」という感情だっただろう。
目の前にいる愚かな少年が酷く愛しくて、腕に抱いてすべてのものから引き剥がしたい。
何もかも忘れさせて、暗闇で満たして、意のままにしたい。
しかし、それは獏良が望んでいることではないのだ。
バクラの欲求は人間のものとあまりに違っている。
だから、口に出すことを諦めた。
それが獏良へのせめてもの思いやり。
「欲を言えば返事が欲しいかな。僕の手紙には返事が返ってきたことなんてないから……なんてね」
場を和ませるつもりなのだろう。獏良は明るい口調で冗談めかして言った。
対してバクラは小さく笑い、それ以上は何も言わなかった。


翌朝も獏良に異常はなく、パジャマから制服に着替えて鞄に教科書を詰めていた。
机の上には封筒と便箋が置きっ放しだ。読まれた後とはいえ、いつものように捨てるわけにはいかなかった。
時間割を最終確認し、上着を羽織る。
ボタンを上から留めていると、かさりと葉の擦れるような音がした。
「ん?」
制服の上から手で身体のあちらこちらを触って音の出所を探る。
千年リングの金属音と共にもう一度同じ音がした。
どうやら、胸にある内ポケットからするようだ。
内ポケットに物を入れる習慣は獏良にはない。
首を傾げて留めたばかりのボタンを外し、内ポケットに指を入れた。
中から小さな紙片が現れる。
――メモなんてしたっけ?
どう見てもただのノートの切れ端だった。
二つに折り畳まれて手の平より小さい。
出された宿題や待ち合わせのメモかと、記憶の糸を辿っても手応えがない。
咄嗟に書いたことなら、記憶がないのも当然かもしれない。
きっと役目を終えた、ただの紙屑なのだ。
ゴミ箱に入れる前に、念のために紙を開いた。
想像通り、ほとんど意味のない走り書き。
しかし、筆跡に見覚えがなかった。
獏良の書いたものではない。
学校の友人たちのものとも違う初めて見る文字。
見覚えがなくとも、心当たりはあった。
獏良に筆跡を見せたことがなく、内ポケットに紙片を忍ばせることができる人物。
文字は行儀良く等間隔に並び、鋭角なハネと力強いはらいが特徴的だった。
『分かった』
たったの四文字。一見意味がないような、ただの文字が書かれた紙を獏良は胸に抱いた。
とても大切な贈り物を貰ったときのように。

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獏良とバクラ、筆跡が違っていたらいいな。

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