ばかうけ

「――獏良くん、獏良くん!」
全身が倦怠感に包まれていて、やけに重かった。
頭を起こすことも、指を動かすことも億劫。それなのに、聴覚だけはしっかりと働いていて、周りの音を拾っている。
聞き覚えのある声が上から降り注ぐ。そんなにわんわんと呼びかけなくとも聞こえているのに。
応じようとするも唇の上下がぴたりと閉じて動かない。
獏良を呼びかける声はそれだけでは飽き足らず、とうとう身体を揺さぶり始めた。
遠慮がちではあるものの、意識だけはしっかりとあるのだから、獏良は船酔いでもしそうだった。
揺さぶられる度に頬や腕に硬い感触が当たる。手のひらにざらりと細かい粒がまとわりついた。
今まで意識を失っていたというのに、身体を預けているのは到底柔らかいベッドの上ではないことになる。
それどころか、横にさえなっていないのではないか。
自分の状態を自覚した途端、獏良は初めて疑問を抱いた。
――ここ、どこ……?
自宅ではないのか。学校ではないのか。
少なくとも、正常な状態ではないことだけは確かだ。
――ジオラマを作って……いや……違う……遊戯くんたちと美術館に……。
理解をする前に漠然とした不安が獏良を襲った。頭から血の気が引き、指の先まで冷たくなる。
今の今まで開かなかった目が自然と開いた。
「よかった!気づいたのね!」
「獏良、聞こえるか?!」
まだ獏良の視界はぼやけていて、覗き込む者の輪郭しか見えない。それでも、声で誰であるかは判別できる。
「…………ここは?」
やっと唇から滑り出した声は実に弱々しかった。
「童実野美術館だよ!」
「もう大丈夫だからな、獏良!」
――ああ……。
獏良の中で点と点が細く頼りなげな線で繋がった。やけに首元が落ち着かない。
――大丈夫……。何が……?何が大丈夫なんだろう……。
獏良はやっとのことで頭を起こした。まるで鉄の塊を首に据えているようだった。
正面にあるのは苦心して作ったジオラマ。黄土の砂に満たされている。そして、その中に散らばるカード――。
「もうお前に悪さをする奴はいなくなったんだぜ」
首にかかっているはずのものがなかった。馴染んで離れようとしなかった金色の輪。あるはずのものがない空虚感。
獏良はすべて理解した。
何も聞かなかった。何も言われなかった。
念のために病院へ連れていった方がいいのでは、係員に知らせて救急車を呼ぶか、と言葉が飛び交うが、獏良の耳にはもう入らなくなっていた。
――もう、大丈夫。そうだ。僕はもう大丈夫なんだ……。もう……。
目頭が熱い。再び曇りガラスを通して見ているように視界がぼやける。
決して楽しいだけではなかった「彼」との思い出が次々と頭に浮かんでは消える。
目の縁に溜まった水の粒が落ちる前に、
「え……?」
獏良は「それ」に気づいた。
慌ただしく意見を交わす友人たちの耳に、獏良の困惑した声は届いていない。
明かりの乏しい隠し部屋から担ぎ出されても、獏良は信じられないような表情を保っていた。

*****

都心部に程近い場所にある喫茶店。ビルの四階に店を構え、駅から離れていることもあって、ゆっくり寛げる穴場だ。
最良とはいえない立地条件でも客足が途絶えることがないのは、余裕のあるソファ席と自然食が手頃な値段で食べられるからだろう。
テーブルは広く、商談や打ち合わせにもよく使われている。
利用客の一人である獏良もパソコンと資料を広げ、取引相手と向かい合っていた。
「――では、レイアウトはこちらでよろしいですね?上に報告させて頂きますが」
「はい。大幅な変更はもうありません。ですが、今回は女性客を獲得することに重きを置いてまして……。このままでは弱い、かなと。できれば獏良さんのご意見をお聞かせ願えませんでしょうか」
「女性客ですか……。そうですね……。でしたら、展示物は年代順に並べるより、ある程度形式で固めた方がいいかもしれません。こちらにスペースがありますから、このように移動して……。パネルは多少情報量が落ちるとしても、今回のコンセプトに合わせたデザインの方が望ましいでしょうから――」
相手に見えるように図案に淀みなくペンで書き入れていく。間に差し込まれる相手の意見も取り入れて。
「――期間中は弊社の広報担当より周辺情報を発信させましょう」
「ありがとうございます。助かりました。図案を手直しして一両日中にはそちらへお送りします」
「お願いします。すぐに要項を作成しますから。再来週に日本を立つので、間に合って良かったです」
「相変わらずお忙しくていらっしゃる。打ち合わせが予定よりだいぶ早く終わったお陰で、ゆっくり一服できますよ」
形式的にビルの玄関口で互いにお辞儀を数回繰り返してから背を向けた。
獏良はスーツのポケットから携帯を取り出し、通話履歴の中から一つを選んだ。
三回目のコールが鳴る前に通話相手の声が受話口から流れる。
「もしもし、父さん。今打ち合わせ終わったよ。――うん。うん、そう。問題ないよ。出発までには間に合う」
打ち合わせの要点だけ手短に伝えると、父親は納得したようだった。
獏良は通話を終了して携帯をしまった。
まだ昼下がり。太陽は天高く昇り、容赦なく直射日光がぎらぎらと照りつける。
「あっついなぁ」
喫茶店では冷房がよく効いていた。冷えた身体が急速に温まり、汗が噴き出す。
上着を脱いでネクタイを緩め、額を手の甲で拭った。
あとは美術館の事務所に戻り、事務仕事に徹するのみ。やることは山ほどあったが、不思議と疲労感はない。

獏良は大学で考古学を学んだ後、父親の元で働くようになった。
鞄持ちから始まり、今では父親がオーナーを務める美術館の運営に携わるようになった。
学生時代より磨いていた造形技術が大いに役立ち、展示用の模型を製作することもある。
父親の仕事はそれだけではない。骨董商として美術品の売買を行っているし、研究者としての顔も持っている。
近年の父親は主な業務は職員に任せてフィールドワークに専念したいようだった。
発掘調査があると聞けば、海外にすっ飛んでいってしまう。
その手伝いも獏良は行っている。現場での調査は勿論、渡航手続きから前乗りをして地盤固めの役まで。
働き始めは慌ただしく動かされているだけでしかなかったが、段々と仕事の全体像を把握して動けるようになっていった。
いつの間にか、周囲の人間からは父親の代理人から一個人として見られるようになった。
膨大な仕事量にあっという間に時間が過ぎていく毎日だが、遣り甲斐があるので辛くはない。
特に父親について海外に行けるのは願ってもないことだった。
貴重な遺跡を自分の目で見て、その国の風土を直接肌で感じ、新しい世界を知ることができる。
それは、自分自身の世界を広げることにも繋がる。とても充実した時間。喜ばしいことだった。そして……――。

父親はそんな獏良を見て、お前は商売っ気がないからなと口を開けて笑う。
仕事として金銭は絡んでくるものの、獏良は純粋に美術館の展示作業や現地調査を楽しんでいた。
骨董品を商売の道具として使う父親とは大きく違っている。
父親はまだまだ現役のため、後を継ぐという話はまだ出ていないのは幸いだった。商売人にはなれそうにもない。
それに獏良はまだまだ世界を見てみたいのだ。
「今度の国はどんな空をしてるんだろうね」
眩しい太陽に手をかざして空を仰ぎ見た。
このまま都心観光でもしたいところだが、急いで事務所に戻らなければならない。
獏良はスーツの上着を小脇に抱えたまま足早に駅に向かった。
駅に近づくにつれて派手派手しい広告や堂々とした店が増えていく。
テレビで特集したばかりのスイーツ店が目に入ってしまって毒だ。
――うう、がまん。
うっかり誘われてしまったら、長蛇の列に並ばなくてはならなくなる。
後ろ髪を引かれつつも、立ち止まろうとする足を叱咤して前へ進んだ。
洋菓子店を振り切ろうとする獏良に、なおも追い討ちがかかった。
なんとも甘い香りが鼻孔をくすぐってきたのだ。
匂いの出所を見なくても分かる。パンのこんがり焼けた香りだ。
――ああ、パンの匂いってどうしてこんなに……。
例えご飯派であっても抗えない。パンは幸せの香りがする。
嗅いでいるだけで癒されてしまう不思議な魅力がある。
獏良は我慢ができずに匂いのする方向へ足を向けた。
駅近くであるというのに、こじんまりとした店だ。
緑のテントに木製のドアが優しい印象を与えている。
ドア以外は前面ガラス張りで、外からでも並べられたパンがよく見える。
きつね色に焼けてふわふわと膨らんでいる沢山の種類のパンたちは、どの看板よりも通行人の心を掴んでしまうだろう。
疲れた身体に優しいパンの匂いと形状は直接訴えかけてくる。
「おいしそう」
窓ガラスに張りつかんばかりに、獏良は中のパンに熱烈な視線を送った。
その姿は先ほどまでの打ち合わせをしていた人物と同じだとはとても見えない。オンからオフへ完全にスイッチが切り替わってしまっていた。
都合のいいことに店にあまり客は入っていない。
少しくらいいいよね、ご褒美だから、と自分自身に言い訳をしつつ、パン屋に吸い込まれてしまった。
トレーとトングを持てば、もう獏良を止めるものはなく、あれよあれよという間にパンの山が詰まれていた。
クリームパン、コロッケパン、クロワッサン、フランスパン、サンドイッチ……。
仕事ばかりで貯金を使う暇もないのだから、これくらいの出費は痛くも痒くもない。
ぎっしりと膨らんだビニール袋を渡され、獏良は満面の笑みで店舗を出た。
待ちきれない思いで袋の口を広げて中を見る。食欲をそそる香りがふわっと鼻に届いた。
「ああー……。いい香り」
事務所に帰ったら一つだけ食べてしまおうか。夕飯までまだ時間がある。
期待に胸を膨らませつつ、獏良には先にやることがあった。
「パンを沢山買ったんだ。とても香ばしくていい匂い。小麦の優しい香りだよ」
とても小さく、けれど優しく丸みを帯びた声で呟く。自身の胸に向かって。そのまた奥に届くように。

千年リングから「解放」されてすぐに獏良は気づいた。胸の奥に響く微かな鼓動に。
獏良の心臓の音とは少しずれている。
注意をしなければ、すぐに捉えられなくなってしまいそうな弱々しい鼓動。何かが獏良の中で息づいている。
その時は確信が持てず、誰に明かすこともなく、数年が過ぎた。
日常生活を送っていれば忘れてしまいそうなくらいに小さな音だったが、獏良は何度も耳を澄ませて鼓動を聞いた。
そうしなければ、消えてしまいそうだった。
心の奥に手を伸ばして何度も正体を探ろうとした。
そしてある日、見つけたのだ。己の身に宿る小さな温もりを。
元の姿は保てず、欠片になってしまった、かつての半身。
それでも消えずに獏良の中に小さな光となって残っていた。
「やっと見つけたよ。こんなところにいたんだね。バクラ……」
心の欠片を壊さないようにそっと獏良は抱きしめた。
獏良の肉体に干渉することはおろか、バクラは五感を失っている。
もう外の景色を見ることも、音を聞くことも、匂いを嗅ぐこともできない。
獏良だけが直接話しかけることができた。
弱々しい小さなもう一つの心は、話しかけられる度に鼓動で意思を伝えた。
獏良が話しかければ、とくんとくんと鼓動が返ってくる。
だから、バクラに沢山話しかけた。五感を失ったバクラのために獏良が感じるすべてを伝えるようになった。

「今日は晴れているよ。透き通る青空でどこまでも続いているみたいだ」
「風が暖かくて優しく僕らの身体を撫でていくよ」
「小鳥がピイピイ囀ずってる。笛の音のような綺麗な歌声だよ」

ひた向きに話しかけることで、弱々しかった鼓動が大きくなっていくようだった。
仕事で異国の地を訪れるときも、同じように話しかける。まるで二人で旅をしているようだった。
新たに獏良が見聞きしたものが、そのままバクラに伝わる。
獏良の声が届くと、バクラの鼓動が弾んだ。
――僕が君の目となり、鼻となり、耳となる。君に世界のすべてを伝えたい。
獏良の前に広がる新しい世界は、バクラのものでもあった。

「食べたら君に感想を伝えなくちゃね」
獏良は柔らかく微笑み、パンで詰まった袋を揺らして道を進んだ。
『宿主』
胸から響く鼓動に微かな声が重なる。
「うん。もっと君に聞かせるよ」
小さなもう一つの声が聞こえるようになって一ヶ月になる。
まだ聞き取れる言葉は少ないけれど、小さな声を聞き逃さないように、獏良は胸に優しく手を当てた。
「ぜんぶ聞いててね」
『ああ』

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こんな未来もいいんじゃないでしょうか。

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