これは、あなたの手です。
これは、あなたの足です。
これは、あなたの胴体です。
それでは、わたしが欲しいものはなんでしょう。
「人間の心はどこにある?」
バクラに問われ、獏良は眉間に縦皺を刻んだ。唐突な質問に不快感を隠そうともしない。
顔にはっきりと意思を示したものの、口には出さずに答えを探した。
「……頭。人間は頭で思考する」
椅子のキャスターを転がして勉強机から身体を離し、背後のバクラに顔を向けた。
唇の動きは小さく緩慢で投げ遣り。獏良は相手の意図を測りかねていた。
言い返したところで、良い結果が生まれるとは思えない。
警戒を解かずに、ただ与えられた質問に答えるしかなかった。
「不正解」
バクラは予め答えが分かっていたようだった。口を三日月型に歪めて、ほらなと言わんばかり。
おちょくられたところで、獏良は痛くも痒くもない。主旨が掴めない質問など答えられなくて当たり前だ。
それより、妙に勿体ぶったバクラの態度の方に苛立ちを覚えた。
いつまで待ってもバクラから答えが出て来ないので、獏良は渋々続きを促した。
そうしなければ、この不毛な会話が終わらない。早く解放されたかった。
まだ学校で出された課題を終えていない。
「正解は?」
バクラは待ってましたと両腕を広げた。大袈裟な素振りに獏良らしからぬ眉間の縦皺が深くなる。
「心臓だ」
獏良が予想すらしなかった答えだった。科学的な答えでなければ、哲学的な答えか、はたまたなぞなぞの答えが返ってくるのかと思っていた。
「なぜ」
疑問を口に出してから、バクラの思惑に嵌まってしまったことを悟る。
バクラはますます口を横に広げ、耳まで割けてしまいそうだった。
「心臓はなぜ動く」
「……血液を身体に送るため」
「誰がそう決めた」
「……知らない。けど、そういうものだ」
繰り返される質問に、獏良の不満が募る。
結論が見えない言葉ばかりが続く。この会話はいつ終わるのだろうか。
「そうだな。勝手に動いて、死ぬまで止まらない」
「だから、心があると?」
「心臓が動かなきゃ、生き物は生きていけないだろ」
「脳が生きていれば……」
やはり、まともな答えではなかった。
獏良は会話を始めてしまったことをここに至って後悔した。
きっと、どのなぞなぞよりも厄介な問いかけだったのだ。
獏良の後悔を余所に、バクラの口調には段々と熱が入っていった。
荒く息を吸い、唾を飛ばして、しまいには畳みかけるように言った。
「じゃあなぜ、心臓を心の臓器と呼ぶ?ハートと呼ぶ?」
獏良は思わず及び腰になった。会話の内容ではなく、バクラの語気に圧倒されたのだ。
「それは……昔の人がそう思っていただけ……」
いつの間にか、バクラのペースに飲まれそうになってしまっている。
「そうだな。そうもしれないな。だが、言葉として残っている限り、受け入れてるということだ。人間が心を動かされたとき、押さえるのは頭ではなく心臓だろう。そうだ、『胸に手を当てて』考えてみろ」
獏良はバクラの言うとおりにしようとしたわけではなかった。
言葉の裏に潜む、得体の知れない感情がとても気持ち悪い。
湧き立つ不安に獏良の手が自然と胸に伸び、結局はバクラの言うとおりに「なってしまった」。
途端に目玉が零れ落ちそうになるほど、獏良は目を見開いた。
「心臓に動かされてるのさ。生き物は」
胸を押さえた獏良の指が震えていた。顔面がみるみるうちに白くなり、額に汗が浮き出る。
ぺたぺたと何度も胸に手を這わせる。
「お探しのものはこれかい?」
真っ直ぐ獏良に向かって突き出された手の上には、握りこぶし程度の塊が乗っていた。
それは、獏良が想像していたよりもずっと色褪せていた。
どこで刷り込まれたイメージなのだろうと、半分麻痺した頭で記憶を遡ってみれば、図鑑か模型からだった。
目にしたものはどれも鮮やかなピンクか赤色をしていたので、バクラの手のひらに軽々と乗った「それ」に違和感を覚えたのだ。
握りこぶし大のそれは、縦長の楕円形をしていて、ところどころに白が混じり、表面には枝分かれした細い筋が上から下に向かって通っている。
単独で意思があるように、伸縮と膨張を繰り返していた。
「それ、僕の、盗った……?」
押さえている手の下にあるはずの鼓動を獏良は一切感じられなかった。
呼吸を整えて、どんなに手のひらを押しつけようとも、命の脈動は静まり返っていた。
代わりにバクラの手の中に収まっているものが規則正しく跳ねている。
「盗ったなんて人聞きの悪い。ちょっと借りただけだろ」
とうとうバクラは喉の奥が見えるほどに口を開いて笑い出した。
嘘のように、まるで作り物のように、心臓に血液は付着していない。
太い管が上に向かって突き出しているが、すぐにちょきんと鋏で切られたように先は消えていた。
その断面からも雫一滴さえ落ちない。
胸にあるはずのものがないのだから、バクラが持っているものは間違いなく獏良のものなのだろう。まず、心臓を失って動ける人間がいるはずがない。
獏良は呆然と辺りを見回した。自室だと思っていた空間は、暗い闇に閉ざされていた。
最初からだったのか、途中からだったのか、分からない。
「返せ」
椅子から立ち上がり、獏良が猛然とバクラに迫る。紙一重で目の前からバクラの姿が消え、空足を踏んだ。
「ちょっと借りただけっつただろ」
今度は背後に気配を感じ、獏良はすぐに身を翻して大きく手を伸ばす。
「返せ!」
バクラに呆気なく後方に避けられ、再び手は届かない。
対象が心臓でなければ、まるで幼子の玩具の取り合いだ。
一向に心臓を取り戻せず、獏良はぜえぜえと息を乱し始めた。呼応して視界の心臓も大きく脈打つ。
「あんまり興奮すんなよォ」
バクラは心臓に爪を立てた。
「うぐっ」
獏良が胸を押さえて膝を突く。
胸から鼓動は感じられないのに、痛みはしっかりと感じられた。
「心臓が壊れちまうだろ」
バクラが力を緩めた後も痛みが続いているような気がした。
獏良はその場に腰を落とし、びくんびくんと跳ねる心臓を見上げた。
「見てみろよ。綺麗なもんだろォ」
バクラは持ち主に見せびらかすように心臓を持ち上げる。
「筋肉が引き締まって張りがある」
見つめる瞳に恍惚の光が宿る。
「年寄りじゃこうはいかねえからな。血管がぷりぷりとしていて活きがいい」
心臓を覆う細い筋を長い指が辿っていく。
獏良は皮膚の下で虫が這うような感覚に苛まれた。
虫を捕らえようにも、手は表面の肌を撫でるだけで届かない。
皮の下には肉があり、肉の下には骨がある。本来、心臓があるのはその下だ。届くわけがなかった。
「ひ……う……」
胸の内側をぞわぞわと虫が這い回る。
どうしようもない不快感に、服を掴んで歯を食い縛った。
「こんなに跳ねて可愛いもんだ」
バクラはもう片方の手で触れるか触れないかの位置で心臓を包んだ。
「この中にお前のすべてが入ってるんだぜ。こんな小せえ中に心も魂もすべて」
「さ……わるな……」
心臓を包む手がこれ以上ないほど優しく撫でる。
「どこかに隠しておきてえな」
撫でられる感触と夢見るように呟かれた言葉に、獏良の背筋がゾッと凍った。
「冗談。冗談。お前から切り取っちまったら死んじまうもんなァ。すぐに戻してやるよ」
バクラは妙に明るい調子で言ったかと思うと、
「このままオレのものにできればなァ……」
絡みつくような低い声に、獏良の心情を代弁するかのように心臓がびくんと震える。
バクラは何度も何度もちっぽけな臓器を撫でた。命の鼓動を手のひらに感じながら。
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古代エジプト人は心臓を大切にしたと思い出して。