閉館後の美術館に二つの人影。
「本当にすみません。お手数おかけしてしまって」
「いえいえ。今日は点検日じゃないから時間があるんです。気にしないで下さい」
裏口から両手を広げたくらいの狭いスタッフ専用通路を縦に並んで歩く。
獏良は後ろについていた。先行する者には見えないと分かりながらも、頭をぺこぺこと下げる。
学校に提出するはずのノートがないと気づいたのは日が落ちてからだった。
あれこれと部屋を探してみた後で、父親の所有する美術館に忘れてきたのだと思い当たった。
最近は展示用のジオラマ作りで美術館によく出入りをしていた。
昔から手伝いをさせてもらうことはあったが、デザインから一人で任されたのは初めてのこと。展示室の隅に飾る小さな作品でも獏良にとっては嬉しかった。
ほぼ毎日学校から美術館に直行し、食事をする間も惜しむほど夢中になって作業をしていた。その合間に宿題用のノートを広げていたのだ。
慌てて事務室に連絡をし、常駐している管理スタッフに事情を話して中に入れてもらえるようになった。
普段から出入りしていたのが幸いして、一部のスタッフに名前と顔を覚えられている。
今夜の宿直当番がその一人だということは、さらに運が良かった。余計な説明の手間が省けた。
最悪の場合、父親に一度連絡を取って退勤後の事務職員に話を通してもらい、事務職員から管理業者へ……とやり取りを想像するだけで頭が痛くなる。
現在行われている展示企画は、後半に向けて明日から二日間の入れ替え期間に入る。
客に飽きられないように一部の展示の内容を変更するのだ。獏良が製作したジオラマも休館明けから飾られる。
複数の業者が出入りする作業に突入してしまったら、ノートが永遠に出てこないなどということもあるかもしれない。獏良は快く扉を開けてくれたスタッフに感謝の念を抱いた。
通路の突き当たりまで辿り着くと、スタッフがドアの電子ロックを解除し、獏良に道を譲った。
ドアを開ければエントランスホールへと繋がる。
開館中は人で賑わう場所も、今の時間はしんと静まり返ってやけに広く感じる。
「すぐに取ってきますから」
スタッフに告げ、獏良は足早に展示室に向かった。
エントランスホールを横切り、通路の正面にある入り口には、企画展示用の看板が立っている。
『古代エジプト展・王朝の美と芸術』
近年で一番力を入れている展示企画だ。
父親が新しいエジプト考古局の責任者は話の分かる人物で交渉がし易いと、口にしていたのを獏良は耳にしたことがあった。
そのお陰か例年よりもずっと貴重な展示品が揃い、客が引っ切りなしに訪れている。
一歩足を踏み入れれば、人の手によって作られた異空間が広がる。
照明は展示物が痛まないように調整されていて、閉館後では展示用のスポットライトは消されたまま。歩き回るのには問題ないが、やや明るさに乏しい。
明け方や日暮れの空に似た明かりが一層神秘的な空間を作り出していた。
獏良は思わず息を飲んだ。
数千年前から存在する展示物の数々が大ホールに並んでこちらを見ている。
まず目の前には王や王妃の彫像。立像もあれば胸像もある。どれも威厳に満ちた表情をしている。
とてもなおざりに通りすぎることなどできない。最大限の敬意を払い、順路通り壁に沿って歩いてみた。
空気がぴりりと冷たい。もしかしたら、当時の空気をそのまま感じているのかもしれない。
何回も見ているはずなのに、今ここにある像たちにはまるで魂が入っているのではないかと、獏良は錯覚しそうになる。
現代から古代エジプトへタイムスリップしたかのよう。
今、貴重な展示物を独り占めにしているのだ。
次に現れるのは神々の像。多様に展開していった信仰は数え切れないほどの神を生み出した。
半人半獣の姿をしたものが多い。猛々しいワニやライオンから、どんな意味を持つのか見当のつかない小動物まで。
像の間を抜けると、今度はガラスケースに収められた石板が登場する。ヒエログリフが刻まれた当時を知るのに貴重な道標だ。
栄華を極めた王権時代に見学者は思いを馳せる。テレビや書物でしか見ることができない国は作り物ではなく、確かに在ったのだと。
そして、古代エジプトといえば、多くの人が象徴として連想するものがある――。
展示室の奥から左手に通路が伸び、がらりと雰囲気が変わる。
獏良の腰の辺りまでの高さしかないショーケースに円筒形の陶器。手で抱えられるほどの大きさ。
知識がなければ、ただの置物のように見える蓋付きの壷。蓋は動物を模した神の姿をしていて可愛らしくもある。
中に収められていたのは、その外見からは想像もつかない重要なもの。人間の臓器だ。
そこからは死者と共に埋葬された副葬品の数々が並ぶ。装飾品やナイフ、調度品、人形などなど――死者が死後も困らないよう用意されたもの。
華々しくもあるが、背景を思えば厳かでもあった。盗掘の憂き目に遭っていなければ、もっとここに並んでいたのかもしれない。
続く壁には十メートルを超える長い巻物が貼り出されていた。死者の冥福を祈るために書かれた死者の書だ。絵と文字で構成されている。
楽園までに降りかかる試練や神による審判、死後役立つ呪文が載っている。謂わば冥界の手引書。
長い道程を生きた人の身でなぞっていくと、行く手を間仕切りに阻まれる。
切れ目を目指して迂回する。展示室をちょうど折り返すことになる。今まで通ってきた順路の裏側に当たる通路を歩く。
最後の展示物は袋小路で静かに待っていた。明々後日からの公開に向けて搬入され、まだ人の目に触れていない。
公開されれば、歴史を知らない客の注目もたっぷり集めることだろう。
古代エジプトの象徴的存在――ミイラ。
棺の中に行儀正しく収まっている。胸の前で両手を組み合わせ、その上には詳細の分からない副葬品が乗っている。
長い毛髪が残っているほど保存状態が良いとはいえ、生きている人間だったとはとても思えない。
獏良は怖々とミイラに近づき、顔を覗き込んでみた。
死者の意思を読み取れるはずもなく、ぽっかりと空いた二つの空洞を眺めるだけだ。
棺の脇には共に展示されるはずのパネルが置かれていた。
第十八王朝時代、高官のミイラ?と記載されている。
疑問符がついているのは明確な証拠がないからだろうか。
獏良は説明文を大まかに目で追った。
どうやら、このミイラの名前や身分の分かるものが一つも発見されていないのだという。
故意に抹消されたのか、破損してしまったのかは不明だ。
不明点が多いことに加えて発掘現場の状況により、ミイラの正体は身分の高くない者とする研究者とミイラの処理が丁寧すぎることから何らかの理由により公に埋葬されなかった貴族か高官とする研究者がいて、意見が真っ二つに分かれているらしい。
真実はこのミイラ自身が知るのみ。
獏良の視線がパネルから離れ、ミイラに再び向いたところでピタリと止まった。
バクラが棺の足元側に立ち、ミイラを眺めている。
「君も見学に来たの?」
その横に獏良が歩み寄る。
「どこの誰かも分からないんだって」
「フーン」
二人は並んでミイラを見続ける。
「でも、ずっと昔のことだもの。どんなに調べたって本当のことは分からないよね。特に本人の気持ちなんてさ」
鼻で笑う音が獏良の耳に届く。
はてとバクラに顔を向けると、微かに唇が弧を描いていた。
「どうしたの」と尋ねる前に、
「時代が時代ならお前のために立派なピラミッドを建ててやったのにな」
軽く茶化した言葉が返ってきた。
「いらないよー」
獏良は顔の前でぶんぶんと手を振る。
「それにこんなふうに飾られるのは嫌だもんね」
「嫌か」
「嫌」
死してなお衆人の目に晒されたくはなかった。ピラミッドなんて大袈裟な墓も必要とは思えない。
獏良に馴染みがあるのは、巨大な建造物とはまるで異なる小さな長方体の石だ。
そこに自分も納まるとは想像もできない。まだ見送る側にいるからだ。誰かに手を合わせてもらう日が来るのだろうか。
「どちらかといえば、海に撒いて欲しいかなあ」
見送る側の悲しみを知っているから、一層のことそうして欲しいと思った。墓の前で悲しむ顔を見たくはない。
「あー?誰がすんだよ。それ。めんどくせーな」
バクラは下唇を突き出して唸る。
「そっか」
あっさりと否定されても獏良は不快にはならなかった。それもそうだと唇からふふふと息を漏らす。
「じゃあさ、砂になりたい。跡形もなく粉々になってさらさらになって、地面の砂と見分けがつかなくなるくらいに混じりたい」
「骨も残さずにか」
「うん。何も残したくないし、要らないから。僕は砂になりたい」
バクラは黙って獏良の瞳を見つめ、それから名もなきミイラに再び視線を戻した。
獏良もそれに倣う。
彼はどんな一生を終えたのだろうか。
「宿主。忘れモンはどうした」
「あ、そーだ!」
突然、現実に引き戻され、獏良は弾かれたように駆け出した。
棺の奥にある仕切りをどかせば、関係者のみが立ち入りを許されている扉がある。展示物の保管場所だ。獏良の作業場所でもある。
獏良はその中に入り、すぐにノートを片手に戻ってきた。忘れずに仕切りを元に戻す。
「見学はもうおしまい」
コツコツと一つの足音を響かせて展示室を後にした。
展示物たちが物も言わずに獏良の背中を見送る。
しばらくして照明がすべて落ち、次の開館まで短い眠りに就いたのだった。
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タイトルは有名な曲から。
深夜の探検ってわくわくしますよね。