ばかうけ

一筋の太陽の光も届かず、昼も夜もない空間。聞こえる音は自らの息遣いだけ。
真っ暗闇の中でバクラは一心不乱に手を動かしていた。
身体の前で何かの輪郭を撫でるようにぐるりと宙をさ迷う。


人は命が尽きると、冥界へと導かれる。果てにあるのは一切の不幸なことがない楽園。
罪深き者だけがそこへ足を踏み入れることを許されず、低次元の海に漂わなくてはならない。
誰が決めたのかは定かではない。案内人は存在せず、ただ何もない空間へと放り投げ出されるのみ。
すべての感覚が遮断された空間では、人はすぐに精神崩壊をしてしまう。
存在しない出口を求めて同じ場所をぐるぐると歩き続ける。
命を終えた者に時間の終わりはない。人間らしい心を捨てない限り、未来永劫苦しみ続けなければならない。
行き着く先は皆同じだ。生き物であったことを忘れ、枯れ木のように佇む。
生前に犯した罪への罰であることは明らかだった。


バクラは幸か不幸か当たり前のように自我を保っていられた。
闇から生まれた存在であり、その化身であれば、五感に影響すらなかった。
狼狽えることもせずに、翼を折り畳み、巨体を沈めて、一歩も動かない。
細工をするのには向いていない先の尖った指だけがひたすら一つの形をなぞる。
僅かに残された災いの神の力で丹念に何かを作り出していた。
生前にどんな偉業を成し遂げたとしても、莫大な財産を手中に収めたとしても、冥界では積み上げたものすべてが無に帰す。
外皮を剥ぎ取られて魂一つになる。
それはバクラも同じだった。目的のために数千年かけて張り巡らせた計略も水の泡。
すべてから解放されて、心の片隅に残ったのは一つの感情。
大きな手の中で一人の少年の姿が出来上がりつつあった。
「宿主……」
それは、妄執ともいえるのかもしれない。
『じゃあ、なぜ手放したりなんかしたんだ』
心の中にいるもう一人の自分が冷たい声で囁いた。
あの頃は選択肢など一つしかなかったのだ。
命を失う前は執着していたものの、目的を達成するための道具としてしか見ていなかった。
定められた道を突き進むだけで深く考えようともしなかった。
側にいるのが当たり前だった。意識をするまでもなく、そこにある空気のような存在。
後悔という感情はない。ただ胸にぽっかりと大穴が空いている。
その大穴を埋めるべく、バクラは取り憑かれたように少年の形を作る。
強烈な想いとは反比例して、記憶は大分薄れていた。
どんな顔をしていただろうか。
どんな表情を……。
どんな声で……。
頭に残っているのは抽象的なイメージばかり。
数年間飽きるほどに見てきたはずの顔が何故か上手く思い出せない。
借りていた姿は肉体を離れることで残念ながら消えてしまった。
声も身体もまったく別の姿になってしまっている。
そうでなければ、すぐに思い出すことができたというのに。
とても気に入っていたのだから、綺麗だったに違いない。
そう、少年は世界中の誰よりも美しかったのだ。
すっかりぼやけてしまっている姿と脳内にこびりついている強い印象を結集させて少年の形へと練り上げる。
気に入らない箇所を何度も丁寧に撫でて整えていく。
そうして、やっと理想通りの姿が完成した。
バクラは達成感に浸りながら、少年を顔の高さまで恭しく持ち上げる。
「宿主」
寸分の狂いもなく左右対称の顔立ち、一片の隙もない肉体、ぞっとするほどの精巧な美だ。
神から祝福を受けた彫像のよう。
あとは魂さえあれば……。
次の行動に移すために腰を浮かしかけ、
――ちがうッ!!
少年の形をしたものを勢い良く地面へ叩きつけた。
地面に接触すると同時に、音も立てずにぼろぼろと形を失って土塊と化す。
――こんなんじゃなかった!宿主はもっと……。
バクラは両手で頭を押さえ、左右に大きく振った。
腹立たしさに揺れる尾が地を叩く。
拭いようのない違和感に苛まれたのだ。
苦心して完成させたのは、出来のいい人形でしかなかった。
あれほどに執着していた少年は、ただ綺麗なだけの姿ではなかったはず。
バクラの脳裏に朧げな姿が一瞬だけ過ぎった気がした。
愛を囁くような関係ではなかった。しかし、なくてはならない存在だった。
もしかしたら、止まり木のような存在だったのかもしれない。
バクラは静かに頭から手を下ろし、身体の前で碗を作る。
中に球体を収めるように、両手を組み合わせた。
気力は風前の灯火ではあるが、まだ残っている。
もう一度少年の姿を思い出そうとした。より深く丁寧に。ゼロからやり直す。
手の中にある球体を捏ねて、細長く伸ばし、人の形に近づける。
頭の奥にしまい込んだ記憶を焦らずに引き出す。


最初に浮かんだイメージは白色。白はどんな色だったか。無色……ではなかったはずだ。
風に靡く長い髪が陽の光を受けて何色にも輝いていた。
髪が滑る肌も白かった。
病的な白さではなく、もっと生気に満ちた汚れのない色だ。
二つの眼はその白の中で際立っていた。瞳に空をそのまま映したように、どこまでも澄み渡っていた。
そこから鼻が小高くすうっと顔の中央を通り、下には艶やかな唇がある。
浮かぶ表情は……。
バクラの手が少しの間だけぴたりと止まった。
少年らしい表情は決してバクラに向けられなかったからだ。それは当然のこと。今さら動揺するようなことではない。
気を取り直し、友人たちに向けられた表情を思い出そうとする。
例えるならオレンジ色の日だまり。柔和な笑顔が溢れている。心の中からずっと見ていたのだ。思い出せるはず。
体温もあたたかかった。寒い夜に抱く湯たんぽのよう。
そして、最後に優しい音色が記憶の底から甦った。


懸命に動かしていた手の中に、渇望して止まなかった獏良の姿があった。
瞼は閉ざされているが、紛い物の人形とは違い、血液が巡り生き生きとしている。今にも目を覚ましそうだ。
バクラは湧き立つ感情を押さえきれずに獏良を胸に力強く抱いた。
どうして忘れてしまっていたのか。こんなにも大切だったのに。
バクラの背丈が徐々に縮んでいき、獏良と並ぶ。
闇色から白色へ。鋭い角や爪は消え失せ、翼は肩甲骨の一部へ収まる。
さらりと髪が伸びて肩にかかる。硬い鱗の下から柔らかい肌が現れた。
過ごしたのはたった数年でも馴染みのある懐かしい姿。
バクラは腕を緩め、改めて獏良の顔を見つめる。
二度と忘れないように心に刻みつけた。
どんなに上手く形を作り上げても、魂がここにない空っぽの状態では目を覚ますことはない。
まだ現世にいるのだろうか。時間の感覚はとうになかった。
獏良の魂がバクラの元へやって来るなど、どれほど低い確率だろう。
もし可能ならば、寄る辺となって欲しい。
今度こそ片時も離れずにいようと思った。
こんな光の届かない場所へ舞い降りてきてくれるのなら。
ただ今は、思い出せただけで充分だった。獏良の体温を感じ、一時の安らぎを得たのだ。


バクラは知らない。一つの善行が地の底よりも深い場所へ一本の希望の糸を下ろすこともあるのだということを。
そして、本人にとってあまりにも小さく当然の出来事で気づいていない。
身を呈して少年一人の命を救ったことがどれだけ尊いことだったか。
そう遠くない未来にもしかしたら――。

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一つの奇跡があってもいいのだと思います。
タイトルはもちろん有名作からです。

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