夕闇が迫ってくる。
繁華街に並ぶ商店の電飾には明かりが灯り始め、街路を鮮やかに染め上げる。
陽の光がなくとも、足元を充分に照らす。
獏良は足早に自宅へ向かっていた。
職場で次から次へと舞い込む依頼を処理していたところ、定時をすっかり過ぎてしまっていた。
普段ならスーパーや本屋に寄って帰るのだが、今日はのんびりとはしていられない。一刻も早く落ち着ける場所へ帰りたかった。
大通りを抜けると、それまでが嘘のように人通りも店も少なくなる。比例して明かりも乏しくなっていく。
自宅まではこの薄闇がずっと続く。距離にしてみれば大したことはない。
それでも獏良の呼吸は不規則になり、足の裏にガムでも貼りついてしまったように地面に吸いついていた。
外にずっといるわけにもいかない。もたもたしていたところで夜は必ずやって来る。
そうすれば、華やかな電飾も眩しい車のヘッドライトもなくなってしまう。
人間の時間が終われば、一面の闇が訪れる。
獏良は大きく息を吸い込み、大股で路地へと踏み込んだ。
ブロック塀、ガレージ、町工場、開かずの扉、黒猫が一匹。
飲食店があっても背中を向けていて勝手口があるだけ。
表通りと比べて空気がどんよりと湿っている。
なるべく前だけを見て先へ進んだ。
どこにでも影はできる。あらゆるものにぴたりと寄り添い、地面に伏して息を潜めている。
そのどれも視界に入らないように、入ったとしても素知らぬ振りをした。
この時間の影は濃い。昼間とはまるきり別物。
だから、獏良は前だけを見る。
影どもが領地を広げるがごとく、じわじわと地面に染み出してこようとも――。
業務用ダストボックスの下から、室外機の下から、放置された植木鉢の下から、建物から幾つも伸びる配管の下から、地面をゆっくりと這い広がる。
獏良は唐突に走り出した。狭い路地を脇目も振らずに駆け抜ける。
その背中に影は追いつくことができない。
見ない振りをしていたというのに、やはり放っておいてはくれないのだ。
細切れに息を吐く獏良の顔に浮かぶのは苦渋の表情。
速度を緩めずにマンションの玄関ホールへ駆け込む。
エレベーターのボタンを押し、一階まで下りてくるのを待つ。
カゴの位置を示すランプの動きが酷く緩慢に思え、無駄とは分かっていながらも二回三回とボタンを連打する。
ようやく開いた扉に身体を滑り込ませ、今度は閉のボタンを押した。
扉が重々しく閉じると外界から遮断され、荒い呼吸音と機械音だけが内側にこもる。
閉ざされた空間とはいえ、ここも安全地帯ともいえない。
鞄の中から鍵を取り出し、手の中に収める。
エレベーターが六階に辿り着くと、一目散に部屋へと向かった。
解錠する間も惜しい。鍵穴に鍵を捩じ込み、派手な音を立てて扉を開ける。玄関に飛び込んでから施錠して、念のためにチェーンもかけた。
これでしばらくは平穏が保てる。
獏良には息つく暇もなく、今度は家中の電気を片っ端から点けていった。
暗い場所が一つもないように光で満たす。
麦茶を注いだマグカップを片手にソファに座り、やっと全身から力が抜けた。
獏良が異変に気づいたのは高校を卒業してすぐのことだった。
はじめは気のせいだと思っていた。
疲労や光の加減か何かで影が蠢いているように見えるだけ。
ただの壁の染みが人間の顔と思えてしまう、あの現象と同じ。
そう自分に言い聞かせていたのに、徐々に影の存在感が増し、無視できなくなった。
物の隙間で蠢いているだけだったものが、こちらへ迫ってくるように感じ始めたのだ。
その現象が起こるのは決まって夕方から夜にかけて。昼間――太陽の下では一度も起こらなかった。
影に追いつかれたらどうなるかは分からない。あれは絶対にいいものではない。
獏良はなるべく夜に用事を作らないようにした。
夜に遊び回るような生活をしてこなかったことは幸いだった。
大学が終われば寄り道もそこそこに帰宅して、夜が明けるまで家に閉じこもってじっと待てばいい。
青春とは程遠い学生生活だった。
それでも完全には夜からは逃げられない。人として生活している限りは、外に出なければならない用事もあった。
夜を経るごとに影の勢いが増してきているような気がした。
蠢いているだけだったものが、明らかに獏良を目指して這い出してくる。
なぜ。どうして。自分だけに異常現象が起こるのか。
夜に墨を垂らしたような影に追われ続け、音もなく這い寄る様を何度も目にし、やっとそれがなんであるか気づいた。
そうだ。かつて言っていたではないか。「闇があれば蘇る」と。
――彼は消滅してはいなかったのだ。
媒介も肉体も失い、現世に介入する術がなくても、なお執拗に獏良の前に現れた。
悠長ともいえる挙動を見る限り、思うように動けないのだろう。
闇の中に息を潜めているだけの存在。
それでも獏良が怯えるのには充分だった。
存在しているだけで、忘れたい過去を嫌でも思い出すことになる。忘れようとすれば、目の前に現れる。
あれに絶対捕まってはいけない。
獏良は朝方勤務の仕事場を選んで就職した。
夜まで残業はできないと予め面接時に相談したところ、どうしても月に二、三日は遅くなることもあると返されてしまった。
条件を狭めていては、職にありつけなくなる。
多少のマイナス要素には目を瞑った。
定時になればさっさと帰ってしまう獏良に、最初のうちは取っつきにくい印象を職場の人間たちは持っていたらしい。
どうしても仕事が片づかなければ、早朝に出勤した。
仕事に真面目に取り組む姿勢と柔和な言動に、負の感情を抱くものはいなくなっていった。
年に数回の送迎会と忘年会を除く飲み会に顔すら出さなくても、そういうものなのだと誰もが思うようになった。
獏良は日常の片隅に溶け込んでいったのだ。目立つこともなければ、人を不快にさせることもない。
どこにでもいる会社員として過ごす裏で、獏良は追い詰められていた。
一連の出来事を誰にも相談できずに一人で抱え込んでしまっていた。
通行人が気づく様子もないことから、あれはどうやら他人には見えないらしい。
見えないものをどうやって説明すればいいのか。
十人中十人がノイローゼと判断するに決まっている。
事情をよく知っている高校時代の友人たちなら親身になってくれるだろうが、やはり根本的な解決には至らないだろう。巻き込みたくもなかった。
肉体という形を失った闇の住人は、より厄介な存在になってしまったのだ。
獏良はシャワーを軽く済ませ、寝間着に着替えてベッドに横になった。
影は家の中までは入ってこない。
とはいえ、戸締まりは充分すぎるほど毎日確認している。
ちょっとした隙間さえあれば、入り込んでくるかもしれない。
今日はよくない日だ。
さっさと寝てしまうに限る。
目を無理矢理に閉じ、布団を胸元まで引き上げ、眠たくなるのを待った。
視覚情報が遮断されると、今度は聴覚が鋭敏になる。
枕元に置いてある小型時計の秒針。チッチッチッ。
隣室から届く冷蔵庫のコンプレッサーの音。ブーン。
風に吹かれて微かに鳴っている窓。カタカタカタ。
睡眠の邪魔にならない程度の音だ。葉が擦れる音とそう変わりはない。
ガタッ――。
突然の異音に獏良は目を開いた。
ガタガタガタガタガタ――。
とても風のせいとは思えないほど、窓が悲鳴を上げている。
布団に入ったまま目だけを動かして音の出所を確認した。
カーテンはきっちりと閉まっていて外の様子は窺えない。
しかし窓の振動がカーテンにも伝わり、小刻みに揺れている。
とても自然現象が原因とは思えない。何者かの意志によるものだ。
何かが窓を破ろうとしている。
獏良は布団を頭から被り、耳を両手で塞いだ。
それでもガタガタと激しい音が聞こえてくる。
このままでは窓ガラスが割れるか、窓枠から外れるかして、外のものが中に入ってきてしまう。
そこまでの力はないかもしれない。あって欲しくない。
ガタガタガタガタンッ――。
「ヒッ……」
まだ夜は長い。朝は遠い。
何者かは執念深く窓を揺らし続けている。
逃げ場はどこにもない。
外に出れば一面の闇だ。今のところ安全なのは家の中だけ。
獏良は布団の中で震える身体を丸めて縮こまり、額を枕に押しつけた。
――帰って帰って帰って!
ガタンッガタンッ――。
一際大きく窓が鳴った瞬間、帰り道からずっと張り詰めたままの獏良の精神が限界に達した。
「まだ僕はそっちには行けないッ!!」
思わず口を衝いて出たのは、混乱を極めた心からの叫び。
あれが聞く耳を持っているはずがない。ましてや、説得とは程遠い言葉だ。
にも拘らず、不思議なことに騒音が前触れなくぴたりと止んだ。
獏良が恐る恐る布団から顔を出すと、もうカーテンも揺れてはいなかった。
何事もなかったかのように夜の静寂が戻ってきたのだ。
納得したのだろうか。いや、執念深い性質を獏良はよく知っている。
起き上がる気力もなく、天井をただ見つめた。
「どうして……。いつまで続くの……」
その嘆きに答える者はいなかった。
窓に目を向ければ、空には月がぽっかりと浮かび、星がちかちかと瞬いているのみ。
誰もがよく知っている、ありふれた夜の一場面だ。
しかし、またやって来るに違いない。かつての片割れを求めて。
闇さえあれば、これから先もずっと。何度でも。
夜になると彼がやって来る――。
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熱烈ですよね。これも一つのラブロマンスです。