ばかうけ

ボクは人の「死」が見える。


死神のあしおと


幼い頃、獏良は常人には見えないものが見えていた。
初めてそれが見えたときは三歳頃。
たまに見かけるくらいの、ほとんど獏良と接点のない近所に住む老男の背後に黒い影のようなものが見えたのだ。
「あれなに?」
獏良は疑問も持たず、短い指で影を差して母親に訊ねた。何事にも興味津々な幼子がよくする仕草。
「人に指を向けてはいけないのよ」
母親は獏良の手を包んで優しく諭した。
素朴な疑問に答えはなく、遮られた人差し指は窄めた口の中へ。幼子らしく獏良の興味はすぐに別のものへ移っていった。
それからしばらくして、老男を見かけなくなった。
名前も知らない老男が視界から消えただけでは、獏良の生活には影響も支障もない。
母親が近所に住む茶飲み仲間と立ち話をしているのをただ耳にしただけ。
「花屋のお向かいの××さん、お亡くなりになったんですって」
「まだお若かったのにねえ……」
続く難しい言葉もほとんど理解ができず、
「ねえねえ、『おなくなりになった』ってなに?」
獏良は母親のカーディガンの裾を引いた。
今度の質問には、母親は立ち話を中断して、
「××さん、遠いところへ行ってしまったのよ」
柔らかい口調で答えた。
「ふーん」
どうやら××さんという人は、獏良の想像もつかないところへ行ってしまって、帰っては来ないらしい。
獏良が正確な言葉の意味を理解したのも、××さんが老男であることを知ったのも、そのずっと後のことだった。

その一件以来、獏良は町中で同じものを度々見かけるようになった。
紙よりも薄っぺらい真っ黒な影が通行人の背中にべったりと張りついている。
動くこともなければ、風に吹かれることもない。
後ろから見れば、その人たちの肉体を飲み込んで、真っ黒なマネキンが歩行しているようだった。
獏良が影を目で追っていると、家族や友だちが怪訝な顔をする。
彼らが影について言及することはない。
だから獏良は気づいたとしても、口に出さないことにした。
あの影を背負うと、おじいさんと同じように目の前から消えてしまうのだなと漠然と思っていた。

「死」に対して強烈な印象を受けたのは、「親戚のおじさん」の葬式だった。
獏良にとって生まれて初めての葬式。
訳が分からないまま動きにくい上等な服を着せられて親に連れて行かれた。
重々しくひんやりとした空気。あちらこちらから聞こえる啜り泣き。立ち込める香煙。全員がまとう黒。
木箱の中におじさんは収まっていた。
年に一度会えるか会えないかの間柄。
それでも働き盛りで快活な笑顔を見せていたことは覚えている。
箱の中にいるおじさんは、ぴくりとも動かず、綺麗に整えられてはいるが蝋のような肌をしていた。空っぽという表現が一番合っている。
獏良の知る笑顔とはかけ離れていて、思わず母親にしがみついた。
それなのに、周りの大人たちは「生きているみたいね」「安らかな寝顔」などと言っている。
どうして。ここにいるおじさんは、おじさんではないのに、どうして皆なんでもない顔をしていられるのだろうか。
僧侶の長い長い読経。次第に大きくなる啜り泣き。足元に冷気が通り抜ける。
この場を取り仕切る見知らぬ男が「お別れ」と言った。
木箱は釘で密閉されて運ばれていった。
運ばれた先には鉄の扉があった。
鉄の扉はガシャンと大きな音を立てて木箱を飲み込んだ。
牢屋のようだと獏良は思った。
どのくらい待たされたのだろうか。両親に手を引かれ、再び鉄の扉がある部屋を訪れた。
おじさんは乳白色の欠片になっていた。
手を滑らせて割ってしまった陶器の皿の破片に似ている気がした。
そして、獏良の中で母親の言葉と自分が見てきたすべてのことが繋がった。
これが「死」なのだ。
遠いところへ行ってしまったなどという生易しいものではない。
もっと陰鬱で生々しくて、残酷で悲愴。この世のありとあらゆる不幸を詰め込んだものなのだ。そして、誰の身にも降りかかる。
悟ったところで、獏良はふと思った。
おじさんもあの影を背負っていたのだろうか。
死と影はとても近いところにある気がしたのだ。

それからというもの、獏良は影に対して恐怖心を抱くようになった。
視界の隅に入れば、目を伏せて見なかったことにする。
他の人には見えないのだから、獏良が見なかったことにすれば存在しないも同じなのだ。
正体が何であるのか調べることすらしなかった。あれは人の手に余るもの。
影を背負った人と擦れ違うときは、葬儀場に充満していたあの香りが漂ってくるようだった。
それさえ我慢すれば、獏良の日常は平穏そのもの。
成長するにつれて、見て見ぬ振りも板についてきた。
その矢先――。
「あら。了くん、虫かご持ってどこ行くの?」
声を弾ませて話しかけてきたのは、家の裏に住む中年女性。たまに菓子をくれることもあった。
獏良はいつものように挨拶をしようとして、ギョッと立ち竦んだ。
女性の輪郭に黒が滲んでいる。
背中を見ればはっきりと分かるはずだが、そんな勇気はなかった。
今まで見てきたのは赤の他人だった。
見知った者にまで及ぶとは考えてこなかった。
今はもう死の意味が充分に分かる。
獏良は辛うじて頭を下げると、その場から逃げ出した。
勘違いであって欲しい。はあはあと息を吐き出しながら強く願った。
大人たちに「おばさんがもうすぐ死んでしまう」と伝えたところで信じてもらえないだろう。それどころか、不吉なことを言うなと怒られてしまうかもしれない。
不安に揺れる日々が続いた。
調子が悪いから病院に行くと裏の女性が漏らしているのを聞いたとき、獏良はホッとした。
病院なら安心だ。悪いところを医者が治してくれるはず。そうすれば、影なんて逃げていってしまうに違いない。
家の窓から女性が出かけるのを見届けて、獏良は足取りも軽く外へ飛び出した。
女性の訃報があったのは、その日の夜だった。
病院帰りに違法走行をしていた車に跳ねられたらしい。
身体の芯から冷えたのは生まれて初めてのことだった。
きっと死の運命からは逃れられないのだ。根拠があるわけではない。ただの直感だった。
不思議と見当違いとは思わなかった。
影に張りつかれてしまえば、最終的には死へ辿り着く。
獏良の中で一つの法則が出来上がった。
もう、身近な者が死に直面する様を見たくない。
余計なものは見えない方がいい。
獏良はますます目を塞いだ。

運命というものは残酷なもの。
獏良がもっとも愛している妹に死の影が取り憑いた。
まだあどけない妹が死の危険に晒されることなどあってはならない。
影を剥がそうと触れようとしても、温かくて華奢な背中がそこにあるだけ。
獏良は焦った。
死はいつやって来る?
どうやって運命を変える?
ずっと見張っていれば、妹を助けることができるのか。
両親にも妹本人にも打ち明けられず、一人で頭を抱え込んでいた。
昼間はなるべく妹と共に行動する。
夜は眠らずに見張っている。
できるのは、それだけだった。
残念ながら小さな子どもの身。日常生活を自分の勝手では変えることはできないし、夜中起きていることも叶わずウトウトと船を漕いでしまう。
年齢に不釣り合いな隈まで作った。
子どもの力はこれほどまでに弱いものかと思い知らされた。
そして、やはり運命には抗えずに、妹はあっさりと死神に連れ去られてしまった。
健気な努力は全部無駄だったのだ。
二回目の葬式で獏良は初めて涙を流した。

妹を失った獏良は脱け殻のようだった。
食べ物が喉を通らず、夜も眠れない。
両親は最愛の妹を失って気落ちをしているのだと理解していたが、本当はそれ以上のことがあったのだ。
自分の背中にあの影を見つけたときは、現実をありのままに受け止めるだけだった。
――今度はボクか……。
着替えるために少し頭を傾けた拍子に、ちらりと見慣れたものが目に入ったのだ。
鏡で背中をよく見ようとしたが、そこには映らなかった。
できるところまで首を捻って、やっと確認ができた。
死を宣告されても恐怖はなかった。
妹と同じところへ行けるのなら、死ぬのもそれほど悪くはない。
足掻いても意味のないことは身に染みていた。
両親のことだけが心残りだった。
どうせなら痛くない方がいい。痛みを感じるのかは分からないけれど。
意識はどうなるのだろうか。天国はどんなところだろうか。
いずれにせよ、死ねば皆同じ。
棺に入れられて、炉で焼かれて、骨しか残らない。行き着く先は土の中。
――もうすぐ兄ちゃんが行くからね……。
獏良は静かに死を待った。

しかし、いつまで経っても死はやって来なかった。
身体のどこも悪くはない。
妹のときは、あんなにも無慈悲に死が訪れたのに。
自分自身に問いかけているうちに年月が経った。
線香をあげて、仏壇に手を合わせる。
――ボクだけが生き残ってしまった。妹を一人にした。
やり場のない後悔が胸の蟠りとなって残っている。
鳴らしたお鈴の音に首から下げたリングの音もチリチリと混じった。
時間が経つに連れて悲しみが少しずつ溶けていくように、獏良の強烈な体験も薄れていった。
一番の原因は、死の影がまったく見えなくなったことだ。
もう自分の背中にあるのかさえ分からない。
生きているのだから、消えてしまったのだろうか。
以前見ていたものは、幻だったのかとさえ思える。
獏良を悲しみから遠ざけるために、父親は外へ連れ回すようになった。
仕事柄、海外も多かった。
目まぐるしく日常が過ぎていけば、このまま影のことを忘れてしまうかもしれない。
チリチリとまた胸のリングが鳴る。
父から貰った黄金のリングは、確かにお守りなのかもしれない。自分だけは死ななかったのだから。
できれば早く見つけて、妹にあげたかった。
獏良は立ち上がり、仏間を後にした。

人が死ぬときは影に張りつかれる。
張りつかれた者は運命から逃れられない。
誰にでも死はやって来る。
『誰が死神なんざにやるもんかよ』

僕は人の「死」が見えていた。

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こういう時系列もありかなと思いました。

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