真夏の夜に
一つ数え、二つ数え、数を重ねるごとに漂う瘴気は色濃くなっていく。
百を数えた先に在るのは……。
家中の灯りを消し、外から光が入らないようにカーテンを締め切り、部屋の中央には円座卓を置いて、用意したのは懐中電灯一本。
懐中電灯は取っ手のないペン型。座卓の中央に垂直に立てた。
光源はLEDでなく、戸棚にしまいっぱなしの蛍光灯。
スイッチを入れれば、橙色の灯りが部屋全体を薄ぼんやりと照らす。
光量が強すぎるものよりも、かえって雰囲気が出る。
これは、蝋燭の代わりだ。
語られるのは、百の怪異。
語り終える度に懐中電灯の灯りを消して、次の話者が語り始める前にもう一度点ける。
抑揚に乏しい静かな語り口の他には、スイッチを切り替える素っ気ない音だけが鳴る。
カチカチ――。
物語の間に二回。
終幕の合図のようで、自然と拍子木の役目を果たしていた。
百も怪異を語るには時間がかかる。
獏良は予定が詰まっていない日の前夜を選んで決行した。
期限は夜明けまで。朝日が昇れば、すべてが無に帰してしまう。
どちらにしても、悠長にはしていられない。
最初は仕入れたばかりの現代風の話を意気揚々と語った。
中盤になると、定番の聞き慣れたような話が登場する。
奥座敷で這い回るもの、死後の世界へと続くトンネル、真夜中の峠に佇む髪の長い女、居るはずのない上階の住人。
「――届いた手紙には、こう書かれていたんだ。『もし、この手紙が届いたときにオレがこの世にいなければ、次はお前の番だ』」
カチ――。
ルールに倣い、懐中電灯の灯りを消した。唯一の灯りが失われると、辺り一面に闇が広がる。
カチ――。
もう一度、スイッチの切り替わる音がした。
灯りに照らされて、獏良の正面にぼうっと浮かぶもう一つの顔。
バクラの話は、一風変わっている。
海外の民間伝承や超古代文明にまつわる話など。
いわゆる一般的な怪談とはかけ離れているが、広義では同じオカルトであり超常現象ではあるので、ルール違反にはならないのだろう。
かつて生贄として神に命を捧げることが名誉だった頃の話。効果的な魔女の炙り出し方。とある騎士団の隠し財宝の行方。
考古学にも通じる話もあり、怖がるどころか、獏良が思わずへーと頷いてしまいそうになるものばかり。
どこで知った話なのか興味は湧くが、今尋ねるのも野暮というもの。
長く存在していれば、いくらでも珍しい話を見聞きする機会はあるのだろう。獏良は好奇心をぐっと堪えて、バクラの話に耳を傾けていた。
二人だけで数をこなしていると、一人当たりの配分が多くなる。
本来ならば、最低でも五人はいて欲しいところ。
獏良はこの日のために物語をたくさん集めていた。
それでも、六十を超えた辺りで勢いが失速してきた。
唐突に落ちが訪れる話や一段落ほどしかないあっさりとした話が続く。
一方のバクラは、一向に姿勢を崩すことはない。百といわず、いつまでも語れそうだった。
カチ、カチ――。
終盤に差しかかると、獏良は再び話に熱を入れ始めた。とっておきの話を惜しみなく披露する。
「――その巾着の中には、夥しい量の人の爪が……」
「――バックミラーに映ったのは、もう既に男の知る娘ではなく……」
「――押入れで息を潜めていると、フーフーという息遣いが……」
喉が渇くのも忘れて、もう一人の参加者に語りかける。
バクラは落ち着いた表情で、時折話に頷いていた。
カチ――。
九十九話目を終えて、バクラが灯りを消した。
静寂と暗転。
正式な百物語ならば、ここで終わりだ。百といっても、話すのは九十九。百話目を語り終えたときには、本物の怪異が現れるといわれている。
単なる度胸試しのお遊びは、降霊術としての側面も持っていた。
すべてを終えてしまうのは、縁起が悪いというのだ。
だから、百話目は避け、日が昇るのを待つ。
獏良は暗闇の中、手探りで懐中電灯を探し当てると、スイッチを切り替えた。
カチ――。
「どうだったかな?」
橙の、焦点がぼやけた光の中に浮かぶ顔に訊ねる。
「まあまあ面白かったぜ」
「君を驚かすところまでは、いかなかったみたいだけどね」
ふふふ、と二人の忍び笑いが漏れる。
「次にやるときは、もっと怖い話を見つけておくね」
「期待しておく」
それを最後に、獏良は懐中電灯の灯りを消した。
カチ……――。
部屋に広がる真っ暗闇。目と鼻の先にあるものも、ありとあらゆる輪郭さえも把握できない。無限に続くような漆黒。
「また、な」
獏良の耳元ではっきりともう一つの声が聞こえた。
「うん……」
どの話よりも短い百話目。
もう懐中電灯は必要ない。
獏良はその場に立ち上がると、覚束ない足取りで窓辺に向かった。
手を前に突き出せば、厚い布地に触れる。それをそのまま掴んで左右に引く。
いつもと変わらない町並みが目の前に広がる。東の空が白み始めていた。
今日の講義は午後からになるが、何時間寝られるだろうか。
振り返ると、円座卓に懐中電灯が一つ。
在るのは、それだけだった。他には、誰も、何もない――。
また、一から物語を集め直さなければ。
彼ともう一度、百物語をするために。
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楽しい時間はすぐ終わってしまう。