ばかうけ

それは、死者と生者、二つの国の境界が曖昧になるとき。
決して交わるはずのない両者が並存する。
気をつけなければならない。
隣人が生者であるとは限らないのだから。
うっかり手を取ろうものなら、二度と元の場所には戻れない。
死者はいつでも手招いている。


暑気払い


早朝、獏良は外出するために支度をしようとして、もう一人が床に座り込んでいることに気づいた。肩を落とし、項垂れたままじっと動かない。
乱れた髪の隙間から覗く険しい眼光が宙に向けられている。
用があるわけでもないのに姿を現しているとは珍しい。声をかけるべきか……。
獏良はしばらく考えた後、声をかけずに部屋を出ることにした。
どうせ千年リングを身につけている限り、離れることはできない。ならば、わざわざ自ら渦中に飛び込むような真似はしなくていい。
意味があるのかないのか不明だが、音を立てずにバクラの背後を通りすぎる。
幸いにも声をかけられることはなく、すんなりとリビングへ逃げ出せた。
一晩締め切ったままのせいで、リビングにはむわっと蒸した空気が充満していた。すぐに汗が肌に滲む。
まずはカーテンと窓を開け放ち、空気を入れ換える。
外は快晴。地上からは忙しく鳴く虫の声が聞こえる。カラッと乾燥した微風が網戸から吹き込んでくる。絵に描いたような夏の風景だった。
獏良は壁にかかるカレンダーに目を遣り、改めてスケジュールの確認をする。
夏休みが半分過ぎたところ。宿題は手間のかかるもの以外は終わらせてある。
友人との約束がこれから幾つかあるが、その他は家でのんびりしていたって問題ない。実に予定通りだ。
予定の確認が終わると、冷蔵庫から昨晩作っておいたサンドイッチを取り出し、軽めの朝食とした。
テレビで朝のニュースを流し見して、食卓の片づけと外出の準備を済ませる。
宿題の調べ物をしに、図書館に行くつもりだった。
いつ爆発するかも分からない爆弾を抱えながら家に閉じこもるより、涼しくも静かな図書館で宿題に取りかかる方が捗るだろう。
どうか、アイツが勝手なことをしませんように――。
青春真っ只中の高校生にとっては不憫極まりない願いを胸に、獏良は家の戸締まりをした。

外は強い日差しのせいで、体感温度は室温とは比べ物にならなかった。
額から汗を垂らしながら自転車を漕ぐ。
視界の先のアスファルトがゆらゆら揺れて、目眩を起こしてしまいそうだ。
今年は平年より全国的に暑い、と毎年聞いているようなフレーズを思い出した。
途中、九十度に腰が曲がった老婆や長袖を着こんだ中年男性を追い越しつつ、前だけを見て目的地へ急ぐ。
休業中の店が並んだ寂しい商店街を抜け、肌にシャツが張りつく頃には図書館に辿り着いた。
自転車を駐輪場に止め、ハンカチで汗を拭きながら扉を通る。
外と中とは別世界だ。冷房が効いている部屋に入れば、汗が瞬く間に引いていく。まるで楽園かオアシスに思えた。
一度、涼しさを覚えてしまったら、また外に出るのが億劫になる。
調べものを済ませたら、ファーストフード店にでも寄ってゆっくり食事をするのもいいかもしれない。
どうやら、邪魔者は静かにしていてくれるようだから。

この時期になると、幼い頃の出来事を思い出す。
やはり、茹だるような暑さが続いた日だった。
母親にうるさく言われて麦わら帽子を被り、公園だか小学校の校庭だかに向かっていたときのこと。
慣れた道を小走りに急いでいると、前方から一人の男がやって来た。
ポロシャツに半端丈パンツという珍しくもない服装に、キャップを目深に被っている。
獏良は男を避けようと歩道の端に寄った。
そして、すれ違う瞬間に、
「ボク、ちょっといいかな?」
男が親しげに話しかけてきた。
母親からは知らない人と話してはいけないと言い含められている。それでも、獏良は反射的に足を止めてしまった。
どうしよう、と悩む前に男の言葉が続く。
「あのね、駅は、どっちかな?」
子どもにも聞き取りやすいハキハキとした話し方。
知らない人と話してはいけないという約束の他に、人には親切にしなさいという教えもある。
矛盾した二つだが、どちらも母親が常日頃から口を酸っぱくして言っていることだ。この場合は、どちらが正解なのだろう。
幼い獏良にゆっくり吟味している余裕はなく、訊かれた通りのことをただ素直に答えた。
「あっち……です」
短い指を男の進行方向より斜めに向けて。
「ありがとう。助かったよ」
男は子ども相手でも礼儀正しく胸に手を当て、それからキャップのつばを摘まんだ。
後ろから前へ、くるりと半回転するようにキャップを外し、下から現れたのはのっぺりとした顔。
凹凸もなければ、あるはずの目も鼻も口もない。白い平面がそこにあるだけだった。
獏良はギャッと飛び退いて、一目散に逃げ出した。
その後はどこをどう走ったのか、小学校を通り越し、クラスメイトの住むマンションに駆け込んだ。
何が起こったかは話さないまま、クラスメイトに匿ってもらい、テレビゲームで時間を潰してから家へ帰った。
あれはなんだったのか、成長しても分からない。
暑さが見せた幻なのか、この世ならざる者なのか。
単なる記憶違い、ただの白昼夢、だと思えれば良かった。しかし、そうはさせてくれなかった。
この時期になると、どうやらこの世とあの世の境目が曖昧になるらしい。
生者の中に死者が潜んでいる。
自身の体験から仮説を立てただけで、しっかり確かめたわけではなかった。
お盆とは、祖先の霊が帰ってくる日。
父親か母親からそう教わり、外に目を向けてみれば、この世の者かあの世の者か分からない者たちをよく見かけた。毎年、必ず。
見かけたときは見ないふりをした。
目を瞑ってしまえば、生者の中に紛れ込んで区別がつかなくなる。
悪さをされたことは一度もない。良いものか悪いものかも分からない。
怖がらないことが一番良いのだと、獏良は自然と学んでいった。
もし、最愛の妹と同じ境遇の者たちなら、そうしてあげた方がいい――。

空調が効いているお陰で宿題は思ったよりも早く終わった。
時計を見れば、まだ十一時前。このまま読書感想文用の本も見繕ってしまおうか。
もう一人が勝手に動き出すと、大幅に予定が狂ってしまいかねない。やるべきことは、さっさとやっておくに限る。
獏良はルーズリーフをしまい、筆記用具をペンケースに戻した。
椅子の背凭れに体重をかけて背筋を伸ばし、天井を見上げる。
――体調、悪そうだったな。
静かなことは良いことだ。物事が計画通りに進む。
けれども、どうしたことか今朝の姿が脳裏にちらつく。
「ん……」
もしかしたら、この時期が悪いのか。
図書館にも、本棚の影に立ったまま動かない髪の長い女性や席に座ってやけに深く俯いた青年がいる。
この世のものなのか、あの世の者なのか不明だ。あえて確かめることはしない。
生者なら問題はないし、死者ならやがて帰っていくはず。
ならば、この世には存在しつつも、生者とは程遠い不確かな者はどうなるのだろうか。
どう扱えばいいのか検討もつかない。
確かなことは、当の本人はあの世に帰りたがってはいないということだけだ。
「んん……」
獏良は頭を緩やかに回しながら、物思いに耽っていた。

魂の内側を無数の虫が這いずり回っている。
時折、四方八方に向かって飛び出そうとする。
それらをすべて抑え込むだけで精神が疲弊しきっていた。
場所が悪い。時期が悪い。
苛々と膝を揺らし、背を丸めて耐えていた。
千年リングには、数えきれない亡者たちが巣食っている。
普段は鳴りを潜めているし、一つ一つに意識があるわけではない。集合体といった方がいいかもしれない。
核であるバクラに逆らおうとすることなど、数千年――今までなかった。
それがこの国に来て以来、毎年この時期になると、一斉に騒ぎ出すようになった。
全部が全部、どこかへ帰ろうとする。帰る場所などないはずなのに。
魂が裂かれてしまいそうだった。
あと少し耐えれば沈静化するのだと自分に言い聞かせ、盆明けを指折り数えて待つ。
周りのことを気にする余裕はない。胸を掻き毟り、身を捩り、歯を食い縛る。
いい加減にしろ。諦めろ。てめえらの墓はここだ。
往生際が悪い奴らだと思う。帰りたいと泣き腫らしたところで、もう人として弔ってもらう機会は永遠にないことは分かりきっているのに。この道を選んだのは他ならぬ自分自身のはず。
同時にそれは自虐的な意味も含んでいた。
帰る場所など……。
ちりんちりん――。
小さな音がする。千年リングのものと似てはいるものの、もっと軽やかで涼しげな音。
バクラは音の方――外へ意識を向けた。
窓辺に吊るされたお椀型のガラス細工。表面には真っ赤な金魚が水草の間を泳いでいる。その下には小さな短冊が風を受けて翻る。
素朴な音が優しく耳に語りかけてくる。
今度はことん、と背後で物音がした。
獏良がテーブルにボウルを置いた音。
「少しは涼しく感じるよね」
ボウルの中を覗けば、緑と紫の二色。
「これはね、キュウリとナスの漬物。これから素麺も茹でるよ。おはぎも買ってきた」
「――なんの……」
パーティだ、とバクラが言葉を続ける前に、
「そうそう、枝豆もあったんだ」
獏良がぱたぱたと台所に引っ込んでしまう。
「普段は食べないけど、たまに食べると止まらなくなるんだ」
バクラの疑問が解消されることはなく、テーブルに次々と皿が並んでいく。
「しみったれた食い物に何の意味がある」
食事の準備が整い、獏良が席に着いたところでやっと問いかけることができた。
まだズキズキと身体中に痛みが走っている。ままごとに付き合う余裕はなかった。
「毎日暑いからね。少しでも涼めたらと思って」
確かに夏らしく清涼感のある食べ物ばかりが揃っている。
獏良はバクラにも座るように促すと、テーブルの上で腕を組み、
「この時期は辛いけど、越せないと秋を迎えられないからね。僕にできるのは、これくらい」
静かに微笑みを浮かべた。
ちりんちりん、と澄んだ音がバクラの耳を擽る。
ざわざわと騒いでいたはずの亡霊たちは水を打ったように静まり返っていた。
バクラの中から数えきれないほどの視線が獏良と料理に注がれている。
当然、獏良は気づいていないだろう。気づいたところで、果たして怖がるのか。いつになく落ち着いた獏良の態度を見ていると自信はなかった。
バクラは素知らぬ顔で席に着き、獏良に嘲笑を送る。
「別に暑かねェんだが」
「そう?ならいいけど」
沈静化したざわめきと共に痛みは殆ど引いていた。揃いも揃って風鈴の音と少年の声に耳を済ませている。
――調子のいい……。
死者と生者の間でバクラだけが揺れていた。
少なくとも、ここにいれば毎年訪れる鬱陶しい時期を穏やかに過ごせるのだ。
この、宿主のそばにいれば……。
バクラは肺を空っぽにするように深く息をふうと吐き出した。
少しばかり気に食わないが、獏良の調子に合わせる方が得策らしい。
ようやく、心から椅子に身を預ける気になった。
少しの間だけ退屈なもてなしを受けるとしようか。ちりんちりん、と心地の良い音と共に――。

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