古代エジプトより封印された名も無きファラオの魂が名を取り戻した日、遊戯たちはかつてない目まぐるしい体験をした。
記憶が作り出した空間とはいえ、時を越え、命を懸けた決闘の末、世界を脅かす存在を倒すことに成功したのだ。
人生観がひっくり返ってしまうような一連の出来事を終え、凱旋気分に浸ることは残念ながらできなかった。
なにせ日常に戻ってしまえばただの学生。ゆっくり休む暇もなく、学校へ行かなければならなかった。
自分たちの身に起こったことが夢であったかのよう。しかし、別れは刻一刻と迫っている。
遊戯はなるべく今まで通りでいるように努めた。残された僅かな時間をアテムと共に平穏に過ごすために。
思い出を少しでも増やそうと、一つ一つの出来事を胸に刻んだ。
友人たちとゲームに興じ、町中で絡んでくる不良を撃退し、自宅でアテムとデッキを組む。
もうアテムは闇の人格ではないけれど、遊戯の相棒であることには変わりない。
「何ィ?城之内、お前まだパスポート取ってないのかよ!」
休み時間の教室で、本田は呆れた声を上げた。
「だってよぉ。結構金かかんだぜ。バイト代の前借りもできなかったし……」
当の本人は決まり悪げに口をへの字にした。
アテムの故郷であるエジプトへの出発日は既に決まっている。墓守りの一族と連絡を取り合い、話し合った結果決めたことだ。現地で準備を任せていることもあって、日程を変更することはできない。
「もたもたしてると間に合わなくなるわよ!」
周りから一斉攻撃を受けた城之内は、両手を挙げて降参の構え。尚も友人たちの追撃は止まらない。
遊戯はクスクスと笑い、他人には見えない相棒と顔を見合わせた。
「まだ時間はあるから大丈夫だよ」
全員でエジプトへ向かうことは自然と決まっていた。
今まで支え合ってきた仲間だから、意思を確認するまでもない。改めて話し合うこともしなかった。全員がアテムを見送ることで意見は一致していた。
「だろ?だから、ほんのちょびっと金貸してくれると助かるんだけどよ」
「何言ってんだ!馬車馬のように働いてこい」
仲間の輪にどっと笑いが起こる。遊戯は手を叩きながら全員の顔を眺め、獏良を見つけると視線を留めた。
他の友人と同じように大きな口を開けて笑っている。表情に翳りはない。いつもと変わりない様子で――。
そんなわけがない。遊戯は口を固く閉じる。
あの日、獏良は闇の人格に操られていた。遊戯たちの奮闘で無傷で解放されたものの、極限状態にあった。
本人がただ疲れただけだと申告したことで病院にも行かず、休むことなく学校に来ている。
あまりに変化がないことに遊戯はかえって不安を感じていた。
闇の人格は消滅し、もう獏良は操られることはない。まだ邪念が残っている千年リングは誰の手にも渡らないように保管してある。
一連の出来事はすべて解決したのだ。
しかし、遊戯は知っている。もう一つの魂を内に抱えることが、どれだけその身に影響を与えるか。
通常一つであるはずの人格が二つに増えるのだ。身も蓋もなく表現すれば、定員オーバーといったところか。
アテムの存在に気づいてないときは、遊戯ですら重圧に押し潰されそうになったこともある。
それが、ある日突然消えたことで、変化がまるでないなんてことはないのだ。
このまま黙っていれば、エジプトへと旅立つ日を迎えてしまう。
遊戯はこっそりと獏良に耳打ちをした。
遊戯は獏良を誘い、午後の授業を抜け出して屋上へ上がった。
休み時間では獏良を追う女子の目が厳しい。休日に改まって席を設けるとなると堅苦しくなって話しづらい。
揃ってサボりとなれば、目立ってしまうが仕方がない。
二人はフェンスの前に並び、風に吹かれながら雑談を交わした。
「少しなら城之内くんにお金貸せるのにな。本田くんに甘やかすなって言われちゃった」
「あはは。みんな手続きしなくちゃならないんだもんね。獏良くんはもうパスポート持ってるんだよね?」
「うん。まだ前に取った期限が残ってるんだ」
こうして隣に並んでいても、獏良の内面を窺うことはできない。遊戯が話をどう切り出そうか考えていると、
「僕に話があるんだよね?内緒の」
獏良は遊戯の胸元を指差した。
そこには千年パズルはない。一対一で話をするために千年パズルは教室に置いてきたのだ。
アテムに頼めば聞かないようにしてくれるだろうが、目に見える証拠がなければ獏良に対して不誠実になる。
そのことを遊戯が伝えると、アテムは詳細を訊かずに快諾した。
もしかしたら、用件について朧気に察して知らないふりをしてくれたのかもしれない。
遊戯はアテムの気遣いに感謝しつつ、鞄の中に千年パズルをしまった。
「もしかして心配させちゃったかな。もう全然平気だよ。体力も戻ったし」
獏良は力こぶを作る真似をして見せる。
「もう操られたりしないしね。ホントに酷い奴だったなあ。スッキリしたよ」
語る表情は晴れやか。吹き抜ける風を心地よさげに受け止めている。長い髪がさらさらと靡いた。
ここで遊戯が良かったと頷けば話は終わる。獏良の言葉を丸呑みし、杞憂だったのだと納得し、話したことを忘れて、エジプトに向けて出発する。
けれども、遊戯は話を終わらせるわけにはいかないと思った。獏良がそれを望まなくても。
「本当に?」
「本当に」
はっきりとした口調で言葉が繰り返される。その笑顔の裏側を読むことはできない。同じ問いを繰り返しても押し問答になるだけだろう。だから遊戯は話題を変えることにした。
「エジプトに行ったら、もう一人の僕と別れなきゃならない。納得はしてるんだよ。やっとここまで来たんだ」
授業中の校舎は静かで、真昼なのに二人以外の生徒がすっかり消えてしまったかのよう。ここが学校であることを忘れてしまいそうになる。非日常的な空間が本心を打ち明けやすくさせる状況を作り出す。
「でも、本当はもう一人の僕がいなくなるなんて思いたくないのかもしれない。前を向いていなきゃ、引き返したくなる。振り向かないようにしているんだ。二人で決めたことなのにね」
獏良は黙って耳を傾けている。
屋上から見える町並みのずっと先に目指す場所がある。アテムが帰る場所は、それより遠い。遊戯の目頭が熱くなる。
「行かないで、なんて言えない。もう一人の僕は優しいから、きっと心を痛めてしまうんだ。だから、僕は彼を送り出す」
「遊戯くん……」
涙が出ないように、目に力を入れて窄める。あの日から一度も涙を流したことはなかった。最後まで泣かないと決めたのだ。ここで気を緩めてしまえば止まらなくなってしまう。
そんな遊戯に獏良は微笑みかけた。
「君は強いね」
瞳には憧憬の光が揺らめく。映っているのは空の透けるような青色。奥にはもっと深い色――同情と悲哀が垣間見える。揺らめきが本心からの言葉だと物語っていた。
「強くなんてないよ」
遊戯が否定しようとも、獏良は首を横に振る。
「僕は……弱かった」
獏良の視線の先は、同じ方向でありながら、恐らく遊戯とはまったく違う場所を見つめている。
「あいつの言いなりになって、遊戯くんたちに迷惑をかけてしまった」
その言葉は、罪人からの告白めいた響きを持っていた。ある種の自嘲的な、すべての罪を受け入れ、法廷に立つ者が持つ潔ささえあった。
「迷惑だなんて思ってないよ。だって操られていたんだから」
獏良は項垂れ、額をフェンスにカシャリと押しつける。髪がばさりと落ちて顔を覆う。
「違うよ。頼まれたからだよ。僕がやったんだ」
遊戯は獏良を急かすことも問い詰めることもしなかった。口を結んだまま、まばたきをして、視線を送る。
「あのジオラマを作ったのも僕。美術館の隠し部屋を借りたのも僕。父さんに頼んで展示物を用意したのも僕。あいつが何を計画しているかは知らなかったけど、全部僕が悪いんだ」
声の調子は変わらないものの、露になった白いうなじが小さく震えている。
「獏良くんはなぜそうしたの」
長い告白を聞き終えると、遊戯は静かに問いかけた。
始めは沈黙。次第に小さな息遣いが断続的に聞こえた。消えてしまいそうな微かな音。
獏良が何か言おうとしている、と遊戯は耳を澄ませる。
しばらくそれが続いた後で、
「……………………喜んでくれたから」
半分音に成り損ねた、湿り気を帯び、震える声。
「喜んでくれたからだよ」
獏良はもう一度繰り返した。やっと音になり、そこからは堰を切ったように続いた。
「僕が作ったものを凄いって褒めてくれたんだ。誰よりも。だから嬉しくて。そんなの本心からじゃないって、あいつが思うわけないって、気づいていたはずなのに。僕のこと分かってくれているような気がしたんだ。最後まで……僕は……」
途中から声には涙が滲み、感情が溢れ出す。最後には啜り泣きが混じっていた。
「本当に最低だ……。軽蔑、したよね。」
ぽたぽたと落ちた数滴がコンクリートを濡らす。濡れた場所は染まって鈍色へ。流れる雲が屋上を覆い隠し、影が二人を包む。
「獏良くん」
遊戯は前を向いたまま、濡れた床に気づかないふりをした。中途半端な慰めなど、獏良を余計に悲しませるだけ。できるのは、進むべき道を示すことのみ。
「一緒にエジプトに行こう。そこからすべてが始まったんだ。そして見届けて欲しい。僕たちの出した答えを」
屋上が再び太陽の光に照らされたときには、獏良の涙は止まっていた。
「うん……」
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彼の生まれた地へ。
すべてを終わらせるために。