縛めから解き放たれた開放感と長年の望みが叶った高揚感に全身が沸き立つ。
両手を天に突き上げ、漲る力に酔いしれる。
その手は闇と一体化したように黒く変色し、先には有鱗類を想起させる鋭く弓状に曲がった鉤爪がついていた。
慣れきってしまっていた肉体とはまるで違う。逞しい四肢に鋼鉄のような硬い皮膚。
空気を切り裂かんばかりに勝利の咆哮を上げた。もう誰にも止めることはできない。
気に入らない人間を捻り潰すことも、町を焼き尽くすことも、大地を変形させることすら容易。
不可能なことなどない。すべてが手に入る。この世界そのものを掌中に収めたといっていい。
彼の魔力は今や無尽蔵。
興奮を静めるために全身の力を抜いた。太陽の力を失い冷えきった空気が肌にまとわりつく。
頭の芯がまだビリビリと痺れている。しばらくの間、その余韻に浸った。
改めて周囲を見渡し、己の所業を視界に収める。胸が空くとはこのことか。歓喜に包まれながら、視線が背後に回り――。
虚無の宴
結果は最後の瞬間までどうなるか分からなかった。
一方は切り札の能力を使い切り、一方は魂を限界まで捧げ、残っているのは気力だけ。
一進一退の攻防、二転三転する戦況、当人たちも先が読めないほどの熾烈な闘い。
盤上の駒に全神経を注いだ。互いの手駒は既にいくつか欠け、もう後がない。
睨み合いが永遠に続くかと思われたとき、事態は急転した。
運命の分かれ目となったのは、一枚のカード。
王の名を求めて王墓に潜った器たちの前に、待ち構えていた駒の一つが立ちはだかった。
水面下で行われた決闘。名を賭けて両者がぶつかり合い、その瞬間を迎えた。
絶体絶命の苦境で引いたカード。起死回生を願い、最後に引いたカードで奇跡は起こせなかった。
名を失ったままの王では、本来の力を取り戻した大邪神に敵う手立てはない。
勝利したのは、バクラ。
王を打ち破った盗賊は千年アイテムから解放された。
もう窮屈な人間の肉体に縛られることはない。すべてを脱ぎ捨て、本来の姿へと変容する。
それはサナギが脱皮をする様に似ていた。思う存分に太く逞しい腕を広げ、有り余る力を宿す巨躯に喜びに浸る。
まず何をしようか。
手始めにあの目障りな白龍を有するビルを破壊してみてもいい。暴風雨を呼び起こして人間たちを混乱に陥れてみるのもいい。
上機嫌に尾を揺らして周囲を見渡す。
視線が背後に回ったとき、「それ」を発見した。
俯せに倒れた一人の少年。糸の切れた人形のように力が抜けた白い手足、髪は乱れて背中から床に広がっている。身動き一つしない。
バクラは動かない少年に一歩二歩と歩み寄る。
こうなることは分かっていたはずだった。
小さな器は強大な力に耐えきれなかったのだ。
バクラが肉体から抜け出した時点で短い生を終えた。
これは、目的を達成するために用意した、ただの仮宿。今やもう用済み。
バクラは両手で少年だったものをゆっくりと掬い上げ、儀式めいた仕草で空に掲げた。
すべて承知の上で選択した結末。
それなのにまるで現実味がない。
しばらくして、二回目の咆哮が辺りに響き渡った。
少年はベッドの上で昏々と眠り続けていた。
綿毛のような柔らかい睫毛が下瞼に下りたまま動かない。
衣服は綺麗に整えられ、両手は鳩尾の辺りで重なっている。
ここは、かつて少年が暮らしていた部屋。
今は太陽の光が差し込むこともなく、薄闇が支配しているせいで、印象がまるで変わっている。生活していた頃の温もりは消え、底冷えをするようだった。
訪れたことのある者でも、同じ部屋であると一目では気づかないだろう。
最早それを確かめることは誰にもできない。
ここへ立ち入ることが許されているのは、ただ一人だけ。
その一人が音を立てずに戸を開けた。一歩一歩確認するように床板を踏み、ベッドの脇に立って少年を見下ろす。
せっかく取り戻した本来の姿を以前と同じものに作り変えていた。あれほど疎んでいた何の力もないちっぽけな人間の姿へ。
以前と同じといっても、少年の身体から分離してしまった以上、厳密には同じではない。似せてあるだけだ。
どこまで再現できているのかは本人も分からなかった。鏡をいくら覗いてみても似ている気がしない。
型は目の前にある。しかし、観察するにしても限界があった。
元々色白だった肌は雪白になり、腕を掴んでも脈は打ち返さない。薄紅だった唇も色が薄れている。
鼓動を停止してから、すぐに少年を支配する時間を止めたものの、生者が持つ輝きは取り戻せなかった。まるで精巧に作られていながら人間に成り損ねた蝋人形。
だから、一つ一つ思い出しながら肉体を作り上げていくしかない。
どのように呼吸していたか、手足の可動域は、唇の動きは、表情は――。
中でも苦心したのは、閉ざされたままの眼。
記憶を頼りにするだけでは、どうしても真似ることができなかった。
以前は、角度や光によって表情を変える宝石のようだった。眺めているだけで飽きなかった。唯一無二の珠玉。もう二度と見ることはできない。
そのまま少年の顔を眺めていると、バキバキと奇怪な音を立て、腕の一部が不自然に隆起と沈降を繰り返し始めた。
巨躯を小さな人の形に無理をして押し込めているため、気を緩めると肉体が元に戻ろうとするのだ。
再度、指の先まで意識を向け、暴れ出そうとする本性を押さえる。
どうにか静まったところで、横たわる少年に手を伸ばした。
頬に触れ、長い髪を梳いて、形を思い出す。
なだらかに盛り上がる頬、膨らんだ蕾のような瞼、真っ直ぐ筋の通った鼻、上下が行儀よく揃って柔らかい唇、丸みを帯びた三日月型の耳、無駄な贅肉がない顎、すらりと細い首、くっきり浮き上がった鎖骨、丘のように僅かに盛り上がった胸、引き締まった腹、程よく筋肉がついた上腕から前腕、優雅とさえ思える細長い指、よく手入れされた爪、しなやかな線を描く太股、張りのあるふくらはぎ、生まれたてのようにすべすべとした足、撫でればさらさらと滑り落ちる髪、すべて、すべてが――。
何度確かめても、写し取ることができない。
毎日部屋を訪れては、同じことを繰り返し、一方的な逢瀬を重ねる。
これ以上壊れないように触れ、見つめ返すことのない目を見つめ、一糸の乱れも許さずに整える。
何度も、何度も。
望みは叶えられた。不可能なことなどない。すべてが手に入る――はずだった。
少年は静かに眠ったまま、今日もかつての同居人が訪れるのを待っている。
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もう元には戻らない。