ある休日の午後、獏良は溜まった家事を一度に片付けようと朝から励んでいた。
午前中は洗濯物と布団を干し、浴室やトイレなどの水回りを掃除した。
今はリビングの床拭きに取りかかっている。モップを手にきびきびと壁から壁へ行ったり来たり。
昼は手っ取り早くパンだけで済ませてしまったが、三時のおやつ兼ご褒美用に少し値段設定が高めの洋菓子店で購入したシュークリームが冷蔵庫で待っている。
鼻先に人参をぶら下げられた馬のごとく、なおさら熱を入れて床を丁寧に磨く。
部屋の隅まで辿り着いて後ろを振り返れば、艶が出たフローリングにピカピカと光が反射していた。
「よしっ」
得意げに鼻を膨らませて自画自賛。部屋を見渡しているうちに、壁にかかっているコルクボードが目に入った。
「あっ……」
途端に記憶の蓋がぱかりと開き、モップを放って駆け寄る。
コルクボードに吊るしたクリップに一通の封筒が挟んである。獏良はその封筒を手に取って中身を確認した。
既に封は開いていて、中には書類が数枚入っている。差出人は役所。公的手続きの案内と届出用の書類だ。
届いたときに処理が面倒で放置してしまっていた。
書類に記入をし、判子やら身分証明書などの必要なものを揃え、利用時間内に役所へ行くことを考えると、腰がどうにも重たくなってしまう。後回しにしているうちに日にちが経ち、すっかり忘れてしまっていた。
まだ締め切りに間に合うだろうか。
指で文章を辿り、期日についての記載を探す。
一枚目には発見できず、二枚目に進み、中程でようやく発見した。今月中に手続きをしてしまえば、まだ間に合う。
「良かった……」
ふう、と息を吐き出し、改めて一枚目を読み返した。
再度確認しておかなければ、書類不備で慌てることになるかもしれない。
≪十八歳になる皆様へ≫
案内はその文句から始まっている。
届いたのは、昨年末。十八歳を迎える全員に同じ書類が届いており、学校でもちょっとした話題になっていた。
昨年、童実野町一帯で新たに条例が制定された。
同封された届出書類はその手続きに必要なもの。
地方自治体が取り決めたからといって、すぐその日から条例に従えというのは無理な話。
まずは社会人の元へ書類は届けられた。次に高齢者。そして現在、十八歳以上の学生を対象とした手続きが開始されている。
ゆくゆくは子どもも含めた全住民が手続きを完了する予定だ。
「相変わらず強引だなあ……」
獏良は書面を通し、ほとんど顔を合わせることのないクラスメイトの顔を思い浮かべた。
一連の決定には、とある大企業が絡んでいる。
その大企業は一介の民間企業とはいえ、日本――特に童実野町においては、絶大な影響力を誇っている。
小さな独裁国家と揶揄する声も聞こえてくるものの、反旗を翻そうとする者はいない。
無茶な条例に従うほどに、童実野町は恩恵を受けている。
単純に税金の面だけでもそうであるし、近年に著しく都市開発が進んだのも、住民たちが優先的に公的サービスを受けられるのも、すべてその企業があってこそ。今や住みやすさという点では隣接する街とは比べ物にならない。
宇宙ステーションの開発も行われ、童実野町は近未来のモデル都市として注目されつつある。
そんな大企業から声がかかれば、全住民が従わざるを得ない。
あまり恩恵を感じていない獏良でさえ、こうして大人しく書類を手にしている。
城之内などは従うものか、と鼻息を荒くしていたが、逆らった場合のデメリットを持ち出されれば、素直に手続きをするしかなかったらしい。
獏良は書類を一通り読み直し、手続きの流れを頭に叩き込む。
次に、ゲーム置き場と化している洋室へと移動した。
TRPGのフィールドが部屋の真ん中に置かれ、関連するフィギュアや本も揃えられている。
それらを縫って進み、クローゼットを開けると、ボードゲームが山となって積まれている。
獏良が取り出したのは、そのどれにも当たらない、取っ手つきの収納箱。箱の中には数えきれない量のカードが詰まっている。
普段は観戦ばかりであまりプレイをすることはないが、たまに友人たちと興じることもある。
「さて……」
獏良は手で顎を撫でた。
手続きには構築済みのデッキが必要なのだ。最低でもカードを四十枚選ばなくてはならない。獏良がよく使うデッキもあるにはあるが。
童実野町で新しく制定された条例とは、住民はM&Wのデッキを行政登録しなければならないというもの。
手続きを怠れば、住民登録は抹消され、童実野町の住民として認められなくなる。
強引な条例を制定した理由については以前から公示されているので今更問う必要はない。届いた書類にも丁寧に記載されている。
尤もらしい理由が繰り返される度に、代表の顔を直接知っている者たちは、何か別の考えがあってのことだろうと推測していた。
なにせ代表のM&Wへの熱意は並々ならぬものがある。今となっては、M&Wそのものというより、むしろ……。
獏良はしばらく考え込んでから、収納箱の隅に置かれた木製の小箱を取り出した。小箱には未使用のデッキがしまってある。
デッキのカードを扇状に広げ、一枚一枚確認する。
「悪趣味」
獏良の口許には柔らかな微笑み。
このデッキがどうやって構築されたのかは知らない。
獏良が愛用している悪魔族やアンデッド族中心のものに似てはいるが、知らないカードも多数含んでいる。
この身に覚えのないデッキを見つけたときには驚いたものだ。
遊戯たちに意識を失っている間に起こったことを教えてもらわなければ、夢遊病になってしまったのかと疑うところだった。
教えてもらったといっても大筋だけで、デッキの真の所有者がどうやって使用していたのかは殆ど分からない。カードをこうして眺めて想像するだけだ。
強いカードを詰め込むのではなく、随分とクセがあるのは何かしらの拘りがあったからだろうか。
「よく考えるもんだ。さすがだよ」
褒めてないからね、と心の中で付け足す。
デッキを使いこなせるのは構築した者のみ。だから、獏良は箱の奥にしまいこんだ。所有者は、もういない。
手に取ることは永遠にないと思っていたが、届いた一通の封筒によって事情が変わった。
獏良はデッキを両手の中に収め、カードの表面を撫でる。
こんな形で出番があるとは考えもしなかった。
波乱ばかりだった過去にしばらく思いを馳せる。
獏良のデッキとして申請すれば、データの中で生かすことができる。
きっと、このときのためにクローゼットの中で待っていたのだ。
もう使われなくなったカードを手にし、書類に取りかかることにした。
だって、ただ眠らせておいたらカードたちが可哀想じゃないか、と理由をつけて。
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獏良はどんなカードを登録したのかなと思いまして。