視界が滲む。
湿った肌が触れ合い、その温もりをさらに求めて汚れのない表面を探る。絹糸のようにか細く途切れ途切れに続いていた声が跳ね上がった。視界にチカチカと光の粒が見える。
縋って後ろに回した手に力をこめた。放っておけば勝手に囀ずる声を抑えようとするも、許してはもらえない。では、と言葉を紡ごうと試みるも、意味のない文字の羅列が続くだけ。
もどかしさに目の縁が濡れた。その雫を目敏く見つけた連れ合いが指で掬い、目の端に軽く唇を落とす。
心地よさに一声鳴くと、髪に、額に、瞼に、頬に、雨あられと続けて降ってきた。
胸の奥が焦げてしまうと錯覚するほどに熱くなる。一層しがみついて足を絡めた。知らない間に立てていた爪が白い背に薄っすらと線を引く。
短く息を弾ませて顎を上向ける。目の焦点は定まらなくなっていた。白い輪郭が何重にも見える。限界が近い。
それを告げると、唇を強引に塞がれた。呼吸がままならない。肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。仰け反ってシーツの上を足が滑る。
くらりと視界が回ったところで唇がやっと解放された。周辺の空気を口いっぱいに頬張る。大きく胸が浮き沈みする。
すべてが連れ合いの手のひらだった。指一本でも翻弄させられてしまう。それは見方を変えれば、支配に似ているのかもしれない。
身を任せることに心地よさを覚えていた。だから、望むところなのだ。与えられる甘露を溢さないように享受する。全身全霊をもって喜びを伝える。
連れ合いが満たされるのなら幸福だった。
獏良は口を半開きにし、すっかり蕩けた表情で背中にしがみつき、天井を見上げていた。楽になることしか頭にはない。待ちきれずに早く早くと身をくねらせる。
聞こえる息遣いも切羽詰まっているようだった。
もどかしさと息苦しさに悶えた視線の先に見つけた白い輪郭へ本能のままに顔を寄せ――。
上品とはいえない笑い声を城之内が立てる。一本のビデオテープを友人たちに見せびらかしていた。
「新作なんだぜ。どうだ羨ましいかっ」
内容としては平凡でも、男子高校生には刺激的。友人たちは揃いも揃って生唾を飲み込みながら、見た目には普通のビデオテープと変わらないものを凝視した。
この会話はもちろん女子禁制。杏子はそうとは知らずに、クラスメイトの女子と話に花を咲かせていた。
男子たちは、こそこそと気づかれないように教室の隅に固まっている。
獏良も呼ばれたから輪に加わっているものの、他の友人たちとは少々態度が違っていた。
「女の人が積極的なのって、そんなにいいもの?」
おずおずと会話に参加する。
「おー!」
城之内が目を輝かせ、獏良の肩をバンバンと強めに叩く。
「ついに獏良も興味を持ったかー!」
「あっ、いや……」
口の中でモゴモゴと言葉を詰まらせる様子には気づかず、城之内は感慨深げに頷いた。
今まで獏良がマル秘のビデオテープについて言及をしたことはなかった。表情を変えることなく、盛り上がる輪を見守っていただけ。
あらゆることに興味が広がる男子高校生としては少々特殊な反応なので、城之内が誤解してしまうのも無理はない。
「気の強そうな女の態度がコロっと変わっちまうのがイイんだよ。普段見せない一面っつーかな」
「態度がコロッと……。ギャップってこと?」
「そのとーり!」
城之内が人差し指を立てたところで、獏良の頬が赤く染まった。色が白いだけによく目立つ。
「なんだよ。刺激が強すぎたか?」
その問いかけに対する答えは、肯定とも否定ともつかない曖昧な感嘆詞。
実のところ、獏良はビデオテープ自体に興味を示したのではない。城之内たちの反応が気になったのだ。
これ以上触れてはいけないと察した城之内が話題を変えても、まだ獏良の心臓はドキドキと波打っていた。
ビデオテープを貸し出そうとする厚意を有り難く辞退し、男たちだけの会話は終了となった。
獏良が自宅の座卓で寛いでいると、姿を現した同居人が音もなく隣に腰かけた。
「今日は何してたの?」
その横顔に探るような目つきで問いかける。
「寝てた」
バクラは大きな欠伸を一つ。発言に偽りはないようだ。
「何かあったか?」
「ううん、何も」
獏良は素知らぬ顔で首を横に振る。大人向けのビデオについて話をしたと知られたくはない。
肉体を二つの魂が共有しているという世にも稀な状態なため、隠し事はあってないようなもの。しかし、バクラが心を覗こうと思わなければバレることはない。ようするに気分次第だ。
今日は上手く誤魔化せたのか、片眉を上げて見せるだけで追求はされなかった。
「あのさ……」
獏良は座卓の上で組んだ手に視線を落とし、何気ない声色を装い、
「君は……ギャップって好き?」
相手の顔を見ずに問いかけた。
「あ?ギャップ……意外性のことか?」
こくこくと頷くと、
「質問の意味が分からねえが、好きでも嫌いでもねえな」
「そ、そうか」
あっさりとした回答が返ってきた。
獏良は少しだけ気落ちした表情を浮かべ、しかしすぐに背筋を伸ばし、改めて問いかける。
「でも、嫌いってわけじゃないんだよね?」
「さっきから何の話をしてるんだ?」
ビデオテープの部分は伏せ、城之内が話した内容を掻い摘んで説明する。あくまで一般的な男子の趣味について疑問に思うという体裁を取り繕って。
「フーン」
興味なさげな相槌の後、一転して含みのある顔でバクラがにやりと笑う。
「それで宿主様は自分が魅力的かどうか気にされたと」
「そんなこと言ってない!」
口では否定するも、獏良の顔は夕焼けよりも赤くなる。
当然バクラはそんな言葉を鵜呑みにするはずもなく、
「ギャップと言われてもなァ。今さらそんなモンねえよ。お前のことは知り尽くしてるし。ご期待に添えなくて残念だが」
「添わなくていい!」
目を細めて首を勢いよく横に振る獏良を眺めた。
「イヤイヤ、お前は根が素直だろ。ギャップなんつーモンには無縁……」
最後に辿り着く前に言葉を飲み込み、首筋を一撫で。
「ああ、そうか。なるほどな」
ギクリ、とたじろぐ獏良に向かい、バクラの目が鋭く光る。薄く開いた口から舌の先がチラリ。
「じゃあ、見せてもらうか。ギャップってやつを」
二人の顔が触れそうになるまで近づく。
「待って。まだ昼間……だよ」
獏良は揃えた指で迫る唇を押さえた。
紅潮した頬に、「まだ」という返事。行為そのものを拒絶されたわけではない。バクラにとってはそれで充分だった。
笑みを一層深くして、唇ではなく頬に軽く触れるだけにとどめた。
獏良は夕食を取ってから早々と寝支度を調えた。バクラがもう一度誘ってくることは分かりきっていた。
随分と優しくなったものだと思う。以前は獏良が少しでも否定的な意見を言えば、その場で引き倒されていた。抵抗すればするだけ報復が待っている。
痛い目には何度も遭った。
闇から生まれたものには、人間の扱い方など理解できないし、理解しようとも思わなかったに違いない。
暴力を振るえば人間の心を開くことはできない。好意には好意が返ってくる。
獏良から少しずつ学んでいき、共に暮らしていくうちに次第に人間染みていった。
付き合いが長くなるにつれて、獏良がバクラの性質を理解し、対応の仕方を学んだのも大きい。
今や互いに言わんとしていることは大体察することができる。概ね平和な毎日だ。バクラが強引なのは変わらないけれど。
寝間着に着替えた獏良がベッドに腰かけると、背後から白い両腕がするりと絡みつく。振り向くと淡い色の唇が迎えて――、今度は目を閉じて受け入れた。
触れ合うことのできない日中の分も取り戻すように何度も貪り合う。そのまま崩れ落ちるようにベッドに沈んだ。ほう、という吐息と共に唇が離れると、
「――いいよ」
獏良は艶を含んだ微笑を浮かべる。
それが享楽の時間が始まる合図だった。
本能のままに互いの身体を隅々まで求める。
小さく刻まれる二つの呼吸音と粘りつくような水音が、どれほど行為に没頭しているか表れていた。
先に堪えきれなくなるのは、いつも獏良の方だった。
頭の中が真っ白になり、自分でも理解ができない音の羅列を奏でる。
バクラはそんな獏良をさらに追い詰めるのを好んだ。震える身体を逃がさないように組み敷き、しつこく何度も何度も求める。
朦朧とした意識の中で獏良が吐き出す、はしたない言葉の数々を聞いては満足するようだった。
現実と夢の狭間をさ迷って処理が追いつかなくなった脳が弾き出すのは、掛け値なしの本音だと思っているらしい。
「意地の悪い趣味」と言っても、褒め言葉として伝わってしまうから厄介なもの。
本人は恥ずかしいばかりで、止められるものなら止めたかった。こんなにあられもない姿を見せて、引かれないだろうか、嫌われないだろうか、という初々しい悩みを抱えていた。
それでも、身体が勝手に求めてしまう。動いてしまう。渇ききった喉が水を求めて鳴るように。
はしたない僕は嫌い?
額に玉の汗を浮かべ、いじらしくバクラを受け入れながらも、涙を溜めた瞳で問いかけた。
バクラはそんな風前の灯となった理性すらも吹き飛ばさんとして獏良を掻き抱く。
取り乱した獏良は何かに縋ろうと両手を伸ばすも、空を切るばかり。焦りが募っていく。
ぼやけた視界の中で見つけた輪郭を逃すものかと顔を寄せる。
死に物狂いでその輪郭にしがみついているうちに視界に火花が散った。
薄れゆく意識の中で己の粗相を悔いる。
――ああ……。また、やっちゃった……。
指一本動かすのも億劫で、獏良はベッドに横たわったままでいた。半分身を起こした横向きの姿勢で、その頭をバクラが撫でる。
薄れた熱気が行為の名残となってまだ部屋に漂っている。
「ごめん……僕……」
恥じた表情でバクラの顔を見上げる視線が宙を行き来する。粗相があった証拠を探していた。
意識が朦朧としていたとはいえ、さすがに夢の中の出来事ではないと思う。感触はしっかりと覚えている。獏良の位置からは「それ」をよく確認できない。
「ああ」
バクラは大して気にした様子も見せず、肩で幾筋にも分かれた長い髪を片手でまとめて掻き上げた。生命を感じさせないほどの白い首から肩が露になる。
「これか」
首を獏良に見えるように傾けて指で撫でた。なぜかその顔はどこか自慢げ。
首と肩の境界当たりに薄ピンク色の印がくっきりとついている。途切れ途切れの線で描かれた楕円形。真っ白な紙にスタンプを押しつけたようだ。
「熱烈だったな」
バクラが口端を吊り上げて笑った。
獏良の口から悲鳴に似た息が漏れる。
二人の仲が深まるにつれて露呈した獏良のクセ。
のぼせ上がった状態で追い詰められると、猛り狂う衝動を無意識で発散させようとするのか、側にあるものに噛みついてしまうのだ。
いつも終わった後にはバクラの身体に新しい傷がつく。
その度に獏良は謝っていたけれど、我慢しようとしてできるものではなかった。バクラがさらに追い立てるのにも一因はある。
まさかそんな性質が自分の中に眠っていたとは思わず、獏良は未だ受け入れがたい気持ちだった。
正気を失ってこのような愚行に及んでしまうなんて卑しい。同じことを繰り返していれば、いつか嫌われてしまう。
バクラが気にしていないと言っても、芽生えた罪悪感を摘むことはできなかった。
「確かにギャップ、ってやつだな」
恥ずかしいやら情けないやらで、獏良の顔が泣き出しそうに歪む。
「ま、こんなのなら歓迎だ。もっとお前の積極的な姿を見せてみろ」
軽く笑い声を立てるバクラを獏良は一睨み。
「喜ばないでっ」
傷つけることしか知らなかった片割れは、愛着による傷を初めて知り、いたく気に入っている。肌に刻まれた印を嬉しげに眺めることもある。
獏良には、その心情を何から何まで理解することはできないが。
「お前じゃなきゃ許さねえけどな」
その一言に、獏良はベッドに顔を突っ伏して呻いた。
今度は思いっきり噛みついてやる、と心に決めて。
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好きな人の知らないところを知るのは嬉しい。