彼が所属する委員会の担当教諭から呼び出されたのが始まりだった。
三年生でも、ましてや委員長でもない彼が、なぜ呼び出されたのか疑問ではあったが、言われるがままに職員室へ赴くと、やけに機嫌よく教諭が出迎えた。
「お願いがあるんだけど」
はあ、と気の抜けた返事をする彼に、教諭は椅子に座ったまま上目遣いでペンを指揮棒のように振り、
「あなたの隣のクラスに転校してきた子がいてね……」
説明を聞いているうちに、彼の顔は曇っていった。
隣のクラスの転校生のことは、よく知っている。遠巻きに見たことがあるくらいではあるが、転校初日からクラスの女子が騒ぎ立てたせいで、嫌というほど噂が耳に入ってくる。
突出した容姿の持ち主で、性格も悪くはないらしい。
ファンクラブができたほどなのだから、確かに人気はあるのだろう。女子生徒が輪を作っているところを見たこともあった。
年頃の男子としては面白いはずはない。あまり他人を妬むような性格をしていない彼でも、女子生徒を侍らすような男には良い印象を抱けるわけがない。話が合う気もしなかった。
毎日、横目で騒ぎ立てる女子生徒の輪を見送るだけだ。
そんな転校生が委員会に入るから面倒を見てくれないか、と教諭は言った。
一年が半分以上過ぎて、やって来た転校生。童実野高校では全員がいずれかの委員会に所属する決まりがあった。転校生も例外ではないらしい。
しかし、体育祭や文化祭などの大きな行事を担当する委員会に、学校に不慣れな転校生をいきなり入れるのは酷というもの。
そこで彼の所属する委員会が選ばれた。決まった曜日に事務的な作業をするだけだから、役割を覚えてしまえば簡単だ。
転校生をわざわざ委員会に入れる必要があるか否かはさておき、教諭たちの選択は正しい。
しかし、なぜ彼が指導役なのか――。疑問を口にする前に答えが見えてしまった。
彼は転校生と同じ一年の中で、教諭に頼られやすい性格をしている。不本意ながら一年のまとめ役のような立ち位置にもある。
転校生の面倒を見るには適役と思われたのだろう。
彼は、上手い断り文句が思い浮かばず、ついには首を縦に振った。
あとは教諭に言われるがまま、転校生に委員会の活動について説明する時間を設けることになった。
彼が指定したのは、とある日の昼休み。空き教室に教諭を通じて転校生を呼び出した。
引き受けたからには、いい加減なことはできない。委員会で使用している書類や文具を抱えて教室に向かった。
選んだ教室は校舎の隅に位置し、休み時間でも人気がない場所。廊下を歩いていても喧騒が遠くに聞こえる。
これから静かな教室で話したことのない同級生と顔を突き合わせなければならないと思うと少し気が重い。
荷物を片手で押さえながら、引き戸の取っ手に手をかけた。カラカラカラと戸が滑り、室内の様子が視界に入る。
苛烈な夏が過ぎて優しくなった秋風が開いた窓から吹き込み、カーテンをふわりと揺らしている。
その側に立って外を眺める少年。淡い色の長髪が靡く。射し込む陽光が少年を優しく包み、そのまま白昼に溶け込んでしまいそうに見える。日だまりに似たあたたかい眼差しが彼を捉えた。
その瞬間――それまで抱いていた負の感情が彼から薄れて消えた。
教室に入ろうと上げた片足が境界線の上でいつまでも着地してくれない。
少年――転校生は、彼が待ち合わせ相手だと確認が取れると、心底申し訳なさそうな表情をした。
「わざわざ、ありがとう。時間を取らせてごめんね」
きっと、女子から持て囃されていることを鼻にかけるような人物ではない。初めて接した彼は、声と表情から確信を持った。
一卓の机に椅子を向かい合わせに並べ、彼が持参した書類や文具を広げる。
一つ一つ活動の説明を始めると、転校生は長い睫毛を伏せ、丁寧に相槌を打った。
非の打ち所のない容姿に思わず見惚れそうになる。危うく何度か言葉を見失いかけた。
女子生徒が夢中になるのも仕方がないと頷ける。女子生徒どころか、他のどんな人間も惹かれてしまうに違いない。
説明が一通り終わった後は、委員会の活動に関わる場所を覚えてもらうため、校内を案内した。掲示板や倉庫、コピー室など、転校生には慣れない場所ばかりだ。
二人で並んで歩いていれば、自然と打ち解けた。
「うん、よく分かったよ。ありがとう」
律儀に頭を下げる姿を前にして、勝手に作り上げていた転校生像はやはり間違っていたのだと納得する。
その日から、彼にとって転校生の獏良了は身近な存在になった。
委員会の活動中は、二人で組んで校内を回った。
獏良は意外と表情をころころと変え、よく笑う。小さなドジをすることがある。見た目からは想像もしない、親しみやすい人物だった。
アウトドアよりインドア派。基本は温厚だけれど、気を許すと軽口も叩く。バカがつくほどお人好し。手先が器用で、冊子やポスター作りもお手の物。
女子に好かれることは苦手とする。熱狂的な彼女らには困っているのだという。
ぺろりと舌を出して頭を掻きながら、「まいったものだよね」と浮かべる照れ笑いは愛嬌があった。
すっかり気心を知れた仲になっても、他の時間で二人が話すことはなかった。
まず、クラスが違う。次に、ファンクラブを自称する女子生徒がいつもまとわりついてくる。
そして、獏良には既に仲の良い友人がいる。いつもその友人たちと輪を囲っているので、割って入ることはできなかった。
だから、赤の他人だったときと同じように遠巻きに見ることになる。
委員会だけが彼と獏良の接点だった。その時間だけ、獏良と過ごせる。静かに、邪魔が入ることもなく。
まるで二人だけの秘密の時間だった。
彼に一種の優越感が生まれた。他の人間は知らない獏良を知っているのだと。
いつも彼は委員会の時間になると一番早く教室に着いていた。獏良が加わってからは、二番になることもあった。
教室の戸を開けるまで、一番か、二番か、分からない。ちょっとした楽しみができた。
結果はどうであれ、獏良は決まって「早いね」と柔らかく微笑んだ。
殺風景な教室が彩り豊かな景色に見えるようだった。空気が澄み渡っていく感覚さえある。
それまで特別視をしていなかった委員会は、彼にとって、なくてはならない安らぎの時間となった。
二人は生徒に向けた会報作りを命じられた。
内容は既に決まっていて、構成やレイアウトを考えなくてはならない。ゲラを作成して、委員長と教諭に確認すれば、印刷となる。
初めて話した日のように、空き教室で向かい合わせに座り、二人で案を出し合った。
それを白紙に獏良が書き出す。余白を埋める装飾枠と簡単なイラスト。
「こんな感じ?」
それを彼が吟味する。すっかり息が合っていた。
ペンを握るのは、男にしては細長い、けれども節がくっきりと目立つ骨張った指。ペンがするすると軽やかに紙面を走り、さらりと揺れる長い髪が陰影を作る。桜色の唇が行儀よく動く。顔にかかった髪の一房を耳にかける。
ずっとこの時間が続けばいいのに。心で思うだけだったはずが、気づけば口に出していた。
「え?」
獏良は驚いた顔で彼を見つめた。
しまった、と後悔する暇もなかった。沈黙が二人の間に流れる。
隠していた好意がばれてしまった。嫌われてしまうかもしれない。彼が不安に思って瞳を覗く。
獏良は不快感を表す様子もなく、目を丸くしているだけ。それどころか、頬が薔薇色に染まっていく。
迷惑ではないのかもしれない。わずかな期待を胸に、驚かせてしまった謝罪を彼は口にする。気持ちは嘘ではない、と最後に付け加えて。
「何て言ったらいいか分からないけど……」
獏良は恥ずかしげに目を伏せてから、
「ありがとう」
花が綻ぶような微笑を彼に向けた。
彼の中で期待が膨れ上がる。手を握ってしまいたい。もしかしたら、獏良も同じ気持ちなのかもしれない。叫び出したい衝動をなんとか抑える。
答えは次の時間に聞かせて欲しい、と獏良に告げた。
別れ間際に向けられた熱のこもった瞳は、自惚れでなければ、色よい返事を想起させるものだった。
その日、彼は廊下を足早に歩いていた。放課後が待ち遠しかった。獏良からの返事を聞ける日がやってきたのだ。
獏良は既に来ているのだろうか。
獏良の方が先だった場合は、心の準備が整う間がない。彼の方が先だった場合は、獏良が来るのを今か今かと待たなくてはならない。どちらにしても、心臓が持つ気がしない。
教室に辿り着き、戸に手をかけ、大きく息を吸い込む。胸の鼓動が暴れ出しそうだ。
尻込みをしてしまう前に、勢いよく引き戸を横に滑らせた。
結果は――童実野高校の制服より淡い色の背中が教室の中央に見えた――息を整える間はない。
彼は平静を装い、その背中へ声をかける。
獏良からいつもの挨拶はなかった。こんなときだから当然だ。
ゆっくりと歩み寄りつつ、告白の件をどう切り出そうか迷ったところで、
「この前の返事――」
意外にも獏良の方から口を開いた。振り向かず、背中を見せたまま。
彼はまだ三メートルほど離れた場所にいた。
「君の、言ってくれた、ことは、嬉……しい……」
一語一語確認するような、不自然に区切った言葉が紡がれる。
「……ぁ、そうじゃなくて……」
一瞬の動揺。喘ぎにも似た呼吸音。後ろ頭が横に揺れ、
「困るんだ……。委員会が一緒になっただけ、なのに、勘違いしてもらったら……迷惑……。必要なとき以外は、金輪際、僕に……近づかないで」
彼の視界が濁る。見慣れた柔らかそうな白い髪がよく見えない。大好きな聞き心地のよい声が耳を素通りする。
言葉の意味を理解するのに時間がかかった。理解したところで、そのままの意味通りなのか、検討する必要があった。
獏良がこんなことを言うなんて信じられない。何かの間違いではないか。
そんな一縷の望みを、
「これ以上は……先生に相談、する……。二度と話したくない」
獏良の言葉が易々と打ち砕く。後半は感情が感じられない冷え冷えとした響きを持って。彼が一番最初に見たあたたかさなど、どこにもない。
言い訳や謝罪の言葉が頭の中で回った。ふらふらと足が後ろに下がる。それらを口にすることはなく、背中が戸に当たり、ガシャンという大きな音を立てた。
それがきっかけで彼は教室を飛び出した。
なんとか、「ごめん」という言葉だけを残して。
廊下を走る彼の中には、後悔が今さらながら渦巻いていた。
不用意に出してしまった言葉一つで、すべてが台無しになってしまった。心に秘めておけば、あの穏やかな時間は続いていたのだろうか。
優しい彼にあそこまで言わせてしまったと思うと、合わせる顔がなかった。それほど不快にさせてしまったのかとも思う。
幸い、委員会の任期はあと少し。次は、彼が選びそうもないものを選べばいい。それで終わり。元々接点などなかったのだから。
彼の青い春は苦々しい想いを残して幕を閉じた。
教室に静けさが戻る。獏良はついに一度も彼の方を見ようともしなかった。立ち尽くしたまま、後ろ姿に変化はないようだが、握りしめた白い手だけが小さく震えている。
「ごめんなさい……」
苦しげに吐き出した言葉は、誰にも届くことはなかった。
夕方、ほとんどの生徒が下校した後、校舎裏で獏良が項垂れた様子で立っていた。肌寒くなった風に小さな声が紛れる。
「ごめん……。うん……。僕が悪かった……全部……」
校舎の白壁に向かって。他には誰も見当たらない。
「許して……。彼は悪くない……っ、ううん!僕だけの問題。それだけは……」
時に滲み、時に焦り、独り言は続く。
「なんでもする。……そう、なんでも。僕にはお前だけ……。うん。そう、ただの勘違いだよ。何もなかった。そう、何も……」
太陽は西に傾き始め、薄闇がそこまで迫っていた。
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近づくものは、すべて許さない。