カーテンから眩しい朝の日差しが透ける。
獏良は現実と夢との間をさ迷いながら、心地よいベッドの感触を楽しんでいた。
素肌を包んでくれる毛布がなんと心地よいことか。うっとりと手足を伸ばして、同じ体勢が続いたことで緊張しきりの身体を解す。
「んー……」
全身に血が巡り、何ともいえない緩い快感に包まれる。そのまま猫のように、ごろんと寝返りを打った。
できることなら、しばらくこのままでいたかったが、身体より早く覚醒した脳が獏良に現実を思い出させる。
大きな目がぱちりと開く。数秒間、天井を見つめ、勢いよく上半身を起こした。慌てた様子で部屋を見回し、ベッドから滑り降りる。
布団の下から露になったのは、透き通るように白い裸身。着るものも着ずに、リビングへと続く戸を開けた。
隣の部屋には既に生活音が満ちていた。キッチンに見えるのは白い背中。その姿を確認すると、獏良はホッと息をついた。
物音を聞きつけ、キッチンに立つ後ろ姿が振り返る。
「起きたのか」
あられもない姿を認めたバクラは、フライ返しを持ったまま、少しだけ動きを止めた。それでも、無言で近寄る獏良に指摘はしない。
「朝食食べるか?」
獏良はこくんと頷き、キッチンに向かう袖を控えめに引いた。表情は少し硬い。俯き加減で口角が下がっている。そんな獏良にこつんと額が当てられる。
「準備しといてやるから支度を整えてこい」
食卓に用意されたのは、分厚いトーストと目玉焼きにサラダというオーソドックスな朝食。コーヒーが注がれたマグカップからは白い湯気が立っている。焼き立てのトーストを齧る。さくっ。小気味よい音と共にコクのあるバターの旨味がじゅわりと口に広がる。
「今日予定あるのか?」
向かい側の席からマーマレードジャムを差し出しつつバクラが言った。
「うーん。今日は何も。家で映画を見ようかな。見たかったのが配信されてたから」
顔を洗って身支度を整えたところで、獏良はすっかりいつもの落ち着きを取り戻していた。ジャムをトーストに塗りつつ、頭の中にあるスケジュールを確認する。休みの日は家にこもるのがお決まりとなっている。特別な用事がなければ、プロモデルを組んだり、読書をしたり、のんびりと過ごす。
「じゃあ、付き合うぜ」
「ホント?」
いつにない申し出に獏良はスプーンを取り落としそうになった。
「たまには宿主孝行しないとな」
バクラはおどけた口調だったが、先ほどの取り乱した様子を気にしてのことだと、獏良にははっきりと感じ取れた。
「やったー」
明るい表情でまた一口トーストを齧って見せる。
千年リングを失った獏良の元にバクラが帰ってきたのは、しばらく前のことだった。
何事もなかったかのように、ふらりと現れた。獏良は驚きつつも迎え入れ、生活を共にし始めた。
二度と会うことはないと思っていたのに。戸惑う獏良に、裁きを受ける道程の途中で外界から干渉されたことにより次元に歪みができ……と、バクラが一通りの説明をしたものの、獏良の理解の範疇を超えていた。
与り知らないところで、何か大きなことが起こったらしいことだけは確かだ。難しい顔をする獏良に、バクラはペナルティ付きリセットと大雑把な意訳を伝えた。なるほど、と獏良はいとも簡単に頷き、詳細は不問とした。
何はともあれ、以前の関係と比べると、驚くほど平和に毎日が過ぎた。悪事を働く理由が根本からなくなり、バクラは大人しくしている。
一つ屋根の下に暮らしていれば、一線を越えるのはごく自然の流れだった。再会という、これ以上ないきっかけがあったのだから、止められるはずもなかった。止める理由もない。
こうして、並々ならぬ仲になった二人は、様々な偶然が重なり、今は肩を並べて歩いている。
ときどき昔を思い出しては、不思議な感覚に陥ることもあるが、目の前にいる同居人がただ一つの真実なのだ。
ちょうど今日のように、二人で夜更かしをした次の朝に労られることには、まだくすぐったさを覚えるけれども。
バクラが朝食の後始末をしている間に、獏良はコンビニへ菓子や飲み物を買いに出た。
一通り家事が済むと、二人揃ってソファに座り、該当の映画を選ぶ。
念のために、「本当にこの映画でいいの」と獏良が訊くと、すぐに肯定の言葉が返ってきた。取り立てて目立つところがなく、世間の評価もあまり高くない、獏良の趣味に偏った映画だというのに。
本人の了解が取れたところで再生ボタンを押した。見慣れた製作配給会社のロゴが流れ始める。
獏良は横目で隣を見た。今朝、慌てふためく獏良を見ても、バクラは何も言わなかった。今もいつも通りにしている。
眠りから目覚めたときは、誰しも混乱することがある。昼か夜か分からなくなることもあれば、場所がどこだか分からなくなることもある。
今朝、目覚めた獏良は、一人で寝ていることに気づき、同居人がまた消えてしまったのかと思った。あるいは、今までが夢だったのかと。
身体中の血液が凍るようだった。すぐに勘違いだと気づいたけれども、身体の震えは止まらない。
突然、足元が崩れて地面に吸い込まれてしまうような恐怖。幸せな毎日が失われるということは、己という小さな世界が終わることにも等しい。
そんな悪い夢は忘れるに限る。
バクラがどこまで気づいているのかは分からない。けれど、いつも通りに振る舞ってくれるお陰で、無駄な心配をせずに済んだ。
獏良はこてんと同居人の肩に頭を預けた。触れる半身に確かな温もりが伝わる。今晩もまたこの温もりを感じるために求めてしまうかもしれない。
画面に映るのは、晴れ渡った空を背景に飛翔する二羽の真っ白な鳥。羽を広げて気持ちよさそうにどこまでも自由に飛んでいく。
静かで優しいピアノ曲がゆっくりと流れ始め、長い物語が始まったことを告げた。
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いつまでも、いつまでも。
これが平成最後の話です。