それは何気ない日常から始まった。
獏良は教室の窓に視線を向け、
「しまった。傘持ってきてないや」
と、困った様子で頭に手を乗せた。
机の上でお馴染みのカードを広げていた友人たちは怪訝そうに各々口を開く。
「何言ってんだ。雨なんて降ってねえぞ」
「天気予報でも降らないって言ってたし、夕方までは大丈夫だと思うよ」
「予備があるから、もし降ってきても貸してあげるわよ」
予想外の反応に驚き、目を細めて外の景色を見つめても、雨粒は確認できない。地面は乾ききっている。雲が空一面を覆ってはいるが、太陽の光が漏れるほど薄い。雨の日特有の陰鬱な気配もない。
「本当だ」
獏良は明るい口調を作り、朗らかに笑う。
「気のせいだったね」
疑問を笑顔の裏に隠し、何事もなかったかのようにカードを手にまとめ始める。友人たちも獏良に倣って元の会話に戻っていく。
天気予報が告げたとおり、夜になっても雨粒一つ落ちることはなかった。
獏良の耳は確かに雨音を捉えていたはずだったのだが――。
それから、獏良は度々空を見上げるようになった。聞こえるはずのない雨音が聞こえるのだ。日時に規則性はなく、唐突に。夜中にカーテンを開けて確かめたこともある。そこには街の明かりに今にも飲み込まれそうな弱々しい星空があるだけだった。
ぽた、ぽた、ぽた、ぽた――。
耳の奥に潜り込んでくる雨音は、はっきりと存在感を示しているのに。
獏良はこの不思議な現象を放っておくことにした。頻繁に起こることではないし、長時間鳴り続ける音でもない。止める方法を思いつかなかったからではあるが。
たかが水滴の音。すぐに気にならなくなった。空が泣いている音なのだと自分なりに理由をつけてしまえば、気に悩む必要はない。
そのうち、ぽたぽたと聞こえ始めれば、またかと自然に受け入られるほどに、恒例行事のような認識になった。
高校を卒業して、社会人になっても、雨音は止む気配がなかった。
ぽた、ぽた、ぽた、ぽた――。
まるで獏良の頭上にだけ小さな雨雲が浮かんでいて、気紛れに水滴を落としているかのよう。もしかしたら、局地的な雨漏りをしているのかも。そんな突飛な想像をしては、獏良はくすりと笑いを溢した。
童実野町は政府公認の近未来モデル都市に選ばれている。近年は高層ビルが乱立し、大規模な商業施設が開店し、再開発も進み、発展が著しい。国内でキャッシュレス化にいち早く取り組み始めたのも童実野町だ。
公共施設、病院、銀行、スーパー、コンビニ――すべてが揃い、生活に困ることはない。町内ですべてが完結するようになった。
夜になってもピカピカと派手なネオンが街灯代わりに煌めく。
便利で安全な町として移住者も増えた。
それもこれもすべては、本業のゲーム産業から建設業まで、多岐に渡る事業を展開する海馬コーポレーションのお陰である。
獏良は「箱庭」みたいだな、と他人事のように捉えていた。
都市開発が進めば進むほど、獏良に起こる不可解な現象が現実から剥離していく。海馬コーポレーションの代表が非科学的なものを嫌う傾向にあるのでなおさらだった。
町全体が眩い未来へ向かって進む中、獏良の周りにだけオカルトめいた現象が残っている。
ぽた、ぽた、ぽた、ぽた――。
――僕に何か伝えようとしているのかな。
その日は雨だった。
いつもの現象などではなく、正真正銘の天からの恵み。
自宅の窓から外を見れば、厚い灰の雲が垂れ込めて、町が水浸しになっていた。ベランダから吹き込んだ雨粒が幾つも窓に付着している。
雨が激しく地面を叩きつける音や車が濡れたアスファルトを走り抜けて水飛沫を立てる音、建物を伝って雨粒がゆっくりと落ちていく音。
ザーザー、ジャッ、パラパラ、ザーザー。
雨音が世界を支配している。
ぽた、ぽた、ぽた、ぽた――。
あらゆる姿に形を変えて鳴り続ける無数の雨音に混じり、いつもの音が聞こえた。どの音にも似てはおらず、不和が生じていた。その音だけが「浮いている」。
獏良はそれまで雨粒の音と認識していたが、様々な雨音と聞き比べてみれば、違和感があった。
何かから液体のようなものが零れ落ちていることには間違いはないのだが、その「何か」にも「液体のようなもの」にも心当たりがない。
獏良は初めて音に耳を澄ませた。よくよく考えてみれば、今まで一度も向き合っては来なかった。
音は、ほんの少し反響音を伴っている。間隔は規則正しく一定。自然現象ではありえない音だ。
獏良は上空から聞こえるものだと思い込んでいたが、心を落ち着かせてみれば、正しい音源を把握することができた。
内側だ。身の内から音が染み出している。耳の奥で、頭の中で、胸の中で、心の中で。道理で獏良以外に聞こえないはずだ。常人には理解できない現象だが、獏良には経験があった。聞こえるはずのない音が聞こえることが。
獏良は呼吸を整えてから、雨で冷えた窓ガラスに手を置いた。そこには部屋が反射して映っている。もちろん、獏良の姿も。
今にも掻き消えてしまいそうなほど薄く、左右反転した鏡像の世界。そして、獏良の背後、居間の中央にもう一人の姿が辛うじて映っていた。
窓ガラスに向かって獏良は語りかける。
「いたのか」
ぼやけた人影が存在を誇示するように揺れた。
『やっと気づいたか』
もう聞くことはないと思っていた声だった。
「会いたくはなかった」
『ツレねえなァ』
もう一人は喉の奥で笑う。懐かしさすら感じさせる声。
「随分と元気そうだな」
緩んでしまいそうな唇を獏良は引き締めた。
『お陰様で。――と言いたいところだが、それがそうでもねえのよ』
声の調子はおどけていて、具合が悪そうな様子はない。顔色を窺うほどはっきりと見えないから判断に困る。
「へえ。どこが?」
もう一人の腕が前方を指す。獏良は一瞬だけ自分に向けられたものと思ったが、どうやら外の景色を指し示しているらしい。
『夜でも明るいだろう。昼間と変わらねえ。さすが人間様だよな。この世界に前人未踏の地はあと幾つあるんだろうな』
言葉がふつりと途切れ、再開したときは囁くような声に変わっていた。
『世界から闇が消える度にオレ様の存在も消えていく。闇そのものだからな』
語尾はかすれて、聞き取ることが困難だった。淡々とした口調だからか、悲壮感が漂うことはない。
ぽた、ぽた――。
そこで獏良はやっと音の正体に気づいた。
ぽたぽた、という音は、かつての同居人が形を維持できずに、溶けて消えていく音なのだ。このまま放っておけば、存在が完全にこの世からなくなってしまう。
白い指が曇ったガラスを拭う。それでも、辛うじて存在しているかつての同居人の姿はぼやけたまま。
『哀れんでくれるのか』
ガラスの向こうで、どんな表情をしているのか。窺い知ることはできない。
「いや……」
獏良は厳しい顔つきでもう一人の問いかけに答える。
「僕はまだお前を許してない。勝手に消えるなんて都合のいいことは二度も許さない」
水滴で濡れた指で自分の胸を差し、
「居場所がないと言うなら、ここにある」
指先から伝わる心臓の鼓動は、驚くほど落ち着いている。選んだ言葉は間違いではなかったのだと認めてくれていた。
もう一人は顔を手で覆う仕草をしている。笑っているのだと、ほとんど見えなくても獏良には分かった。
『お前は相変わらず甘いな。助けてくれなんて言ってねえのに』
「じゃあ、なんで僕の元を離れなかったんだ?」
無愛想に鼻を鳴らし、窓越しに睨みつけるも、相手に通じている様子はない。弱々しくもからっとした笑い声が返ってくるだけ。
『最近はどこへ行っても居心地悪くってよォ』
言葉と笑い声を残し、ガラスに映った世界から獏良を模した姿が霧散する。
それから二度と音は聞こえることはなかった。
代わりに、獏良のそばで奇妙な笑い声がするようになった。首を傾げる周囲の人間たちに決まって獏良は柔らかく微笑んでこう答える。
「気のせいじゃないかな」
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世界に秘密が残るのもいい。