※この話は最終回後、バクラが人間として戻ってきた設定になります。二人で仲良く暮らしています。
大荷物を抱えた女が交差点でおろおろとしているのに気づき、帰宅途中の獏良は声をかけた。
タクシーを呼び止めたいのというのでかわりに手を挙げ、運転手だけでは手が足りないと荷積みを手伝った。
車窓越しに会釈をする、その背中にドンという衝撃。車道側へ一歩押し出される。続いて、グチャという不穏な音。
後ろを振り返ると、イヤホンをつけて携帯を弄る男が獏良に気づいた様子もなく去っていくところだった。
男を呼び止めたいのは山々だったが、先に音の正体を確認したいところ。
恐る恐る手に持っていたスーパーの袋を広げてみる。音を聞いたときから嫌な予感はしていた――。
「ああ………………」
獏良の口から悲痛な呻き声が漏れ出る。
透明なプラスチックパックの中で仲良く並んでいたはずの艶を帯びた丸い白の十個が液体塗れの見るも無惨な姿になっていた。
今日はふわふわ日和
獏良はキッチンでボウルの中身をしょんぼりと見ていた。黄身と白身がもはや分離不能なほど混ざり合っている。
荷物の確認後、すぐ犯人に声をかけたが、イヤホンをつけている男には届かず、追いかけようにも足早に人混みの中へ消えていってしまった。
原型を留めていない卵を捨てるには未練があり、だからといって液体塗れの袋を持ったままではスーパーへ買いに戻れず、泣く泣く卵だったものを持って自宅へ帰るはめになった。
今日は卵の割引日だったのだ。十個入り百二十円。たかが百二十円だが、されど百二十円。明日の朝食は目玉焼きにしようと思っていたのに。なにより、せっかく買った卵が台無しになってしまったことが悲しい。
家に帰ってからパックの中身をすべてボウルに開け、殻を取り除く作業を始めた。
大きな欠片は箸でなんなく取れたが、細かいものとなると箸では掴むことすらできない。するすると箸の間を通り抜けてしまう。
スプーンに換えると殆どが掬えたものの、淡黄の海をまだ白い点がぷかぷかと泳いでいる。最終的には指を突っ込むはめになった。
卵の使い道を考える前に大部分の気力が削がれ、ボウルの中身に視線を落としたまま無為な時間を過ごしているというわけだった。
時間は十二時。仕事で不在の同居人が帰ってくるのは十三時頃と聞いている。遅くはなるが共に昼食を取るという約束だった。それまでに卵を消費できる食事を作らなければ。
玉子焼き、ニラ玉、オムレツ、玉子雑炊、玉子そぼろ――。
うーんと口をへの字にして頭を一回捻り、様々なたまごメニューを思い浮かべながら目を閉じる。
――オムライス。
どう考えてもしっくりくるのはこれしかなかった。記憶にある冷蔵庫の中身と相談しても同じ答えが出る。
よし!作るか、と気合いを入れて腕を捲ったところで玄関から開錠の音がした。
「えっ」
間を置かずに足音。廊下を仕切るドアが開き、キッチンの入口に獏良と瓜二つの顔が現れた。
「早かったね」
「今日は客が少ねぇから早く上がれた」
そう、と頷き、フライパンを棚から取り出す獏良に、
「今から飯作るのか……どうした?」
バクラは言い終わる前に首を傾げて語尾を上げた。ジャケットを着たままキッチンに足を踏み入れ、緩く折り曲げた指先で獏良の頬に触れる。
それからすぐ近くにあるボウルに視線を投げ、
「卵?」
訝しげなバクラの声に獏良ははたと思い出す。スーパーへ寄る前に「お昼はパスタでいい?」と確認するメールを送っていた。
トマトソースにするつもりでトマト缶の在庫確認までしてあったのだ。
ボウルに入った大量の卵液は、バクラの目には不自然に映っただろう。
「お昼ご飯、オムライスでいい?」
獏良はメニューが変更になった経緯を簡単に説明した。最後に「ドジしちゃった。ごめんね」と言い添えて。
「昼飯がなんであろうと構わねえが――」
言いながらバクラは思案顔で顎を撫で、
「たまにはオレが作るか」
ジャケットを両肩からするりと落とした。
「疲れてるんじゃないの?」
獏良の目がぱちぱちと瞬く。
同居を始めてからというもの、料理は専ら獏良の担当だった。
独り暮らしが長いこともあり、料理が得意な獏良がすることが自然であるし、まだ学生の獏良に比べてバクラは仕事の拘束時間が長い。
そもそもが獏良の家なので、キッチンを熟知しているという理由もある。
そうはいっても、バクラも料理が苦手というわけではない。二人の時間が合わなかったときは一人で簡単な調理で済ませている。
「たまには、な」
バクラは長髪を後ろでまとめ、袖を肘まで捲った。冷蔵庫の戸を開き、中を覗き込む。
「材料使っていいのか?」
「うん。さっき沢山買ってきたし、冷凍庫に残りご飯もある」
獏良はキッチンに突っ立ったまま、バクラを目で追う。見慣れない光景になんだかその場を離れづらい。事故とはいえ卵を割ってしまった後ろめたさもある。
戸惑う獏良をよそにキッチンでは昼食の準備が快調に進んでいった。
キッチンからリズミカルな包丁の音がする。それに合わせてジュウーとフライパンが熱せられる音。
獏良はキッチンのカウンター前を落ち着かない様子でうろうろし、たびたび視線を投げかける。
「何かいるものある?」
「手伝おうか?」
「玉ねぎは使いかけが冷蔵庫にあるから」
黙っていられず、ついつい口を出してしまう。何度目かの過剰なアドバイスにとうとうバクラに人差し指を突きつけられてしまった。
「いいから黙って腹を空かせてろ」
きっぱりと言い切られては、黙って引き下がるしかない。獏良はソファに座り、テレビを点けた。
賑やかな昼のバラエティ番組が気を紛らわしてくれる。それでもたまにキッチンの様子を遠くから窺っていた。
「できたぞ」
キッチンカウンターに二つの深皿が置かれると、待ってましたとばかりに獏良はソファから立ち上がった。
「運ぶねっ」
皿にはこんもりとチキンライスが盛られ、その上には鮮やかな黄の紡錘形――レモンの形に似ている――をしたオムレツがふんわりと乗っている。
その周りにはトマトソースがぐるりと囲んでいる。獏良が使うはずだったトマト缶を使ったのだろう、カットされたトマトがごろごろと入っていてケチャップを使うよりも少し豪華な出来映えだった。
全体には乾燥パセリが振りかけられている。
「おいしそう……」
獏良が両手で二人の皿を運んでいると、綺麗に焼かれたオムレツがぷるぷると震える。
まるで踊るかのように扇情的にも見える動きに獏良の目が奪われる。そして、もしかして――と、一つの期待が生まれた。
食卓に昼食が並んだのは、お昼には少々遅い時間。腹の減りはちょうどいい。コップに茶を注ぎ、二人は席に座る。
「いただきまーす」
獏良は行儀が悪いことを知りつつも、大きなカレースプーンの裏でオムレツをつついてみた。
チキンライスが被った帽子がぷるんぷるんと踊る。感触は水風船のようだ。
「ねえ、これって半熟だよね?」
期待に満ちた顔で向かいに座るバクラに問いかけた。
「割ってみろ」
横長の中央にスプーンの先で切り込みを入れていく。すると、オムレツがぱっくり割れ、中から半熟の玉子がとろとろと流れ出た。
ちょうどチキンライスの上にパッと花が咲いたよう。もしくは、フレアスカートが優雅に翻ったよう。
「あー、お店のやつだぁ!」
獏良は蕩けた表情で感嘆の声を上げた。テレビのグルメ特集で同様のメニューを見たときも目が釘づけになったことがある。そのときは美味しそう美味しそうと足をばたつかせてバクラに呆れられたのだった。
作ろうと思えば家で作れるかもしれないが、たくさん卵を使わなければならないし、火が通りきる前に仕上げなくてはならないというスピード勝負にわざわざ挑戦する気概もなく、作ったことはなかった。
オムライスを作っても、薄い玉子焼きを乗せる程度だ。日々の食卓では往々にして堅実な方を選びがちになる。特別な日でもない限り。
「君って器用だよね。オムレツが本当に綺麗」
獏良はスプーンで大きくオムライスを掬い、うっとりと焦げ目のない一口を眺める。
「いや、お前の方が器用だろ」
苦笑いを浮かべるその目には刺々しさはない。スプーンを持った手の動きは緩慢で皿の中よりも気を取られることがあるようだ。
「はふっ。美味しいっ」
幸せそうに頬張る姿に目を細め、獏良のオムライスが半分以上減ったところでようやく自分の皿に手をつけ始めるのだった。
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美味しそうに食べる子って可愛いですよね。