空に厚い灰色の雲がどんよりと垂れ込めている。
獏良はリビングの掃き出し窓からそれを見上げていた。頭の中には昨日見た天気予報が流れている。
『――一部地域では雪が降る見込みです。夜までには雨に変わる可能性があり、積雪の心配はないでしょう』
朝から何度も窓の外を眺めて天候を確認するも、まだ予報は的中していない。今にも氷の粒を吐き出しそうな雲だから、そのうちに降りだすのだろう。それがいつかは分からないけれど。
予定が立てられないため、獏良はそわそわと何度も席を立っては窓に近づくのだった。
昨日のうちに買い物は済ませている。掃除は先ほど終わった。洗濯物はどうするか迷った挙げ句に室内干し。
外出はしたいが、途中で雪が降り出すかもしれないと思うと腰が重い。
積雪の可能性がないというのなら、きっと降るのは水気をたっぷり含んだ雪だ。身体にまとわりついて不快になるのは目に見えている。濡れるだけの雨の方がまだマシだ。
それに雪が薄く積もった後に凍った地面は、スケートリンクのように滑りやすく危ない。
明日には止むかもしれないが、交通機関が麻痺することも考えられる。そうすれば、出勤・登校時間にバスや電車で人がごった返し。憂鬱な朝になることは間違いない。
獏良は窓に手を添えて鼻先をつけた。冷気がひやりと伝わる。
「あっ」
とうとう雲が溜めこんだ氷の塊を吐き出した。白い物体がちらちらと空から舞い降りる。あとは堰を切ったように、次から次へと降雪し始めた。空が灰から白へ染まっていく。予想を遥かに凌ぐ勢いだ。
外出しなくてよかった、と獏良は予定を決めかねていた優柔不断な自分に言い訳をする。
しばらく呆然と外を眺めていた。吐く息が窓を曇らせる。雪は止みそうにない。こうしている間にも町を雪が覆う。もしかしたら、予想された天気とは異なり、少し積もるかもしれない。
獏良は憂鬱になって、その光景から目を背けようとした。
「よかったな」
いつの間にか、他人には不可視の同居人が姿を現していた。
「え?」
獏良の斜め後ろで同じように空を眺めている。
***
テレビのニュースを読み上げる声とキッチンから流れる水音だけがリビングに満ちている。ガチャと少し乱暴に寝室へと続くドアが開く。続いて落ち着きのない足音がトタトタトタ。
「ねえ!ママ降った?!」
水音がピタリと止まり、キッチンから母親が顔を出した。
「あらあら……」
エプロンで濡れた手を拭きつつ、
「了、おはようは?」
穏やかな声を前に小さな子どもは床を踏み鳴らす。
「おはよう!!」
口にした挨拶はおざなりで焦れったいと言わんばかり。
「ねえねえ、ママ!」
「窓の外を見てみなさい」
興奮した子どもを前に注意するのは無駄。母親は少し困ったように笑い、続けようと思っていた言葉を飲み込んだ。
幼い獏良は歓声を上げて窓を目指して駆けた。既にカーテンは開け放たれている。
食卓には新聞を広げてコーヒーカップに口をつけている父親の姿。いつもは仕事で海外を飛び回っているが、今日は珍しく朝から自宅にいる。
「了、おはよう」
新聞を畳み、久々に会う息子に顔を向けるが、
「パパ、おはよう!」
当人は目も合わせずに横を素通りしていってしまう。
「う?」
父親によく懐いている息子は飛びついてくるはず、と思っていた期待が外れ、行き場のない手で寂しげに髭を撫でた。
「了ぅ……」
母親はくすくすと笑い、夫のカップに淹れたてのコーヒーを注いだ。
「残念ね。昨日から楽しみにしてたのよ」
獏良が夢中になって見ている空には一面の厚い雲。水分をたっぷり含んで弾けそうなくらい膨らんでいる。そこから白い粒がちらちらと落ちてきている。
「雪か!」
ならば子どもが夢中になってしまうのも仕方がない。父親は椅子に座り直し、楽しげな息子の背中に目を細めた。
まだ子どもらしい柔らかくふっくらとした頬が窓に吸いつく。鼻が潰れようとお構いなし。小さなかかとを精一杯持ち上げて小刻みに震えている。
「んー……」
獏良は空模様に目を凝らし、次に地上へと視線を移す。雪はたくさん降っているものの、地上はコンクリート剥き出しのまま。いつもと変わらない。ぱしぱしと瞬きする。
「ねえ、パパ。雪積もるかなあ……」
薄い眉毛を八の字にして、手は窓から離さないままに上半身を捻り、背後の両親を見た。
問われた父親はテレビのリモコンに手をかけるたものの、少し考えてからボタンを押すことはやめた。
「どうかなあ。もしかしたら積もるかもしれんぞ。了の運次第だな」
わざと戯けた口調で言い、茶目っ気たっぷりにウインクする。
「ホント?!」
獏良の瞳が輝き、表情が喜び一色になる。
「やったーッ!!!」
両手を上げてぴょんぴょんと何回も飛び跳ねた。寝巻きの上でチャリンチャリンと黄金のペンダントが揺れる。
「あー、積もらないかなあ。雪、雪、降れ降れ。もっと降れ。雪やこんこ、霰やこんこっ」
歌に合わせて小さく左右に頭を降る。
両親は楽しげな息子の姿に顔を見合わせて笑みを零した。
一連のやり取りを光がまったく差さない場所――暗く濁った闇を湛えた淵から、冷えきった両眼がその光景を見ていた。
見るといっても、ただ漫然と視界に映しているだけで、「視る」ではなく「眺める」だった。
壁一枚隔てた向こうで幼い少年がはしゃいでいるのを事実として、些細な日常の一つとして、闇の中にぽっかりと空いた穴から知覚していた。それ以上の意味はなく、感心するには至らない。
ただ少年が跳ねるのを見ていた――。
***
「よかったな」
「え?」
獏良は窓を手に添えたまま首を傾けた。同居人が姿を現した理由も、言葉の意味も、判然としなくて言葉に詰まる。訊き返したくとも、眉一つ動かない表情を見ると躊躇われた。
バクラの目にはあの日と同じように獏良の姿が映った。幼い頃と寸分違わず、積雪を待ちわびていた日のように。
情景が重なったから自然と口に出ただけ。
今もなお人間の複雑かつ柔い情緒は理解できない。バクラからすれば些末なこと。生きていく上で必要なこととも思えない。まったくもって非生産的な機能とすら認識している。
ただ、小さな子どもがとても喜んでいたと印象に残っていたから、今日とあの日を結びつけたに過ぎない。
獏良は戸惑い、言葉を探し、結局はそれを口に出すのはやめて、
「そうだね……」
開いた口を笑みの形にしてバクラに向けた。
白い小さな固まりは大粒となり、日が陰り色彩に欠いた町をしんしんと白く染めていった。すべての色を包みこみ、等しく汚れのない白へ。視界に映るものすべて。何もかも埋め尽くすように。
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雪が降った後は白しか残らない。