ばかうけ

空一面は青黒い色に染まり、重く冷えた空気が辺りを支配している。それなのに、そこかしこから降り注ぐ人工の光によって、地上は不自然な輝きに満ちていた。
背の高いビルが立ち並ぶオフィス街、その中の一つ、機能性だけを重視した面白みのない長方形の簡素な建物の入口に立っている人物が一人。スーツ姿で長髪を後ろで束ねた獏良が、今しがた出てきたビルに背を向けている。
「お待たせしました!」
鈴を転がすような声がその背中にかけられる。
「すみません。出ようとしたら、お客さんに捕まってしまって」
若い女が息を弾ませてビルから現れた。浮かべる笑顔は明るい清潔感に溢れている。目を張るような美人ではないものの、内から滲み出る淑やかさが好ましい。
「ううん、大丈夫だよ」
女の息が整うのを待ち、
「じゃあ、行こうか」
二人は肩を並べて歩き出した。
オフィス街から程近い繁華街へ。明るい街灯が道を示すように続いている。それを辿ればあっという間に着く。
二人の距離は一歩半。近すぎずとも遠すぎず。曖昧な関係を示していた。それでも二人は楽しげに会話を続けている。
「それでお客さんを怒らせてしまったと思って慌てて電話をかけたら笑ってて、『ありがとう。気に入った』って言われたんです」
「あはは」
雑踏に紛れながら慣れた様子で歩を進める。
二人がこうして出歩くようになったのは、一ヶ月前頃。それまでは挨拶を交わす程度の間柄だった。
きっかけは、とある企画の共同作業になる。短い間ではあったが社内の会話が増えた。決定的となったのは打ち上げの席だ。公開中の映画に対する印象が同じことが分かり、酒の力もあって盛り上がった。
次の祝日には二人で映画館に行き、鑑賞を終えた後にカフェで結末について議論した。そこで分かったのは、考え方や好みが同じこと。急速に二人の仲は縮まり、食事に行くことが多くなった。女と親密になるのは生まれて初めてのことだ。
獏良は学生時代から女子に囲まれていた。本人にその気はなくても周りが放っておかない。近づいてくるのは、熱しやすくて積極的な女子たちばかりだった。大人しいタイプは獏良自身やファンクラブの女子たちに気後れして声もかけられない。
押し切られて数人の女子と付き合ったこともある。まだ社会経験の乏しい学生だったから、彼女は作るものだと思い込もうとしていた。
しかし、いつも女子の方から深い仲になる前に別れを告げられてしまう。整い過ぎた容姿は相手を期待させる。まるで獏良が王子やアイドルかのように、彼女たちは特別な扱いを望んでいた。完璧なエスコート、積極的なスキンシップ。歯の浮くようなセリフ。
獏良は見た目こそ華やかなものの、女子の扱いに長けている方ではない。恋愛については、どちらかというと疎い。アウトドア派よりインドア派で、趣味は相変わらずボードゲームだ。
つまり、彼女たちは勝手に期待をして、勝手に離れていった。外見に惑わされて獏良のことなど本当は見ていなかったのだ。
いかにマイペースな獏良でもしばらく落ち込んだ。自分は恋愛には不向きで人並みに付き合うことができないのだと信じていた。
社会人になると、今度は父親の「美術館のオーナー」という肩書きに女たちは集まった。痛い目にあった経験から誘いに乗ることはなくなったが、恋愛に対して嫌気が差した。
様々な人生経験を積み、仕事以外では女から距離を取ることが上手くなった。恋愛には興味がないので、という態度を貫けば、学生時代と違って遠ざけることができた。
恋愛とは無縁の静かな生活を送りながら、徐々に本来の自分を取り戻していった。無理して交際をする必要はないのだ、と認めるようになった。
そんな中、職場の同僚との距離が縮まった。
彼女は今まで出会ったどの女よりも落ち着いていて、獏良を特別扱いはしなかった。一緒にいると気が休まる。自然でいられる。もしかしたら、彼女とは恋愛関係になれるかもしれない。
残念なことに、友人に対する想いなのか、特別な人に対する想いなのか、獏良はいつまで経っても判断を下せないでいた。恋愛経験が乏しいために友情と恋情の差が分からない。
ただ、このまま曖昧な関係を続けることは彼女にとって失礼になることだけは確かだ。早く答えを出さなければと獏良は悩んでいた。彼女も時折何か言いたげな顔をする。
落ち着いた和食居酒屋の半個室席で二人は向かい合ってグラスを傾けていた。
私生活、社内、時事問題、流行りのドラマ、趣味——他愛のない会話が続く。
注文した皿がほぼ空になったところで、彼女は躊躇いながら口を開いた。
「あの……大事な話があるんです……」

*****

はじめは、ほんの一欠片だった。
砂のように微小な残滓。あとは砕けて散った。
偶然残った欠片が深層部に根を張り、栄養を少しずつ吸い上げた。
意識はなく、本能が働いていた。
ちょうど人間が呼吸をするのと同じ原理だ。生がある限り人間は酸素を必要とする。死を望んでいたとしても、呼吸は自分では止められない。
欠片は、そうして寄辺としていた少年の心に棲み着いた。
意識を取り戻すのに数年、形を取り戻すのに数年。
核としていた黄金の呪具はなく、消滅を免れたのが奇跡だった。
少年と過ごしているうちに、目には見えない繋がりができたらしい。元々、魂と心の相性が良かったから、あり得ることだった。
すべて吹き飛んだはずが、少年の心の端に欠片が吸い寄せられるようにして引っかかってくれた。
とにかくバクラは、誰にも知られず、器である獏良本人にも知られず、風が吹けば消えてしまいそうな儚い存在として生き永らえた。
糧となるのは、心のエネルギーである感情。宿主には影響がないほどの微量でよい。それ以上は過食になってしまう。満足に栄養補給すらままならない脆弱な存在なのだ。
バクラの性質からすると、とりわけ負の感情が好物だった。心の中に渦巻く感情から負の要素を選んで吸い上げた。長い目で見れば、獏良にとっても利となる。
心の深層は、いつも落ち着いた淡い橙色に染まっていた。さながら屋内のぬくもりのある照明だ。心を彩る色は感情を表す。怒は赤、哀は青、というように。
激しい感情を持つ者は、色が目まぐるしく変化し、濃度も高い。
明るい者は、黄を中心とする眩く強烈な色。
それぞれ特徴がありこそすれ、すべての者は感情によって色が移ろう。
獏良の色は多少の変化はあっても、結局は優しい橙に戻る。他の者には見られない景色だ。それは、幼い頃にバクラが取り憑いたときからずっと同じ。居心地がいい理由の一つ。
心の色を見れば、獏良の大まかな感情は分かる。
今は外の様子が見られなくなってしまったから、具体的な状態は認知することができない。
外に干渉できないかわりに、外から干渉もされない。閉鎖的な空間ではあるが、安全ではある。
どうしてこのようなことになったのだろう。闇の力を手に入れる機会は永遠に失われた今、もう存在理由はない。無意味に延命されただけだ。
長い時間をかけて再生すれば、かつてのように動けるかもしれない。しかし、それには最低でも百年や二百年はかかる。宿主の肉体の方が先に朽ちる。為す術はないのだ。
だから、バクラはいつも空間を照らすあたたかな灯り見上げていた。
獏良の色は安定しているといっても、変わらないわけではない。
たまに寒色に染まったままのこともある。悲哀の色だ。放っておけば、色は濃くなり、最終的には黒になる。絶望の色だ。その色に染まりきった人間の行く着く先は同じ。
ある程度栄養を蓄えたバクラは、あまりに青の時間が長いと、逆にエネルギーを獏良に送り込むようにした。自分の棲む環境を整えるために。
悲哀の感情は喜悦の感情と違って払拭しづらい。人間は長い時間をかけて強い悲しみを癒すもの。
そこに少しエネルギーを加えてやれば、立ち直る余裕ができる。青から橙にゆっくりと戻っていく。
大体はバクラが手を加える必要はない。特に恋情を表す薄紅は稀に染まっても一瞬で消えてしまう。
「相変わらず宿主は奥手だな」
そういうときバクラは懐かしむ表情で忍び笑いを漏らす。
外界の様子は分からなくとも、なんとなく時の流れは読めた。これは千年リングの中で過ごしていた経験からだ。
かつての少年は既に青年になっている。けれど心は昔のまま。満ち足りた気分だった。獏良を選んだ目に狂いはなかった。
今日もバクラはあたたかい灯りに包まれながら心の海をたゆたい、何もないはずの空間を見上げていた。

*****

彼女から胸の内を伝えられた獏良は、迷いながら言葉を紡ぎ、苦しげな表情で頭を深く下げた。可能な限り誠心誠意を込めたつもりだ。彼女から話を切り出させてしまった申し訳なさから謝罪の言葉を何度も繰り返す。
「そんなに謝らないで下さい」
意外にも彼女の方はスッキリとした顔をしていた。
「結果は読めていたというか……私は区切りをつけるつもりで……」
彼女は困ったように「ウーン」と唸り、
「上手く説明できるか分からないので、気を悪くしないで下さいね」
前置きをしてから言葉を続けた。
「獏良さんは彼女とか必要としていないのかなって思います。変な意味じゃないんです。えっと、その席はもう埋まっていて、私……私たちが入り込む余地はないというか……すみません、やっぱり上手く言えませんね」
申し訳なさそうに俯く彼女に獏良は首を振った。
「似たようなこと言われたことがあるから、なんとなく分かるよ」
お互いにぺこぺこと頭を下げ、その状況にどちらからともなく笑い出してしまった。
その後はデザートとお茶を頼み、普段通りの談笑をした。
彼女とは似すぎていたのかな、と今更ながら獏良は思う。結局は友人や家族に対しての情に近かったのかもしれない。
居酒屋を出たところで、また同僚として付き合おうと約束してから帰路に就いた。
獏良は夜空を見上げ、これからのことを考える。
彼女が言ったように一人でも寂しいという気持ちはない。悲観的な感情が生まれないのだ。
「席が埋まっている」という彼女の表現は言い得て妙だった。一人は、もっと欠けているものだと思っていたが、実際にはそうではない。どうしてか獏良の心に隙間はなく、いつも満たされているのだ。
親しい友人がいるからだろうか。職に恵まれているだろうか。充実した趣味を持っているだろうか。
荒涼感などなく、むしろ胸の内はいつもあたたかい。生涯一人だとしても、きっとずっとそうなのだ。周りが何を言おうと関係ない。自分は自分。そして、自分には心を満たしてくれる何かがある。
小さな星明かりを一つ見つけ、獏良は自然と微笑んでいた。

*****

先ほどまで薄紅だった色が元の橙になった。
今回は珍しく恋情の色が長く続いた。
それを見届けたバクラは、少し思案をしてから頭の後ろに手を組み、ごろりと横になった。
外界の様子は相変わらず分からないが、バクラにとっては最早どうでもいいことだった。何がどうなろうと居場所に変わりはない。
確かなのは、獏良がいて自分がいる——それだけだった。
そして、獏良が生を終えるとき、バクラも二度目の——今度こそ確実な死を迎える。その日まで、ただ待つだけ。
一つ楽しみなことがあるとすれば、もしかしたら最期の瞬間に自分の中に隠れていた存在に気づいた獏良の驚く顔が見られるかもしれないことだ。
すぐのことかもしれないし、五十年先のことかもしれない。三千年の時に比べれば同じようなもの。
解放されるその日まで、二人は寄り添い生きていく。
健やかなるときも、病めるときも——。

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寄生から共生へ。

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