そのときの僕はふわふわとした感覚の中にずっといて現実味がなかった。
白昼夢、という言葉が一番近い例えかもしれない。
ただ言われるがまま一生懸命に目の前のことに取り組んでいて、そのことだけを考えていた。
ただ、ひたすらに――。
結果どうなるのかなんて、まるで頭になかった。
暁光の一雫
好機だ。
器の深層に潜んだ冥王の断片は、開眼して鋭い光を灯した。
悲願を達成するべく、ずっと機会を窺っていた。
必要だった駒は出揃いつつある。
三千年という長い時の中で唯一巡ってきた、文字通り千載一遇の好機。これを逃せば、二度とないかもしれない。
ああ、やはり――。
――やはり、お前は永遠の宿主だったのだ。
お前に巡り逢えたことは、生涯この上ない幸運だったといえよう。
この先どうなろうと、お前を讃え、認める。だから――。
――だから、存分に役に立ってくれよ。
バクラは器に潜むことをやめた。
今まで緩く浅く徹底していた支配を最大限に強めた。
それまで器の役割は隠れ蓑。本人にも周りにも気づかれないよう注意深くしていた。
ぞんざいに扱って使い物にならなくなったら元も子もない。
それも、もう終わり。最後の機会なのだから、隠れる必要はもうない。後のことは考えなくていい。
誰よりも器の創造力を高く評価していたから利用することに決めた。
洗脳とまでいえるほどの強制力で器を動かした。
最後に相応しい舞台を作らせるために。
「どうしたんだよ、獏良」
城之内がいつになく心配げに見ている。
問われた獏良は目を擦り、目蓋が半分ほどしか開かない状態で反射的に答えた。
「うん……ただの寝不足、だよ……」
答えを聞いても城之内の顔は納得している様子ではなかったが、
「そうか?」
と、頷いてそれ以上は何も言わなかった。
最近の獏良の日課は、父親が所有している美術館か自宅でジオラマを作ることだった。
ベースは美術館に設置してあるから、その場でこもることもあれば、細々とした作業を自宅ですることもある。
最終的には長時間に渡る作業を美術館ですることにはなるが、獏良は苦と思っていなかった。
それどころか、なぜ必死になって作業を続けているのかすら分かっていない。
不思議と急かされているような気になり、自分のことより作業を優先してしまうのだ。
何者かの意志が介在していることに気づいていない。
夢か現。常に薄い膜が覆っているような、視界が狭まっているような、状態だった。
ジオラマが完成に近づいたときには、寝食すら気にならなくなっていた。
――早く、早く、早く。
本人が無関心でも身体は悲鳴を上げていて、指先が震えたり、視界が揺れたりしていた。
強固な意志が働いている中で、もう一つの声が聞こえた。
――待って。それを完成させてはいけない。ダメだ。
いくら制止の声が聞こえても、耳を素通りするばかりで意味を成さない。
とてもよく知っている声のような気がした。
――絶対にダメ!友だちが苦しむ!僕はそんなの望んでない!
目の前が明滅した。身体の明確な黄色信号。
震えながらも筆を握る手の指をすべて折り畳んで握り直した。
そして、筆先ではなく柄の方向に力を入れ――、
カツンッ――。
程なくしてジオラマは完成した。
良くやったと肩を叩かれた気がしたが、獏良にはもう気力も体力もなく、確認する前に意識が遠退いていく。
古代エジプトを現代に甦らせた精巧なジオラマは、大業を成し遂げた制作者の歓喜の声を聞くことなく暗い部屋に閉じ込められた。
彼を操っていた影は満足げにジオラマを見下ろしていた。予想よりずっと素晴らしい出来映えだ。きっと使い心地も良いに違いない。
最後の仕上げは獏良ではなく本人がするべきもの。
次の行動に移すべく、バクラはジオラマに背を向けて部屋を後にした。
*
誰も知らない。
完璧であるはずのジオラマの歪みに。
獏良は途切れそうな意識の中で存在しないはずのNPCを配置した。
そして、外壁に小さな亀裂を作った。制作者以外は気づけないほどの僅かな隙間。
バクラの支配下で無意識の抵抗だった。
誰か助けて、と願いながら足掻いた結果だ。
だから、どうなるかなんて考えていない。
希望に繋がるとは思いもしなかった。
*
――クソッ!クソッ!
まったくついていなかった。器の遊戯が思った以上に力をつけていたことも。青き瞳を持つ女が神官セトの心に寄り添っていたことも。死んだはずのシャーディの意志が働いていたことも。すべてが計算違いだった。
走馬灯——王の記憶内で起こったことが次々と頭を駆け巡っていく。酷く全身が重い。このまま塵となって消えていくのか。死という大きな渦に身を任せようとしたとき――。
幼子が泣きじゃくっているような声が遠くで聞こえた。
聞く者の哀れみを誘う痛ましささえある泣き声。
誰であるか考えるまでもない。
ジオラマを作っている最中の獏良はバクラの支配下にあった。その間は獏良にとって幻のような時間になる。
バクラが消滅すれば、獏良は呪縛から解かれ、悪夢のような時間はなかったことになるはずだ。
友人の敵対者に協力してしまったという罪を感じることなく、ただの被害者として過ごせる。
しかし、表面上の記憶はなくなっても、心の深層についた傷は一生なくならない。それがどういう結果をもたらすか、バクラでさえ分からない。
自分が消滅した後のことなど関係ないのだから考えるまでもないことなのだ。
そのはずだ、が――。
聞き流そうとしても、耳の奥まで悲壮な声が潜り込んでくる。頭にこびりついて離れない。
「チッ。面倒くせーなァ!」
バクラは最後の力を振り絞り、二度と開くことはないはずだった重い目蓋を抉じ開けた。
獏良は上を向いて大声で泣いていた。ボタボタと大粒の涙がとめどなく頬を流れていく。
心の部屋では深層心理が反映される。現実では一目を憚らずに泣くことなどないが、剥き出しの感情が表れているのだ。
心の片隅では、もはや自分の一部だったものが消えかかっているのを感じていた。外界で起こったことを見ていなくても、それが何を意味するのか分かる。
「ごめんなさい、ごめんなさい!何もできなかった!僕は無力だ……!」
今度こそは遊戯たちの役に立てると思っていたのに待つことしかできなかった。
誰かの助けを願うことしかできなかった。
命を助けてもらった友人たちに恩返しがしたかったのに、関わることすら許されなかった。
わんわんと泣きながら謝罪を何度も何度も口にする。
その慟哭は、誰にも気づかれず、誰にも聞こえることはない。もしかしたら、本人ですらも。
「し……」
あるはずのない掠れ声が耳に入り、獏良は啜り泣きだけを残して声を抑えた。
それは、本来力強いはずのもの。傲慢で無慈悲なはずの声が、今にも消えそうに弱々しい。
「お前は……」
「なに?!」
獏良はビクリと震え、怯えた表情で周囲に視線を巡らせて声の主を探し始めた。
心の部屋だから当然辺りには誰もいない。一層目を細めて、首を動かす。
「いいから聞け」
声には微かに苛立ちと焦りが混じっている。獏良が聞いたことのない音色だった。
従うというよりは叱責を受けた子ども同様に声を失って相手の言葉を待った。
「お前の……柔い心は……武器にな、る。いつか……」
獏良は涙を湛えた目を瞬かせ、声に耳を傾ける。しかし、それ以上は聞き取ることができなかった。
「忘れるな……」
はっきりと聞こえた語末以外は――。
意識を取り戻したのは、見覚えのない部屋だった。
頬にざらりとした感触があり、手で触るとパラパラと落ちた。指先に残ったそれを朦朧としながら見る。
――砂……?
「獏良!」
肩を力強く掴まれ、反動で視線が下から上に移る。見慣れた顔が心配げに見ている。
「大丈夫か?!」
問われてから初めて自身の状況に意識が向き——両手で頭を押さえた。
「ぼ……僕……美術館にみんなと行って、それから家に帰って……いや、帰ってない……学校にいて……違う……家で僕は作ってた……何を?……買い物に行って……分からない……」
記憶を引き出そうとしても、雲を掴むような感覚。手の中をすり抜けていってしまう。しまいには唸りながら机の上で蹲り、思い出せない、分からない、と何度も繰り返す。
獏良の尋常ではない様子に、肩を掴んだままの城之内と後ろに控える遊戯が視線を交わした。
「安心しろ、獏良。お前は悪い夢を見てただけだ」
「夢……?」
「そうだ。すべて終わったから心配する必要はないんだぜ」
城之内がにかっと頼もしく笑い、遊戯も安心させるように微笑む。
「終わった……」
獏良は弱々しい目で二人の顔を交互に見た。曇りのない笑顔が混乱を安堵に変えていく。理解するより先に小さな笑みが口元に浮かんだ。
「終わった」という言葉だけにちくんと小さな痛みを感じていたが――。
冷静さを取り戻した獏良は遊戯たちに説明を受けた。
驚くことに、ここは父親が所有している美術館の中だという。
父親ともスタッフとも部屋を使用するという話をした記憶はない。獏良の「顔」さえあれば、許可を取るのは簡単だっただろうが。
部屋の中央に置かれたジオラマは優れた作品だったが、よく見れば獏良の癖が随所に表れていた。
自分自身なら分かる。色づかい、全体の空気感、こだわるであろう箇所。刻銘がなくとも明白だった。紛れもなく獏良が生み出したものだ。
だから尚更混乱した。実在するのに作った記憶がまるでない。
城之内の言ったように、まるで夢でも見ていたようだ。
不思議なことに、あれほどあった千年リングへの執着はなくなってしまった。
闇の意思がいなくなったからだろうか。
確かに父親から譲られた大切なものという感覚はあったが、事情が事情だけに、なければないで仕方がないと思えた。
無理に記憶を引き出そうとしても気持ち悪くなる。
忘れた方が賢明だとやめることにした。
その後、急にエジプト行きが決まったり、友人との別れがあったり、忙しさから違和感が徐々に消えていった。
*****
再び過去と向き合うことになったのは一年後のこと。
獏良は美術館の隠し部屋で助け出されてから、前後の記憶は曖昧なままであったが、時折「忘れるな」という言葉が頭に浮かぶことがあった。
「何を?」と問いかけても、返事をくれる者はいない。
何度も問いかけるうちに、心の中に小さな穴が開いていることに気づいた。
今まで見過ごしてしまっていた程の隙間。そこから冷たい風がすーすーと吹き込んでくる。
知覚したところで、忘れていた違和感が甦った。
そんな中、獏良と深い因縁のある少年が現れたのだ。
少年は獏良を師の仇敵と信じて怨恨を抱き続けていた。
誤解は獏良自身と遊戯によって解かれることになる。
本人すら知らなかった幼い頃の事実が発覚し、事件は終息を迎えた。
藍神と名乗る少年は、本国に帰る前に獏良をこっそりと河川敷に呼び出した。
橋が日を遮って影を落とし、人通りが少ない緑地は、内輪話をするのにちょうどいい。
城之内たちと藍神が初めて会話をした場所だとも獏良は聞いている。
放課後、獏良は小走りで学校から向かった。
日は傾きつつあり、川を優しく挟む翡翠の平地が茜色に染まり始めていた。
藍神は獏良よりも先に来ていた。童実野校の生徒と偽る必要がなくなったからか、見覚えのある私服だった。
獏良のいる歩道に背を向け、橋の影に半分身を隠し、川をじっと眺めていた。その背中はどこか寂しげだった。夕焼けに染まる風景がそうさせるからだろうか。
獏良はその姿を見つけ、足元に気をつけながら斜面を下りていった。
気配に気づいた藍神は、振り返って獏良が到着するのを待った。その表情はやはり寂然として見える。
「呼び出してしまってすまない。卒業式の準備もあるだろう」
獏良は片手を左右に振って言った。
「ううん。もう授業はほとんどないし、かえって暇なんだ」
半分は本当で、半分は気遣いからついた嘘だ。
授業はほとんどないものの、卒業式にこだわりを持つ一部の教師により何度も予行演習をしたから、この時間になってしまった。
卒業生代表に選ばれた遊戯と違い、役割がない獏良はほとんど座っているだけで、暇であるのは間違いない。
藍神は少し困った表情をした。遊戯たちを監視していたときに、教師の悪癖を知ったからだ。
獏良の気遣いを否定する訳にもいかず、黙って頷いて見せた。
二人はしばらく雑談を続けた。
獏良にとっては既に藍神は心を許した友人の一人。誤解についての謝罪は、事件のすぐ後に受けている。
互いに遠慮をする必要なしと、教室であった些末な出来事を伝えた。
藍神が教室から姿を消したと同時に、クラスメイトの記憶からも消えている。
獏良はそれを転校と同様に考えていた。だから、元クラスメイトに近況を報告するつもりで話した。
藍神は微笑を浮かべて聞いていた。
しかし、やがて辛そうに顔を歪めてから頭を下げた。
「本当にすまなかった。無関係の君に酷いことをしてしまった。ちゃんと謝りたかった。君がいたから僕は愚かな過ちをせずに済んだ」
獏良は無言で首を横に振る。
言いたいことは山ほどあったが、説明が長くなってしまうし、彼に嫌な記憶を思い出させることになる。謝らなくていいよ、という意味を込めた。
それに謝られる資格はないと思った。
「復讐のことを考えることで、無力だった自分を認めたくなかったのかもしれない」
「無力……」
藍神の言葉を口の中で繰り返すと、自然に言葉が獏良の口から滑り出した。
「君は無力なんかじゃないよ。君の一途な心はこれからも力になる。セラちゃんを助けるものだ」
彼らを導いてくれる師はもういない。だから、今度は彼が妹を導く番だ。
獏良は気持ちを伝えるのに迷いはなかった。ずっと心にある言葉が後押しをしていた。だから、当然のようにそれをなぞった。
「君は一人じゃない。忘れないで」
柔らかい眼差しを藍神に向け、口端を上げる。
二人が対峙した、あのときとまったく同じ光景でありながらも状況は真逆。
無垢な笑顔が張り詰めた場の空気を和らげていった。
藍神も呼応するように微笑み返した。
夕焼けの暖かい光が二人を照らす。河川敷に佇む彼らの輪郭が褒め称えられるように輝いた。
それからすぐに藍神は日本を発った。
帰国日をあえて知らせる彼ではないから、獏良は丁寧に挨拶をしに来たセラから聞き出し、内緒で見送りに行った。
搭乗口に消えようとする兄妹を見つけ、大きく手を振って声をかけた。
「またねー!」
藍神は後ろを振り返って獏良の姿を認め、目を丸くし、傍らのセラに視線を移す。セラは茶目っ気のある笑顔を浮かべた。
それで腑に落ちたのか、藍神は獏良に視線を戻し、片手を胸の辺りまで上げて応えた。
彼の乗っているはずの飛行機が蒼穹に真っ白な線を描いて走る。
白線は空の彼方までぐんぐん伸びていく。
晴れやかな気持ちの良い光景だ。
獏良はそれを展望デッキから眺めながら、小さな声で呟いた。
「忘れないよ……」
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獏良の長所も短所も一番理解しているのは……。