心臓が痛いほどに暴れている。鼓動が耳に響くまでうるさい。息が乱れて肩が勝手に大きく上下する。
どうにかして落ち着かなければ身に危険が迫る。胸をさすって息を整えようとするも、手のひらに心臓の響きが強く打ち返すだけ。
額から流れた汗が目の縁に流れ込んできた。今はそんな些末なことに構っている状況ではない。目に侵入しないようにまばたきをするだけに留める。
複数の乱雑な足音が聞こえてきた。獏良は口を押さえ、なるべく気配を殺すように努めた。
少しでも動いたら見つかってしまうような気がする。路地の暗がりの中で、心臓の脈打つ音だけがうるさい。自分だけに聞こえるはずなのに、周囲に漏れ出しているのではないかと錯覚する。
静まれ、静まれ、静まれ——。
祈りが通じたのか、足音はしばらく付近をうろつき、まとめて遠ざかっていった。
完全に音が消えたのを確認すると、獏良は手を口から離して大きく息を吐いた。吐き終われば自然と大量の新鮮な空気が口と鼻から入ってくる。
ハンカチを取り出すのも面倒になり、シャツの袖口で顔中の汗を拭う。
路地の外、太陽が降り注ぐ表通りの様子を見るのはさすがにまだ怖い。少しずつ顔の一部だけを建物の角から出して周囲を確認した。もう誰もいないようだ。
「ハァ……」
今度こそ獏良の肩から力が抜けた。
散々な日だ。今日はせっかくの日曜日のはずだったのに。一人でのんびりと過ごすつもりだった。
ホビーショップ、CDショップ、本屋を回ったところまでは良かったのだ。ほくほく顔で店から出たところで、黄色い声が上がった。「キャア、獏良くんよーっ」ゆったりとした休日は突然の終わりを告げた。
女子の情報網はとてつもない。獏良をたまたま見つけた童実野校の女子生徒は二人組だったが、数分のうちに何処からかわらわらと人数を増やし、人垣を作るまでになった。
これでは学校のファンクラブと変わらない。休日なのにたまったものではないと、獏良はその場から逃げ出した。
女子たちの執拗な追跡をかわし、やっとのことで路地に身を潜めることに成功したのだ。
落ち着いたところで、獏良は喉がすっかり乾上がっていることに気づいた。身体中の水分はとっくに汗として外に流れ出てしまっている。早く潤したい。
自動販売機がないかと視線を巡らせた。目標を見つける前に、隣のビルの前——道路脇に立てられた看板が目に入った。
黒板になっていて、字や絵が書き込まれている。どうやら看板の背後にあるビルに入っている喫茶店のもののようだ。
階段を意味すると思われる段差の絵と「2F」の文字が見えた。
周囲に気を配りながら身を低くして看板に近づく。
古き良き純喫茶というより今風の洒落た店らしい。プロの仕事か一般店員のものかは分からないが、華やかな装飾文字が黒板に踊っている。
そこには幾つかおすすめのメニューが記載されていた。値段は高くはない。学生でも手が届く。中でも獏良の目を引く品目があった。
『レモネード&ソーダ』
文字だけではなくイラストもある。グラスに並々と注がれた液体に涼しげな氷と気泡、縁に飾られたレモン。ごくり——。獏良の喉が狂おしいほど求めている。
二階の店なら女子たちが戻ってきても、すぐに見つかることはないだろう。疲れているから今はゆっくり休みたい。「レモネード&ソーダ」に心惹かれてしまったことだし……。
獏良は自分自身に言い訳をしてから、上階へと続く階段に足を向けた。
階段は人が一人通れるほどの狭さ。照明は用をほとんど成していない。
本当に店があるか不安になってしまうような構造だったが、終わりが見える頃には上から明るい灯りが降り注いだ。
上階には空色に塗られた木製ドアが一枚。床置きのスポットライトが照らし出している。
ドアに寄り添うように飾られた観葉植物が雑居ビルの中だということを忘れさせてくれるようだった。
ドアを開いてみると、柔らかい光とともにコーヒーの香りが出迎えてくれた。
優しいクリーム色の木目調、座り心地の良さそうな布地のソファ、至るところに飾られた植物——レトロとモダンが見事に調和している。
奥から女性店員が素早く現れ、にこやかに笑う。
「いらっしゃいませ!何名様ですか?」
獏良が一人であることを告げると、「お好きな席へどうぞ」ぺこりと丁寧なお辞儀が返ってきた。
店内には小会議にも向いていそうな広めのテーブル席と充分な間隔が開けられたカウンター席が半分ほど。休日とはいえ人は疎らで選びたい放題だ。
窓際の席は丸テーブルにソファと同じ生地のダイニングチェアが一脚ずつ。外の景色を見ながら穏やかな時間が過ごせるようになっている。
獏良はその一つを選んだ。もし、女子たちが戻ってきても、二階の窓席からならすぐ分かる。
荷物置き用のバスケットに買い物袋を容れて席に着く。間を置かずに店員がグラスに入った水を運んできた。
メニューブックを渡される前に目当ての「レモネード&ソーダ」を注文する。ホットやコーラ割など、他にも種類はあったが、結局はこれを選んだ。
女性店員が去ってから、干乾びた口内を潤すためにグラスの水を呷る。残念ながら、多少の水では飢えを満たすことはできなかった。
改めて見渡した店内は心地よい空間で、偶然とはいえ良い店を開拓したな、と和んだ。いつも通りに道を歩いていたのなら、絶対に気づかなかったはず。
女子たちに追われたのは歓迎すべきことではなかったが、このカフェを見つけたのは不幸中の幸いといえる。
一階にある店とは違い人通りを感じないせいか、ゆったりとした時間が流れているところも気に入った。
獏良が席に視線を戻したところで、
「秋になるとやたらとイモのメニューを出すよなァ」
頬杖をついて卓上メニューをつまらなさそうに見つめる男が目の前にいた。
「ブ……なっ!」
獏良は調子外れな声を上げてから周囲の様子を確認し、声の音量を少し落とす。
「なんでお前が……」
獏良以外には不可視のため、話しかけるには注意が必要だ。彼は仮の呼び名として同じ「バクラ」と名乗っている。
相手は卓上メニューから視線を獏良に移して肩を竦めた。隣席の椅子を逆に跨いで座っている。
「やぁっと静かになったぜ」
バクラは小指を耳の穴に突っ込んで口を尖らし、
「ギャアギャア騒がれてたんじゃ休めねぇっーの。息抜きくらいしたくなンだろ」
背もたれに顎を乗せるようにしてぼやいた。
二人は千年リングで繋がっている。そうである限り、不本意ながら離れられないのだ。
バクラから多大な被害を被っている獏良はあからさまに嫌な顔で、
「僕はお前となんて顔を付き合わせたくない」
大っぴらに視線を外し――その先に女性店員が立っていた。
「お待たせしましたー!『レモネード&ソーダ』です」
それは、看板で見たイラストよりもずっと魅力的だった。底に沈んだ黄色と透明の二層。液体にはシュワシュワと気泡が弾けている。レモンが一切れグラスに飾られ、上に乗ったミントが爽やか。細かい黒い粒が舞っている。
「シロップが入っていますので、混ぜてお召し上がり下さい」
ごくり、と獏良の喉が鳴る。見ているだけでも涼しげだ。話の最中であることを忘れてつい目を輝かせてしまった。しかし、すぐに注がれる視線に気づき、気まずげに相手の顔を見ると、
「どうぞ」
皮肉めいた笑顔で手のひらを上に向けて促された。
屈辱以外の何ものでもない状況だが、とにかく喉が渇いている。水一杯だけでは満足できていなかった。
断じて屈したわけではない。せっかくの商品は美味しくいただかなければ、と自分に言い聞かせてストローに口をつける。
弾けた気泡から顔に冷気がかかり、甘酸っぱい液体が口の中に流れ込んできた。何かの種がプチプチとした食感を生み、炭酸の刺激が口内と喉を駆け巡る。レモンの爽やかな酸味が口一杯に広がり、最後にミントの香りが鼻に抜ける。
「ふぁ…………」
真向かいの席のバクラが白い歯を見せた。
「ただの炭酸飲料を随分美味そうに飲む」
獏良は恥ずかしげに目を伏せ、
「や……だって……本当に美味しい……」
用もなくストローで中身を掻き回す。グラスの中に小さな渦が生まれ、黒い粒が水流に乗り、炭酸がパチパチと弾けた。
その様子にバクラはケラケラと笑い、あとは黙ってストローを吸う獏良を面白そうに眺める。
ソーダがなくなるまで束の間の穏やかな時間が続いた。誰にも邪魔をされずに。
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二人きり、降って湧いたような。