はじまりは混沌だった。一筋の光も届かない暗闇の中に茫洋とした水があった。鏡のように波一つなく静まりかえっている水面。生物の気配はしない。ただそれだけだった。
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獏良はパソコンのキーを一心不乱に叩いていた。客先に提出する見積もりと資料の提出期限は本日の夕方。会社の椅子に座っていれば、次から次へと新しい案件が舞い込む。早く仕上げてしまいたいのに、何度も足止めを食らってしまっている。午前中は急なトラブルの対応に追われていた。だから、昼飯もほぼ食べていない。
画面からは目を離さず、デスク脇に置いた缶コーヒーに手を伸ばす。時刻は既に昼過ぎ。悠長にしていたら、時間切れになってしまうかもしれない。このまま順調に行けば間に合うはず――。
「獏良くん、ちょっと……」
声のする方に視線を向ければ、部長が扉から顔を覗かせ手招きをしている。
「ハイッ!」
反射的に立ち上がり、背筋を伸ばす。返事をした後で内心冷や汗を掻く。パソコンの前から離れたくないが、ノーと言える相手ではない。それにこういうときの呼び出しは大抵良くないことになる。
事務室の向かい側にある小会議室に誘導され、部長から書類を提示される。
「これなんだが」
昨日社内に提出したばかりのプレゼンテーション用の資料を印刷したものだった。部長は紙をめくり、その中の一項目に人差し指を突きつけた。
「ここ、これは当初と変わっているようだが」
「それは……課長から変更案が出まして……」
しまったと唇を噛む。目の前にいる部長と直属の上司は犬猿の仲なのだ。互いのやることに難癖をつけるのは日常茶飯事。それでも事情説明に名前を出さないわけには行かない。なるべく波風立てない言葉を選ぶ。
「明日までに直しておくように」
無情にもそれが職場長の答えだった。反論など下っ端にできるはずもない。
獏良はがっくりと項垂れて席に着く。資料を言われた通りにただ直せばいいわけではない。課長に事の次第を説明し、修正許可を取らなければ、また話がややこしくなる。
件の課長は外回りの真っ只中で捕まるかどうか……。
――とりあえず、先にメールして……。
「獏良さん、お電話です」
思考を遮るように事務員から声がかかる。
――ああ……もう。
すべてを投げ出したい気分で受話器を手に取った。
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水面に波紋が小さな一つ。それまで無のみだった闇に変化が訪れた。波紋は時間をかけて輪を増やしていった。
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獏良が退社したときには空はすっかり黒色に染められていた。
休憩も入れずに慌ただしく期限つきの仕事を終え、その間に積み上げられていた新しい案件の処理が終わる頃には職場に誰もいなくなっていた。
もう夕飯を作る時間もなく、かといって外食する気力もない。早く家に帰って身体を休めたい。
街灯に照らされる夜道を歩き、とぼとぼとコンビニに向かった。
家に着くなり通勤鞄とビニール袋を放り出して、床に座り込んだ。その途端、身体が床に吸いついたようになって動くのを拒絶する。
近くの座卓に置かれたリモコンには辛うじて手が届き、のろのろとテレビの電源を入れる。チャンネルを切り替えていき、当たり障りのない番組を選ぶ。画面の中で芸能人が流行りの飲食店でお薦めのメニューに舌鼓を打っていた。それを虚ろな目で眺める。内容は頭にほとんど入ってこない。
この後はコンビニで買った夕飯を食べて、風呂に入らなければならない。すべてが億劫だった。
――今日はシャワーだけでいいや……。
コンビニで選んだのが手間のかからないサンドイッチだったことに感謝をした。
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波紋を中心として水が盛り上がった。噴水のように高く上がっていき、人の丈ほどの高さに達すると止まった。
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会社に出勤すると、上司が慌てた様子で外出の準備をしていた。背広を羽織ながら獏良に視線を向け、
「悪いがクレームが入った。これから先方に謝罪に行ってくる。後から連絡はするが、事務所のことは任せたよ」
そう伝えると、脇目も振らずにドアの外へ飛び出していった。
後に残されたのは、膨大な量の書類とメール。昨晩遅くまでかかって処理をしたのに、また新しく積まれていた。
パソコンの画面に表示される文字と睨み合っていると目が霞む。こめかみを指の先で揉み、瞬きをする。
勤めているのは大手ではないが堅実な良い企業だ。人間関係も一部を除けば悪くない。最近は働きぶりを認められて大きな仕事も任せてもらえる。
それでも獏良の表情には陰りがあった。
好きなゲームに触れなくなってどれくらい経つのだろうか。興味がなくなったわけではないが、物置にしまったままになっている。社会人になって友人たちと集まる機会が極端に減ったからという理由はある。
それでも家にあるのだから一人でも触ってみればいい。それなのに蓋をしたままなのは向き合う気力がないからだ。
学生時代は自由だった。世界は狭かったが、狭い中で楽しめた。友人たちと顔を付き合わせ、ダイスを振り、駒を動かしているだけで充実していた。いくら懐かしがっても、あの頃にはもう戻れない。
いつまでも憂愁に陥っているわけにはいかず、獏良はデータを打ち込むと、次の書類へと手を伸ばした。
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沸き上がった水は形を取ろうとした。しかし、何かを象ろうとしても、すぐに崩れてしまう。何回も何回もそれを繰り返し、やがて人間の形へと変化していった。
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獏良が一人暮らしを始めてから何年も経つ。最初は寂しがったりもしたが、今ではすっかり慣れて特別な感情は抱いたりしない。家というよりは、疲れた身体を休めるだけの場所になってしまっている。
実家には長らく帰っていない。一時期、学生時代に気まずい関係になったこともあるが、今は普通に話せるくらいには修復されている。それでも、子どもの頃のような居心地の良い場所ではなくなっていた。
獏良が家で即席ラーメンを啜っていると、携帯の着信音が短く鳴った。麺を咀嚼しつつ画面を開く。母親からのメールだった。一瞬息が詰まる。連絡を取り合う時期ではないし、特別な用事も思いつかない。躊躇いながら本文を表示させる。
『元気にしていますか?』
息子を案じている文章から始まり、近況報告、様子を伺うような内容。
『親しい人はできたかしら?』
ああ……これだ、と獏良の心に暗い影が落ちる。やんわりと明言を避けた物言いでも、本心は十二分に伝わってきた。
彼女はできたかしら?その彼女とは結婚を考えているの?どんな方なのかしら?家柄は?私たちに会わせるつもりはあるの?
学生時代にどうしようもない理由から両親と距離を置いていた時期があった。今では普通に会話はできるようになったが、当時に生まれたしこりはずっと取り除かれないまま。そのせいで互いに本音をぶつけられなくなった。良い表現をすれば気を使っているともいえる。
正直に恋愛に興味を持てないと答えられれば、どれほど楽なことか。今の関係ではさらに余計な心配をさせるだけだ。
獏良にとって今送られてきたメールは真綿で首を絞められているような内容なのだ。はっきりと言ってくれればいいのに、遠回しに触れられたくない部分を探られる。控えめな文章であるから下手に反論ができない。食欲が波のように引いていく。
獏良は返信するのを止めて携帯を置き、箸を持ち直した。残り少なくなった麺を掬い上げ、機械的に口に入れる。味はほとんど感じられない。柔らかい紐のような物体を苦労して飲み込む。仕事の多忙を理由にするか、と返信の内容を考えながら。
*
獏良が仕事の中でも一番苦手とするのは接待だった。取引先と食事を共にしなければならないことが度々ある。酒を無理強いする風潮ではなくなってきたとはいえ、相手にもよる。まったく飲まないわけにはいかず、あまり好きではない酒に付き合わなければならない。
特徴的な容姿をしているから話題によく出される。
「モテるでしょう?」「うちの女子も騒いでるよ」「いいなー。得してるね」
相手にとっては賛辞のつもりでも、容姿を長所と捉えていない獏良にとっては不愉快だった。
「そんなことないですよ」「ありがとうございます」「そう見えます?」当たり障りない言葉で受け流す。
作り笑顔で心にもない会話を続けるのは苦痛だった。社会経験を積み、上手く振る舞えるようになっても、接待が終わった後はどっと疲れる。自分の中の何かがすり減っていくのを感じた。
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水から現れた者は人間の形を真似てから、しばらく固まっていた。ゆっくりと思考する。もっと馴染む形はないのか、と。表面をコポコポと揺らし、朧気な記憶を辿った。
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獏良はベッドに横になり、天井をぼんやりと眺めていた。疲れているときは何もしないのが一番だ。それなのに、頭は勝手に余計なことを思考していく。
思い浮かぶのは親しい友人たちの顔。
遊戯はゲーム作りのために海外を飛び回っている。城之内は企業をスポンサーにつけて国内のデュエル大会に積極的に参加している。本田は父親の工場を継ぐべく腕を磨いている。杏子は歌手のバックダンサーを務めている。御伽はゲームデザイナーとして父親と会社を立ち上げた――。
比べてはいけないと分かっているのに、自分だけが前へ進んでいないと思ってしまう。自分自身が己の価値を認められなくて苦しい。
現実から逃げるように目をきつく瞑る。眉間の皺がそのまま獏良の苦悩を表していた。
現状を変えるには仕事を辞める必要がある。しかし、辞めたところで後の展望が見えない。生活をするには今の職を手放すわけにはいかない。いつまで経っても膠着状態だ。
そう考えると、何もかもが億劫になる。前を進むことも、後ろへ戻ることもできず、その場で蹲ってただ漫然と時を刻む。このまま老いるのを惰性で待つしかないのか。
何も考えようとも時間は進み、週末は終わり、また新しい週が始まる。
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表面の水を小さくうねらせ、記憶に残る形を取ろうとする。目、鼻、口、輪郭、耳、髪――。一つ一つ思い出し、粘土で模型を作るように近づけていく。
やがて一つの形になったとき、今までになく馴染むのを感じた。湧き上がる感情は郷愁の念にさえ似ている。それは単に水でできた彫像で、かつてと比べれば紛い物に過ぎない。それでも、失ったものを取り戻した充足感に喜び震えた。
しばらくすると、無情にもやっと作り上げた形は端から崩れて水の中へ溢れていった。「核」がないから形を留めることができない。水に溶けてしまったように見えても、意識はそこに滞留していた。
「核」はこの世から消失してしまった。もう手に入れることはできない。まだ残っているものは——。
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手抜かりなく業務を進めていても、客先の一声でそれまで順調だった案件が引っくり返されることがある。客先に白いものを黒だと言われれば、それが罷り通ってしまうこともある。
各所に承諾を得て動いていた企画が始めからやり直しになった。さすがに相手の独断では獏良側に責任はなく、実質的な損失は免れたが、これまでの努力が一瞬ですべて泡になった。
上司からは「運がなかったな」と同情の言葉を貰えたが、それだけだった。もう一度最初からやり直すとなると、また企画を練らなくてはならない。協力会社には頭を下げるところからやり直す。
考えただけでも気が重い。悩んでいる内にもデスクには新たな書類が詰まれていく。整理のできない散らかったデスクは、獏良の心象風景そのままだ。
ここで頑張っても自分にも会社にも一円の得にもならない。逆に手をつけなければ、一度受けた依頼を遂行できなかったとして、社内の評判は落ちる。泥試合と決まっている仕事に気力など湧くわけがない。
獏良はそれから糸が切れたように淡々と最低限の業務をこなし、久しぶりに定時退社をした。
感情が抜け落ちた顔で日が暮れつつある街中を歩く。駅前の喧騒がどこか遠くに聞こえた。
明日になれば、何があろうとまた同じ道を通っていかなければならない。代わり映えのしない道を。
*
コポッ——。
シャワーの湯を垂れ流しにし、頭から打たれた。湯は獏良の全身を撫で、足元から排水口へと流れていく。疲れきった顔でシャワーを浴びてもまとわりつく不快感は拭えない。乾いた目元から涙の代わりに垂れるだけだった。
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形を失くした「彼」は、混沌に漂う流体となって在り続けた。それは、はじまりの水から現れた一粒であった頃と似ていたが、当初とは違い、今度は明確な意志を持っていた。
わずかな気配を嗅ぎ取り、それに向かって流れていく。懐かしい――帰るべき場所を見つけたのだ。
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獏良は浴槽の縁に頭をもたれかけ、湯船に深く浸かった。そうすると、重力から解放されているようで心地が良い。息を長く吐いて身体の力を抜く。今この時間だけはすべてを忘れて安穏としていたい。湯から出てしまえば、また重苦しいしがらみの中へ戻っていかなければならない。
ピチャ――。
湯船に一つの波紋が生まれた。波紋を中心として水が盛り上がる。獏良の目前に現れた流体は人の形をしていた。今にも崩れてしまいそうな不恰好な姿。
ゴポッ――。
目に当たる部分は楕円の窪みになっている。瞳はなくても確かに獏良を見つめている。
「あ……あ、ああ……」
獏良は恐怖を感じて硬直しながらも、どこか懐かしさを感じていた。この人間に成り損ねた塊を知っている。自分によく似た形の――。
辛うじて形を保っている「彼」に向かい、獏良はまだ震える両腕を広げた。
探していたものが見つかったような安心感と燻る恐怖心が胸の内に渦巻いたままで。
オレだけのお前
お前だけのオレ
かつて選ばれた少年の疲れ切った顔には薄暗い喜びの色が微かに差しているように見えた。
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エジプト神話では、混沌の中にある水からすべてが生まれ、死者の魂が還る場所でもあるということです。