ばかうけ

光の女神が降臨した瞬間、勝負の形勢は引っくり返された。時間をかけて用意したはずの舞台はすべて水の泡。女神が手のひらをかざし、眩い閃光を放つ。闇を打ち払う光が身体を貫いた。闇から生まれた存在は光を前に為す術もない。意識を吹き飛ばされ、その場に散った。


光あれ


意識を取り戻して初めに飛び込んできたのは友人たちの心配そうな顔。朧げながら辺りを見回せば知らない部屋。大掛かりなジオラマが目につく。
「ここは……?」
声を出してみて、曖昧模糊としていた身体の感覚がはっきりとした。何かから解放されたように身体が軽い。そして、なぜだか胸元が寂しい。
その場にいた友人——遊戯たちは困ったように顔を見合わせてから、獏良に事情を説明し始めた。
驚くことに、ここは獏良の父親が所有している美術館の中だという。テーブルに置かれた存在感のある古代エジプトの精巧なジオラマは、獏良自身が作ったものらしい。
教えられて注意をして見てみれば、所々に自分自身の癖がある。身に覚えはないが、まったくないというわけでもなく、夢の中で触ったことがあるような不明瞭な感覚は残っている。
——美術館でみんなと別れてから、どうしたんだっけ……?
遊戯たちの説明は丁寧でありながらも時折言葉を濁しているかのよう。言葉の節々に獏良への気遣いを感じることから、考えがあってそうしているのだろう。
獏良は敢えて追求することはしなかった。胸元にかかっていたはずのものが、どこにいったのかは少し気になったけれど。
千年リングへの執着は目を覚ましてから、不思議と綺麗さっぱり失くなっていた。ずっと父親から貰った大切なものとして肌身離さず持っていたというのに。ないと落ち着かなかったはずが、なければないで納得できた。
獏良は病院へ行くように促す友人たちに首を横に振り、自宅へと戻ることにした。自分の身体の調子は自分が一番よく分かっている。最近はずっと寝不足のような状態が続いてたのに、今は頭がすっきりとしていた。
リビングの電気を点ける。
随分と久しぶりに感じる自宅はどうにも広く静かだった。
床に見覚えのないカラースプレーが転がっている。それを見つけた瞬間にどうしようもない虚無感に襲われ、気づけば目から涙が勝手に流れ落ちていた。
「……あれ?」
手で目元を押さえても、後から後から止めどなく溢れてくる。なぜか胸の奥が痛い。どうすることもできなくて、しばらくそのまま立っていた。

事件が収束してすぐにエジプト行きが決まった。準備に慌ただしくなり、考え込む時間がなくなったことは獏良にとって幸いだった。
物置きを引っくり返して荷物を確認にする。ボストンバッグ、着替え、パスポート……はまだ期限が残っているから更新の必要はなし、日焼け止めクリームは買った方がいいか……。
エジプトには行ったことがあるから、荷物の準備はし易い。往復路についても不安はない。むしろ他のメンバーの準備の方が心配だ。城之内はちゃんとパスポートを取得できるか、など。
——エジプト……。
父親の仕事について行き、それからどうしたのだっけ。記憶を辿ろうとすると頭が痛む。何度試みても空振りして詳細がはっきりしない。
その頃ぐらいからだっただろうか。不幸が始まったのは。
千年リングに潜む邪悪な魂はもういない。身体に傷がいつの間にかついていることも、原因不明の寝不足に悩まされることも、家の物が増えてり減ったりしていることもない。
平和な日常が戻ってきたのだ。
旅行用の服を畳む手が止まる。獏良の視線は床に積んだ服ではなく、その向こう側に向けられていた。
——アイツも行きたかったのかな……エジプト。

物思いに耽っていられる時間はなかった。学校に通いながら準備や手続きをしなくてはならないのだ。エジプトへの出発日は否応なしに近づいてくる。
授業が終わり学校の廊下を歩いていると、パタパタと生徒が駆け抜ける先に遊戯が立っていた。窓の外を遠く眺めている。
獏良は声をかけようとして、その横顔を目の当たりにして留まる。邪魔をしてはいけないと思った。大人しく歩み寄り、遊戯の横に立ち、同じく視線を外に送る。
「もうすぐだね、エジプト」
「うん」
できるだけ優しく自然に声をかけた。
遊戯の返事は獏良の想像よりもいつも通り。けれども、ほんの少しだけ目つきが弱々しい。
今度のエジプト行きは、もう一人の遊戯——アテムとの最後の旅になるはず。誰もがそう思っていて、口に出そうとしなかった。表面上は旅行だと盛り上がっているが、寂しくない者がいるはずはない。
二人の間にしばらく沈黙が流れる。
「もう一人のボクは今聞いてないから……」
遊戯はそう前置きをし、
「明るく見送ろうと思うんだ」
少し歪な笑顔を浮かべた。
隣にいる友人は心の整理をしようとしている。
獏良は心にもう一人の人間が住んでいる感覚を知っている。だから、表面的には理解できるところもある。しかし、そこにある関係性は違っていた。どうしても、気持ちに寄り添うことはできない。
友人を前に静かに頷き、気の済むまで共に時間を過ごすことが精一杯だった。

自宅は家主がいるというのに、がらんどうのまま。パズルのピースが欠けているように何かが足りない。
出発の日まで、いつの間にか部屋に増えた物を一つ一つ確認しながら整理することにした。いい加減に前へ進まなければいけないという想いがあった。
使えそうなものは残した方がいいのか、それともすべて処分した方がいいのか。
部屋のあちらこちらを探す。
筆、塗料、カッター、スポンジ、接着剤——。
闇の人格に操られていたときの記憶はないはずなのに、どれも初めて触れた気がしない。思い出そうとしても、ちくんちくんと頭に小さな痛みが生まれる。
『……は、…………器用だ…………』
物置の隅にデュエルディスクと大量のカードを見つけた。すべてを確認したわけではないが、元々獏良が所持していたカードもある。それ以外は見たことのないものばかりだ。
『…………お前だけ……頼む……』
寝室のクローゼットを開けると、見たことない服が目に入った。手に取ってハンガーを外して広げる。新品ではない。何者かが袖を通した形跡がある。黒一色のコート。
『やはり……は最高の…………様……』
コートを手にしたまま、その場に立ち尽くす。頭の痛みと共にノイズが先ほどから聞こえる。遠くから——脳の底にこびりついたような音が聞こえる。美術館のあの場所で意識を取り戻して以来、何かが欠けている。だからずっと言い表せない違和感がある。
「大丈夫?」と友人は訊いた。身体には怪我などなく大丈夫には違いなかった。だから頷いた。
でも、それは、本当に「大丈夫」だったのだろうか。
——本当にアイツは消えちゃったの?。

*****

光も音も通さない深い暗闇の中、昼も夜も関係ない場所で、バクラは地に伏していた。
強烈な光に身体を貫かれ、跡形もなく消し飛ばされたと思った。しかし、奇跡的に消滅を免れ、意識を取り戻したのだった。
身体を起こしたくとも不可能。なにしろ上腕より先がない。肘辺りで途切れ、あるはずの前腕が消えている。人間が肉体を切断された場合とは違い、血液は出ていない。代わりに黒い液体が切断部から溢れている。身体は断面から少しずつ崩れていた。
マリクの闇人格と闘ったときと同じような状況はではある。しかし、あのときは闇に溶けていく感覚があった。闇はバクラそのもの。怯む必要はなかった。
今は激しい痛みと共に腕が蒸発していくよう。先にあるのは完全なる消滅だと悟る。二度と現世には戻れないだろう。
バクラの口端が吊り上げる。視界は霞んでいき、口からは途切れそうな呼吸音が漏れていても、反骨精神は残っていた。
跡形もなく消えていれば、こんな醜態をさらすことはなかった。どうせ助からないのだから、わずかな延命など意味はない。女神も残酷なことをする——。

*****

エジプト行きまで大きなトラブルはなかった。アテムにゲームを仕掛ける者もいなければ、不良たちの争いに巻き込まれることもない。直前になって荷物詰めのことで城之内が泣きついてきたのが困ったくらいだ。
エジプト出発の前日、獏良は家の中を点検して回った。
荷物は既にボストンバッグにまとめて玄関前に置いてあるから、当日になって慌てることはない。
窓にちゃんと鍵がかかっているか、不要なコンセントが差しっ放しになっていないか。郵便物は確認したし、冷蔵庫もほぼ空にした。
何もかも終わり、一息つくために椅子に座る。無自覚に胸元を触り、そこにはもう何もないことを思い出す。
「………………」
もう一人の遊戯の名前は判明した。千年アイテムにまつわる因縁ももうすぐ終わるはず。遊戯についていくのは、決着を友として見届けたいからだ。すべての役目を担っているのは恐らく遊戯であり、獏良にできることはない。
獏良は空振りをした手を開く。そこには何もない。空っぽだ。
——本当にそうだろうか。できることはないのだろうか。
指を折り畳むと同時に目を閉じた。
今や獏良の心は凪いでいる。荒れていた原因はもう取り除かれたのだ。勝手に心の中で別人が居座ることなど二度とないはず。
いや……——。

*****

バクラの精神体は肩まで消滅していた。足の感覚も既に失われている。もしかしたら、足も腕と同じような状態かもしれない。それを確認する余力はもうなかった。
ダメ押しで再生を試みてみたが無駄に終わった。何かあったときの保険に分身体も用意はしていたが、女神に攻撃を受けた時点で消えてしまった。
今できることといえば、死を待つだけ。
どれくらい時間が経ったのかは分からないが、この数年間は三千年の中で一番恵まれていた。自由に動く手足があった。それ以外はほとんどカビ臭い地下にいたのだ。
そういえば——バクラの脳裏に一人の人間の姿がよぎる。その自由を与えてくれた人間はどうしているだろうか。解放されて喜んでいるのだろうか。それとも、操られていたことなど、もう忘れてしまったのだろうか。
肩口がわずかに揺れる。それより先は失くなってしまったから動かせるものはない。それでも失った腕を前へ伸ばすように動かした。
綺麗だった。バクラの知る人間の中では一番。唯一、器になる資格のあった人間は、皮肉にも闇とは正反対の存在だった。
「宿主……」
もう手にすることはできない。命が尽きようとしている中で考えるのはそのことだった。もし、バクラに人間の心があったなら、未練という言葉が当て嵌まっただろう。情に欠ける闇の存在は、ただひたすらに彼のことを頭の中で思い描いた。
「そうだった……。そう呼んでたね」
無の空間であるはずの闇の中で、光の粒が生まれた。粒は瞬く間に数を増やし、人間の形を取る。やがて光の中から少年が姿を現した。
「こんなところにいたなんて。消えたと思ったのに。しつこいね」
「…………宿……主?」
バクラは幻を見るような目で器の少年を見つめた。さも当然のような顔をして目の前に立っている。信じられない光景だ。
獏良は腰に手を当てて深くため息をつくと、
「探してたんだ。僕の心の奥底にいたなんて思わなかったけどね」
光の女神に消滅させられそうになったとき、強い繋がりを持つ獏良の中に辛うじて意識の欠片が残った。運命の女神でも知らない小さな奇跡。ほんのわずかな存在では力もないし、千年リングとの繋がりが断たれた今では獏良の身体を操ることも不可能ではあるが。
本人でも気づけない無意識領域だったから、獏良がここまで辿り着くのに時間がかかった。
「何しに来た」
地に伏した状態でも猛々しい物言い。それでも語尾に弱々しい息が混じる。
「一言言いたくて」
獏良は息を吸い、凛とした声で次にこう言った。
「勝手にいなくなるなんて許さないから」
闇の中でも物ともしない強い眼差しがバクラを射貫く。澄んだ輝きを持つ瞳から目を離せない。
「罪滅ぼしもしないで僕の中からいなくなるなんてズルい。僕が死ぬまでここにいて。それが義務。僕のことを最後まで見ててよ」
「何の拷問だ……」
それでもバクラの顔に拒否の文字はなかった。少し眉尻を下げて厳しい顔つきの中に親しみめいた表情が生まれる。
獏良はわずかな表情の差異を読み取り、微かに笑い、
「僕が許す。僕の中にいることを」
肩から溢れる黒い液体が止まり、切断部が光に包まれたかと思うと、失ったはずの腕が形を取り戻した。
心の中は自由だ。本人が認めれば何でも存在する。それゆえに戻せるのは魂の形だけで特別な力までは戻ってこないけれど。
バクラは手を握り、動くことを確認したところで、ゆっくりと立ち上がろうとした。そこへ手が差し伸べられる。
「明日からエジプトへ行くんだ。一緒に行こう?」
「拒否権ねえじゃねえか」
軽く弾くだけでそれには掴まらずに立ち上がった。
「お前の故郷なんだよね?見たい。案内してよ」
「今の地理なんざ知らねえよ」
そう憎まれ口を叩く顔には険はない。

翌日、獏良は晴れやかな顔で荷物を持って家を出た。
昨日までの憂いはもうない。
王の決着を見届けに少年と盗賊の魂の欠片がエジプトへと旅立つ。

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永遠にそばに……。 バクラに罰を与えたり許す権利があるのは獏良だけだと思っています。

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