ばかうけ

長い夢から目覚めたようだった。頭の霧は晴れ、すっきりと冴えている。身体には少しの倦怠感。
遊戯たちの話を聞きながら目の前にある大規模なジオラマを凝視し、頭をゆっくりと横に振る。意識は覚醒しているというのに、ある期間の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。
「君がこのジオラマを作った」と言われても、まるで実感がない。目覚めたときに夢の内容を忘れてしまったときの感覚に近かった。
遊戯たちは言葉を濁しているが、意識を失っている間に大分迷惑をかけたのだろう。状況がそれを示していた。
俯いて「ごめん……」と言うと、励ましの声が返ってきた。
「もう闇の意思に怖がらなくてもいいんだよ」
「ああ。あんな奴、オレたちが倒したからな!」
獏良の表情は少しだけ緩んだものの、暗いままだった。さらに遊戯たちが口を開きかけたとき——。
「何をしてる?!」
警備員が物音で気づいたのか、獏良たちのいる美術館の隠し部屋まですっ飛んできた。

騒ぎを起こした少年たちの中にオーナーの息子がいると知った警備員は、振り上げたこぶしを下ろし、ひとまず雇い主に連絡を取り始めた。
連絡を受けた獏良の父親は、別の仕事場から三十分もかからずにやって来た。
息子の顔を見るや否や、「お前はなんてことを——」と怒りの形相で口を開く。
その瞬間、遊戯と城之内が間に入った。
「親父さん、すまねえ!オレらが部屋を使わせてくれって頼んだんだ!」
「獏良くんのせいじゃないんです!」
父親は勢いに呆気に取られ、口を閉じる。他人の子を怒鳴りつけるわけにはいかず、声の調子を落とし、
「……分かった。君たちは遅くなる前に帰りなさい。親御さんが心配する。安心しなさい。君たちの友人は叱られることはない」
大人としての落ち着きを見せた。
言葉に従い、遊戯たちは大人しく出口に向かう。最後まで獏良の様子を気にしながら。
父親は獏良にも同じように帰宅を促したが、
「僕も片づけ手伝うよ」
と部屋に残った。

美術館のスタッフから二名が加わり、部屋の片づけが始まった。大がかりなものは力のある若い男性スタッフが運び出していく。
獏良はジオラマを遠い目で見つめながら、解体していった。
「良い友人を持ったな」
父親は獏良の隣りに立ち、ジオラマを見下ろした。
「お前は昔から器用だったが、いつの間にかこれほどまでになっているとはな」
民家の一つを持ち上げ、眼鏡の縁を触りながら色々な角度から仔細を確認する。
「せっかくだから一部を展示に使ったらどうかとスタッフから進められた。私もそれが良いと思う」
「うん…………」
獏良の返事はどこか他人事だった。記憶がないのだから当たり前だ。父親は少し不思議そうな顔をしてから言葉を続ける。
「昔はエジプトにも行ったなあ」
「うん、そうだね」
「そのときの町並みを参考にしたのか?」
「うん……。そう……かも……?」
まるで自分に問いかけるような言葉。獏良は一呼吸置いてからもう一度、
「……参考にしたんだ。そう……」
今度は念を押すように言った。瞳に何かしらの感情が宿り、目元に皺を作る。視線の先にはジオラマ。
その会話を最後に獏良は黙々と作業を続けた。

夜の七時を過ぎ、さすがに父親が獏良を止めた。
タクシーを呼ぶという父親に、「買い物をしたいから」「スーパーに寄ったら、すぐ家に帰るから」と言い訳をし、獏良は徒歩で帰ることを選んだ。
照明で輝くショーウインドウを横目に街頭が照らす大通りを歩く。華やかで騒々しい雑踏が獏良を落ち着かせる。
情報の波がいっぺんに押し寄せ、様々なことが頭をよぎり、疲れ果てていた。
もう一人の遊戯の本当の名、過去が再現された世界、大邪神との闘いの決着——。
数年分にも匹敵する内容だった。
とても意識のない間にあったこととは思えない。しかも、自分の中に潜む人物がしでかしたこととは。
獏良はふらふらと足を引きずりながら歩く。一人暮らしの家に帰るのが怖かった。
静かな家では考えることが多過ぎて頭がパンクしてしまう。
だから、父親の申し出を断ったのだ。スーパーになど寄っていない。タクシーに乗ってしまったら、問答無用で家に直帰する。方便だった。
少し遠回りをして夜風に当たり、頭を冷やそうと思った。

疲れからか下瞼がぴくぴくと痙攣した。目を強く閉じ、力を加える。頭に響くのは、もう聞けない声。
『安心しな!オレは心を入れ換えたのさ』
『また助けてやろうか?』
『大丈夫だ。お前は何も心配することはない。しばらくの間オレが変わってやるから休みな』
『長く生きたからな。成仏してぇんだよ』
ペガサス島で助けられて以降は耳障りの良い言葉ばかりを吐かれた。獏良にとって都合が良すぎた。
今思えば、どうしてすべてを信じてしまったのか。千年リングの影響があったのかは分からない。
とにかく最近ではバクラに絶対の信頼を置いていた。
——全部嘘だったんだね……。
獏良の中に虚無が渦巻く。もう罵ることも殴ることもできない。怒りをぶつける相手がいない。
唇がわなわなと震える。引き結ぼうとしても堪えきれなかった。それは、嗚咽という形になって出た。
遊戯たちが語ってくれた話は真実だと、冴えた頭では容易に理解ができる。千年リングの呪いから解放されて助かったのだ、と。しかし——。
どうしようもない喪失感が獏良を襲うのだ。
なぜ責めさせてもくれないのか。勝手に消えてしまうのはズルい。なんで、どうして。一人にしないで。寂しい——。
整理のつかないぐちゃぐちゃとした感情に支配される。
——最後に一目だけでも会いたかった。どこに行っちゃったの……?
歩道のわずか数ミリ程度しかないタイルの隙間に躓く。よろけて数歩たたらを踏み、助けを求めて反射的に手が伸びる。
名前を知らない店のショーウインドウに左の手のひらを突っ張り、転倒を阻止した。
——バカみたい……。
それは今の間抜けな姿のことなのか。それとも、闇の存在に心を許してしまったことなのだろうか。
窓に映るじわりと涙を浮かべた顔は、どうしようもなく情けなかった。
その瞬間、一台の大型トラックが道路を走り抜けた。
立ち止まった獏良を悠々と追い越し、ピカッと強いヘッドライトを浴びせて直進していく。
ほんの一瞬。獏良は息を飲んだ。ライトに目が眩む直前、窓にあり得ないものを映し出していた。
自分のもののはずの目がつり上がり、口元には不適な笑み。もう存在しないはずの姿。
強い光に目を閉じ、次に開いたときには記憶通りの自分の顔が窓に映っていた。
縋るように顔をガラスに近づけても、情けない表情が映るだけ。
また背後から車が通った。今度は赤い乗用車。同じようにヘッドライトが照らすも、今度は鏡像に変化はなかった。
——見間違い?
あの闇の住人は消滅したはずだ。いるはずがない。第一、千年リングをもう身につけていない。
獏良はしばらくショーウインドウの前に立っていたが、店に迷惑になると判断して諦めた。離れる際にもう一度ガラスに映った自分の姿を見て、表情は違っても同じ造形をしていることに気づき、当たり前のことに声なく笑った。
なぜ失念していたのたか。同じ身体を共有していたから当然だ。
きっと自分の顔を鏡に映す度に彼を探すのだろう。ガラス、水たまり、金属——自身の姿を反射するものを見たときに彼に会える。彼はずっと獏良の中にいるのだ。
獏良は今度こそショーウインドウを離れ、自宅を目指した。
目抜き通りの店の明かりが消えていく。やがて街頭の明かりだけが夜道に残された。時折、車のヘッドライトが速く通り過ぎる。道を往く足取りはもう重くない。

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亡くなった人はずっと生者と共に生き続けます。

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