ばかうけ

獏良は部屋で分厚い図鑑を読んでいた。マットが敷かれた床に座り、身体の向きは壁に向かっている。そこへ母親が背中へ声をかけた。
「了ちゃーん、そろそろお風呂の時間よー!」
獏良は絵本を閉じて顔を上げる。
「はーい」
物分かりがいい返事。絵本は本棚へ。タンスから服や下着を取り出す。服類は母親が洗って綺麗に畳んでいるから分かり易い。風呂と就寝の準備をきっちりとしてから洗面所へ向かう。
――ほんとに手がかからない子。
母親はそんな幼い息子を見ながら顔に出さずに思った。あれくらいの年の子って、あんなにしっかりしてるもの?
その疑問には答えがない。もしかしたら、あとから酷い反抗期が来るのだろうか、と頭を捻る。
それほど獏良は親を困らせたことがなかった。教えたことはすぐできるようになる。問題があっても自分で解決ができる。家では静かに一人で遊んでいる。
母親はあれこれ考えても、「まあいい子なんだから、悪いことじゃないわ」といつも結論づけて終わる。
獏良には「兄」が常についていることなど露ほども知らなかったのだ。

Dear My Brother

その存在を獏良が認識したのは、物心がつく前。年の離れた「兄」。気づけば、いつもそばにいたから、隣にいるのが当たり前だった。親があやす必要もないほどに構うので、瞬間的に泣くことはあっても、長く続くということはなかった。
違和感に気がついたのは幼稚園くらい。両親が兄に話しかけたことはない。獏良が兄と話していると変な顔をする。そんなことが続き、獏良は幼いながらも一つの結論に達する――兄は他の人には見えないのだ。
それからは人前で兄に話しかけたり、遊んだりするのをやめた。両親は幼児特有の一過性のものだと判断したのか、獏良の態度を疑問には思わなかったようだ。

「お兄ちゃんはユーレイ?」
「そんなモンかねェ」
兄は空中にふわふわ浮いてあっけらかんと言った。
獏良と同じ色の長髪に細い身体、鋭い目、口元にはいつも歪な笑みを浮かべている。見た目は十代後半。
彼は物知りで、獏良に様々な話を披露した。遠い昔の王の話、罠が張り巡らされた遺跡の話、不思議な力を持つ秘宝の話――。どれも魅力的で獏良を惹きつける。
小学校入学間近になって与えられた自室で、寝る前に話を聞くのが日課になった。獏良が誰よりも懐くのは必然だった。
幽霊は身近な存在になった。人間よりもずっと。獏良にとっては怖がるものではない。
他の超常的な存在も同様だ。悪魔、妖怪、魔物、宇宙人――。図書館で関連の本を借り、こっそりと読んだ。獏良をわくわくさせてくれる楽しい時間だ。

学校の授業で分からないこと、友人との悩み、コンプレックス……人には打ち明けづらいものを含む内容を真っ先に相談した。兄の答えは正確だったからだ。
友人や家族と上手く行かずに自室で涙ぐんでいると、兄が優しく慰め、獏良に寄り添った上で前向きになるように促す。
テストで点をとれなかったとき、「今回は点数で結果が出せなかっただけだ。お前の努力はオレが知ってる。今度はいい点が取れるぜ」と言って復習を手伝う。
両親から見た獏良はずっと「手のかからない息子」だった。本当は容姿に恵まれたこと以外は平凡な子どもを兄がべったりと面倒を見てるだけのこと。
結果として、獏良は一般的な人間が持っているであろう競争心や野心というものを持たずに育った。

兄のことを母親に訊いてみようと思ったことはある。その頃になると事情を察することができる年になっていて、尋ねることが両親を傷つけることになるかもしれないと踏み切れなかった。「兄」が本当の意味で兄だとしたら、獏良家で亡くなった子どもということになる。質問が両親に悲しい想いをさせるかもしれない。わざわざ傷口に塩を塗るようなことはしたくない。
獏良は疑問に蓋をすることにした。いいじゃないか、兄は兄で。獏良にとって大好きな兄であることに変わりはない。

中学生になると、獏良の世界は広がった。新しい友人、新しい環境、初めての制服。クラスに上手く馴染めて、友人を家に呼んでボードゲームをするようになった。中学生になると、親の目が少し離れる。自分で菓子やジュースを用意して友人を迎えるのは大人になったような気分だ。帰りにコンビニへ寄って買い食いしたり、友人の家へ遊びに行ったり。あまりにも楽しくて兄と喋る時間が減ってしまうのも仕方のないこと。
獏良にも罪悪感はある。ベッドの中で謝ると、「気にすんな。お前の好きにしてろ。たまにこうして話ができるだけでいい。オレはいつもお前を見守ってるぜ」と兄は決まって言うのだった。
それから異変があったのはしばらくあとのこと。身に覚えがないことで獏良は学校に居場所がなくなった。無実を証明する材料がない。加害者の烙印を押されることもないが、針のむしろだ。
そんなときも兄だけは獏良の味方になった。
「大丈夫だ。お前は何もしてない。オレが味方になってやる」
自室で膝を抱える度に優しい言葉を投げかける。
その後は何回も転校を繰り返し、徐々に獏良は追い詰められていった。嫌な噂が獏良につきまとい始め、環境を変えてもすぐに駄目になる。家族との関係も破綻していく。そんなときに兄から説得されて一人暮らしをすることにした。家族とは一度距離を置いた方がいいという意見だった。
家族といると息が詰まる状態まで達していたので、勧められたときは肩の荷が降りた気がした。
兄に支えられながら新しく通った童実野高校では何も起こらなかった。親しい友人ができ、また獏良に笑顔が戻った。見捨てずにいてくれた兄のお陰だ。

もう二年の後半。そろそろ進路について考えなければならない。今まで他の問題で手一杯だっただけに、獏良は決定が遅れていた。進路によっては時間切れになる場合がある。進路調査票に視線を落として憂鬱そうな顔をする。
小学生の頃なら、迷いなく骨董商として働く父親と同じ道を答えたはずだ。今は獏良の考え方は変わりつつある。どうも商売よりも創造の世界が向いているらしい。造形の道に進みたいが、父親のコネがある道を捨て切れない。親族たちは父親の後を継ぐと信じて止まないから、ますます迷う。
教室で唸る獏良に声をかけたのは、新しくできた友だちの遊戯たち。慌てて机の中に調査票を押し込んで輪の中に入る。遊んでいる間は将来のことを考えずにいられた。

放課後は図書室に寄り、進路・進学関連の目についた本を選んで借りた。商売か創造か選びかねているから両方ともだ。選択によっては早く動き出さなければならないから焦る。
獏良は鞄に本をしまい、憂鬱な溜息をついた。ストレスが溜まったときは無心でフィギュア作りをすることに限る。帰りにホビーショップを見に行ってもいいかもしれない。
西日が射す廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「お前は確か転校してきたばかりの新入りかぁ……」
角刈りのジャージ姿。筋肉質の男が威圧的な態度で獏良を睨んでいる。
「はい……」
童実野高校に通い始めて日が浅い獏良は、答えながらも記憶の中にある教師の顔を探す。
「モテるそうだな。ガキの分際で色気づいてんじゃねーぞ!」
体育教師の刈田だと思い出したときは、後ろ髪を捕まれていた。
「あ……イッ」
教師は顔を歪めて意地悪く笑う。生徒の指導というより獲物をいたぶるものの顔だ。
「前の学校じゃ色々ワケありだったらしいな」
獏良は一瞬驚いた顔になってから青褪める。感情を抑えるために唇を噛んだ。
「ココでもそうならないといいなぁ?」
悪意に満ちた言い方だった。それまで忘れようとしていた負荷が獏良の中に甦る。もしかしたら、また転校しなくてはならないのか。
後頭部に重みを感じ、視界が回転する。目眩に似た感覚。そのまま意識が遠退く。なぜか聞き慣れた笑い声がそばで聞こえているような気がした――。

意識を取り戻した場所は、自室だった。机の上に突っ伏していたらしい。周囲を見渡して混乱する。学校にいたのでは?
とすると、教師に捕まったのは夢の中の話なのだろうか。まだぼんやりする頭で獏良は考える。夢にしては随分と明瞭な内容だった。髪を引っ張られた痛みは現実的でもあった。
それとも、記憶にあるのはすべて事実で、帰宅までの道のりが何らかの理由で欠落しているのか。
いくら考えても答えは出ず、しまいには無理に思い出そうとしたことで気分が悪くなって諦めた。
明日学校へ行けば分かるかもと思うことにし、ベッドに横になる。
実際に獏良の希望は叶うことになる。ただし、最悪の方向で。

*****

「えっ!刈田先生が入院?!」
獏良の顔から色が失くなり、五感の機能が鈍くなる。教室の喧騒が遠い。視界がぼやける。
異変に気がつかない友人たちにとっては他愛もない世間話の一つ。担任でもない教師では関心が薄いらしく、興味なさそうに感想を二つ三つ述べて終わる。
「どうせ拾い食いでもしてたんだろうよ」
すぐに昨日行われたスポーツの話題に切り替わる。獏良だけは前の話題が頭から離れない。
――入院ってもしかして……。
その後の授業は気もそぞろで、ほとんど内容の記憶はない。黒板の文字を機械的に写しただけ。放課後は友人の誘いを断り、自宅に直行した。
心臓の鼓動が速い。胸元を掴んで乱れた呼吸を繰り返す。手が勝手に震えだしていた。過去の記憶が獏良を苛める。

『お前のせいなんじゃないか?』
『お前と親しくしたせいでアイツは……』
『呪われてるよ、お前』

喉をせり上がってくる猛烈な吐き気に堪える。口元を抑えると、身体が前後に揺れる。いつの間にか目元が濡れていた。
「おいおい、大丈夫か?」
兄が姿を現し、心配げに獏良の顔を覗き込んでいる。
その馴染んだ声に少しだけ吐き気が治まる。幼いときのまま縋りついて泣き出してしまいそうだった。
「兄さん、僕また……」
湿った声で学校で起こったことを話す。兄は黙って頷いていた。話が終わると、いつもの落ち着いた態度で言う。
「そうか。お前は悪くねえだろ?堂々としてろ。仮にまた噂が流れたとしても、オレがついてる」
やはり獏良が欲しかった言葉を的確にくれる。身体は触れられなくても、優しく包み込むような物言いは、それに匹敵するものがあった。
「そうだよね……。僕には兄さんがついてるもんね」
指で涙を拭い、兄の存在に感謝した。
「そんなことでお前の人生を狂わせるわけにはいかねえ」
獏良は「うん、うん……」と肯定しながら、気持ちが和らぐのを感じた。いつだって兄は味方でいてくれる。
「進路のこともあるし、別のことで悩んでる暇ないよね」
「そうだ。お前にはもっと大切なことがある。早く造形専門の志望校を絞らないとな」
もう一度頷こうとして、獏良の時間が止まった。飲み込もうとした言葉に小さな違和感がある。
獏良の危機意識がそうさせたのかは分からない。ただの偶然かもしれない。いつもは肯定して受け入れていた言葉を脳内で再生した。
ぐらり――。
足元の感覚が失くなる。目の前で優しく微笑んでいるのは兄。いつも無条件でくれる笑み。獏良にとって完璧なはずのそれに陰りが見えた。
獏良は上下に張りつく唇を無理やり抉じ開けて兄に問う。
「ね……ねえ、僕言ったっけ?」
「ん?」
「進路のこと……」
一瞬の無言。兄は手のひらを上に向けて表情を変えずに答える。
「最近悩んでただろ?オレにはお見通しだ」
獏良は言葉を詰まらせて首を横に振る。足が勝手に半歩後ろに下がった。
確かに最近は進路のことで悩んでいた。しかし、二つの道のどちらに進むのか、という入口からまだ動けないでいたのだ。
自分でも結論が出せない答えをなぜ知っているのだろうか。口にも出していないのに。当然のように語るのはなぜか。まるで無意識の領域――心の奥底を覗いているよう。
背筋が凍る。初めて「兄」という存在に疑いという感情を持った。生まれたときからずっとそばにいる彼に対しては思考を放棄していた。
――兄は本当に兄なのか。
呼吸が苦しい。閉塞感がある。何度か喉を震わせ、やっと掠れた声が出る。
「あ……。に、ぃさんは本当に兄さん……なの?」
まるでノーという答えを待つような祈るような問いかけ。兄の眼が柔らかい弧を描いて細くなる。見慣れた笑みに獏良は胸を撫で下ろす。長年育んだ信頼は染み着いていて、兄の一挙手一投足に獏良の感情は作用する。
兄はそれを打ち消すように低い笑いを漏らした。唇が歪んだ半月を描いて鋭い歯を見せる。
「――オレが兄だって一度でも言ったか?」
笑いを堪えながら返す言葉に獏良の頭が真っ白になる。
「えっ?あ、う……」
「彼」はますますおかしそうに笑う。状況的に場違いだった。獏良との温度差がその笑いの異様さを引き立てる。
「あー……そのツラ最高。もうちょっと引っ張ってもよかったなァ。ククッ」
獏良の両目に涙が滲む。頭で理解するよりも早く身体が反応を示していた。
「あーあ。かっわいそうに」
彼の反応はまるで他人事。獏良の顔を見つめて、大袈裟な身振りで同情の意を示す。それだけに心が籠っていないことは丸分かりだ。
「じゃ……じゃあ、誰なの……?」
か細い今にも消えそうな声で獏良が問う。
「……お前に免じて教えてやるか。オレはお前に寄生するただの厄介者さ。お前はオレの手となり足となる存在。残念だったなァ、『宿主』サマ」
なおも哄笑を続ける彼を獏良は呆然と見ていた。嘘?あれもこれも??冗談だと言って欲しい。だったら、今までのことは何なのか。信じていたものは、ありもしないものだったというのか。
前触れもなく足元が崩れた獏良には為す術もなく絶望の縁へと立たされる。そうやって心を折られた少年は、完全な人形になる。すべて寄生する彼の望み通り。薄気味悪い笑い声がいつまでもこだましていた。

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スタートは違ってもゴールは同じ。

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