ばかうけ



バクラは授業だというのにノートを開きもせずに、前の方にある空席を見ていた。
担任は欠席した獏良のことを体調不良だと言っていた。
あれほどのヒートを起こしていたのだから、それは納得ができる。
なぜΩがαのふりをしていたのか、なぜチョーカーをしていなかったのか。バクラの中に幾つかの疑問が浮かんでいる。
バクラを引き寄せていたフェロモンは獏良のもので間違いない。鼻が利くバクラが分からなかったのだから、相当正体を上手く隠していたのだろう。
会って聞き出したいことが山ほどある。明日は登校するだろうか。
バクラは眉間に皺を寄せる。自分に少し腹が立っていた。不機嫌に鼻を鳴らしたことで前の席に座る生徒の背中がビクリと震えた。
獏良がΩだと気がついていなかったが、本能では反応していたのだと思う。接しているときにイライラとしていたのは、獏良が「運命のつがい」だったからだ。思い返せば、無意識にいつも目で追っていた。
自分の内側から発する信号を無視していたことが許せなかった。あんなに欲していた香りの持ち主はすぐ近くにいたのに。
バクラは視線を落とし、大きな絆創膏が張られた手の甲を見る。獏良の首に噛みつきたくなる衝動を抑えるために自らの手を噛んだ。流れる血を見た保険医は手当てをしたがっていた。しかし、バクラはヒートを起こした獏良の近くにいるとよくないと判断し、拒否をした。実際、それほど深い傷ではなかった。
本能に抗ったのは、昨日が初めてのことだ。それほどΩのフェロモンはαにとって強力だ。
獏良と話をしなくては、と思う。それ以上にちゃんと顔が見たい。今まで揉めるばかりで向き合ってこなかったから余計にそう思う。かなり具合が悪そうだったが、体調はどうなっただろうか。登校はいつするのだろうか。
授業が終わっても、バクラの視線はしばらく空席に注がれていた。



突然の発情から二日後、獏良は緊張の面持ちで制服に袖を通した。学校では「獏良はαではなくΩだった」という噂が広まっているかもしれない。第二性の違いだけで世界が一変してしまう恐ろしさを知っている。今まで好意的に見てくれていた女子たちも手のひらを返すだろう。
身を守るためとはいえ、嘘はついてはいないとはいえ、結果的に騙していたことには違いない。獏良の口からは勝手に陰鬱な嘆息が何度も零れ落ちていた。
通い慣れた通学路を一人で歩く。いつもと変わらない朝の様子。早足で駅に向かうサラリーマン。開店準備をする商店街の店主。バス停で談笑する学生たち。獏良は硬い表情でそれらの横を通った。
校門を通り抜けるとさらに緊張が増した。いつもは玄関に辿り着く前にファンクラブを自称する女子生徒に囲まれる。今日は誰からも声をかけられない。
少しだけ普段とは異なる事態に動揺する。昨日欠席しているのだから、女子たちが待っていないことも頷ける。獏良は落ち着くためにそう理由づけをした。
スニーカーから上履きに履き替え、階段を上がる。廊下を進み、賑やかな声が漏れている白い引き戸を前にする。
ごくりと唾を飲み、冷えきった指を取っ手にかけ、恐る恐る戸を開く。ガラガラガラ——。
教室が一瞬静まり返る。獏良が戸口に立ったまま足を踏み出せないでいると、
「獏良くぅん!」
クラスメイトの女子が猫なで声で近寄ってきた。
「心配したんだよ。急病だって?もう大丈夫なの??」
同じように数名も席を立って、口々に獏良に声をかける。
「獏良くん、繊細だもんね」
「今日も休みかと思ってた。無理しないでね」
「具合悪くなったら言ってね」
いつも通りの女子たちの様子に獏良は目を瞬き、「大丈夫、大丈夫だよ」と繰り返した。彼女たちの言葉からすると、獏良がΩだということはまだ知られてないらしい。
包囲網を何とか抜けて席につき、教室の様子を見回した。クラスメイトは各々の会話に夢中になっている。誰も獏良のことを気にしていない。信じられない状況に呆然としつつ、心の底では少しホッとした。
遊戯に昨日の顛末を尋ねてみようかと思い立ったときには、朝礼の時間が迫っていた。浮かしかけた腰を下ろす。朝礼が終わったら、隣のクラスに顔を見に行きたい。
長々話す時間はなくても、登校したことは伝えられる。一昨日から心に余裕がなくて携帯で連絡すら取っていない。急に早退したから心配させてしまったかもしれない。
つらつらと考え事をしていると、教室の戸が開き、機嫌の悪そうな顔をしたバクラが入ってきた。
獏良は咄嗟に立ち上がるが、チャイムがそれを阻む。生徒たちが席に着こうと慌ただしく行き交う。それを縫ってバクラに近づき、
「あとで……!あとで、休み時間に話したいことがあるっ」
急いでそれだけを伝えると、ほぼ同時に担任の教師が教室に入ってきた。獏良も小走りで自分の席に戻る。
一瞬しか顔を見られなかったからバクラの反応は分からない。気のせいでなければ、背中に視線を感じる。もしかしたら、獏良の第二性について上手く隠してくれたのかもしれない。だから、校内で倒れたというのに噂が広まらなかったのだ。言い触らされてもおかしくはなかったのに。だったら、ますますお礼を言わなくては。獏良は教師の連絡事項を上の空で聞き流し、休み時間を待ち遠しく感じていた。



結局のところ、二人が落ち着いて話せるのは昼休みということになり、時間になると屋上へ向かった。風は少し冷たいけれど、太陽の日差しが暖かい。白い髪を靡かせて獏良はバクラに話を切り出した。
「僕のこと助けてくれたって保健の先生から聞いた。あのときのことはよく覚えてなくて……」
「もう身体はいいのか?」
「うん。一時的なもので、病院でも検査したから大丈夫みたい。……あの……」
言葉がふつりと途切れた。視線は宙を彷徨い、唇は思うように動かない。昨日から決意していたとはいえ、面と向かうと決まりが悪い。獏良は息を深く吸うと改めて考えていた言葉を口に出した。
「ありがとう……。僕を助けてくれて。これだけはちゃんと伝えなきゃと思ってて……。あのとき助けてもらえなかったら、もしかしたら……」
緊張のためか少し声が震えていた。最後に言葉が詰まり、上手くその先は言えない。
伏し目がちだった顔を上げてバクラの様子を見る。はっきりとした視線が注がれていることに驚き、また視線を逸らす。
バクラが静かに口を開いた。
「お前、Ωだったんだな。つがいがいない状態で『それ』は危険なんじゃないのか?」
それは獏良が今までに感じたΩへの不躾な視線たちとは違った。実直そのもの。いつもとは異なる表情に飲まれる。彼はもっと粗暴で短慮だったのではないか。それとも、自分が知らないだけで、これが「素」なのか。
いずれにしても、第二性について訊かれることは予測していた。だから、用意していた簡単な説明を伝えるまで。それでも獏良は少し緊張しながら口火を切った。
「昔はつけてたんだよ。検査で分かったときからね。でも……——」
躊躇いながらΩということで受けていた差別と被害について打ち明ける。αに襲われたことは濁した。自分でもまだ受け止められてはいない。
恐ろしくて首輪はつけられないことも、身を守るためにαのふりをしていることも、打ち明けた。
「僕のこと黙ってくれてたんだね。また転校しなきゃって思ってて……ッ」
獏良の声が途中で消える。感情が理性を上回った。勝手に目の縁に涙が溜まり、視界が揺らぐ。鼻の奥がツンと鈍く痛む。言い様がない感情が心の底から滲み出た。頭では泣くような場面では分かっていても、どうしようもできない。
「ごめん。いきなり。こんなの嫌なんだっ……。どうして僕はΩなんだろうッ」
声を震わせて悲しみを吐露した後、掌底で眼を押さえる。感情を言葉として吐き出すと、少しだけ冷静さを取り戻せた。予定になかったことまで話してしまった。こんなことを言われてもバクラは戸惑うだろう。鼻を啜って落涙しないように耐えた。
「無理だろ。ずっと周りに隠したままでいるのか?そんなん無理だってお前が一番分かってるんだろ?」
無愛想な声が獏良に向けられる。動揺の最中での胸が締めつけられる言葉。獏良が無意識的に逃げようと強く目を閉じたところで、
「なら、オレが守ってやるよ。αが怖いってんなら同じαを頼れ。このオレ様に勝てるαなんざいない」
予想外の言葉に獏良は唖然とした。泣くことを忘れ、バクラを凝視する。今までこんなことを言うαがいただろうか?
「お前は今まで通りにしてろ。オレに任せろ」
バクラは口を横に広げて不適に笑う。今まで獏良が厄介だと認識していた存在が急に頼もしく見える。まだ言葉をかけられただけなのに単純ではあるが、信頼という心情を思い出したのは久方ぶりだった。それほどバクラが心強かった。
言葉を紡ぐ前に自然と獏良の頭が縦に動く。それを見たバクラは満足げに微笑んだ。

運命のΩである獏良に近づくという打算はバクラに勿論あった。しかし、苦しげな獏良の顔を見ていたら、心の底から湧き上がる感情に突き動かされ、何とかしてならなくてはと口が動いていた。打算よりも先に、だ。
それがαとしての本能なら、性質を認めることを厭わない。ただ一人のΩを守れるのならば——。

*****

それから、バクラは約束通り獏良を影で支えた。例えば、体育で他の生徒と組む流れになれば、自然に遊戯と組むように仕向ける。発情期が近くなれば、獏良が一人になれるように取り計らう。保健室に連れていくこともあった。すべて周りに気がつかれないように率先してバクラが動いたのだ。
三ヶ月間そうやって過ごし、獏良はαの協力者のお陰で今までになく落ち着いた時間を手にすることができた。
守ってもらうだけでは申し訳ないので、毎日の弁当を一人分余計に作り、バクラに渡すことにした。
以前にお礼を買ってこようとしたときは本人に止められてしまったので、弁当という形で落ち着いた。
そのまま教室で渡すとクラスメイトにバレてややこしくなる。獏良は昼休みになるとバクラを屋上へ呼び出すことにした。そうすると、その場で食べた方が収まりがいい。二人は自ずと並んで昼食を取ることになった。
そこで交わす昼休みの間だけの短い会話は、互いのことを知るきっかけになった。
優遇されているαもΩの獏良には見えない苦労があることや彼らはただの野獣ではないこと——など。
バクラの意見を聞くと、獏良の世界が広がっていった。今までΩだから辛いと蹲っていた。それなのに、いとも容易く目から鱗が落ち、すんなりと第二性について受け入れることができた。
美味いと言ってバクラが弁当を頬張る姿を見て、まるで初めてαもβもΩも同じ人間なのだと、知ったかのようだった。



獏良は空の弁当箱に箸を置き、ふうと息を吐いて空を見上げた。真っ青の澄み渡る景色が目に映る。夏服だった制服は冬服になり、日差しは柔らかい。バクラが転校してきたときは、ギラギラと強い光が降り注ぎ始めた頃だったか——。
「あのさ……」
「——ん?」
バクラは口をつけていたペットボトルを離し、獏良の横顔に視線を移す。
「君はつがいが欲しかったんだよね?その……僕は遊戯くんともアテムくんとも友だちだから、仲を取り持つことはできないけど、遊戯くんと話す時間くらいは作れるかも……。ちゃんと話して——」
考えながら言葉を紡いでいた獏良は、隣にいるバクラの様子に遅れて気がつき、目を瞬いた。
手で目元から額を覆って項垂れている。もう片方の手はペットボトルを掴んだまま。指先に力が入るのか、茶が入った透明な容器はベキョという奇妙な音を立ててひしゃげた。
「——嘘だろ……」
バクラの口から零れ落ちた小さな声は、獏良の耳には届かない。怪訝そうに首が横に傾くだけ。
「なに?」
「確かに最初はそうだったが……いや、この数ヶ月何も感じねえとかありえねェだろ……!」
「え?え?」
勢いよくバクラの口からついて出る言葉の数々。その意味が伝わるはずもなく、獏良の困惑は増すばかり。
バクラは獏良に顔を近づけ、鮮やかな緋色の瞳で捕らえた。
「オレがシンセツな奴に見えるか?お前じゃなきゃここまでしないって言ってんだよ」
数秒の間を置いて、獏良の顔がみるみる赤くなっていった。口が震え、目が潤む。ごくんと唾を飲み込んでから、何とか声を絞り出した。
「な、なん……もしかして……」
「ようやく気づいたか」
そう言うバクラの顔は少し意地の悪い笑顔をだった。

*****

獏良はベッドでバクラの服に埋もれてうっとりと過去の記憶に浸っていた。
高校の頃に告白をされてから一ヶ月後に二人は付き合いだした。それまで二人っきりになる場面は多かったのに、獏良は一度も身の危険を感じなかった。それが根底にあったから、αとの交際でも受け入れることができたのだ。
さらに一ヶ月が経ち、二人はつがい関係を結んだ。バクラによると、「オレは王様みたいに優しくねえからな。欲しいもんを前に待つのは無理」だそうだ。
発情期に互いのフェロモンを感じた上での交わりは刺激的だった。今まで堪えていただけに陥る思考が飛びそうになるほどの感覚。昂る中でゆっくりと歯をうなじに当てられたときには、目から火花が散ったかと思った。
一生に一度しか味わえない悦び。それでも、以降のバクラとの交わりが劣っているわけではない。初めてのときの感覚は獏良の中に染みつき、発情する度に思い出す。
つがいができたことにより、獏良はバクラ以外の人間にフェロモンを出さなくなった。お陰で自由に生活ができるようになった。子どもの頃ぶりだ。もう怯えなくてもいい。背後を気にしなくていい。道を歩くだけで晴れ晴れとした気分になる。バクラの存在によって安寧がもたらされたのだ。
時間を経るごとにバクラへの愛情は深くなっていった。よく愛情は最初の頃より減少していくもの、と一般的にいわれるが、獏良に関しては逆だった。「運命のつがい」は、本当にあったのだと、今の獏良は確信している。
発情期が近づくと身体も心もバクラを渇望する。いてもたってもいられなくなり、クローゼットやタンスからバクラの衣服を取り出して抱きしめる。バイオリズムにより重い身体をベッドに沈め、周りをバクラのもので囲う。香りに包まれると、とても安心する。夢見心地になるという表現が正しいのかもしれない。
下腹がきゅうきゅうと疼く。それほど好きなのだと実感ができて、また幸せの波に飲まれる。それの繰り返し。
学生時代の苦しかった時間は、今の幸せが塗り潰してくれた。第二性を認められなかった頃が嘘のよう。
本人がいないところで勝手にやってはいけないことと思っていても、本能は止められない。これがΩの生態の一つ、巣作り。つがい相手が身につけているものを集めて鳥の巣状にすることを俗にこう呼ぶ。ホルモンの関係などを原因として指摘されているものの、医学的には明らかになってはいない。
獏良にとっては他人事で、情報としては知っていたが、どちらかというと眉唾物に近い現象として分類していた。それがまさか自分の身に起こるとは思っていなかったのだ。
獏良は衣類の中で夏用の白いシャツを手に取り、鼻へ近づける。心地のよい香りが鼻腔まで届き、蕩けそうになる。どんな花や香料よりも獏良にとっては素晴らしい香りだ。シーツの上で足を縮めて、うっとりと自分の世界に浸る。このときばかりは、世界で一番幸せものだと思える。
獏良がベッドで忘我のひとときを送っていると、携帯の短い着信音が鳴った。携帯はヘッドボードの上にある。
横たわったままで億劫そうに獏良の手が伸び、指で位置を探り、堅い感触がしたところでそれを掴む。眠そうな眼が携帯の画面に向けられると——。
獏良は勢いよく上体を起こし、食い入るように届いたメッセージを見つめる。バクラからだ。仕事場からもうすぐ帰宅する旨が記載されていた。獏良の顔が太陽が射したように輝く。
帰ってきたら何を話そう?何のゲームで遊ぼう?たくさん抱きしめてくれるかな……——。
目尻を下げて頬を緩め、二人で過ごす時間のことを考えていると、はたと気がついた。自分の周りに散乱している——シャツ、ズボン、コート、下着、ニット、靴下——衣類の存在を。
目を見開いて叫び声を上げる。衣類といっても、すべてバクラのもの。どんな言い訳も通用しない一目で分かる状況だ。
獏良はベッドから降り、忙しなくその場をうろうろとする。解決策を思案するが、慌てすぎて考えがまとまらない。
片づける?いや、今すぐ帰ってくるかもしれない。間に合わなかったら、一瞬にして終了だ。パジャマのまま髪もボサボサでみっともないのでは?先に着替える?こうしているうちに帰ってきてしまうかもしれない。どうする?どうする?
最終的に、着替えて何事もなかったかのような顔でバクラを風呂に誘導し、その間に急いで衣類を物置きに押し込むことにした。獏良は急いでパジャマを脱ぎ、普段着を手に取る。
そのとき、玄関でガチャガチャという音が聞こえた。飛び上がって急いでシャツとジーンズを身につけた。足音がどんどん近づいてくる。散乱した衣類を前に混乱は最高潮に達した。足音は寝室の前で止まり、ドアハンドルが動く。
「調子はどうだ?今日は早……」
「見ちゃダメッ……!」
現れた愛しい伴侶の顔面には枕が勢いよく投げつけられたのだった。

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リクエスト「オメガバースの続き、巣作り」でした。
オメガバースのネタを形にできて楽しかったです。
獏良に乱暴しようとしていたαのことは、後にバクラが調べ上げて罰ゲーム!を食らわせてるかもしれません。
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