周囲から喧騒が聞こえる。
すぐそばでは子どもの声が延々と続いていた。
「——ごめん……ごめん……っ。救急車、すぐ来るから……!」
視界に広がるのは晴れ渡る空。薄暗いビルの隙間から覗く鮮やかな青。
そこへ声の主の顔が映る。顔をくしゃくしゃにし、大粒の涙を溢している。
子どもの手が「彼」へ伸び、顔に触れた。体温がまるで抜けてしまったように、指先はひんやりと冷たい。その真っ白な手は、べったりと赤く染まっている。
「ごめん……ぼ、僕のせいで……」
子どもはしゃくり上げた。
それに対し、彼は薄く口を開けて言った——。
嘆きの贖罪
暖かい日差しが射し込む教室。午後の授業が終わり、教室に残る生徒たちが和気藹々と会話を楽しんでいた。
獏良は友人たちと発売間近のゲームについての話題で盛り上がっていた。「予約した?」「PVよかった」「新要素が気になる」など、それぞれが発言するたびに話が膨らんでいく。
「あ、僕、家具を作れるシステムが気になってて——」
教室の雑音が一瞬だけ消える。戸口に視線が集まっていく。
獏良も言葉を飲み込んで同じようにし、小さく息を吸う。
戸口に立っていたのは、同学年の少年。白い長髪に長身痩軀。整った顔立ちに近寄りがたい鋭い目つき。
何よりも目を引くのは、顔の右側——目から頬にかけて大きな傷。傷自体は塞がっていて、顔に線が引かれているような様子から、傷痕と表現した方が正しい。状態からすると、年月が経っているものだ。
友人たちに混ざる獏良へ、彼は真っ直ぐと視線を向け、「宿主」とだけ声をかけた。
獏良は慌てた様子で「ごめん。もう帰らなくちゃ」と友人たちに断りを入れてから、手早く鞄に荷物を詰め込み、小走りで彼のいる戸口へ向かう。
二人は肩を並べると、何事か喋りながら廊下へ消えていく。
細い背中を見送った後で、
「あいつら仲いいよなあ」
と城之内はぽつりと呟いた。
獏良は教室であったことを幼馴染みであるバクラに楽しげに話していた。
バクラは表情を変えずに「ああ」とか「フーン」とか、心のこもっていないような相槌を打つ。
その様子を女子生徒たちが遠巻きに見ている。一様に熱に浮かれているような表情だ。しかし、近づきはしない。見た目が優れた二人の間に入るには勇気がいる。
「それでね。僕、今日はゲームショップに行きたくて——」
笑顔のまま話を続ける獏良を遮るようにバクラが口を開く。
「今日の英語の授業で大量の宿題が出たな。提出日まで時間がない」
獏良の動きが止まる。顔に笑みの形を残し、まるで時間が止まったかのようだった。時間にして一秒。一瞬の間を置き、獏良は何事もなかったかのようにバクラの発言に反応を返す。
「そうか。じゃあ、一緒にやろう」
「出かけたいんだろ?」
「ううん。またでいいんだ。今日は宿題やっちゃおう!」
放課後の予定が決まったところで、二人の行き先はバクラの自宅へと決まった。
*****
バクラが物心つく前に父親という存在は家にいないものだった。
母親だけがいて、父親はある日を境に帰ってこなくなったのだという。籍はそのままになっていた。
普通なら失踪届を提出するところだが、母親は父親が帰ってくると信じて疑わなかった。それは伴侶を待つ健気な妻の姿ではなく、歪みを含んでいた。夫が帰ってくれば元通りの生活が送れるはずという思考から、夫はただ「出張」に出ているだけと信じるようになった。
周囲にもそのように振る舞い、円満な家庭を装った。警察や探偵を使って捜索するということもなかった。知人や隣人は夫が不在だと思ってもみなかったようだ。
そんな壊れた家庭を見てきたバクラからは感情が抜け落ちていった。母親の妄言を聞き流し、早くから淡々と自分のことだけをするようになった。
何年かそんな生活が続き、何かをきっかけとして母親に心境の変化があったらしい。家の中のものをそのままに忽然と姿を消してしまった。
小学校から帰ってきたバクラは家に入れずに、自宅マンションのドアの前に立っていた。とうとう本格的におかしくなったか、と冷めた心境だった。
隣の部屋に暮らしていたのは、獏良家だった。
両親は稀なほどお人好しで、バクラを家に招き入れて面倒を見始めた。遠方に住むというバクラの祖父母と大人だけで話し合い、警察や役所を通さず一時的に預かることになったらしい。
獏良の両親が度を越した善人なら、息子もそれと同等だった。息子は突然増えた家族を笑顔で受け入れ、本物の兄弟と同じように扱った。もしかしたら、それよりも親切だったのかもしれない。自分の玩具や勉強道具を躊躇なくバクラと共有した。
今まで親切というものとは無縁だったバクラは尻の座りが悪くなった。始めのうちは何か裏があるのかと疑ったが、獏良家の人間は揃いも揃ってお節介なのだと気がついた。
そうなると無償で衣食住を提供する存在に利用価値を見出だせた。大人しくしていれば、以前よりずっとまともな暮らしができる。
親しげにまとわりついてくる息子のことは煩わしかったが、子犬とでも思っておけばいい。
そうすれば、獏良家の両親は我が子が哀れな子どもの心の支えになっていると陶酔感に浸れるだろう。バクラはそう判断し、獏良家に溶け込めるように振る舞った。さながら寄生虫のように——。
善人ぶった人間ほど操りやすいものはない。間抜けな一家。度が過ぎたお人好し。異分子を容易く取り込んでしまうなど、愚の骨頂だ。
*****
高校生になってから、バクラは獏良家を出て独り暮らしを始めた。罪滅ぼしのためか、祖父母が保証人を名乗り出た。周りの目を気にせず気ままに暮らせるようになったのは幸いだった。
獏良も両親が転勤になり、ほぼ同時に自宅で独りで暮らしをするようになった。つまりは互いに行動制限がない状態になった。
獏良の両親は困ったときは助け合えるからよかったね、という言葉を残していった。まったく以てお花畑の意見だ。
そういう事情があり、バクラは気紛れに獏良を家に呼び出していた。
「はあ……。少し休もうか。こんなに宿題が出るんだね。僕、選択してないから知らなかったよ」
獏良は床に両手をついて天を仰いだ。座卓には筆記用具、教科書、辞書などが広げられている。
「毎回こうなら大変だなあ。君は英語好きだっけ?」
バクラはノートにシャーペンを走らせながら、「担任の担当科目だからな」とだけ淡々と口にした。それから顔を上げ、一言つけ足す。
「——腹が減ったな」
それを聞いた獏良はすぐに腰を上げ、「何か簡単なものを作ろうか?それともコンビニで買ってくる?」と慌てた様子。
「エイト・テンの肉まん」
家から少し離れた距離にあるコンビ二名をバクラが出すと、獏良は間を置かずして上着を手に取る。
「すぐに買ってくるから、少し待ってて」
そう言い残すと、荒い足音が遠ざかっていく。
部屋に残ったバクラはシャーペンを座卓に放り投げ、獏良が広げていたノートを摘まみ上げた。そこには宿題に出された英文が丁寧に訳されている。問題の回答ではないものの、ここまで終わっていれば労力の半分で終わる。バクラの頬の筋肉が微かに持ち上がった。今頃、獏良はコンビニへ急いで向かっているだろう。自分の用事を後回しにして。
忙しい奴だな、とバクラは他人事のように冷笑した。
*
獏良は財布だけを持ってコンビニへ自転車を漕いでいた。バクラが指定したコンビニは隣町にある。急いでも往復三十分はかかってしまう。品切れなら、もっと離れた別店舗にいかなければならない。その行動は親切や友愛と片づけるには度が過ぎていた。
獏良がバクラに尽くすのには訳があった。それまでは疑似兄弟として過ごしていたのだが——。
五年前、獏良は高校生の不良に絡まれた。遊んでいるときに勝手な因縁をつけられたのだ。獏良に非は少しもなかった。
同行していたバクラが獏良を庇い、頬に傷を負った。流血騒ぎになり、高校生は補導され、バクラは救急車で運ばれた。出血した量の割に傷は浅く、簡単な処置で済んだ。念のために行った視力の検査も問題なし。不幸中の幸いだった。
獏良はそれをずっと悔やんでいる。本人は「お前は悪くない」と言っても、自分が原因だと責め続けている。
顔にある大きな傷は他人の目を引くし、第一印象に影響する。勝手な憶測を生むことだってあるかもしれない。
風に髪を煽られながら、獏良は細かく息を吐く。買い物を急がなくては。バクラに不自由な思いはさせたくない。望むことなら、なんだってする。
*
休み時間の美術室で何人かの生徒が熱心に粘土をこねている。遊戯は教室を覗き込み、室内に視線を巡らせると、ある一点に向かって声をかけた。
「獏良くーん!」
獏良は教室の隅で他の生徒と同様に粘土を形作っていた。真剣な顔で手元に視線を向けることを止め、顔を上げる。戸口の遊戯を見つけると軽く手を振った。
「最近、休み時間になるといなくなっちゃうから気になって」
遊戯は獏良に近寄り、粘土の作品に目を向けた。羽を広げた鳥のような形をしている。
「わあ、上手いね」
「ありがとう。美術の課題なんだ。授業時間だけじゃ間に合わないから」
遊戯は相槌を打つ。美術・書道・音楽から選択する芸術の授業は、書道を選択している。消去法で決めたのだが、同じ理由の生徒は山ほどいる。美術も音楽も基本的な技術が必要だ。手先が器用な獏良が選択するのは納得だった。
獏良は棒状の道具を粘土細工に当て、形を整えていく。道具は何本もあり、棒の先端に針金がついているものや、ヘラになっているものなど様々だ。どれも学校名が記載してあることから借りものらしい。
「あのさ……」
遊戯はおずおずと話を切り出す。獏良は粘土から目を離さない。
「獏良くん、こういうの得意だよね?なんでわざわざ休み時間を潰してやってるのかな……?」
「ほら、授業中だと道具の取り合いになっちゃうからさ。こういうときの方が進むんだよね」
今にも飛び立ちそうな翼が獏良の手中で出来つつある。さらに、道具で粘土を細かく削り、羽の一枚一枚を表現する。
「……もう一人のバクラくんも美術取ってるよね?」
獏良が持つペン型の道具がぴたりと止まる。
「僕は音楽も美術も得意じゃないから書道にしたんだけど……彼は美術得意だっけ?」
「うーん。理由は分からない。彼の好みの問題だからね」
獏良の動きが止まったのは、ほんの一瞬。遊戯への返答は変わらない穏やかな口調だ。
遊戯は押し黙り、意を決したように口を開く。
「——それ、君の……?」
今度こそ場の空気が凍りついた。
獏良は静かに道具を机の上に置き、遊戯の目を見た。瞬きせず、心に訴えかけるような真っ直ぐな視線。恐ろしいほどに澄んだ瞳。
「誰のかって関係ある?重要なこと?僕が自分の意志でやってるんだよ?」
物腰は柔らかくても有無を言わせない強さがある。視線は揺らがない。
遊戯は何か言いたげにしてから、結局口をつぐみ、「そう……」とだけ言って教室を出ていった。
獏良は息を深く吐いてから、再び道具を手に取って粘土を削り始めた。
バクラは屋上で城之内と本田の二人と対峙していた。片方は余裕ありげに口元に笑み、もう片方は険しい顔で睨んでいる。
「貴重な休み時間に呼び出して何の用だ?」
「言わなくても分かってるだろ?」
城之内が吐き捨てるように答える。
「獏良のことだよ!」
空気が一気に張り詰める。
「いいように使ってるだろ?!」
怒号が辺りに響き渡った。二人の敵意がバクラに向かって集まる。
それでもバクラは意に介さずにせせら笑う。
「『いいように』とは何のことだ?証拠はあるのか?アイツが助けてと言ったか?」
淡々と並べるバクラの言葉には躊躇いはない。嘘をつくときは声色や視線、脈拍に変化が必ず生ずる。それが一切なかった。
しかし、自信溢れる表情がむしろ違和感を醸し出す。あまりにも平静なのだ。人間であれば、質問をされたときに少なからず反応がある。
バクラは両手を広げて楽しげに言う。
「ないだろ。アイツはアイツの好きなことをやってるんだ。オレが命令したわけじゃない。幼馴染みを可哀想な目に遭わせるわけないだろ?」
城之内たちはこぶしを握り、唇を噛む。遊戯も城之内も二人を身近で見ていて関係性に不自然さを感じただけ。ただの想像に過ぎない。
「アイツもいい友人を持ったな。でも、でしゃばりは程々にしときな」
ズボンのポケットに手を突っ込み、二人のそばを悠々と抜ける。もう片方の手は軽薄にひらひらと宙を舞った。
背中が見えなくなったところで、城之内が「クソッ!」と歯噛みする。
「獏良に証言してもらわなきゃダメだな。胸くそ悪い」
本田が後頭部を搔きつつぼやく。
「まだ『アッチ』の方がどうか分かんねえだろ」
二人が話し合っていると、閉じたドアがもう一度開いた。今度は遊戯が息を切らして屋上に姿を現す。
「終わっちゃったんだねっ」
「そっちはどうだった?」
城之内の質問に遊戯は力なく首を横に振る。誰からともなく全員がため息をつく。
獏良の友人たちは二人の関係を何とかしたいと思っていた。そこで二手に分かれ、それぞれを引き離してみたのだが、結果は梨の礫だった。バクラは無理でも、獏良から本音を聞けたらと希望を持った作戦だったが——。
「何とかなんねえかあ……」
「なんで獏良はあの野郎に従ってるんだ?脅されてるってわけじゃなかったんだよな?」
「ウン……。僕たちよりも付き合いが長いから分からないけど……」
遊戯たちは沈痛な面持ちで顔を見合わせていた。
*
獏良は完成した粘土彫刻をバクラに差し出した。頭に逆立った冠羽、胴より長い尾羽。今にも飛び立ちそうな空想上の鳥——不死鳥だ。
「完成したよ。僕のは宇宙船で、まったくテイストが違うから、そのまま提出して大丈夫だよ」
「ああ。ありがとな」
獏良の爪の先は黒く汚れている。粘土の破片が皮膚との間に潜り込んでいるのだろう。白く細い手に異質だった。
バクラはふと思いついて短く息を吐き、
「大変だっただろう。迷惑だったか?」
と獏良を見つめて気遣うような声色で小さく言った。
「ううん」
獏良は明るく、少し戯けて笑う。
「僕、こういうの好きだから。全然苦じゃないよ。喜んでもらえて嬉しいし」
一点の曇りもない答え。声に違和感はない。
満足げにバクラの目が細まる。
——だから言ったろ?
この場にはいない城之内と本田を嘲る。
獏良はずっと罪悪感の中にいる。心の防衛本能なのかもしれないが、贖罪が喜びに通じていると「信じこんでいる」。
哀れな囚われ人だと思う。償おうと向き合う度に頬の傷が真っ先に目に飛び込み、さらなる罪悪感を生む。そこに救いはない。
獏良は新しい環境になると、バクラの傷について周りに説明する——「自分を庇ったときにできた傷だ」「恩人なんだ」。
それは、顔に大きな傷を持っているバクラのためだ。しかし、今までバクラが過ごしてきて傷を気にする者などはほとんどいない。確かに目立つ場所だから最初は多くの人間の視線を集める。ただそれだけなのだ。
怪我をしている人間に悪意を抱くことなんて普通はしない。触れないようにするのが一般的だ。
たまに怪我の理由や傷の具合を訊いてくる者はいるが、悪意からではない。
それを獏良だけが声高に主張をする。見えない悪意に向かって。一番傷を気にしているのは、誰であろう獏良だ。それに気がつかないとは滑稽だった。
バクラは美術の課題に躊躇なく名前を書き入れて口元に深い笑みを浮かべる。今後も獏良はバクラのために動く。決して逃れられない。いや、「逃れようとしない」だろう——。
*****
路地で獏良とバクラはたちの悪い三人の高校生と対峙していた。
獏良は外で絡まれやすい。目立つ容貌に加えて、ひ弱な印象だからだ。不良たちにとっては格好のカモ。
バクラは内心舌打ちをした。小学生と高校生では圧倒的に力の差がある。バクラ一人ならば相手の隙をついて逃げることもできるが、獏良は咄嗟に動けるだろうか。
いつも獏良は外出するバクラについて回る。親に言われているのか、可哀想な孤児に対する同情か。当人にとっては邪魔なことこの上ない。
獏良をこの場で見捨ててもいいが、両親に釈明しなければならなくなる。そうなると、さらに面倒なことになりそうだ。どうしたものか。
「バクラ……」
獏良は消え入りそうな声で呟き、バクラの袖口を小さく掴む。
路地を抜ければ、開けた通りに出る。ほんの数メートルだ。人の通行量は多いし、交番も近い。相手は半グレなどの厄介な連中じゃない。ただの意気がっている学生に違いない。一目につくことを恐れるはず。何かで気を引き、獏良を連れて短距離を走るだけ。
バクラは冷静に場所や相手を分析する。太陽の向き、障害物の有無。大きな音を立てられるものがあればいいが——。
「それ」に気がついたとき、バクラの口の端が持ち上がる。
「ガキのくせして生意気なんだよォ!」
不良の一人が怒鳴りながら迫る。声が少し裏返っていることに若さが滲んでいる。手を伸ばしてバクラの胸ぐらを掴んだ。細い身体はいとも簡単に宙に浮き、無抵抗になる。
不良が乱暴に揺さぶり、地面に放り投げる動作をした。普通ならバランスを崩して尻餅をつくところだ。しかし、バクラの身体は吹っ飛ばされるようにして遠くに飛んだ。地面を転がり、ゴミ置き場にガシャァンと派手な音を立てて激突する。
「へ?」
不良は手を宙のままにして固まっている。
「おいおい、マーくんやりすぎー」
仲間が後ろでケタケタと笑う。
「ちが……?」
予想よりも遥かに子どもの身体が吹っ飛び、不良は困惑していた。
不良の感覚は正しい。バクラは投げられた瞬間に腕を絡ませ、身体を捻るようにして自分から「投げられた」。
胸ぐらを掴む行為というのは、ドラマや漫画などで威嚇行為としてよく表現されているが、実際には役に立たない。胸ぐらを掴んだところで掴まれた方の両手は自由だ。それどころか、掴んだ方の手が塞がってしまう。つまり、それをする不良はズブの素人だということだ。
組手の素人は咄嗟には分からなかっただろう。バクラは相手の腕を掴み、イニシアチブを取ったのだ。そして、ゴミ置き場に自ら飛び込んだ。
ゴミ置き場にあったのは瓶。突っ込んだ拍子に割れた。その尖った先端に、バクラは顔を突き出した。深すぎないように肌の表面だけを狙って。
常人には不可能なことを冷静にやってのけた。勿論、獏良からも不良たちからも死角になるように。先端を凝視して薄ら笑いを浮かべていた。
「うわ!」
悲鳴を上げたのは不良の一人。バクラの顔の片側が血に染まっているのに気がついた。
思いもよらない結果に、不良たちは震え上がり、逃げ出した。バクラの予想通り、ただの悪ぶっている子どもたちだった。
一人残された獏良は顔を青褪めてすっ飛んできた。唇をわなわな震わせ、言葉にならない呻き声を上げる。
「きゅ……きゅきゅうしゃ……」
形になったのはそれだけ。裂かれたバクラの頬を冷えきった手で押さえる。パニックで起こした行動なのだろう。流れる血をただ止めようとしている。
「やだ……やだ……」
それでも染み出す血によってさらに動揺する。
「……気にすんな」
バクラは仰向けで青空を見上げたまま言った。
気にすんな——獏良のせいではないのだから。自分自身でやったことなのだから。
そういった意味だが、獏良に伝わるわけがない。「『お前を庇ったことを』気にすんな」というような意味合いに聞こえただろう。
獏良は目に涙を浮かべて謝罪を繰り返した。予想通りの反応だった。覚束ない挙動で緊急通報したときには、悲壮感に満ちた顔をしていた。人間の心にヒビが入った瞬間をバクラは見た。
救急車のサイレンの音を聞きながら、バクラはほくそ笑む。これで自由に動く人形が手に入った。獏良はもう逃れることはできない。この傷を見るたびに一生罪悪感に苛まれるのだ。代わりにずっと守ってやる——。
耳元で延々と謝罪の声がしていた。
ーーーーーーーーーーー
顔の傷は遠い昔のものと同じです。